第6話 若い同僚の何気ない一言
昼休みの社員食堂には、日によって独特の潮目がある。
みんな黙って飯だけ食って戻る日もあれば、妙に雑談が弾む日もある。忙しさや天気や、午前中に誰が何をやらかしたか、そんな些細なことが空気を決めるのだろう。その日の営業管理課の昼休みは、後者だった。
月末が近く、皆それなりに疲れている。
疲れている時ほど、人はどうでもいい話をしたがる。
私はトレーを持って食堂の端の席へ向かった。焼き魚定食。味噌汁、小鉢、冷奴。社食にしては悪くない。最近は胃が重くなるので、揚げ物は昼に避けることが増えた。若い頃は何でも平気だったのに、四十を超えてからは食べたものの結果がその日の午後にそのまま出る。
「係長、ここいいですか」
声をかけてきたのは三浦だった。すでに向かいに座る気満々の顔をしている。その後ろに本城もいて、軽く会釈をする。
「どうぞ」
私が言うと、三浦は唐揚げ定食、本城は日替わりの和風ハンバーグを持って座った。少し離れた席では榎本が営業部の誰かと話し込みながら食べている。食堂全体には、皿の当たる音、椅子を引く音、複数の会話が混じったざわつきが満ちていた。
私は箸を割り、焼き魚へ手を伸ばす。
昼休みくらいは静かに食べたい、という気持ちがゼロではない。
だが、係長という立場は絶妙に中途半端だ。若手と距離を取りすぎても感じが悪いし、だからといって毎回中心になって喋るほど社交的でもない。結局、こうして話しかけられたら断らない、くらいの位置に落ち着く。
「今日、午後の会議長そうですね」
本城が味噌汁の椀を持ちながら言う。
「長いだろうな」
「部長、月末近いと説明長くなりますよね」
「不安なんだろうな」
三浦が笑う。
「不安って言っちゃうんだ」
「言い方を変えれば、慎重ってことだよ」
「係長って、たまに上司にも容赦ないですよね」
「容赦ないんじゃなくて、年齢を重ねるといろいろ言い換えが上手くなるんだ」
「また年齢を武器にしてる」
「四十七の特権だ」
三浦がけらけら笑う。
本城も少しだけ口元をゆるめた。
こういう時間は、たぶん悪くない。
会社の人間関係というのは、会議室より食堂で決まることがある。業務時間内には見えない相手の間合いや、何を冗談として受け取るか、何に疲れているか。そういうものが、雑談の温度からじわじわ分かってくる。
だから私も、完全には避けない。
「そういえば」と三浦が急にスマホを見ながら言った。「妹がまた変なこと言ってたんですよ」
「変なことって?」
「いや、ラノベの新刊買うために学校帰りに本屋寄るのが、今月の楽しみなんだって」
私は箸を持つ手を、ほんの少しだけ緩めた。
ラノベ。
その単語が職場の会話に出てくるたび、私は無意識に体のどこかを固くする。もちろん、いまどき珍しい話題ではない。アニメもマンガもゲームも、以前よりずっと日常的な会話に乗るようになった。若い世代ならなおさらだ。
それでも、自分が当事者である話題を、当事者ではない顔で聞くというのは、何年経っても妙な緊張がある。
「妹さん、高校生でしたっけ」
本城が訊く。
「そうです。高二。なんか最近、図書室がどうとか、会話がいいとか、めっちゃ熱く語ってきて」
図書室。
会話。
私は焼き魚の身を丁寧にほぐしながら、視線を皿の上に落とした。いまのところ、世の中に図書室が舞台のライトノベルは私のシリーズだけではない。だが、胸の内側では勝手に警戒心が立ち上がる。
「へえ」と私はできるだけ平板に言った。「今はそういうのも人気なんだな」
「人気っていうか、妹の趣味かもしれないですけどね」
三浦はスマホの画面を指で弾きながら続ける。
「でも、あいつの話聞いてると、最近のラノベもいろいろあるんだなとは思います。俺のイメージって、もっとこう……なんていうんすかね。タイトル長くて、異世界行って、なんか最強で、みたいな」
「偏見だな」
本城が少しだけ苦笑した。
「いや、偏見っていうか、表から見えるのってそういうの多くないですか?」
「目立つものほど、そう見えるだけじゃないですか」
「本城さん詳しい?」
「詳しくはないです。でも、弟が読むので少しは」
「へえ、弟さんいるんですね」
「います」
その短いやり取りのあいだも、私は頭の中のどこかで妙な居心地の悪さを噛みしめていた。
最近のラノベもいろいろある。
