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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑書籍絶賛受付中


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5/12

第5話 打ち合わせは有休のふりで

有休を半日だけ取る時、私は毎回ほんの少しだけ後ろめたくなる。


 別に悪いことをするわけではない。会社の制度として認められている休暇を、必要に応じて使うだけだ。体調不良でもなく、家族の用事でもなく、役所へ行くでもない。ただ「私用」とだけ書いて、午前で上がる。そのこと自体は何も間違っていない。


 それでも、四十七年も日本の会社員として生きていると、勤務時間の外側へすっと抜ける行為には、どこか言い訳めいた心の準備が必要になる。


 まして今日は、その私用が編集との打ち合わせだ。


 会社の人間に説明できないもう一つの仕事のために、有休を使う。

 冷静に言葉にすると、少し奇妙だ。

 だが私の人生はもう十年以上、その少し奇妙な二重構造の上に成り立っている。


 午前十一時四十五分。私は自席で最後のメールを二本返し、午後の簡単な引き継ぎメモを榎本宛てに社内チャットへ流した。


『午後の先方折衝は一旦先方返答待ちです。急ぎ動きがあれば携帯にお願いします。部長への報告資料はフォルダ内最新版を参照してください』


 送信してから、画面を閉じる。

 会社員としての私の午前は、これでいったん終了だ。


「係長、今日は午後お休みでしたっけ」


 斜め向かいから三浦が顔を上げた。パソコン画面の前で少しだけ猫背になっている。昼前の彼は、午前中の慌ただしさをまだ肩に乗せたまま、しかし昼休みが近いせいかほんの少しだけ人間らしい気の緩みを顔に出す。


「ああ。私用でな」


「珍しいですね」


「たまには休まないと、四十七歳はもたない」


「また年齢を武器にする」


「若いうちは使えない便利な武器なんだよ」


「その武器、なんか地味っすね」


「地味な武器ほど会社では強い」


 三浦が笑う。

 本城はその横で、昼休みに入る前の書類整理をしながら、こちらへ軽く会釈した。


「おつかれさまです。午後の件、確認しておきます」


「助かる。急ぎあったら連絡して」


「はい。……あんまり無理しないでくださいね」


 その言い方が、少しだけ家で真由美に言われるのと似ていて、私は心の中だけで苦笑した。四十を過ぎると、いろんな場所で「無理しないで」と言われるようになる。ありがたい。だが、たいていの場合、その言葉は実行が難しい。


「努力はする」


 いつものようにそう返す。

 本城は「それ、しない人の返事に聞こえます」と小さく笑った。


「鋭いな」


「係長、そういうところは分かりやすいです」


 私はジャケットを羽織りながら、曖昧に笑ってごまかした。


 分かりやすい。

 その言葉は、ここ最近少しだけ胸に残る。


 会社ではなるべく“何を考えているか読みにくい人”でいたつもりだった。感情を出しすぎず、踏み込みすぎず、しかし冷たくは見せない。目立たず、けれど雑には扱われない位置を取る。それが長年の処世術だった。


 だが、毎日同じ場所で働いていれば、結局、人は人の癖を覚えてしまうのだろう。疲れている時の声の調子、何かを考えている時の目線、冗談に返す間合い。そういうものが少しずつ見えていく。


 隠しているつもりの自分も、思っているほど完全には隠れていないのかもしれない。


 そんなことを考えながら、私は営業管理課のフロアを出た。


     ◇


 エレベーターのドアが閉まると、会社の空気が一枚外れたような気がした。


 もちろん、急に自由になるわけではない。ジャケットのポケットには会社支給のスマホが入っているし、午後いっぱい完全に連絡を絶つつもりもない。何かあれば対応しなければならないし、そうでなくても私はたぶん、会社を出た瞬間に会社のことを忘れられる性格ではない。


