虚片
復讐の矛先を失い、うつろに成り果てた大門が向かう先に待つのは何かが描かれます。
大門はその手紙を読んだあと、すぐにそれを灰皿の上で燃やした。
だが地図はすでに別の紙に書き写してある。こうしたのは秋瀬達に自分の動向がばれた場合のことを考えてのことだ。手紙にはハルカの事が記されている。もし見つかったとすればまた厄介なことになりかねない。
何より秋瀬は自分のことを少しは理解しているかもしれないが秋瀬以外の黒衣の連中に見つかった場合が一番危険だった。秋瀬はこれを見つけたとしても自分をすぐに殺したり尋問したりすることはないだろう。しかし他の連中は信用できなかった。吸血鬼だからといって見た目は普通の女の死体を顔色一つ変えずに処理する連中だ。どんなことをしてきても不思議ではない。
大門は紙が完全に燃えたことを確認し、コートに身を包んで部屋を出ようとした。もしものときを考え、懐には銃を入れてあった。
ドアを開けると冷気が皮膚を刺激した。空気が静寂を包み込むように、しん、と張り詰めている。見ると微小の白い破片のようなものが空気中に煌き、地上へとゆったりと落ちて来ていた。その姿に思わず嘆息のようなものが大門の口からもれた。
「……雪だ」
大門は呟いた。今年はまだ雪が降ったという印象はないからこれが初雪であろう。僅かな光にも輝くその姿は無垢なる白を連想させた。まるで空の断片のように細かく降っている。
そのひとかけらが大門の掌に降りてきた。受け止めた瞬間、結晶は肌に触れたか触れないかの間に形を失い解けて消えていく。その姿に大門はあの夜の雨の中に消えていったハルカを想った。
この手に、腕に、触れたか触れないかの間に消えていき、そして後にはその感触すら嘘だったかのような喪失感のみが残る。空を埋め尽くす雪は大門が見つめたハルカの姿そのものだった。
雪は降り続き、大門の手の中にまた降りてくる。その姿は手の中に降り積もることなく水となって零れ落ちていく。雪が今、この瞬間に空を舞っていたという思い出までも消えていくように。
大門は開いていた手を強く握り締めた。
――思い出まで失ってたまるか。
その思いが胸の中に宿る。ハルカとすごした時間はほんの僅かだった。それでも自分が変われたという確信が、思い出と繋がって大門の中に息づいている。その思い出を一度でも悪い記憶として消し去ろうとしていた自分を大門は恥じた。
恥じたからこそ、大門は歩き出した。忘却の彼方に思い出を消し去るのではなく、全てを知ってなおハルカとの出会いを大切な思い出だと自信を持って言えるように。
大門は昏睡したように静まり返った夜の道を歩いた。その足には迷いがない。手に持っている地図もたまにしか見なかった。当たり前だ。大門はその地図が示す場所を知っているのだから。
一駅分ほど歩いた場所にその目的地はあった。それは一見すると普通の一軒家である。だが、大門はこの場所が普通の家ではないことを分かっていた。
ここはいつか大門がハルカを尾行したときに彼女が入っていった家だ。そして彼女は普通の人間ではなかった。ならばこの家に住む住人も普通ではないのだという察しはつく。
大門は敷地に入り、インターホンを押そうと指を伸ばす。だが、それを押す前にドアが開かれた。
住人は女だった。
女は大門の姿を認めると、まるで恋人でも見るように微笑んだ。
「いらっしゃい。早かったわね」
友人を迎え入れるように言って、女の眼が大門を見つめた。
大門はこの女の姿を見たとき、どこかで見たことがあると思った。ぼんやりと考えていると女が怪訝そうにこちらを見つめた。
「どうしたの?」と首を傾げながらも柔和な笑みを絶やさない。
そこで大門は思い出した。目の前に立つ女はいつかテレビで見た女医と同じ顔だった。目鼻立ちの整った顔といい、柔和な笑みといいまったくそのままだ。
大門が何かに気づいたことを悟ったのか。女が今までとは違う笑みを浮かべた。
「ミヤザキレイコを訪ねに来たのでしょう?」
女が言う。
「なぜ知っている?」
大門は警戒しながら女を見た。すると女は大門にむけ唐突に手を差し出した。わけが分からずにそれを見ていると、女は諭すように言った。
「私がその宮崎玲子よ。はじめまして、大門鉄郎クン。いえ、因幡悠斗クンといったほうがいいかしら」
その言葉に大門は眉をひそめた。差し出しかけた手を仕舞い、玲子を睨む。その様子に玲子はわざとらしく肩をすくめる。
「こんな場所で立ち話もなんだから、部屋の中でゆっくり話しましょう。コーヒーくらいなら入れるわ」
