1「草原」
プロローグです。
読まなくても大丈夫です。
長いので2話目から読むことを推奨します。
ここはどこだろう?
俺は周囲を見渡す。
雲の少ない晴天の空。
暑くはない日差しに、頬を撫でるように通り過ぎる心地よい風。
草の海が如く、草原がどこまでも遠くへと続いている。
遠くにはいくつもの山が薄っすらと見えた。しかし距離があるせいか、ボンヤリとした輪郭しか捉えられず、そこまで歩こうと思っても辿り着けないのではないかと足が止まってしまう。
木が一本も見えないそこは、とても人が住む場所とは思えない幻想的な風景を醸し出していた。
どうしてこんなに綺麗な場所に俺はいるのだろうか。
三百六十度全てを見渡しても同じ風景しか目に入らない。
ここにいるのなら、どこから来たのか俺は覚えているはずなのに、何も思い出せなかった。
いつからここにいたのだろうか。
今さっき来たような気もすれば、数十年前からずっとここにいるような気もした。
不思議な気分である。
しかし、嫌な気持ちじゃない。
どちらかというと温かい、掛け替えのないものが自分の胸に留まっている気がする。
ああそうか。
俺はここに来たのではなく、帰ってきたのだろう。
だから今の俺には肉体がないのだ。
手のひらを見ようと目の前でかざしてもそこには何もない。
当然である。
身体がないのだから。
そうだ。俺は死んだのだ。
死んで肉体を離れ、俺はここに帰ってきたのだ。
しかし待てよ?
どうして死んだと自覚しているのに俺は俺自身の死因がわからないんだ?
思い出せない。
忘れてしまったのか?
いや死んだのなら死ぬ直前までの記憶があるはずなのに、それがない。
どうしてだ?
一人悶々と腕を組み(腕はないが気持ちだけ)、この状況を考える。
死んで魂だけになってここに帰ってきた。
しかし何故?
帰ってきたということは元々俺はここにいたということか?
そんな覚えはないのに、帰ってきたという言葉が一番しっくりくる。
何故だろうか?
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからないと言葉を繰り返す。
そんなことを考えていると人の気配を感じた。
目に見えたわけではない。
声を聞いたわけでもない。
匂いがしたわけでもない。
直に触れたわけでもない。
舌で確認はするわけない。
振り返るとそこにいた。
透明人間だ。
人の形をした空気の塊のような存在がそこにいた。
「やあ、元気?」
「いや全然」
死んだのに元気も何もないだろう。
彼か彼女かわからないが、声をかけられたので俺は返事をした。
すると俺の返答が可笑しかったのか、目の前の透明人間はクスクスと笑い始めた。
「なんで笑うよ?」
「ふふふ。ごめんね。馬鹿にしたわけではないんだ。きみらしい答えだと思ったら嬉しくてつい頬が緩んでしまったよ」
「そうか。存分に緩んでくれたまえ」
俺は尊大な口調で相手に言う。
普通の人なら透明人間が目の前に現れたなら驚きのあまり思考が停止したり、悲鳴を上げたりするかもしれない。
しかし、俺は特に怖いとも思わず、ただ単に話しかけられたから答えたのだった。
しかも俺の返答が面白かったのか相手の笑いに拍車をかけてしまい透明人間は腹を抱えて笑い始めた。
「ツボがわからないな。どこに爆笑要素があった?」
「はははっ! きみはどこにいても変わらないな」
ひとしきり相手の笑いが収まるまで俺は待った。
その間、暇だったので胸筋を強調するように上半身に力を込めてマッスルポーズを決める。
「はははっ! ねえ待って! まだ笑っているのに笑わせようとしないでっ!」
「これで笑うのか? 浅いツボだなぁ」
俺は呆れてマッスルポーズをやめる。
