010⚫️贅沢で’熱’い冬
真冬の突き刺さるような冷気が、古びた工場の隙間風となって足元を抜けていく。
中小企業が密集する町の片隅にある「尾石精密」の作業場は、吐く息が白くなるほど冷え切っていた。
研磨機の前に座る尾石 至は、かじかむ指先に息を吹きかけ、ステンレスの小さな円筒を再び覗き込んだ。その傍らで、妻の知世子が厚手の防寒着を羽織りながら、震える手でタブレットの数値を追っている。
「見て。また上がってる。もう外部電源は完全に落としてるのに。」
知世子の声が、静まり返った工場に震えて響いた。至は無言で、円筒の表面を慎重に撫でた。そこには、彼が長年をかけて研ぎ澄ませた’超微細ナノ溝加工’が施されている。
「信じられん。ただの重水素ガスを詰めただけなんだぞ。」
「でも、熱電素子の出力はさっきから一定よ。これで三時間。計算上は、小型のヒーターを一生つけっぱなしにできる熱量が出てる。」
至は興奮を押し隠す。それは、あまりの非現実に対する反応だった。
「常温核融合か。国の予算を何千億も注ぎ込んだ連中が匙を投げた代物を作っちまったのか。」
「学者たちは’理論’を追ってるもの。でも、あなたは手で作ったのよ。このナノ単位の溝、あなたにしか彫れない技術だよ。」
知世子が至の分厚い、ひび割れた手をそっと両手で包み込んだ。
ふたりだけで仕事の終わりに密かに続けてきた試行錯誤が、この結果に至ったのだ。
「これ、どうするの。もし公表なんてしたら、世界中の研究者や報道関係者が、この路地裏を埋め尽くすわよ。」
至は、作業台の上で淡い熱を放ち続ける金属の塊を見つめた。
これが世に出れば、凍える冬に怯える人々はいなくなる。だが同時に、世界の秩序を維持するエネルギーのパワーバランスは、忽ち変化するだろう。
「明日の仕事が終わったら、こいつは一度解体する。設計図は、例のロックをかけて保存するよ。」
「ふふ、怖くなった?」
「そうだな。背の高いポピーは刈り取られるからね。」
至が照れ隠しに顔を背けると、知世子は幸せそうに目を細め、夫の肩にそっと寄り添った。
「贅沢ね。世界一熱い冬になりそうだわ。」
窓の外では雪が舞い始めていたが、
小さな町工場の片隅だけは、春のような温もりに満たされていた。