そう言って玲子は大門を手招きした。大門は一瞬どうするべきか迷ったが、思えばここにはハルカのことを聞きにやってきたのだ。宮崎玲子の正体が分かったからといってここで諦めて帰るわけには行かなかった。
大門がドアに向けて歩を進める。その時、大門は唐突に悪寒のようなものを背中に感じた。
大門はその悪寒の正体を知っている。それは視線だった。しかもただの視線ではない。監視や殺気など特別な意味を持った視線である。
大門はその視線のするほうへ振り向いた。
しかし、そこには何もおらず、ただ暗闇だけがあった。おかしい、と大門がそちらを調べようと足を踏み出したとき、家の中から玲子の呼ぶ声が聞こえた。
大門は気になったが今はハルカのことを聞くほうが先決だと、それを頭から振り払い明かりの灯る家の中へと入っていった。
見つめる瞳は静かに物陰から姿を現した。
しかもそれはひとりやふたりではなかった。次々と物陰から黒衣に身を包んだ人間達が現われる。彼らは宮崎玲子の家を囲うように点在していた。まるで監視でもしているかのように家の中を窺っている。
その黒衣のうちのひとりの男が懐から四角い通信機を取り出した。取り出した瞬間、懐に隠していた黒い何かが一瞬見える。それは銃だった。
男は通信機の周波数を合わせる。するとザッという雑音とともに回線が接続される。男は通信機を口元まで持ってきて辺りを憚るように視線を走らせながら話し始めた。
「こちらF班25。対象が一般女性と思われる人物と接触したのを確認しました。突入しますか?」
その質問に通信機から聞こえてくる低い声が答える。
『いや、まだ待て。確証が欲しい。引き続き対象に動きが無いか監視を続けろ』
その声に男は了解と短く答えて通信を切った。
「今のは何の通信ですか?」
その声にアルヴァは驚いて咄嗟に通信機を懐に隠した。振り向くとそこには壁に身体を預けてこちらをふてぶてしく覗き込むようにして見ているジョシュアの姿があった。アルヴァはその姿をみて安堵の息をつく。
「秋瀬だと思いましたか?」
それを見てジョシュアが不敵な笑みを口元に浮かべながら言った。アルヴァはそれを聞いていかにも不快そうに顔をしかめてジョシュアに背を向けた。それを見て、機嫌を損ねてしまったかとジョシュアが慌てて取り成す。
「すいません、冗談が過ぎましたね。で、何の通信だったんです?」
ジョシュアがアルヴァの前にわざわざ回りこんで聞いてきた。ハイエナのようなその目が光り、アルヴァを見つめる。アルヴァはその目からは逃げられそうに無いと観念したのか、ひとつため息をつくとジョシュアのほうを見ずに言った。
「諜報員からの通信だ。例の大門鉄郎、いや因幡悠斗に動きがあった」
それを聞いてジョシュアがわざとらしく驚いた。
「なんと! 生きていたのですか? 秋瀬が始末したはずなのでは……」
こうは言っているが、ジョシュアは秋瀬が殺しそこなったことをもちろん知っていた。今、この場でシラを切るのは秋瀬の立場を悪くするためだけの目的である。
そんなジョシュアの目的を知らないアルヴァは深刻そうにウムと頷き、歩きながら話す。
「そのはずだがこうして生きている。そこで私はこの因幡悠斗という人物が秋瀬と内通しているのではないかということを疑っている。使い魔に遭遇したことも偶然ではないのだとしたらそれですべての辻褄が合う」
「確かに。そう考えると自然ですね」
ジョシュアはアルヴァの歩行速度に合わせながら相槌を打った。それを聞いてアルヴァは苦虫を噛み潰したような顔をした。アルヴァにとっては秋瀬も一応教え子のひとりであるためにその教え子の失敗をどうにも受け入れられないのだろう。いくら秋瀬のことを嫌っているようなそぶりを見せていても情を捨てきれないのだろう。ジョシュアは歯がゆかったがそれと分からぬように何気ないそぶりを見せながら、
「でも、秋瀬がそんなことをするなんて俄かには信じられませんね。吸血鬼の関係者との内通とは……。俺は、それが間違いだということを祈っていますが」
ジョシュアがしおらしい様子で言うと、
「まったくだ。秋瀬に限ってそれは無いと私も思っている」
と、アルヴァも歩調を合わせて言った。それを聞いてジョシュアは表面的には真面目な顔を取り繕いながらも、腹の中で嘲った。
――親ばかが。
