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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑書籍絶賛受付中


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第8話 サイン本の午後、定時後の夜

 サイン本を作る仕事は、いつだって少しだけ現実味が薄い。


 作家なのだからサインを書くのは当たり前だ、と外から見れば思うかもしれない。だが、私の生活の大半は会社のデスクと会議室と社内チャットでできている。普段の私は、見積書の文面を整え、物流の遅延理由をやわらかく説明し、若手のメールの語尾を少しだけ丸く直す中年会社員だ。その手が、ある日の午後だけ、数十冊の本に自分の名前を書くために使われる。


 その切り替えは、何年やってもどこか奇妙だった。


 その日、私は午後一時半に会社を抜けた。


 抜けた、と言っても正式には半休ではない。午前は普通に働き、午後の二時間だけ「私用外出」という形で社内システムへ登録している。営業管理課の係長ともなると、完全に席を空けるより、こういう半端な時間の使い方のほうがかえって自然だ。取引先対応や社外打ち合わせの名目は、会社という場所では案外便利に機能する。


 もちろん、本当の行き先は取引先ではない。

 出版社でもない。

 神保町の駅から少し歩いたところにある、中規模書店のバックヤードだった。


 新刊の動きが思ったより良かったため、店頭用のサイン本を少し追加で作りたい、と高梨から連絡があったのは前日の夜だった。大量ではない。二十冊ちょっと。それでも、地方店にも回すか都内中心にするか、サイン入りPOPはどうするか、営業の人間は案外細かく考えているらしい。


 私は「行けます」とだけ返した。

 本当は、その一言の前にほんの数秒ためらった。午後の会議予定、部長の機嫌、榎本への引き継ぎ、三浦がまた何かやらかしていないか、そういう会社側の現実が脳裏に浮かんだからだ。


 だが同時に、サイン本の依頼を断りたくない気持ちも強かった。


 誰かが私の本を平台に置きたいと思ってくれている。

 誰かが「サイン本あります」と言えば手に取る読者がいるかもしれない。

 その可能性のために、自分の名前を書く。


 そんな機会を、面倒だからと簡単に手放せるほど、私はもう鈍くなっていなかった。


     ◇


 書店のバックヤードは、想像していたより狭くて明るかった。


 段ボールが積まれ、平台用のPOPが壁に立て掛けられ、梱包材の匂いと紙の匂いが混ざっている。売り場の表側が静かな顔なら、裏側は静かに慌ただしい。補充のタイミングを待つ新刊、返品用の束、値札シール、細いマジック、社員用のエプロン。目立たないが、たしかに本が動いている現場の空気だった。


「佐伯先生、こちらです」


 高梨が、少しだけ早足で私を案内する。書店の担当者らしい女性が軽く頭を下げた。


「お忙しいところすみません。今回、思ったより動きがよくて」


「いえ、ありがとうございます」


 私はそう返したが、こういう場面になるといつも少しだけ声の置き方に迷う。会社では「佐伯係長」である自分が、ここでは「先生」と呼ばれる。その呼び方に慣れていないわけではない。けれど、慣れたふりと、本当に自然に受け取ることの間には、まだ少し距離がある。


 テーブルの上には、私の新刊が二十四冊、きれいに積まれていた。

 白地に青い帯。

 夜の図書室。

 私のペンネーム。


 会社の鞄を持ったまま、その本の前に立つと、いつも少しだけ笑いそうになる。昼まで私は会議資料の差し替えをしていたのだ。上司に確認を取り、榎本へ一言残し、三浦に「午後の先方対応は任せる」と言って会社を出た。その延長線上に、この二十四冊がある。


 人生というものは、本当に文脈の継ぎ目が雑だ。


「ペンはこちらで」と高梨が黒いサインペンを差し出す。


「ありがとうございます」


「今回は宛名なし、通常サインで大丈夫です。都内数店舗と、少しだけ地方へも回す予定です」


「地方にも?」


「営業が取ってきました。やっぱり今巻の反応、悪くないので」


 悪くない。

 その言い方に、高梨らしい配慮がにじむ。すごくいい、でもなければ、地味、でもない。商業の現場にいる人間は、希望と現実の温度調整がうまい。


 私は椅子へ腰を下ろし、一冊目を手に取った。


 カバーを開き、見返しの余白を確かめる。

 そこへ、いつものペンネームを書く。

 書き慣れているはずなのに、最初の一冊だけは毎回少し手が固い。自分の名前を書くことに緊張する、というのは冷静に考えると変な話だが、著者名というのは戸籍の名前とは違う意味の重さを持つ。そこへサインを入れる瞬間だけ、私は会社員でも夫でも父親でもなく、単に「この本を書いた人間」でなければならない。