それに合わせて透明人間も落ち着いてきたのか、徐々に笑いが収まってきた。
「ふふふ。ふぅ。ようやく落ち着いたよ」
「お疲れ。あんた誰?」
俺は疑問をぶつけた。
「ふふふ。知らない相手なのに随分と話しかけてくれるんだね」
透明人間は至極真っ当なことを言ってきた。
「何故だかわからないけど、あなた少なくとも悪人じゃないと思ったから。黙ってても仕方ないし、とりあえず胸襟を開こうと思って話してみたよ」
言いながら俺は胸筋を強調するようにサイドチェストというマッスルポーズを決める。
「ふふふ。そうか。だから胸を強調するようにそんなことをしていたのか」
「んーっ、正解!」
俺は指を鳴らして相手を褒め称える。
「ふふふ。ならその質問には胸の内をさらけ出すように答えないとね」
透明人間は一度深呼吸すると俺を真っすぐと見据えた(目があるのかわからないが)ような気がした。
「ボクの名前はユカリ。この名前で思い出すことは何かあるかい?」
「ないね。ついでに言うと興味ないね」
「ふふふ。そっちから聞いてきたくせに天邪鬼だなぁ」
クスクスと透明人間は笑う。
「ならこれならどうだい?」
言うと透明人間の身体が一瞬で光り輝く。
眩しさのあまり俺は目を閉じた。
「ぐああああっ!? 目がぁ!! 目がぁああああああああっ!!?」
俺は目を閉じたので特に痛いわけではなかったが、目が痛い振りをする。
「この姿ならどうかな?」
透明人間が何か言っていた。
しかし俺はそれには構わず、目が痛い振りを続行する。
「ラピ〇タは私のものなのだぁああああっ!!」
「はははっ! ねえ! もう眩しくないってばっ!!」
俺が目を押さえて暴れ散らかしていると女性の声で透明人間は話しかけてきた。
俺が目を開くとそこには美女がいた。
ウルフカットの黒髪に垂れ目と泣きぼくろが特徴的だった。
スタイルの良さを見せつけるようなタンクトップにハーフパンツ、オーバーサイズの長袖シャツがオシャレさと色気さを漂わせていた。
「ああもうっ! ぜんっぜん興味ありますねぇ!!」
うっひょーっと俺は鼻の下を伸ばしてニチャリと湿気の帯びた笑みを浮かべて相手を見た。
俺のその気持ち悪い言動に元透明人間こと美女ユカリさんは可笑しそうに笑っていた。
「はははっ! きみって死ぬ前もそうだったけど、本当に女の子が好きだよね」
ユカリはそう言って笑っていた。
そしてどこか嬉しそうにしているような気がした。
俺の勘違いかもしれない。
でもそんなふうに見えた。
「女の子は俺に限らずみんな好きじゃない?」
「ふふふ。そうかもしれないね」
ユカリはそう言うと透明人間の姿に戻ってしまった。
「元に戻った!? どうしてっ!?」
「これはサービスだからね。ここで一旦おしまい」
ユカリはそう言って目の前で腕をクロスして✕印を作る。
俺は美女姿のユカリをもっと見ていたいと思ったが、お預けを食らってしまった。
「ユカリさんの綺麗な姿…………もぅっかい見てぇぞオラ」
俺は口調を変えてユカリに説得を試みるが、透明人間は首を振った。
「駄目だよ。それとごめんね。ボクはいま嘘をついたんだ」
「うそ?」
俺は首を傾げる。
「うん。ボクの名前はユカリじゃないんだ。いまの姿も借り物だ。ごめんね。騙してしまって」
ユカリを詐称した透明人間は頭に手を置くと申し訳ないと謝罪する。
「謝るならもう一回いまの美女に変身してください。オナシャス!!」
俺は砕けた言葉で頼み込む。
美人を見るだけで元気が湧いてくるのだ。
目の保養と言っても過言ではない。
嘘をつかれたことに何も思わないこともないが、美女をただ見たい欲望の塊となって俺は透明人間に頭を下げた。
「ふふふ。もう、仕方ないなぁ。なら次はこれでどうかな」
するとまた透明人間が光り輝く。
