2.あの子が、土曜日に、死ぬお話
◆朝の歌◆ Edward Elgar
金曜日。
目が覚めると、カーテンの隙間から、光が部屋に線を描いていた。
眠たい。
布団の中で、大きく伸びをする。
シーツのひんやりとした感触と、布団のぬくもりが心地いい。
あと五分・・・
そう思ってから、1時間後に起き上がってカーテンを開けると、昨日の曇り空が嘘みたい。
「気持ちいい。」
思わず声が漏れる。
お湯を沸かし、カップにコーヒーを淹れる。
湯気と広がる香りを吸い込み、目を覚ます。
ぼんやり窓の外を眺めると、鳥が電線に止まり、小さく鳴いた。
なんだか可愛くて、自然と笑ってしまう。
それだけなのに、不思議と胸の奥がぽっと温かくなる。
それだけで、こんなにも嬉しいなんて。
空がきれい。コーヒーがおいしい。小鳥が鳴いている。
マグカップを両手で包み込みながら、わたしは小さく笑った。
こういう朝を、幸せって呼ぶんだろうと静かに思った。
◆アイデネ ナハト ムジーク◆ W A Mozart
朝の空気は、ぬるま湯のよう。
駅までの道を歩く足取りが、少し重く、肩に力が入る。
昨夜は、少し寝不足。
大通りを抜けると、街路樹の葉が風に揺れて、木漏れ日が、道の上でゆらゆらと揺れる。
歩いているだけで、肩の力が、ふっと抜けていく気がした。
駅へ向かう人たちは、忙しそう。
それぞれの朝を抱えて、足早に歩いている。
わたしも、その流れに紛れながら、いつもの改札を抜け、いつものホームへ向かった。
電車が来るまでの間、ホームの端から空が見えた。
澄んだ青空に、白い雲が流れる。
・・・こんな景色だったんだ。
朝は、いつも時間ばかり気にしているから、ホームから空を見上げることなんてない。
少し得をしたような気持ちだった。
電車がホームに滑り込み、窓際に立つと、ガラス越しに差し込む日が頬を照らした。
その窓に映る眠たそうな自分の顔が、少しだけ穏やかに見える。
次の駅。
女の子が、お母さんと手をつないで乗ってきた。
黄色いリュックを背負って、一生懸命に窓の外を眺めている。
「わあ、お花!」
線路脇の花が見えた瞬間だった。
弾んだ声があがる。
声につられて、視線をあげると、線路わきには、日に照らされたひまわりの海。
ゆらりゆらりと風に揺れ、本当にキレイ。
電車は、毎日、同じ時間に、この場所を通る。
一度も、気づかなかった。
胸の奥に、小さな灯りがともるような感覚が広がる。
見ようとしなければ、何も見えない。
見つめれば、世界は、違って見える。
電車が、ゆっくり駅へ滑り込む。
降りる準備をしながら、窓に映る景色を、もう一度眺めた。
今日も、仕事は忙しいだろう。
それでも、朝の空の青さも、風に揺れるひまわりも、小さな女の子の笑顔も、ちゃんとわたしの中に残っている。
わたしのすぐ前。
ポポロンリン♪ポポロンリン♪
口ずさみながら、女の子が、電車を降りる。
そう、ポポロンリンは、幸せの音だ。
◆主よ 人の望みの喜びよ◆ J S Bach
午前中は、あっという間だった。
メールを返信し、資料をまとめ、気づけば時計の針はもう11時過ぎ。
キーボードを打つ音。
電話の呼び出し音。
静かに重なる音の粒。
オフィスは、いつものリズムで動いていた。
少し疲れた目を休めようと、顔を上げる。
窓から差し込む陽の光が、デスクの端を照らし、温度を上げ続けていた。
空になっていたマグカップの縁に光が反射し、小さくきらりと輝く。
張り詰めていた気持ちが、ふっとほどけた。
席を立ち、給湯室へ。
コーヒーを淹れる間、お湯が静かに落ちていく音だけが耳に届く。
立ち上る湯気をぼんやり眺めていると、豆の香ばしい匂いが、鼻をくすぐった。
「いい香り・・・」
小さくつぶやく。
職場のお局さんのお菓子ケースから、小さなクッキーを一つ失敬。
包装を、ビリリと破ると、バターの甘い香りがふわっと広がる。
