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第9話 職場の誰かが読者かもしれない

 その本を見つけた時、私は一瞬、自分の足音まで聞こえなくなった。


 午後二時を少し回ったばかりだった。昼休みが終わってしばらく経ち、営業管理課のフロアもようやく午前から午後へのぎこちない切り替えを終えた頃だ。昼の食堂での雑談や、戻ってきてからのメール処理や、得意先からの確認電話や、そういう細かな波が一度きりなく押し寄せたあとで、部署全体の呼吸が少しだけ一定になる時間帯である。


 私は総務へ届ける書類を手に、フロアの隅にある共有スペースの前を通りかかった。


 共有スペースと言っても大げさなものではない。丸テーブルが二つ、自販機が一台、給湯器と電子レンジ、小さな流し台。昼休みには弁当を広げる人がいて、夕方になると紙コップのコーヒー片手にぼんやり窓の外を見ている誰かがいる。職場という場所の中で、唯一“何も生産していない時間”を許されるような、小さな緩衝地帯だった。


 その日もテーブルのひとつに紙コップが置かれていた。中身は半分ほど残っている。持ち主はまだ近くにいるのだろう。たぶんトイレか、給湯器の前か、あるいは電話に出るために少し外しただけかもしれない。


 そして、その紙コップの横に、一冊の本があった。


 文庫サイズ。

 白地に青い帯。

 夜の図書室を背に、窓際で向き合う男女のイラスト。


 私の新刊だった。


 私はそこで、完全に立ち止まってしまった。


 いや、正確には一歩だけ過ぎてから、足が勝手に止まった。振り返るほどではない。だが体がもう、あれが“ただの本”ではないと気づいてしまっている。胸の奥で、何か小さく、しかし確かに鋭いものが跳ねた。


 共有スペースに、私の本がある。


 職場に。

 昼の顔しか知らない人たちが行き交うこの場所に。

 営業管理課の係長としての私が、毎日何気なく通り過ぎているこの場所に。


 私は手に持った書類を持ち直した。指先が少しだけ乾いている。喉も、急に渇いた気がした。


 もちろん、あり得ない話ではない。


 会社員だって本くらい読む。通勤時間に小説を読む人もいれば、昼休みに漫画アプリを開く人もいる。最近はライトノベルだって珍しいものではない。アニメ化作品も多いし、若い世代なら特に抵抗なく手に取るだろう。


 だから、職場の共有スペースにライトノベルが一冊置かれていること自体は、別に異常でも何でもない。


 ただ、その一冊が私の本だった。

 それだけだ。


 それだけのことなのに、私の心拍は妙に速かった。


 私はできるだけ自然に、テーブルへ近づいた。総務へ届ける書類を持ったまま、ついでに給湯器の前でも通るような顔をして。誰も見ていないか、視界の端でそれとなく確認しながら。


 カバーの端が少しだけ開いていて、そこに淡い黄色の付箋が挟まっていた。


 私は、その付箋の位置を見た瞬間に、たぶん第六章のあの場面だなと察した。登場人物が言い切れないまま沈黙する直前、相手の癖をひとつだけ言葉にしてしまうところ。今巻の中でも、読者が止まりやすい場面かもしれないと思っていたところだ。


 付箋には、小さな字で何か書かれていた。


 私は本来、それを見てはいけなかった。


 見ようとすること自体が、読者の私的な読書体験へ土足で踏み込むことに近い。作家である以前に、私はその程度の礼儀は知っているつもりだった。レビュー欄やSNSに書かれた感想は、作者へ届くことを前提に外へ出された言葉だ。けれど、付箋のメモは違う。誰かが自分のためだけに残した小さな痕跡だ。


 なのに、私は見てしまった。


 ほんの数語。

 付箋の端に書かれていた言葉。


『この言い方、わかる』


 それだけだった。


 それだけなのに、胸の奥が妙に熱くなった。


 “よかった”でもなく、“泣いた”でもなく、“好き”でもない。

 この言い方、わかる。


 その地味な共感の仕方が、ひどく私の作品らしい読まれ方に思えた。大事件や大逆転ではなく、たった一言の引っかかり。相手の言葉の角度や、感情の濁り方や、会話の途中でこぼれた人間臭さに反応してくれる読み方。そういう読者の存在を、私はずっとどこかで信じたくて書いてきたのだ。


 だから、うれしかった。


 うれしかったが、同時に背筋が少しだけ冷えた。


 この本を読んでいるのは、職場の誰かだ。

 会社のこの共有スペースへ本を持ち込み、コーヒーを飲みながら読み進め、付箋まで貼っている。

 そして私は、その“誰か”のすぐ近くで毎日働いている。


 その距離の近さが、急に現実味を持った。


 まさか、と思う。

 でも、いるのだ。

 ここに本がある以上、誰かは確実にいる。


 その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 私はほとんど反射的に背筋を伸ばし、給湯器の前へ二歩だけ移動した。まるで最初からそこへ向かっていたような顔を作る。