たしかにその通りだ。
だが、その「いろいろ」の中の一冊を実際に書いている人間が、ここで焼き魚を食べながら曖昧に相槌を打っている。
滑稽だな、と少し思う。
滑稽だが、これが現実だ。
「でもさあ」と三浦が味噌汁をすすってから言った。「正直、作家ってすごい大変そうですよね」
私は顔を上げた。
彼の表情に悪意はない。ただの雑談だ。昼休みの、何気ない延長線上にある感想。
「楽しそうに見えるけど、実際は食えなさそうっていうか」
その言葉は、軽かった。
軽いからこそ、妙に胸へ入る。
「本出しても、そんな人生変わるもんじゃないんでしょ?」
私はその瞬間、味噌汁の湯気が少しだけ鬱陶しく感じた。
違う、と思う。
いや、間違ってもいない。
本を出しても人生は劇的には変わらない。
少なくとも私の場合はそうだった。
オリコンに入る週があっても、翌朝は満員電車に乗る。書店に平積みされても、会社では係長として会議資料を直す。売れていないわけではない。むしろありがたいくらいには売れている。けれど、生活の軸を丸ごと入れ替えるほどの何かには、まだ届いていない。
その現実を、本人ではない誰かに“食えなさそう”の一言で雑にまとめられると、少しだけ呼吸が浅くなる。
「どうなんでしょうね」
本城が答える。
彼女は慎重だ。知らないことを知ったふうには言わない。
「仕事って、外から見えるほど単純じゃないと思います」
「まあ、それはそうか」
三浦は気軽に頷く。
「なんか、好きなこと仕事にしても、結局しんどいじゃないですか。だったら普通に働いたほうが安定するし。夢あるようで、夢ないなって」
夢あるようで、夢ない。
私はその言葉に、ほとんど反射的に笑いそうになった。
あまりに本質に近いからだ。
だが同時に、その“近さ”が腹立たしくもあった。
近いのに軽い。
軽いのに、たしかに当たっている。
私は箸を置き、冷奴へ醤油を少しかけた。醤油の匂いが立つ。こういう時、目の前の食事の具体が妙にありがたい。人は何かに傷ついた時、味噌汁の塩気や豆腐の冷たさみたいな、小さな物理へ気持ちを逃がすしかないことがある。
「係長はどう思います?」
三浦が不意にこちらへ振った。
私は一瞬だけ答えを探した。
どう思うか。
その問いには、いくらでも本音がある。
食えないわけじゃない。
でも、食えるからといって自由になれるわけでもない。
夢がないわけじゃない。
でも、夢だけでは生活は回らない。
好きなことを仕事にするのは幸福だ。
でも、幸福と安定は別物だ。
そして、どちらか一方だけを持てる人間は、思っているほど多くない。
全部言えるなら、どれだけ楽だろう。
だが、私はここでそのどれも言えない。
職場ではただの係長だからだ。
「そうだな」
私は結局、いちばん無難なところへ着地させるしかなかった。
「楽しそうに見える仕事ほど、外からは見えない苦労があるんじゃないか」
「おー、深い」
三浦がすぐに笑う。
その反応に、私は少しだけ救われ、少しだけ虚しくなる。
深い、ではない。
それはただ、私の生活の一部だ。
「でも、係長ってそういうの妙に実感こもってますよね」
三浦は悪気なく続ける。
「なんか、前も思ったんですけど。言い方に妙なリアルさあるっていうか」
私は水を飲んだ。
喉が少し乾いていた。
「四十七歳は、だいたい何にでもそれっぽいことを言える年齢なんだよ」
「またそれ」
本城が小さく笑う。
私はそれに合わせて口元を上げたが、胸の奥にはざらついたものが残ったままだった。
◇
食後、私は一人で先に席を立った。
「もう戻るんですか」と三浦が訊く。
「少しだけ資料見たいのがある」
「真面目だなあ」
「係長だからな」
軽く手を上げてその場を離れる。背中越しに、まだ二人が何か話している声が聞こえた。内容までは分からない。分からないほうがいいのかもしれない。
食堂を出て、フロアへ戻る途中の廊下は少し涼しかった。空調が強いのか、昼休みの人の熱が食堂にだけ溜まっていたのか。その差が、体にちょうどよかった。
私は歩きながら、さっきの会話を反芻していた。
夢あるようで、夢ない。
作家って食えなさそう。
本を出しても、そんな人生変わるもんじゃないんでしょ。
若い人間の雑談として、どれも珍しいものではない。