 その純度に、ほんの少しだけ気持ちが整う。


 さらさら、とペンが走る。


 二冊目。

 三冊目。

 五冊目。

 十冊目。


 繰り返すうちに手が馴染んでくる。サインは綺麗すぎてもいけないし、崩しすぎても読みにくい。適度に“本人がその場で書いた感じ”が必要だ。そういう中途半端なリアリティを、私は何度も身につけてきた。


「先生、これ、書店さんからの感想です」


 高梨が、打ち合わせ資料の端を一枚だけ抜いてこちらへ寄せた。そこには営業が回収してきたらしい店頭の短いコメントが並んでいる。


『二巻から追い始めた読者が三巻で増えています』

『会話劇だけど手売りしやすい』

『派手ではないが紹介しやすいシリーズ』


 私はサインを続ける手を止めずに、それを読んだ。


 会話劇だけど手売りしやすい。

 その言葉が少しだけうれしかった。


 派手ではないことは、自分がいちばん知っている。

 だが、派手ではないものにも薦める理由がある、と現場の誰かが感じてくれている。そのことが、今日は妙に胸に沁みた。


「ありがたいですね」


「本当に」


 高梨がうなずく。


「先生の本、営業からすると“一言で爆発的に売るタイプ”ではないんですけど、その分、ちゃんと届くべき人に届く感じがあるって言ってました」


 私は少しだけ笑う。


「便利な褒め方だな」


「便利ですけど、本音でもあります」


「営業の本音って信用していいのか?」


「状況によります」


「正直だな」


「先生もそういうの好きじゃないですか」


 好きだ。

 人が少しだけ逃げながら本音を言う瞬間を、私は昔からよく見てしまうし、よく書いてしまう。


 私は次の本へサインを入れながら、ふと考える。

 この二十四冊のうち何冊が本当に読者の手へ渡るのだろう。

 誰が買ってくれるのだろう。

 どんな部屋でページを開き、どこに付箋を挟み、どの台詞に「この言い方、わかる」と思うのだろう。


 そこまで想像すると、途端にサインの線が少しだけ慎重になった。


     ◇


 十四冊目に差しかかった頃だった。

 胸ポケットの社用スマホが震えた。


 私は一瞬だけ、手を止めた。

 こんな時間に会社からの連絡が来るのは珍しくない。珍しくないが、こういう時に限って来る。いつだって、人生の片方がもう片方を見逃してはくれない。


 高梨が目線だけで「大丈夫ですか」と尋ねる。


「少しだけ」


 私は本をテーブルへ置き、画面を確認した。

 榎本からだった。


『すみません佐伯さん、先方の件で少し揉れてまして、電話大丈夫ですか』


 揉れている。

 その四文字に、会社員の体が先に反応する。

 サイン本の途中だとか、書店のバックヤードだとか、いま目の前に自分の本が積まれているとか、そういう事情とは別の筋肉が、もう仕事の顔を作り始める。


「申し訳ない、少しだけ外します」


「大丈夫です」と高梨がすぐ言った。「こちら、急ぎませんので」


 急がないわけではないだろう。

 だが、そう言ってくれるのがありがたい。


 私はバックヤードを出て、書店の非常階段脇の踊り場へ移動した。客の目につかない場所。壁は薄いベージュで、少しだけ埃っぽい。館内放送のかすかな音が遠くに聞こえる。


 通話を取る。


「どうした」


『すみません、休みのところ』


「いいから要点」


 榎本の説明は簡潔だった。午後の先方対応で、先方担当者と三浦の認識にずれが出たらしい。こちらは「条件調整の余地あり」と説明したつもりが、先方は「ほぼ確定」と受け取っていたようで、その確認が別ルートから部長へ入った。まだ決定的な火種ではないが、放っておくと厄介になる種類の誤解だ。