「係長」


 声をかけてきたのは本城だった。マグカップを片手に、少しだけ首を傾げている。


「珍しいですね、ここにいるの」


「たまには」


 私は自分でも驚くほど自然に答えた。


「総務に行くついでに、少し喉が渇いて」


「そうなんですね」


 本城はいつも通りの静かな声でそう言い、給湯器に湯を注ぎ始めた。彼女の視線がテーブルの本に向いたかどうか、私は見なかった。見たらたぶん、余計なことを考えてしまう。


「午後の先方会議、三時からで大丈夫ですよね」


 本城が言う。


「ああ。資料はさっきの最新版で問題ない」


「分かりました。榎本さんにも共有しておきます」


「ありがとう」


 私は紙コップを一つ取り出すふりだけして、結局何も注がなかった。喉が渇いているのは事実だったが、いまここで水でもコーヒーでも飲み始めたら、そこに留まりすぎる気がしたからだ。


 本城がマグカップを持ち上げる。その横顔はいつも通り落ち着いていた。彼女があの本の持ち主かどうか、分からない。弟がライトノベルを読むと言っていたのを思い出す。本人も多少は読むのかもしれない。だが、だからといってこの本が彼女のものだとは限らない。


 私はそれだけの推測で相手を見る自分が少し嫌になった。


「どうかしました?」


 本城が不意にこちらを見る。


「いや」


 私はすぐに首を振った。


「少し、考え事してただけだよ」


「そういう時の係長、たいてい顔に出てます」


「そうか?」


「少しだけ」


 彼女はそれだけ言って、先に共有スペースを出ていった。


 私はしばらくその場に立ったまま、テーブルの上の本を見ないようにしながら、しかし視界の端で意識し続けていた。


 顔に出ている。

 少しだけ。


 そんなものだろう。

 四十七にもなると、隠しているつもりのものほど、案外ちょっとした間や沈黙の長さに滲む。


     ◇


 自席へ戻ってからも、私はしばらく仕事の速度を取り戻せなかった。


 物流からの確認メールに返信する。

 営業部から上がってきた数字の表を見直す。

 部長へ渡す資料の文面を整える。


 やることは山ほどある。

 しかもどれも、いま片づけなければ夕方の会議へ響く程度には現実的だ。


 それなのに、頭のどこかがずっと共有スペースのテーブルに置かれたままだった。


『この言い方、わかる』


 たったそれだけの一言が、妙に残る。


 レビュー欄に書かれたら、きっとありがたく読むだけだろう。

 SNSで見かけたなら、そっといいねの数を見て終わるかもしれない。


 でも、あの付箋は違う。


 作者に見せるためではない。

 誰かが、自分ひとりの読書の途中で、思わず挟んだものだ。

 その私的な熱に、偶然こちらが触れてしまった。


 それが、うれしくて、少し申し訳なくて、同時に妙に心を揺らす。


 私はメールを一本打ち終えるたび、ふと考えてしまう。

 誰だろう。

 この部署の誰かだろうか。

 営業部か、経理か、総務か。

 若い人間か、案外同世代か。

 あるいは、ラノベを読むタイプには見えない誰かかもしれない。


 想像し始めると、きりがない。


 そしてその想像の先には、もっと厄介な問いが待っていた。


 もし、その読者が私の正体を知ったらどうなるだろう。


 笑われる、とは思わない。

 もうそういう年齢でもないし、会社の人間もそこまで子どもではない。


 だが、空気は変わるだろう。

 たぶん確実に変わる。

 距離感も、雑談の角度も、私を見る目も。


 それが嫌なのだ。


 誇りがないわけじゃない。

 自分の本が職場の誰かに読まれているかもしれないことは、作家としては本当にうれしい。けれど、職場の私にとってはそのうれしさがそのまま居心地の悪さへつながる。


 書店では名前があり、

 会社ではただの人でいたい。


 そのささやかな均衡が、今日少しだけ揺れた。


「係長」


 榎本に呼ばれ、私は顔を上げる。


「この数字、営業から戻ってきたんですけど、やっぱりここの見込みだけ強すぎません?」


 私はモニターへ視線を移し、数字を確認した。

 強い。たしかに強い。根拠が甘い見込みほど、後で崩れた時に説明が厄介になる。


「ここの係数、前月の実績ベースに戻そう。希望値に寄せすぎてる」


「やっぱそうですよね」


「現実的な線でまとめたほうが後が楽だ」


 榎本が頷く。


「ありがとうございます。助かります」


 こういう時、会社の仕事はありがたい。