自分は、ちゃんと、この場所で働いている。
そう思えた。
デスクへ戻り、コーヒーをひと口。
窓の外で、街路樹の葉が揺れ、影がガラス越しにゆっくりと踊っている。
忙しさは、変わらない。
午後になれば、会議があり、面倒な締め切りも待っている。
それでも、コーヒーの香りと、窓から差し込む光と、口の中に残るバターの風味が、不思議と気持ちを軽くした。
毎日は、ちゃんと前に進んでいる。
そう思ったけれども、まったく進んでいないモニター画面に気付いて、キーボードに手を置き、ふぅと、小さく息を吐いた。
コーヒーの香りが、くすくすと鼻をくすぐる。
さっきまでより少しだけ優しい気持ちで、画面の向こうの仕事に向き合える気がした。
◆ジムノペディ◆ Éric Satie
会社を出ると、「むわぁっ」という表現がぴったりだった。
日も傾いてきているというのに、昼間の熱気が、そのまま残って居る。
ビルの谷間を吹き抜ける夕風が頬をなでるけれども、生ぬるい。
行き交う人たちは、みんな少し急ぎ足でポコポコと靴を鳴らし、それぞれのお疲れさまを胸に抱えながら、駅へ向かっていた。
その流れに身を任せ、歩き出す。
今日も、いろいろあった。
思うように進まなかった仕事もあれば、小さな失敗も・・・
肩にかけたバッグが、少し重い。
信号を待ちながら、ぼんやりと見上げると、ビルの窓ガラスが茜色に染まっていた。
青に変わった。
渡り終えたそこにあるのは、小さな花屋さん。
店先に花が並び、水を含んだ花びらが、きらきらと夕日に照らされている。
淡いピンクのアジサイ。
カサブランカのような純白のユリ。
やさしく揺れるハート型のアンスリウム。
どの花も夕暮れの光をまとって、静かに今日という一日を見送っているようだった。
男の子が、お母さんに手を引かれながら足を止めた。
ピンクの花びらにかかった透明な糸。
水に濡れるアジサイに光る蜘蛛の巣。
「きらきらしてるっ。」
一言だけ・・・嬉しそうに笑う。
わたしも、つられるように足を止めた。
花なんて、毎日のようにここに並んでいたはずなのに、急いで歩くことばかり考えていて、ちゃんと見たことがなかった。
気づけば、わたしも笑っていた。
何か特別にいいことがあったわけじゃない。
ご褒美をもらったわけでも、誰かに褒められたわけでもない。
それでも、風の匂いや、夕焼けの色や、子どものまっすぐな声に触れただけで、今日という一日は悪くなかったと思えた。
駅へ向かう足取りが少しだけ軽い。
バッグの重さは変わらないのに、心は軽くなっていた。
改札の向こうには、家へ帰る電車が待っている。
温かいごはんを食べて、お風呂に入って、好きな曲でも聴こう。
そんな何気ない夜を思い浮かべるだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
わたしは、夕暮れ色の空をもう一度だけ見上げて、小さく笑った。
ポポロンリン♪ポポロンリン♪
誰に言うでもなくつぶやいたその言葉は、夕風に溶けて、一日の終わりをやさしく包み込んでくれた。
◆ノクターン◆ Frédéric Chopin
土曜日の朝は、少し憂鬱。
スマートフォンの画面を指先で軽くなぞると、動画が、静かに再生された。
手元だけが映る映像。
淡い木目の作業台の上に、細いカラフルなひもや針金が整然と並び、それぞれ宝石のようにきらめいている。
いつの間にか、その穏やかな光景に自然と見入っていた。
「今日は、幸せのリングを作っていきます。」
配信者の優しい声。
工具が触れ合うかすかな音、ヒモが手の中で転がる小さな響き、ゆっくりと息を合わせるような作業のリズム。
そのどれもが、日常から切り離された、小さな別世界のようだった。
透明なヒモ、淡いピンク、若葉のような緑。
光を受けるたびに控えめな輝きを放ち、少しずつ輪の形が出来上がっていく様子に、胸の奥まで穏やかな気持ちが広がっていく。