「三浦は何て言ってる」


『本人は“そこまで断定したつもりはない”と』


「それは本当だろうな」


『はい。ただ、先方の受け取り方が強めだったみたいで』


「録音はないんだろ」


『ないです』


 私は目を閉じた。

 こういう時、責任の所在を先に探してもあまり意味がない。まず火を小さくする。誰が悪いかより、何をどう言えば相手の顔を潰さずに認識を戻せるか、それが先だ。


「先方には、こちらの説明不足で誤解を招いた点があった、でいく」


『はい』


「ただし、“確定ではない”ははっきり言う。曖昧にすると長引く」


『分かりました』


「三浦には俺からあとで話す。部長には?」


『まだ細かくは上げてません』


「じゃあ、先に先方との温度だけ下げろ。そのうえで経緯をまとめて俺にメール」


『ありがとうございます。助かります』


「助かったかどうかは、収まってから言え」


 榎本が苦笑した気配がした。


『すみません』


「いい。とりあえずやって」


 通話を切る。


 私はスマホを下ろしたまま、しばらく踊り場の壁を見ていた。会社のトラブル対応をしていた声が、自分でも驚くほど滑らかだった。ついさっきまで私は、見返しにサインを書き、書店員の反応を聞き、読者へ届く本のことを考えていたはずなのに、仕事の電話が一本入るだけで、頭の中の重心は一気に営業管理課へ戻る。


 器用なのか、不器用なのか、分からない。


 ただ、この切り替えがもう私の生活そのものなのだ。


     ◇


 バックヤードへ戻ると、高梨が少しだけ心配そうな顔でこちらを見た。


「大丈夫でしたか」


「まあ、いつもの感じだよ」


「会社ですか」


「うん」


「すみません、タイミング悪くて」


「いや、こっちの問題だから」


 私は椅子へ戻り、ペンを握り直した。

 さっきまで少し整っていた気持ちが、電話一本でまた会社員寄りに傾いているのが自分でも分かる。だが、目の前にはまだ十冊分の新刊が積まれている。これはこれで、いましかできない仕事だ。


 私は一冊を開き、また自分のペンネームを書き始めた。


 手が少しだけ固い。

 さっきまでの流れが、一度切れてしまったからだろう。


「先生」


 高梨が静かに言う。


「こういう時、いつも思うんですけど」


「何を」


「先生、本当に二つの仕事やってるんだなって」


 私はその言葉に少しだけ笑った。


「いまさらだな」


「いや、分かってはいるんです。でも、こうして目の前で見てると、やっぱりすごいです」


「すごいっていうか、落ち着かないだけだよ」


「でも普通、どっちかに寄せたくなりません?」


「寄せたい時もあるよ」


 これは本音だった。

 会社へ寄せきってしまえたら、たぶん生活はもっと単純になる。作家へ寄せきってしまえたら、時間の使い方はもっと素直になるだろう。


 だが、どちらにも振り切れない。

 振り切れないまま、今日まで来ている。


「でも」と私は次の一冊へサインしながら言う。「たぶん、寄せきれないから書けてる部分もあるんだろうな」


 高梨は黙って続きを待った。


「会社でいろんな言葉を丸くして、家で生活のこと考えて、そのあとでようやく原稿に触る。正直、効率は最悪だよ」


「……はい」


「でも、その最悪さの中で拾ってるものを、たぶん私は書いてる」


 言葉にしてから、自分でも少し驚いた。

 普段ならここまで素直には言わない。

 だが、さっき会社の電話に割り込まれたことで、逆に今の自分の輪郭がはっきりしたのかもしれない。


 高梨は少しだけ笑った。


「それ、次のインタビューで言えそうですね」


「インタビューなんかないだろ」


「いつかありますよ」


「その時はもっと格好よく言う」


「ぜひお願いします」


 私は最後の一冊へサインを入れた。

 ペンを置く。

 少しだけ指先が熱い。


 二十四冊。

 数としては大したことがないかもしれない。

 けれど、その一冊一冊に名前を書いた時間は、私にとってかなり現実的な手応えだった。


 書いた名前は、会社の名札にはない。

 社内メールの署名にも入らない。

 家計簿アプリにも表示されない。

 でも、確かに私のもう一つの現実だ。


「ありがとうございます」


 書店の担当者が頭を下げる。

「大事に販売します」


「よろしくお願いします」


 その言葉を聞くと、私はいつも妙に丁寧な気持ちになる。大事に販売します。商売の言葉だ。だが本は、読まれなければ意味がない。売る人がいて、薦める人がいて、ようやく読者へ届く。


 私は作者として、その前段の誰かに感謝するしかない。


     ◇


 書店を出た時、外は少しだけ曇っていた。


 午後四時過ぎ。会社ならまだ終業まで二時間はある時間帯だ。スーツ姿で神保町の通りを歩いている自分が、急に借り物みたいに感じる。私は会社を抜けてきた。けれど会社はまだ動いていて、榎本や本城や三浦はフロアでそれぞれの仕事を続けている。