 それでも、昼間の時間にスーツ姿で会社の外へ出るというだけで、少しだけ現実の輪郭が揺らぐ。


 ビルの自動ドアを抜ける。

 昼休みの街は、朝や夜の通勤時間帯とは別の顔をしていた。オフィス街の歩道には弁当を持った会社員や、スマホを見ながら足早に店へ向かう若手、打ち合わせ帰りらしいジャケット姿の二人組が行き交っている。誰もがそれぞれの会社用の顔をしたまま歩いていて、その中に自分も紛れている。


 けれど、行き先だけは少し違う。


 私は地下鉄へ乗り、出版社のある神保町方面へ向かった。車内の窓に映る自分は、どこからどう見ても普通の中年会社員だ。ネクタイ、黒い鞄、少し疲れた目元。たぶん誰も、この男がこれから自分の新刊の売れ行きについて担当編集と話しに行くとは思わないだろう。


 そのことに、私は少しだけ安心し、少しだけ寂しくもなる。


 会社に作家であることを隠している理由はいくつもある。


 説明が面倒だというのが、まず一つ。

 ライトノベルという言葉の響きに、相手が勝手なイメージを乗せてくるのが目に見えている、というのが一つ。

 妙に持ち上げられるのも、逆に軽く見られるのも嫌だ、というのが一つ。

 そして何より、「そんなに売れてるなら会社辞めればいいのに」と言われた時に、私はうまく笑える自信がない。


 辞められないのだ。

 オリコンに入ることはある。

 書店で平台に並ぶ。

 固定の読者もいる。

 ありがたいことに、シリーズを継続させてもらえる程度には売れている。


 それでも、専業作家になるには足りない。


 いや、足りないと言い切るのも少し違うのかもしれない。数字だけ見れば、飛び込めなくはない瞬間も、これまで一度もなかったわけではない。だが、数字は月によって揺れる。シリーズが終わればまたゼロに近い場所から始まる。家計、教育費、保険、将来への不安、親の老い、自分の体力。そういうものを全部ひっくるめた時、「よし、会社を辞めよう」と勢いだけで言えるほど、私はもう若くなかった。


 だから兼業なのだ。

 それは妥協かもしれないし、生存戦略かもしれない。

 たぶん、その両方だ。


 地下鉄が神保町へ着く。ホームへ降りると、古本とインクと埃が混じったような、あの街独特の空気がかすかに鼻に触れた。気のせいかもしれないが、私は昔から神保町に来ると少しだけ呼吸が深くなる。


 会社員の顔のまま地上へ出て、出版社までの道を歩く。古書店、カレー屋、喫茶店、予備校、雑居ビル。平日の午後なのに、街には本に関わる人間の気配がどこかしら漂っている。


 その中を歩く時だけは、私は少しだけ「こちら側」に近い気持ちになる。


     ◇


 打ち合わせ場所は、出版社の会議室ではなく、近くの喫茶店だった。


 編集部の会議室でもよかったのだが、高梨が「今日は社内が少し立て込んでいまして」と申し訳なさそうに言っていたので、店で落ち合うことになった。出版社の近くの、昔からよく使われている古い喫茶店。木のテーブルが少しだけ擦り減っていて、壁のメニュー表に昭和の名残がある。コーヒーは濃いが、酸味が少なくて飲みやすい。


 店へ入ると、奥の席で高梨がもう待っていた。三十代半ば、細身、眼鏡、紺のジャケット。編集者にしては髪がきちんと整っているほうだが、今日は少しだけ目の下に疲れが見えた。出版の人間は、会社員とは違う種類の寝不足をしている顔をしていることが多い。


「先生、すみません。お待たせしてしまって」


 高梨は立ち上がりかけたが、私は手で制した。


「いや、こっちもちょうどです」


「会社、抜けるの大丈夫でしたか」


「半休だから表向きは問題ないよ」


 表向きは、という言い方に、高梨が苦笑する。


 彼は私が会社に正体を隠していることを知っている。知っていて、必要以上にそこへ踏み込まない。担当編集としてはありがたい距離感だ。作家の家庭や仕事にズカズカ入り込む編集もいるが、高梨はそうではない。踏み込むべきところだけ踏み込み、あとは一歩引く。そのバランスに、私は何度も救われてきた。


