オムカエさん
ある晩、自室でダラダラしていたら、トイレに行きたくなった。最近、何もかもがめんどくさくてなるべくなら動きたくないが、こればかりはどうしようもない。
あくびをしながらドアを開けると、薄暗い廊下に見知らぬ人がいた。黒っぽいパーカーに細身のパンツ、ボディバッグを身につけていて、ぱっと見、10代後半くらい。顔つきや体型が中性的で、男性にも女性にも見える。
その人は土足だった。シンプルなスニーカーを履いた足が、当たり前のようにフローリングを踏んでいる。
泥棒? ストーカー? まさか、殺し屋……?
驚いて固まっていたら、相手は特に焦った様子もなく、軽い調子で話しかけてきた。
「あ、どーも。えーと……視えてますよね?」
なにを言っているんだ?
わけがわからずあっけに取られていると、その人が続けた。
「怪しいものにしか見えないと思うんですけど、実際“そういう類い”のものです。いったん説明させてもらえますかね?」
声を聞いても性別は不明のままだが、言葉が通じることがわかったので、とりあえず説明とやらを聞いてみることにする。
その人は自分を“オムカエ”と名乗った。簡単にいえば、死神の一形態だという。なんでも、俺の寿命がもうすぐ終わるのでお迎えにきたらしい。
「ああ、そうですか。へえ……」
「リアクション薄いなー。住居侵入の不審者に脅されてるんですから、もっと疑ったり、ショック受けたりしましょーよ。まあ、まだ死んでないのにジブンのこと視えてる時点で、ちょっとおかしな方っぽいですが……」
なんだろう、この奇妙な煽りは。
いろいろと異様な状況だが、説明自体は素直に信じられた。彼(彼女?)のまとう空気がどこかひんやりとしていて、生きている気配がしないせいかもしれない。よく見ると体の輪郭があいまいで、まばたきをしたら見失ってしまいそうなくらい存在感が希薄だ。おまけに声以外の音を立てないから、よけいに違和感があるんだと思う。
一般的な死神のイメージとはかけ離れているけれど、きっと本物なのだろう。ということは、俺はもうじき死ぬわけか。
でも少しも怖くない。というか、むしろホッとしていた。
だって俺、毎日なんのために生きているのかわからなくなっていたから。
するとオムカエさんは小さくため息をついた。
「最近、多いんですよね、あなたみたいなタイプ」
「そうなんですか」
「はい。前はどなたも嫌がって大泣きだったのに、近頃は皆さん、妙にものわかりよくなってまして。中にはうれしそうにするコまでいて、もはやキモいの域ですわ」
「……あー、わかります、うれしくなるの……」
思わず同意すると、オムカエさんは「ですかー」と感情の乗らない声音で返してきた。
「この際、聞いとこ。なんでそうなんですか?」
なんでと言われても。
急に振られ、答えに詰まる。その途端、忘れていた尿意がよみがえってくるのを感じた。
「……すいません、先にトイレ行ってからでいいですか?」
「おー、そっか。どーぞどーぞ。行っトイレ」
なぜかサムズアップしながらシュールな言い回しで許可されたので、俺はおそらく人生最後になるであろう排泄を済ませる。
死神を待たせながら用を足す――地味すぎる一生の幕引きにこんなミラクルが起こって、ちょっとワクワクした。これですっきりとあの世に行けそうだ。
トイレから出ると、オムカエさんはドアの真ん前に来ていた。危うくぶつかりそうになり、俺は盛大にのけぞった。
「うお、すいません……!」
「…………」
彼(彼女?)は俺を見るなり、ゆっくり首をかしげる。
「……あの、なんですか?」
質問したら、「いや、なんで普通に出てくんのかなーと思って」という謎の答えを返された。
聞けば、俺はすでに死んでなければおかしいらしい。
「予定ではあなた、“トイレで用を足してる最中にぽっくり逝く”ってことになってたんですわ」
オムカエさんはボディバッグの中から取り出したスマートフォンのようなものをいじりながら、何度も首をかしげている。
「ほんとならもう寿命切れてるから、そろそろ“登録”始めてなきゃいけない時間なんですけども」
曰く、“お迎え待ちの人間”の死亡時刻が1、2分程度前後することは普通にあるらしいが、こんなに遅れるのは稀なのだそうだ。かつては何日もずれ込んだり、死因が当初の予定とぜんぜん違うものになるパターンもあったようだが、現代の“お迎え界隈”ではシステム(?)の精度が上がって“時刻”と“場所”がきちんと登録管理されており、そのようなことはまず起こらないという。
「思うに、システムのトラブルですな。そういや、先日入れ替えしたばかりだって言われてたんだった。やれやれ……」
システムのトラブルに、リプレイス? まるでどこぞの企業みたいだ。
そんなことを考えていたら、画面を繰っていたオムカエさんがひょいとこちらを向いた。
「悪いんですが、ちょっと待っといてください。今、“上”に報告したんで、すぐ今後の流れについて連絡くるはずです。たぶん5、6分か、長くて30分くらいかな。やり残したことあったら、今のうちに片づけてもいいですよ」
片づけか。5、6分じゃ大したことはできそうにないな。
俺は実家と疎遠で、親しい友人もいない。いずれ発見されたとき、お世話になる人に見られて困るものはないが、スマホの中身は整理しておきたい。画像や動画、アプリの消去に、利用解除や退会をしなければならないアカウントもいくつかある。
待てよ? そう言えば、各種サブスクや公共料金、スマホやクレカの解約なんかも……。
それに思い至ると同時に、血の気が引いた。
「やっべぇ……」
俺は大急ぎで“終活”を開始する。
いつその日が来てもいいようにと、年配の人があれこれ準備しておく理由に合点がいった。
数分後、ようやく心残りになりそうな部分は潰せた。公共料金の解約は手続きに少し時間がかかるようなので、そのままにしておくことにした。
よく考えたら、どうせ俺は逝ってしまうわけだし、ここまで焦る必要もなかった。まあ、こういう性分だから仕方ない。あとは家族に任せることにしよう。
よし、これで一安心だ。ふぅ……。
ほっとしていたら、オムカエさんが「大丈夫そうですか?」と訊いてきた。
「おかげさまで、何とか」
「よかったです。なんか、まだ復旧しないんで、さっきの話、聞かせてもらえますかね?」
「ええと、なんでしたっけ……」
「お迎えが来て、なんでうれしくなるのかについて」
ああ、そうだったな。俺は快くうなずいた。
こちらもこの世に未練はないし、待機のついでなので問題ない。ただ、ここがトイレの前だということを思い出して、微妙な感覚になる。
「あの、よかったら、部屋入ります?」
立ち話もなんだし、自室に通すことにした。
「え、いいんですか? すいませんね、気ぃつかわせちゃって」
オムカエさんはぺこっと頭を下げ、スマートフォンのようなものをボディバッグにしまった。
「こういうの滅多にないんで、ちょっと楽しみです」
明るく前向きな言動だが、オムカエさんのセリフには抑揚がなく、ほとんど棒読みだ。
また、出会ってからまったく表情が変わらない。無表情というより、微笑のまま固定されているというか。モナリザみたいに不思議で得体のしれない雰囲気が漂う。
それに、俺の見間違いでなければ、一度もまばたきをしていない……。
ああ、やっぱり、生きた人間じゃないんだな。
これに気づいたとき、ほんの少し背筋が冷えた。