むしろ、穏当なほうだ。露骨に馬鹿にしていたわけではない。ただ、自分の知らない世界を、自分なりの言葉で乱暴に要約しただけだ。
その程度のことだ。
その程度のことなのに、胸に引っかかる。
なぜだろう。
たぶん、相手が少しだけ正しいからだ。
もし完全な誤解なら、もっと簡単に腹を立てて済む。こっちは違うのに、と思える。だが、「夢あるようで夢ない」は、私のここ数年の実感にかなり近い。売れていないわけではない。読者もいる。けれど生活の実感としては、相変わらず会社員の時間に縛られている。幸福もある。誇りもある。だが、それだけで自由になったとは言えない。
だから刺さる。
若い同僚の軽い一言の中に、自分でも普段なるべく見ないようにしている現実が混ざっているからだ。
フロアへ戻ると、昼休みの後半らしい静けさがまだ残っていた。何人かは席へ戻っているが、電話はほとんど鳴っていない。私は自席へ座り、パソコンを開いた。社内メールの受信欄が更新される。午後の会議資料の修正版、物流からの確認、営業部からの問い合わせ。いつも通りだ。
いつも通りなのに、さっきの会話の残りかすが、胃のあたりにまだある。
私はそのままメールを処理しようとして、ふと手を止めた。
会社の画面ではなく、自分のスマホを見たくなる。
やめたほうがいいと分かっている。
こんな気持ちの時に読者の感想へ逃げるのは、たぶん健全ではない。
だが、私は結局ポケットからスマホを取り出し、机の下でこっそり通販サイトのレビュー欄を開いてしまった。
逃げだな、と思う。
それでも開く。
『このシリーズ、派手じゃないけど、登場人物がちゃんと生きてる感じがする』
『しんどい日に読むと、何気ない会話が妙に沁みる』
『大きな事件がなくても、人と人の距離が少し動くだけでこんなに面白いんだと思った』
私はその三行で、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
作家って食えなさそう。
夢あるようで夢ない。
そんな言葉に傷ついた直後に、見ず知らずの読者から「しんどい日に読むと沁みる」と言われる。
ずるい仕事だと思う。
ずるいし、やっぱりやめられない。
私はスマホを伏せ、深く一度だけ息を吐いた。
結局、私はこれをしている時の自分が好きなのだ。数字に振り回され、感想に一喜一憂し、若い同僚の雑談に傷つき、それでもレビュー欄の一文で少し持ち直す。情けない。だが、その情けなさごと、私はこの仕事を続けている。
◇
午後の仕事が始まると、気持ちは少しずつ現実へ引き戻された。
榎本が物流案件の続報を持ってきて、部長が四時からの確認ミーティングを急に三時半へ前倒しし、三浦は得意先への返信文でまた一箇所言い回しを迷っていた。
「係長、この“ご理解いただけますと幸いです”って弱いですかね」
彼がモニターをこちらへ向ける。
「相手次第だな。今回の先方なら“何卒ご確認のほどお願い申し上げます”くらいのほうが収まりはいい」
「やっぱそうか」
「“幸いです”は、こっちがお願いしてる感が強く出る。悪くはないけど、今回は条件確認だから、少しだけ事務的に寄せたほうがいい」
三浦が頷きながら打ち直していく。
私はその横顔を見ながら、昼の会話のことを思い出していた。
彼は悪くない。
悪気もなかった。
たぶん、彼の世代から見た“作家”や“ラノベ”の輪郭を、そのまま口にしただけだ。
だからこそ厄介だ。
誰も責められない。
むしろ、自分だって二十代の頃は、知らない仕事について似たようなことを平気で言っていたかもしれない。銀行員、教師、設計士、編集者。外から見えている部分だけで勝手に人生を想像し、分かったような顔をしたことは一度もないと言い切れない。
人は、他人の仕事を少し雑に語る。
そして、自分の仕事だけはもっと複雑だと思っている。
それが普通なのだろう。
それでも、実際にその雑に語られた仕事を生きている側にとっては、少しだけ痛い。
今日はそれを改めて知った。
「係長」
本城が資料を持ってきた。
「三時半の会議、これで大丈夫そうですか」
私は紙を受け取り、目を通した。
整理されている。無駄がない。彼女の資料は、読まれる前提で作られているのが分かる。
「大丈夫。助かる」
「よかったです」
彼女は少しだけ間を置いてから、控えめな声で言った。
「……さっき食堂での話、あんまり気にしないほうがいいですよ」
