黒鳥と白鳥 ―マルセイユ港、二隻の客船―
隻の女王が、同じ港に入る日。
マルセイユ港に、低く長い汽笛が響いた。
先に停泊していたレジェンディアが、歓迎の意を示す。
やや間を置き——
海の向こうから、同じ長音が返る。
オーシャンクレスト・サフィール。
白鳥のような船体が、陽光を受けて滑るように接岸していく。
磨き上げられた外板は光を弾き、デッキには色鮮やかな旗が翻る。
音楽が流れ、拍手が起こり、フラッシュが瞬く。
歓迎の演出が、港全体を祝祭の舞台へと変えていた。
「まるでカーニバルだな」
副航海士が、小さく吐き捨てる。
「女王は淑やかに迎えるものだ」
船長の声は、淡々としていた。
レジェンディアは外へ向けて誇示しない。
選ばれた者だけが足を踏み入れる空間。
それが、女王の矜持。
それでも——
女王より目立つ“客”の存在に、ブリッジの空気はわずかに硬い。
レジェンディアに乗船予定の株主たちでさえ、二隻を見比べているのだから。
「どっちの株主だか分かったもんじゃないな」
「女王陛下はお待ちだってのに」
「……見ろよ、あれ」
一人が顎で示す。
白いジャケット。
風に乱れない姿勢。
背筋は真っ直ぐで、無駄な仕草がない。
彼女は——レジェンディアを一度も見ない。
サフィールのオフィサーと談笑しながら、船体のラインを目で追う。
装飾の意図、デッキ配置、導線設計。
視線は浮つかない。
まるで——査定するかのようだ。
浮かれているのではない。
観察している。
「うちの株主か?」
誰かが呟く。
「知らん」
リヒトは短く返す。
ここはBMMのターミナルだ。
優先されるべきはレジェンディアのはずだ。
それなのに——彼女は振り向きもしない。
数字も知らず、派手な演出に惹かれる連中と同じだ。
そう決めつけた瞬間。
胸の奥が、わずかに疼いた。
違和感。
「うちの黒鳥様は今日は脇役らしいな」
軽口のつもりだった。
だが——思ったより声が硬い。
黒鳥。
そう揶揄されることもある。
白く華やかな船に対し、レジェンディアは深い紺と金の装飾。
静かな威厳をまとう船。
だが黒鳥は、劣る存在ではない。
誇り高く、美しい。
拍手が一段落し、群衆は散り始める。
係留確認が終わり、オフィサーたちも順に下船していく。
リヒトは、気づけば階段を降りていた。
建前は最終確認。
本音は——自分でも分からない。
数メートル先を歩く、白い背中。
無意識に、視界の端で追っている。
それでも彼女は、レジェンディアを見ない。
別のオフィサーと握手を交わす。
「レイコ! 久しぶりですね!」
「ご機嫌よう、ミスター・ヘイズ。あなたの貴婦人は、今日も美しいわね」
落ち着いた声。
浮つきも、媚びもない。
名を呼ばれた瞬間——
リヒトの足が止まる。
——レイコ。
その名が、妙に胸に残る。
彼女は、ようやく視線を動かした。
だが向けられた先は、サフィールの推進装置。
海面との距離を測るように、目を細めている。
観光客の目ではない。
投資家の目だ。
「……何を見ている」
思わず、心の中で問いかける。
その瞬間。
彼女の視線が、わずかに横へ流れた。
ほんの一瞬。
レジェンディアの艦橋を捉え——
そして、外す。
評価されたような、試されたような感覚。
それが、胸に刺さる。
女王は、静かに停泊している。
だが——
リヒトの内側では、確実に波が立ち始めていた。
まだ言葉は交わらない。
視線も、ほんのかすっただけ。
それでも——
何かが、動いた。
そしてこのとき彼は、まだ知らない。
その名を持つ女が、
自分の船の未来に深く関わることを。
黒鳥と白鳥。
優雅な入港の裏で——
もうひとつの航海が、静かに始まっていた。
この出会いは、偶然ではありません。
そして——ここからすべてが動き始めます。