俺は目を押さえて目が痛い振りをする。
「ぐああああっ!? またもや目がぁっ!? 目がぁああああああああっ!?」
「……二度目は笑えないかな?」
俺のリアクションに透明人間は申し訳なさそうに言う。
それを聞いて俺はム〇カ大佐の真似を辞めることにした。
「私をあまり怒らせない方がいいぞ」
「あれ? まだ続けるの?」
透明人間の言葉に俺は目を瞑って頷く。ム〇カ大佐のセリフは丸暗記しているため隙あらば使っていこうと心に決めていた。
「とりあえず、もう目を開けても大丈夫。変身は終わったからね」
透明人間は先ほどとは別の女性――もとい女の子の声で言ってくる。
俺は目を開けた。
「お、おおっ!?」
そこには銀髪の美少女がいた。
白衣姿に黒い眼帯。胸元が寂しい貧乳ではあったが、それを差し引いても全体のビジュアルが良い美少女であった。
「これはこれでいいっすねぇ!!」
完全にセクハラおじさんの言動をする俺だったが、それでも構わないのか、透明人間は不快そうにすることなく、寧ろその姿を見せつけるようにくるりとその場で一回転する。
「ふふふ。ボクの名前はシィルヴィア。この姿を見て思い出すことはないかい?」
「いやぁ? こんな美少女見たら覚えててもおかしくはないと思うけどねぇ」
俺は思い出そうとするが、見覚えがなく、目の前の美少女を目に焼き付けようと必死に目を凝らした。
「そうか。これも覚えてないか」
そう言うと美少女は透明人間の姿に戻ってしまった。
「…………なあ?」
俺は透明人間に聞く。
「さっきから俺に誰かを思い出させようとしてるのか? そのシィルヴィアって名前も嘘なんだろ? その姿も借り物なのか?」
俺の言葉に透明人間は握り拳を作って自身の頭にポカリと叩く。
「へへっ、ごめーんね?」
「…………やってることが回りくどいなぁ」
俺は可愛い女の子の姿を見れて嬉しかった半面、二度も同じようなことをされて相手の行動の意図が気になってしまった。
「なんでこんなことするんだ? 俺はお前の本名を教えてほしいんだけど、教えられないのか?」
透明人間にそう言うと、相手は困ったように唸り始める。
「んーっ、そうだよね。気になるよね。名前は最後に教えようと思ったんだけど…………」
そこまで言って透明人間は悩み始める。
なんで最後に教えようとするんだ?
何か不都合なことでもあるのか?
俺は頭のなかで疑問が湧いてくるが、相手が悩む様子を見て口が出せなかった。
「んーっとねぇ。名前を教える前に確認したいことがあったんだ。次で最後だから変身した姿を見て何か思い出すことがあったら教えてほしいんだ」
透明人間は言う。
事情があるらしく、これまた申し訳なさそうにしていた。
俺は寛大な心を持って透明人間の頼みに承諾する。
「よしわかった!! 次で最後な? また変身してその姿に見覚えがあるかどうか言えば、お前の名前やら目的を教えてくれるんだよな?」
「うん。教える教える」
透明人間は嬉しそうに言う。
「取引成立だ!! さあ変身してくれ!! もう目は瞑っているぜ」
そう言って目を閉じる俺。
また目が開けられないくらい眩しく光るのだろうと前もって準備する。
「ふふふ。ありがとう。これで最後だから」
透明人間の変身が終わるまで俺は目を瞑る。
まだか? もう開けていいのか?
ちょっと見ちゃうか?
俺はほんのり目を薄く開けると……眩しかった。
しかも今までで一番眩しい。
「ぐああああっ!? 目がぁああああああああっ!?」
「まだ駄目だよ。変身にも種類があるから、かかる時間も違うんだ」
「それは先に言ってくれ!!」
俺は両目を押さえてじたばたと草原の草のなか、その場でもがく。
ただ眩しいだけなはずなのに若干、目が刺激された。
変身怖過ぎるだろ!? 大丈夫か俺の目!?