私は一瞬、彼女の顔を見た。
表情は静かだった。責めるでもなく、探るでもなく、ただ事実としてそこに言葉を置いた感じだった。
「何の話だ」
とぼけることもできた。
でも、そのとぼけ方は不自然になる気がした。
本城は困ったように笑う。
「三浦さん、悪気はないので」
「分かってるよ」
「はい」
「……気にしてるように見えたか」
本城は少しだけ考えてから答えた。
「少しだけ」
私は苦笑した。
やはり、思っているほど隠せていないのかもしれない。
「年を取ると、若い人の軽口がたまに刺さるんだよ」
半分は冗談のつもりで言うと、本城は首を横に振った。
「年齢の問題じゃないと思います」
「じゃあ何の問題だ」
「自分に近い話だからじゃないですか」
その言葉に、私は返事を失った。
近い話。
その通りだ。
近いどころか、私そのものだ。
だが彼女は、その“近さ”の意味までは知らないはずだ。ただ、私の反応から、何かしら個人的に引っかかる話題なのだろうと感じ取っただけなのだろう。
それでも、十分すぎるほど正しい。
「……かもしれないな」
私はそれだけ言った。
本城は軽く会釈して、自席へ戻っていく。去り際に余計な慰めを言わなかったのがありがたかった。大人同士の距離感というのは、結局そこに尽きる。触れるべきところに少しだけ触れて、あとは引く。その引き方に、相手への敬意が出る。
◇
その夜、帰宅して書斎へ入った時、私はいつもより長く原稿ファイルを開けなかった。
デスクライトを点ける。
パソコンを立ち上げる。
机の上を少し片づける。
そこまではいつもの流れだ。
だが、ファイルを開いたあとで手が止まる。
昼の食堂の光景が、何度も頭へ戻ってくるからだ。
三浦の「作家って食えなさそう」。
「夢あるようで夢ない」。
本城の「自分に近い話だからじゃないですか」。
どれも大した言葉ではない。
けれど、今日は妙に残っていた。
私は画面を見つめながら、ふと自分でも嫌になる。
こんなことくらいでいちいち引っかかるのか、と。
だが、引っかかるものは仕方ない。
人は、自分の本当の痛点を他人に偶然撫でられた時、びっくりするほど子供みたいに弱くなる。
私はキーボードへ指を置いた。
書こうとする。
だが、出てこない。
頭の中には言葉がある。
あるのに、それが原稿の流れに結びつかない。
昼に受けた小さな棘が、体のどこかに残ったままになっている。
画面の白さが、少しだけ責めるように見えた。
書けよ。
今日だって読者の感想を見ただろう。
打ち合わせだって前向きだった。
シリーズはちゃんと動いている。
何を止まっているんだ。
そういう自分の声が、いちばん厄介だ。
他人の批評より、よほど容赦がない。
私はいったん画面を閉じず、そのまま椅子にもたれた。天井を見る。静かだ。家族はもう寝ている。冷蔵庫の低い音。遠くで車が一台通る音。日中の食堂とは違う、音の少ない夜。
夜の静けさの中で、私はようやく認める。
傷ついたのだ。
少しだけ。
若い同僚に、知らない世界を雑に語られたことに。
そして、その雑さの中に、否定しきれない現実が混ざっていたことに。
私はため息をつき、机の上のメモ帳を引き寄せた。原稿が書けない時は、せめて断片だけでも残す。そうしないと、ただ嫌な気持ちだけが寝るまで続く。
ペンを取り、書く。
『好きなことを仕事にしても、生活は別に救ってくれない。けれど、救われないからといって、好きでなくなるわけでもない。』
書いて、しばらく見つめる。
うまくはない。
説明くさい。
でも、今夜の自分には必要な一文だった。
もう一行。
『若い人の何気ない言葉が痛いのは、それが間違っていないからだ。』
ここで、ようやく少しだけ息が整った。
原稿ファイルへ戻る。
直接は使えない。
だが、今夜の私はたぶん、こういう棘を抱えた人物を書けばいいのだろう。平気な顔をしているのに、何でもない会話の後で少しだけ心がざらつく人間。表面上は笑って流し、夜に一人でようやく傷の形を確かめる人間。
それなら、書けるかもしれない。
私はカーソルを点滅させたまま、ゆっくり一行目を打ち始めた。
昼休みの食堂で交わされた軽い雑談が、夜になって別の誰かの物語へ変わっていく。
そういう変換のために、私は結局、今日も机の前に戻ってきてしまうのだ。