教え子を嫌っている振りをしていても所詮は弱い老人なのだ。どんなに厭わしそうに接しても決して背きはしないと分かっているからこの老人はいくらでも我が侭になる。間違った愛情表現だ。ロランには秋瀬とは別のベクトルでこの老人の偏屈な愛が注がれていたが、それをロランは嫌っていたのだ。無知なアルヴァはそれすら知らず、こうしてまた秋瀬を嫌うことでロランに与え切れなかった愛を与えようとしている。
今、ジョシュアには自分の目の前を歩くアルヴァが酷くいびつな愛憎の塊であるように見え、思わずその瞬間に腐臭でもかいだように顔をしかめた。
その時、前を歩くアルヴァが口を開いた。
「しかし火のないところに煙は立たないだろう。何かがあるに違いない。秋瀬はどうしている?」
「恐らく、先ほど捕らえた吸血鬼の尋問を見ているのだと思います」
顔を戻してジョシュアが事務的に答えた。
「ならば、地下か」
アルヴァが顎を触りながら眉間にしわを寄せ、難しそうに呻る。なにやら考えている様子だ。
「これから緊急招集をかける。……そこで秋瀬を私の直属から外すつもりだ」
アルヴァは存分に考えた後、それを言った。
「そうですか。……仕方がありませんね」
ジョシュアは残念そうに視線を落とすが、その裏では喉まで出そうになった笑いをかみ殺すのに必死だった。
全てが自分の思い通りに動いている今の状況を喜ばないものがあろうか。何度も思い描いたシナリオ――元々秋瀬のことを快く思っていなかったであろうアルヴァに秋瀬に対する更なる疑念を抱かせる。簡単そうだが自分が手を回せば後々厄介である。失敗したときのリスクも考えるとそうそう行動に移すことはできない。だがこの面倒くさい仕事が誰にも頼んでいないのに実現してゆく。淡々と思い描いたとおりにシナリオが進んでいく。笑いが出ないわけが無い。思わず、くくくと笑いそうになったところで、
「アルヴァ様、ジョシュア様!」
と後ろから突然自分達に声がかけられた。
彼らは同時に振り返った。
そこには諜報員の男が女を抱えて立っていた。女は男の肩に掴まるようにしてぐったりとしている。息が荒い。発信機となっている十字架を握り締めて、何とか意識を保っているといったところだ。白装束ふたりがその男と女の後ろについている。白装束がついているということは目の前のふたりは敵ではないのか、とジョシュアが判断し近づいてくるように指示した。
それに首肯して、男が女を抱えながらアルヴァに近づき事情を説明する。
「アルヴァ様。彼女、シスカという我々諜報員の仲間なのですが、先ほどこの教会の前で倒れていたのを見つけまして、その……負傷しておりまして……」
男は動転しているのか聞き取りづらい早口で話す。
アルヴァはシスカと呼ばれた女を見つめる。確かに、眼を負傷しているのか包帯が巻かれている。
「お前は? この女性と一緒にいたのなら負傷しているのか?」
ジョシュアが問いかけると男はかぶりを振った。
「いえ。私は傷ひとつありません。しかし、彼女の傷は深いんです。どうにか治療してもらえませんでしょうか?」
男がアルヴァにすがり付いて懇願する。しかしアルヴァはそれに関心を示さずに、そうか、とだけ言って踵を返そうとした。それを男が必死に呼び止める。
「ま、待ってください。な、なら話だけでも聞いてください。シスカは襲われたんですよ」
アルヴァが歩き始める。ジョシュアもその後についていこうとする。その背中に追いすがるように男は声を荒らげた。
「か、彼女が言うにはその傷をつけた奴らは……吸血鬼を名乗っていたみたいだったって……!」
その言葉でアルヴァの足が止まった。遅れてジョシュアが立ち止まり、男のほうを見た。
「吸血鬼だと?」
ジョシュアが尋ねると男は何度も頷いた。
「そ、そうです。彼女が、そう言いました」
アルヴァがシスカに近づいていく。その眼は彼女を通り越してその先にある吸血鬼を睨んでいる。そして彼女に強い口調で問い詰めた。
「本当だろうな?」
その言葉にシスカはまるで先ほどの男の動きを真似したかのように何度も頷く。
「よし。事情を聞こう。ここでは色々と不都合だ。静かなところで話を聞こうか」
そう言ってアルヴァは男とシスカについてくるよう指示した。それに男は、それはいい考えですと言って頷いた。
アルヴァが先頭を歩き、その後ろにジョシュアが付随する。その背中を見ながら男は俯いて静かに呟いた。
「……そうですね。できるだけ静かなところがいい。そのほうが、都合がいいですし」
「早くしろ。今は時間が惜しい」
アルヴァがふたりに向けて言う。男はそれに返事をして、シスカを引き連れてゆっくりと歩き出した。