「ふふ。もういいよ」
透明人間の言葉に俺は恐る恐る目を開ける。
座った状態のまま見上げる形で俺は見た。
「この姿を見て何か思うことはあるかな?」
透明人間はこれまた美女に姿を変えていた。
栗色のサイドテールに翡翠の瞳。
カーディガンにスカートとザ・女の子と言った可愛らしい姿であった。
「可愛い。他の変身も美人ばっかだったし、ある程度予想はついていたよ当然な」
俺は鼻息荒く嘗め回すように透明人間もとい美女を見た。
この目の前の美女も借り物の姿なのだろうが、俺に見覚えはなかった。
「ボクの名前はエレナ。何か思い出せるかい?」
「いや全く」
可愛いとは思うけれど、やっぱり何も思い出せなかった。
「そうか…………なら大丈夫そうだね」
言うとエレナもとい透明人間は元の姿に戻って安心した素振りをする。
「何が大丈夫なんだ?」
俺は透明人間の言葉が気になり聞いた。
「まあ気づいているかもしれないけど、君の記憶がちゃんとなくなっているかの確認だったんだ。ごめんね。面倒なことに付き合わせてしまって」
申し訳なさそうに透明人間は言った。
「俺の記憶がなくなっているって…………何でそんなことを知りたがるんだ?」
「それはボクが君の記憶を消したからだよ」
透明人間は悪ぶれることもなくそのまま言った。
本来、自分の記憶を消したのなら戸惑うなり怒るなりするはずなのに、俺の心は何故だかそれが当たり前だと思い受け入れていた。
そのことに俺自身は違和感がなかった。
「さっき『死ぬ前もそうだけど女の子が好きだよね』って言ったよな? 俺の記憶を消したのもそうだが、俺が何で死んだのか知ってるってことでいいか?」
「うん。知ってるよ。でも先に言っておくけど、君の死因も記憶を消した理由も教えられないんだ。ごめんね」
俺の質問に透明人間は申し訳なさそうだった。
教えたいけど教えられないってことか。
「俺がそれを知っていると不都合ってわけか」
「話が早くて助かるよ。因みにきみのことを考えて勝手にやったことなんだ。記憶のあるきみがボクの行いをどう思うかは正直わからないから、もしかしたらきみにとっては悪いことかもしれないね」
透明人間は言う。
「……なあ、記憶を消したのなら何で俺はム〇カ大佐のことは覚えているんだ?」
俺は疑問を口にした。
「ボクの消した記憶は一部だからね…………いやこれは正確じゃないな。思い出せなくした。一部の記憶をね。こう言ったほうが正しいと思う」
「思うって……随分テキトーなんだな」
俺は若干呆れ気味に言う。
「ふふ。ごめんね。何せ初めてのことで上手くいくかもわからなかったんだ。でも絶対に失敗したくなかったし、絶対に成功させたかったんだ。きみがきみのことを思い出せないように」
透明人間の言葉には切実さが感じられた。
そうしなければならないという使命感でもあるかのような口調であった。
「それに全部の記憶を思い出せなくしたら、言葉や知識、感覚、身体の使い方や認知機能まで影響出ちゃうから、結構シビアな作業だったよ。いやはや大変だったなぁ」
透明人間は一仕事終えたように握りこぶしを作って自身の肩を叩いていた。
「俺のことを教えてもらえないのはわかった。それなら別の質問をしよう。お前は誰だ? なんで透明人間なんだ? そのことに俺は違和感がない。普通に受け入れちまっている。自分が死んだことさえ、だ。ここはどこだ? 俺は本当に死んだのか?」
俺は聞きたいことを一気に言う。
別に戸惑っているわけではない。
ただ知りたい。それだけだった。
「そうだよね。気になって当然だよね。答えられるものから一つずつ答えていくよ」
透明人間はそう言うとその場でふわりと浮き上がる。
いままで草原のなかを立っていたのに、まるでエスパーか何かみたいに空中で静止した。
「すげぇな。飛んでるよ」
「ふふふ。ありがとう。でもきみも飛べるはずだよ。ここはきみの深層心理を具現化した場所だからね」
「どういうことだってばよ?」
俺は聞いた。
「ひと言でいうなら、ここはきみの心の世界なんだ。もしこの世界をきみが気に入っているのなら、きみのいまの心理状態はすごく穏やかってことさ」
「へぇーっ」
言われて俺は再び周囲を見渡す。
草原ばかりの場所だったが、俺はこの短い時間でここの風景が気に入っていた。
風も冷たすぎず心地よい。
日差しも風で身体が冷えないくらいにポカポカとして暖かい。
悪くないな。
「なら俺も飛んでみるか」
そう言って俺は空を飛ぼうとその場でジャンプする。
しかし一向に飛べる気配がなかった。
「あれ? 飛べないかな?」
「オラぁ、舞〇術が使えないみてぇだ」
俺はしょんぼりとした気持ちになってしまう。
使って見たかったのに……。
「…………そうか。使えないのか。ごめんね、ボクの勘違いみたいだった。いまのきみは死んだ影響で恐らく使えないんだ。死後硬直みたいなものだね。だから周りの風景もきみの心と連動して変化しないんだ」
透明人間は申し訳なさそうに言う。
記憶を思い出せなくしたこともそうだが、透明人間も全てを知っている全知全能の神ではないようだ。
「話を戻そう。ここが俺の心の世界ならなんで俺はこんな姿なんだ? 自分でこれは魂の姿と思ってるんだが、何故だ?」
「それは記憶を思い出せないようにした反動だろうね。きみは死んだ。そして肉体を失った。肉体の記憶を思い出せないからその魂の姿になっている。でも忘れたわけじゃないから、頭では理解できなくても魂そのものは覚えているという状態だね。他にも不思議に思うことをすんなり受け入れられている違和感のなさがそれだと思うよ」
透明人間の言葉に俺はここまで抱いた違和感のなさを振り返る。
目の前の透明人間の存在や、記憶を思い出せなくされたこと、俺自身が死んだことを受け入れている。
つまり、これは俺が認知していて尚且つ、思い出せなくされた記憶の正体ということか。
ん? 待てよ?