画面越しに完成を急かすこともなく、ゆっくりとしたその流れを味わっていた。
窓の外は木々の葉がさらさらと音を立て、淹れたばかりの紅茶の香りが漂っている。
動画から聞こえる柔らかな説明と、自分の部屋に流れる静けさが溶け合い、不思議と心が軽くなっていく。
最後のヒモを通し終え、ワイヤーの端を丁寧に整えると、リングが完成した。
あなたに、幸せが、そっと巡ってきますように
配信者がそう微笑むと、完成したリングが、カメラに近づけられる。
光を受けた輪は控えめに輝き、誰かの願いを優しく包み込んでいるようだった。
思わず微笑み、少し冷めた紅茶を、ごくんっとひとくち。
画面の向こうで紡がれた小さな作品は、わたしの部屋まで穏やかな温もりを届けてくれた。
ポポロンリン♪ポポロンリン♪
何気ない朝だったはずなのに、静かな時間は、胸の中でそっとしまっておきたい思い出になっていた。
◆あなたが欲しい◆ Éric Satie
ぐぅうぅぅ
お腹が小さく鳴った。
静かな部屋に響いたその音が、なにかおかしくて、笑みがこぼれる。
3時・・・
おやつには、ちょうどいい時間。
・・・幸せのリング
その瞬間、甘い香りを思い出す。
並んだ丸いドーナツ。
砂糖をまとったふんわりした生地。
チョコレートの艶やかな表面。
焼きたての甘い匂い。
頭の中に浮かんだ光景だけで、胸が弾んだ。
そうだ。大きなドーナツを食べに行こう。
お気に入りのバッグを肩に掛け、靴を履く。
わたしは、日に照らされた街へ、軽い足取りで歩き出した。
◆バターつきパン◆ W A Mozart
最後のひと口を食べ終えると、バッグからウエットティッシュを取り出して口元を拭いた。
チョコと口紅の色が混ざった、不思議な色が、ウエットティッシュを染めていた。
昔より、少し柔らかくなった唇を、そっと指でなぞる。
窓際の席から見える景色は、夕暮れに染まっている。
オレンジ色の光が通りを歩く人たちを照らし、ガラス越しの街は、どこか柔らかな輪郭。
テーブルの上には、何ものっていないお皿と、少し湯気の残るカフェラテ。
ドーナツは、丸くて、ふんわりとしていて、すごく大きかった。
甘い香りの余韻が、鼻先に残り、胸の奥へと届く。
大きなドーナツは、幸せのリング。
配信者が笑いながら紹介していた、小さなリング。
「作ってみようかな・・・」
考えるより先に、口から声が飛び出た。
マットな質感の茶色がいいだろうか。
いや、少し透ける飴色のほうが、焼きたてのドーナツっぽいかもしれない。
焼き色を思わせるブラウン。
砂糖をのような白い粒。
チョコレート色の糸。
頭の中で、材料選びが、始まっていた。
席を立ち、店を出る。
ポポロンリン♪ポポロンリン♪
ドアベルが、小さく幸せの音を鳴らし、生ぬるい空気が頬を包む。
スマートフォンを取り出すと、ホームセンターの場所を確認する。
歩いて行ける距離。
夕暮れの街を吹き抜ける風に、背中を押された。
交差点を渡るたび、ショーウインドウに映る自分の姿が、少し楽しそうに見える。
これから始まるのは、誰かが作った作品を眺める時間ではない。
自分の手で、幸せを形にする時間なのだ。
◆威風堂々◆ Edward Elgar
空は、すっかり藍色に変わっていた。
買い物袋をテーブルの上へ置くと、控えめな音が、カサリと響く。
店内で、何度も手に取っては戻して、ようやく選んだ材料を並べた。
デスクライトの白い光が、台の上を照らし、小さな世界が、わたしの居場所になる。
深く息を吸って、ヒモを土台に巻きつけていく。
あの大きなドーナツより、さらに大きい幸せのリングを作るのだ。
指先で、ヒモをなでるたび、さらりとした感触が伝わる。
接着剤を伸ばし、しわにならないように押さえながら押し込むと、丸い輪郭が、少しずつドーナツらしい厚みを帯びてきた。