 そのことを思うと、少しだけ落ち着かない。

 一方で、いま鞄の中にはサインペンを使ったあとの感触が残っている。


 作家として名前を書いた手で、

 また会社へ戻るのか。


 私はその落差に、可笑しさを覚えた。


 駅へ向かう途中、大型書店の前を通る。少し迷ったが、結局私は足を止めた。今日、自分の本へサインを書いたあとで、店頭の平台を見ないまま帰るのは、何だか中途半端な気がしたからだ。


 売り場へ入る。

 ライトノベルの平台。

 私の新刊がある。

 その数歩手前で、私は一瞬だけ立ち止まった。


 さっきまでバックヤードでサインを書いていた時の、あの“著者としての顔”がまだ少しだけ残っている。そのまま平台を見ると、店頭の本がほんの少し違って見える。単なる商品ではなく、自分がさっき名前を書いたのと同じ“物”として、やけに具体的に胸へ来る。


 平台の端にPOPが立っていた。

 小さな手書き文字で、『会話の温度が沁みる青春シリーズ』と書かれている。


 私はその前で、ほんの一瞬だけ何も考えられなくなった。


 誰が書いてくれたのだろう。

 営業が頼んだのか、店員が自分でつけたのか。

 どちらでもいい。

 とにかく、店頭の誰かが、私の本をその一言で薦めようとしてくれている。


 会話の温度が沁みる。

 それはたぶん、私がずっと書きたかったものにかなり近い。


 ありがたい、と思う。

 その一方で、社用スマホがまた震えた。


 私は思わず苦笑した。

 本当に、タイミングというものは容赦がない。


 画面を見る。

 今度は本城からの社内チャットだった。


『先方の件、榎本さん対応中です。係長のご指示通りで進めています。落ち着いたら一度だけ確認お願いします』


 私は平台の前で、短く返信する。


『ありがとう。あとで確認します』


 送信してから、もう一度だけPOPを見た。

 会話の温度が沁みる。


 その一言と、社内チャットの無機質な文字列が、同じスマホの中で並んでいる。

 私はそのおかしさに、少しだけ息を吐いた。


 平積みのあとで、定例会議に出る。

 サイン本のあとで、先方対応の文面を直す。

 オリコンに入る週でも、夜には会社のトラブルの続きを考える。


 そんな継ぎはぎみたいな日々の中で、それでも本は売り場に並び、誰かの時間へ届いていく。


 それが、いまの私の現実なのだ。


     ◇


 会社へ戻る電車の中で、私は鞄の外ポケットに入れたサインペンへ指先を触れた。


 店の人に返し忘れたわけではない。

 高梨が「一本予備どうぞ」と言って、余ったものを持たせてくれたのだ。黒いボディの、ごく普通のサインペン。なのに、いまは妙に特別なものみたいに感じる。


 そのペンで私は自分の名前を書いた。

 その直後に、会社のトラブル対応の電話をした。

 そのあとで平台のPOPを見て、またチャットを返した。


 今日一日は、あまりにきれいに二つの顔が混ざっていた。


 だが不思議と、嫌な混ざり方ではなかった。


 以前の私は、会社と作家の境界をもっときれいに分けたがっていた。昼は昼、夜は夜。会社の感情を執筆へ持ち込みすぎない。作家の浮き沈みを職場へ持ち込まない。それが大人だと思っていた。


 けれど最近は、その分け方自体が少しずつ無理になってきている気がする。

 分けきれないのではない。

 最初から、そんなにきれいに分かれていなかったのだ。


 会社で人の言い方を観察し、

 家庭で沈黙の温度を知り、

 夜に原稿へ戻し、

 その本が店頭へ並び、

 読者が読み、

 また次の日の会社で誰かの雑談が胸に刺さる。


 全部、繋がっている。


 会社員の時間がなければ書けない一行がある。

 作家としての時間があるから、会社で少しだけ持ちこたえられる日もある。


 それならもう、どちらが本当の自分か、などと考えるのは少し古いのかもしれない。


 どちらも本当で、その両方があるから今の私なのだ。


 電車の窓に映る自分は、相変わらずくたびれた中年会社員だった。著者近影に使いたくなるような顔ではない。だが、ポケットにはサインペンが入っている。その事実だけで、少しだけ背筋が伸びる。


 会社へ戻れば、また係長だ。

 誰も私が今日、神保町のバックヤードで自分の新刊に名前を書いてきたことなど知らない。


 知らなくていい。


 でも、知らなくても、私は今日たしかにその時間を生きた。


 そのことが、たぶん今夜の原稿のどこかを少しだけ強くしてくれる。

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