 コーヒーを注文し、メニューを閉じると、高梨は鞄から数枚の資料を取り出した。売上推移、書店動向、販促の簡易メモ。紙の束として出されると、私はいつも少しだけ身構える。メールで送られてくる数字よりも、印刷された数字のほうが、なぜか現実味があるからだ。


「まず、改めてなんですが」


 高梨が資料の一枚目をこちらへ寄せる。


「今巻、かなりいい動きです。発売週の初速もそうなんですが、既刊の連れもちゃんと出てます。シリーズとしての定着が見えてきました」


 私は紙を見下ろした。


 たしかに悪くない。

 悪くないどころか、編集としては手応えがあると言っていい数字だろう。飛び抜けた大ヒットではない。世間を騒がせる桁でもない。だが、地味に長く読まれるタイプのシリーズとしては、十分に喜ぶべき位置にいる。


「ありがたいです」


 私がそう言うと、高梨は小さく頷いた。


「正直、一巻の時はここまで安定するか読み切れませんでした。でも、読者さんの感想を見ると、ちゃんと“このシリーズの読み方”が共有され始めてる感じがあるんですよね」


“このシリーズの読み方”。


 言われて、私は少しだけ胸の奥が熱くなった。

 朝、レビュー欄で似たようなことを感じていたからだ。


「派手さじゃなくて、会話の温度とか、最後に残る余韻とか。そこを楽しみにしてくださってる方が確実にいるので」


「……そうだといい」


「そうです」


 高梨ははっきり言った。


「もちろん、入口の広さはまだ課題です。もっと目立つフックがあったら、という話は営業からも出ます。でも、その一方で、ここまで来ると“このシリーズらしさ”を変えすぎるほうが危ないとも思ってます」


 私はその言葉を聞きながら、コーヒーカップへ手を伸ばした。少し熱い。だが、会社の給湯室で飲む紙コップのコーヒーとは違う熱さだった。


 らしさ。

 それは一度見つかると武器になる。

 同時に、自分を縛るものにもなる。


「で、次巻なんですが」


 高梨が話題を進める。

 やはりそこへ来る。売れている話は前振りでしかない。出版は、次へ繋がって初めて継続になる。


「この流れを切りたくないので、できれば少し前倒しで動きたいです。大きく変える必要はないと思ってるんですが、四巻で読者さんの満足感をもう一段上げたい」


「もう一段、か」


「はい。今までの良さを残しながら、少しだけ“先へ進んだ感じ”が欲しいです」


 私は資料から目を上げ、窓際の薄い光を見た。

 少しだけ“先へ進んだ感じ”。

 その注文は分かる。とても分かる。営業的にも、読者心理としても、それは正しい。シリーズが心地よい繰り返しだけになれば、どこかで飽きが来る。変えすぎれば既存読者が離れる。商業シリーズとは、その綱渡りの上にある。


「今の段階では、主人公側の踏み込みを少し強める方向で考えてます」


 私は昨夜書いたばかりの冒頭を思い出しながら言った。


「ただ、まだ会社が忙しくて、細かい組み立てはこれから」


 口にした途端、自分で少し嫌になる。

 言い訳めいているからだ。


 高梨はそれを察したのか、表情を柔らかくした。


「いえ、そこは分かってます。先生、本業ある中でここまでやっていただいてるの、こちらも本当にありがたいので」


「ありがたい、で済ませるにはだいぶ面倒をかけてる気もするけどな」


「面倒をかけてくださる作家さんじゃないと、シリーズって続かないんですよ」


 私は思わず笑ってしまった。


「それ、褒めてるのか?」


「半分は」


「半分か」


「もう半分は、ちゃんと現実です」


 その言い方が、高梨らしかった。

 過剰に持ち上げず、冷たすぎもしない。出版の現実を知っている人間の言葉だ。


 私は資料をもう一度見た。売上推移の折れ線。追加発注の店舗数。既刊の動き。全部、ありがたい数字だ。だが、これがそのまま「会社を辞められる」に変換されるわけではないことを、私はよく知っている。