その輪は、配信者の幸せのリングより、ずっと大きい。
アクセサリーというより、もはや飾り物・・・オブジェのようだ。
でも、その存在感が、なんだか嬉しい。
「これくらい大きいほうが、わたしらしい。」
誰もいない部屋でそう呟くと、声が少しだけ弾んで聞こえた。
整っているより、本物のお菓子みたいに、デコボコなほうが、愛らしい。
気づけば、時計の針は、ゆっくり夜を刻み、窓ガラスには、丸いお月様と、わたしの姿が、並んで映っていた。
外は、静か。
わたしは、完成を急がなかった。
少し眺めては、手を止める。
その繰り返しが、心地よかった。
急がず、焦らず、少しずつ。
その時間も、作品の一部だから・・・
最後に、この大きな幸せのドーナツリングをフックにとりつけ、部屋の中央に飾り付ける。
ドーナツリングは、焼きたてのお菓子が、そのまま飾りになったような、あたたかな表情を見せてくれた。
完璧ではない。
それでも、このデコボコさが、わたしの手で作った証のように思えた。
部屋の灯りを受け、リングが、小さくきらめく。
丸い輪を眺めていると、今日一日の出来事が静かにつながっていく。
配信を見て、ドーナツを食べて、材料を探し、形にする。
何気ない一日だったはずなのに、そのひとつひとつが重なって、胸の中に、まぁるい満足感を残していた。
わたしは窓の外に広がる夜空をひと目見上げ、それからもう一度、大きなドーナツリングへ視線を戻した。
ポポロンリン♪ポポロンリン♪
部屋の真ん中で静かに揺れる丸い輪の向こう側は、今日という一日を、閉じ込めた小さな幸せに見えた。
◆月光◆ Ludwig van Beethoven
窓を開けると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
浮かぶ月は、思っていたより、ずっと近くに見えた。
薄い雲が、その輪郭をゆっくり横切るたび、月は、見え隠れしながら、赤く静かな光をこぼす。
静かに白いカーテンが揺れ、その隙間から入り込んだ月明りが、床に淡いリングの影を落としていた。
そして、窓・・・
わたしは、そこから目を逸らすことが出来なかった。
窓の中には、青白い顔をしたわたしが、立っている。
俯き気味の目も、ちょっとへこんだ唇も、震えている指先も、全部、わたしと同じ。
だからこそ、その変化に気づいた瞬間、息が止まった。
窓の中のわたしが、笑ったのだ。
ほんの少しだけ、口の端が上がっていた。
そして、笑ったまま、首をゆっくり傾けた。
まるで、「やっと気づいたの?」そう言っているように・・・
無理やり顔を背け、リングの向こうを、じっと覗いた。
月のまると、リングのまるが、ぴたりと重なる。
吸い込まれるように、幸せのリングに近づいた。
今夜は、月がとてもきれいですね。
窓の外から、誰かに、そう言われたような気がした。
輪の向こう側に行きたい。
そう思ってしまった。
どこか遠い世界ではない。
わたしは、そちらへ行かなければならないのだ。
お気に入りのわたしの椅子は、ピンク色をしていて、もう10年以上使っている。
足をかけると、ギシギシと少し音を立てた。
わたしが、太っているわけではない。
椅子が、ちょっと弱っているだけだ。
誰かの言う通り、月は、本当にきれいだった。
ガタンっ
・・・椅子の倒れる音がした。
足が、ふわりと宙に浮いた。
ゴキッ
・・・首からの鈍い音。
体の重みのすべてを、ずしりとリングが支える。
みひらいた目にうつる窓に浮く月が、いっそう赤く染まった。
ぱちぱち、ぱちぱちっ
耳の奥で、幸せの音・・・ポポロンリンは、なぜか聞こえず、燃えてはじける線香花火のような、どこか懐かしい音が聞こえた。
夜の静けさに、音がそっと漂う。
わたしの見つけた赤い世界は、月明りとともに部屋中に広がり、その世界は、やがて、ポトリと火が落ちるかのように、静寂に溶けていった。