 目の前の数字は具体的で、正解がひとつではないにしても、少なくとも“いまどうするか”は考えやすい。読者が誰かもしれない、という曖昧な気配よりよほど扱いやすい。


 私はそのまま二、三件の相談を処理し、気持ちを無理やり現実へ戻していった。


     ◇


 夕方近く、共有スペースの前をもう一度通る機会があった。


 今度は偶然ではなく、少し意識していたと思う。

 言い訳をするなら、会議室へ向かう途中の最短ルートだった。だが、最短ルートを選んだのは、たぶん私のほうだ。


 テーブルの上には、もう本はなかった。

 紙コップも片づいていた。

 まるで最初から何も置かれていなかったみたいに、白いテーブルの表面が蛍光灯を反射している。


 私はそれを見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 持ち主が戻ってきたのだろう。

 当たり前だ。

 仕事中なのだから、いつまでもあそこへ放置されているほうが不自然だ。


 それなのに私は、少しだけ残念でもあった。


 持ち主の顔を見たいわけではない。

 いや、本当は見たかったのかもしれない。

 でも見てしまったら、たぶん私はまた余計なことを考える。


 知らないままのほうがいい。

 そう思う一方で、知りたい気持ちもある。


 作者として、自分の一行に付箋を挟んだ誰かを知りたい。

 会社員として、その誰かと普段どんな顔で話しているのか知りたくない。


 矛盾している。

 だが、そういう矛盾を抱えたまま働き続けているのが、いまの私だ。


 会議室へ向かいながら、私はふと、少し前の自分ならこういう出来事をもっと素直に“励み”として受け取れただろうと思った。職場の誰かが読んでくれている。すごいじゃないか。うれしいじゃないか。そう思えたはずだ。


 でも今の私は、もう少しだけ複雑だ。


 うれしい。

 それは間違いない。


 しかし、うれしいだけでは終わらない。

 生活がそこに絡み、会社での立場が絡み、自分の臆病さが絡む。


 四十七歳にもなると、純粋に喜ぶだけの筋肉は、少し弱くなるらしい。


     ◇


 退勤後、家に帰ってからも、私は何度かあの付箋のことを思い出した。


 夕食を食べながら真由美の話を聞いている時も、

 風呂で湯船に肩まで浸かった時も、

 書斎へ入ってパソコンを立ち上げたあとも。


 たった数語のメモが、妙に尾を引く。


 私は原稿ファイルを開いたが、すぐには本文へ入れなかった。

 こういう日は、先に頭の中のざわつきを別の形で吐き出しておかないと、言葉が流れない。


 メモ帳を開き、少しだけ考えてから打つ。


『読者が近くにいるかもしれない、というだけで、人はうれしさと怖さを同時に持つ。』


 打って、続ける。


『遠くの読者は安心して愛せる。近くの読者は、その愛の分だけ日常を揺らす。』


 少し言い過ぎかもしれない、と思う。

 でも今夜の私には、それくらいの温度がちょうどよかった。


 私は椅子にもたれ、薄く息を吐いた。


 職場の誰かが読者かもしれない。

 まだ何も起きていない。

 正体がばれたわけでもない。

 名前を呼ばれたわけでもない。


 それでも、今日一日で確実に何かは変わった。


 会社という場所が、完全に“作家ではない私だけの場所”ではなくなったのだ。

 少なくとも私の意識の中では。


 その変化は小さい。

 だが、小さいからこそ厄介だ。


 私はようやく原稿ファイルへ戻り、カーソルの点滅を見つめた。


 いま書けるのは、きっと大きな事件ではない。

 こういう、小さな揺れだ。

 誰にも言えないけれど、その日の呼吸が少しだけ変わってしまうような出来事。外から見ればどうでもいいのに、当人には妙に残る出来事。


 そういうものなら、今夜の私はたしかに知っている。


 私は最初の一行を打ち始めた。


『彼は、自分の言葉が誰かに届くことを望んでいた。けれど、その誰かが日常のすぐ隣にいるかもしれないと知った瞬間、喜びはほんの少しだけ身の置きどころのなさへ変わった。』


 書いてから、少しだけ肩の力が抜けた。


 たぶん、今日はこれでいい。


 答えは出ていない。

 誰が読者なのかも分からない。

 分からないままでいいのかどうかも、まだ決められない。


 でも、あの共有スペースのテーブルに置かれた一冊は、確かに今日の私の呼吸を変えた。

 そしてその変化は、こうして夜の原稿へ回ってきている。


 それなら、たぶん無駄ではないのだろう。

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