 高梨も分かっている。

 だから彼は、私に「そろそろ専業でいけますね」などとは軽々しく言わない。


 その配慮に、私は何度も救われてきた。


     ◇


 打ち合わせは一時間半ほど続いた。


 次巻の方向性、カバーの雰囲気、販促文句の方向、発売タイミング。細かな話をしながら、私は途中で二度、会社支給スマホの画面をちらりと見た。幸い、緊急連絡は入っていなかった。だが、見てしまう時点で、私は完全にどちらか一方の人間にはなれない。


 高梨もそれに気づいているはずだが、何も言わなかった。


 話が一段落したところで、彼がふとカップを置きながら言った。


「先生、新刊、書店さんの現場でも評判悪くないです」


「現場?」


「はい。営業から共有きたんですけど、“地味だけどちゃんと動くシリーズ”って言われたみたいで」


 私はその表現に、少しだけ笑った。


「褒めてるのか、それは」


「すごく褒めてるやつです」


「地味だけど、か」


「でも、たぶん先生ご自身もそこは分かってますよね」


 分かっている。

 嫌になるくらい分かっている。


 派手ではない。

 映えるコンセプトでもない。

 誰もが飛びつく一行キャッチで勝負するタイプでもない。


 けれど、その“地味だけどちゃんと動く”ところに、私の人生はずっと救われてきたのだ。会社でもそうだし、書くものもそうだ。目立たなくても、ちゃんと必要とされる場所を持つこと。それがどれほど大事かを、私は若い頃より今のほうが知っている。


「……悪くないな、その言い方」


「ですよね」


「むしろ、四十七歳の身にはちょうどいい」


「四十七歳推し、最近強いですね」


「便利なんだよ、年齢は」


「会社でも言ってそうです」


「言ってる」


 高梨が声を出して笑った。

 その笑い方を見ていると、作家と編集の関係も結局は会話なのだと思う。数字とスケジュールと現実の間で、それでも少しは人間同士でいたいから、こういう雑談がある。


 その雑談の途中で、私はふと胸ポケットのスマホを確かめたくなった。

 会社からの通知はない。

 ないのに、落ち着かない。


 会社の椅子にいない時間は、どこかしら借り物めいている。

 たとえ制度上きちんと休みを取っていても、私はまだ完全には「昼の時間を自分のものにする」ことに慣れきれていない。


 専業作家になれたら、この落ち着かなさは消えるのだろうか。

 あるいは、別の種類の不安へ置き換わるだけなのだろうか。


 たぶん後者だろうな、と私は思う。

 人間は、立場が変わっても簡単には自由にならない。


     ◇


 店を出たあと、私は出版社へは寄らず、そのまま神保町の通りを少し歩いた。


 打ち合わせの直後というのは、不思議と頭の中が熱い。数字の感触も、次巻への注文も、営業の反応も、全部がまだ生々しく残っている。そういう時にすぐ満員電車へ乗ると、せっかくの熱が雑音に薄まってしまう気がして、私はたまに少しだけ遠回りをする。


 古書店の軒先を眺め、専門書の並ぶ棚をちらりと見て、喫茶店の看板をいくつかやり過ごす。会社員として歩く昼の街と、作家として歩く昼の街では、同じ景色なのに少しだけ色が違って見える。