「さっき俺の記憶を思い出せなくしたことはお前が勝手にしたことだって言ったよな? なのに俺はそれに対して違和感は何もなかった。このことを俺は知っていたうえで記憶を消されたってことか?」
「あれ? そうなの? もしそうならきみは自分が記憶を消される可能性を予期していたってことかもね」
透明人間は何か合点がいったように納得して言った。
「ほーん。因みに確認したいんだが、俺の記憶は死んでから消したのか? それとも記憶を消したから死んだのか? どっちだ?」
「死んでから記憶を思い出せなくしたというのが正確だね。きみの死をなかったことにしたかったし…………あっ!? 言っちゃった…………」
透明人間は言って口を押さえるように両手で覆う。
何か言ってはいけないことを言ってしまったらしい。
「死をなかったことにってどういう意味だ?」
俺は迷わず追求した。
「ごめん。本来言ってはならないんだ。言ってしまうとボクの行いが無駄になってしまう可能性があるから。お願いだからこれに関してはきみ自身のためにも聞かないでほしい。いまの発言も忘れてほしいくらいだ」
困ったように透明人間は言う。
「忘れてほしいならまた記憶を消せばいいんじゃないか? いや思い出せないようにすると言うべきか」
「できるならそうするけど、さっきも言った通りシビアな作業なんだ。失敗すれば取り返しがつかなくなるしね。だからこれ以上、ボクの失言を蒸し返してくれなければそれだけでいいんだ。お願いだよ」
透明人間が手を合わせて頼んでくる。
この透明人間に悪意がない気がするのも思い出せなくされた記憶の影響だろうか。
仕方がない。ここは寛大な心で相手の頼みを聞いてやろう。
「わかった。聞かれたくないことはもう聞かない。忘れる努力をする。答えられることを教えてくれるならそれでいいよ」
俺は肩をすくめて言った。
「ありがとう。そう言ってもらえて助かるよ。あと答えられることはボクのことだね。ボクが何者なのか。実はこの透明人間も仮の姿なんだ」
透明人間はそう言うと、全身を光らせてその姿を変える。
今度は眩しくない弱々しい光だった。
俺は目を瞑ることなく、その変化を凝視する。
人型だった姿は徐々に大きくなっていた。
上へ上へどんどんと大きくなっていく。
まだまだ大きくなっていき、もう三メートルは確実に超えていた。
デカくね? つーか、デカすぎねぇか?
大きくなる透明人間は留まることを知らず、俺の視界に収まりきらないほど大きくなっていく。
「デカ過ぎんだろ……」
気づいたら全長三十メートルはあろう大きな透明人間がそこにいた。
巨人に対峙する人間の気持ちを俺は理解したような気がした。
めっちゃ怖い。なにこれ? 透明人間に違和感なかったのにこの巨体には恐怖を感じるよ? 命の危機だよねこれ。俺もう死んでるけど。
「さてここから本格的に姿を変えるね」
先ほどよりも野太い声で透明人間が言うとその全身を光らせて変身しようとする。
「やっべぇ!? 眩しすぎるぞおいっ!!? 今までで一番明るいじゃねーか!?」
俺は目を瞑るだけでは我慢できずに両手で覆って、変身するのを待った。
早く変身終われ!!
そう心の中で何度も言い聞かせながら待つ。
五分ほど経ってから透明人間が声を発した。
聞き覚えのある声だった。
「もう目を開けても良いよ」
その言葉に従って相手を見る。
巨大な亀がそこにいた。
大きすぎてもう少し離れなければ全体像を見れないほど大きかった。
しかもただの亀ではない。
怪我をしていた。
俺は絶句してしまった。
身体中が傷だらけで赤い血を垂れ流していたのである。
上を見上げる拍子で口が半開きになってしまったが、その異様な姿に俺は何も言えなかった。
「ボクの名前は甲魔城。これがボクの正体さ」
「お、おい…………その怪我、大丈夫なのか?」
俺は喉が異様に乾き、口のなかが乾燥していたため生唾を呑み込み舌で湿らせて無理矢理声を絞り出した。
「ふふ。心配してくれるのかい? やっぱりきみは優しいな」
元透明人間こと甲魔城の声色はどこか嬉しそうであった。
「ボクの元の姿はこれだから最後に見せたかったんだ。変身するのにも時間がかかるからね…………その様子だと、ボクの本当の姿と名前を知っても思い出してはいなさそうだね」
甲魔城は安心したように、そしてどこか寂しそうに話していた。
「ボクが教えられるのはこれで最後だ。だから一つ……いや二つ、きみに頼みごとをしてもいいかい?」
「あ、ああ」
俺は戸惑いつつも話を続ける相手の言葉にただ頷くしかなかった。
「いまからきみを転生させるよ。ここでのやりとりを覚えているかはわからないけれど、ボクと約束してほしいことがあるんだ」
「て、転生? それに約束ってなんだよいきなり」
困惑する俺を気に留めることなく、甲魔城は言い放つ。
「これからの人生はきみ自身のことを優先して生きてほしいんだ。詳しくは話せないけど、きみは誰かのために命を落としてしまったんだ。自分の望みを捨ててでもね。それがすごく悲しかった」
寂しそうに言うその言葉に俺の頭は何かを思い出そうとしていた。けれど、思い出せない。
なんだこれ!?
何を思い出そうと俺はしているんだ!?
頭のなかで得体のしれない何かが蠢いている気がして俺は吐き気がしてきた。
立っているのも辛くなり、頭を抱えて視線を下に落とす。その場に膝立ちになってしまった。
「ごめんよ。辛いだろうけど、ボクの話を聞いておくれ。そんなきみに新しい人生を送ってほしいと願ってボクはこうしたんだ」
「はぁ、はぁ」
立ち眩みと動機が激しく、俺はその場で顔を草むらの中に押し付ける様に伏せてしまった。
相手の言葉は聞こえていたが、返事することすらできないほど、気分が悪かった。
気持ち悪い。
なんでこんな目に遭っているんだ…………?
「新しい人生では知らない人、知らない場所で色々と苦労するかもしれない。でもそれは生きてこそ味わえるものであって、死んだら何もなくなってしまうんだ。聡明なきみなら言われなくてもわかるかもしれないけれどね」
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
「だから生きておくれ。きみのおかげで助けられた人はいるけれど、悲しんだ人がいることも知っていてほしいんだ」
「…………」
「もう一つの願いはボクの名前を呼んでおくれ。きみはボクのことをいつもタッちゃんと呼んでいたんだ」
「…………」
「安直な名前だと最初は思ったけれど、ボクのことをそう呼んだ人はきみだけだったんだ。この呼び名が酷く気に入ってしまってね。誰にもそう呼ばれないことがすごく寂しいんだ」
「…………」
「これで最後だ。ボクの名前を呼んでおくれよ」
俺は耳から辛うじて聞こえるその声に答えるために、無理矢理上体を起こして相手を見上げる。
記憶の一部が頭のなかでフラッシュバックされていた。
俺はこいつと友達だったんだ。
なんでこいつは俺が記憶を思い出せないようにしてしまったのだろうか?
俺のことを憐れんでいたのか?
それならお互い様だ。
俺を可哀想だと思うならお前だってそうじゃないか。
偏屈で声をかけてもたまに無視する変人のくせに。
けど仕方がない。俺のことを想って行動したのだろう。
こんなにボロボロになってしまって。
早く怪我の手当てをしてやらないといけないのに。
いやいまはそれよりも、名前を呼んでやろう。
大きくて頼りがいがあって、けれど自己主張しないためにいつも他者から無視されていたこいつに。
「タッちゃん。もう少しダイエットしてもいいかもな。長生きできないぞ」
「ふふ。またそれだ。でもありがとう友達。きみのおかげで魔王様やみんなが安心して逝けたよ。ボクもすぐそちらに行くからまた地獄で会おう」
「ああ。そうだな」
そこまで言って俺の視界は暗転した。
気持ち悪い動悸と吐き気のなか、無理矢理身体を動かしたためだろう。
俺は消えていく意識の中で俺を想ってボロボロになったタッちゃんのことを考えていた。
読んでいただきありがとうございます。
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