 そして、気がつけば、私は書店の前に立っていた。


 大型書店の新刊コーナー。

 平日の午後で客はそこまで多くない。スーツ姿の会社員、大学生らしい若者、年配の男性、紙袋を提げた女性。誰もが自分のペースで棚の前を歩いている。


 私は少しだけ間を置いてから、ライトノベルの平台へ近づいた。


 あった。


 自分の新刊が、ちゃんとあった。

 平積みで、帯が見える向きで、何冊か並んでいる。


 しかも、朝会社へ行く途中にガラス越しで見た時より、少し減っているように見えた。気のせいかもしれない。平台の冊数など、店員が整理したタイミング次第でどうにでも見える。それでも、少し減っている気がするだけで胸の奥が熱くなるあたり、私はもうだいぶ救いようがない。


 手に取る。

 表紙の手触り。

 帯の紙質。

 背表紙のロゴ。

 見慣れているはずなのに、書店で見ると毎回少しだけ他人の本みたいだ。


 私は一冊だけ持ち上げて、すぐに戻した。

 自分で買うためではない。ただ、ここにあることを手で確かめたかった。


 誰にも気づかれていない。

 当然だ。

 スーツ姿の中年男が自分の新刊の前に立っていたところで、誰も「著者本人だ」とは思わない。


 その匿名性に安心する一方で、私は少しだけ寂しくもなる。


 作家という仕事は、名前だけが前へ出て、本人は案外どこにもいない。読者は本を読み、編集は数字を追い、営業は棚を見て、書店は売れ行きを見守る。その中心に自分の名前はあるのに、自分自身はただのスーツ姿の男としてそこに立っている。


 それが不思議で、少しおかしくて、でも嫌いではなかった。


 私は平台から離れようとして、ふと通路の向こうに文芸書の新刊棚が見えた。表紙の色味も、帯の言葉も、こちらとは違う。あちらにはあちらの世界があり、こちらにはこちらの世界がある。


 昔は、文学とエンタメ、純文学とライトノベル、その境界線を必要以上に気にしたこともあった。今はもう、あまり思わない。読者の時間を預かることの重さは、どの棚に並ぶ本でも変わらないと知ってしまったからだ。


 それでも、会社では私はその棚のどこにも属していない。

 会社ではただの係長でしかない。


 私はその事実を、いまは前ほど不幸だと思っていない。

 ただ、時々、妙に切なくはなる。


     ◇


 スマホが震えたのは、書店を出た直後だった。


 社用携帯だった。

 画面には榎本の名前が出ている。


 私は小さく息を吐き、通行人の邪魔にならない場所へ移動してから通話を取った。


「もしもし」


『佐伯さん、すみません。休みのところ』


「いいよ、どうした」


『例の午後便の件なんですが、先方の現場担当から“念のため文面で残してほしい”って話が来まして』


「分かった。ドラフト作ったか?」


『はい。メールで送ってるんで、一度だけ見てもらえますか』


「すぐ見る」


 通話を切る。

 私は神保町の歩道の端で、さっきまで自分の本を見ていた手で、今度は会社のメールを開いた。


 会社員と作家。

 その二つの人生は、今日もきれいに時間で分かれてはくれない。


 榎本のドラフトは悪くなかった。だが一箇所だけ、先方の心理を考えると強すぎる表現がある。私は立ったまま数行だけ修正案を打ち返した。


『“ご迷惑をおかけしております”は入れたほうがいい。“影響はございません”より“現時点で大きな影響は見込んでおりません”のほうが無難』


 送信して、画面を閉じる。


 神保町の空は、いつの間にか少しだけ曇っていた。

 喫茶店で聞いた次巻の話、書店の平台、会社のトラブル対応。全部が同じ午後の中にある。


 私はそこで、自分が少しだけ笑っているのに気づいた。


 忙しい。

 面倒だ。

 落ち着かない。

 それでも、たぶん私はこういう日を嫌いになれない。


 会社を抜け出して編集と数字の話をし、書店で自分の本を見て、その直後に会社の文面修正を返す。

 こんな継ぎはぎみたいな生き方は、スマートではない。

 けれど、いまの私の現実としては妙にしっくり来る。


 専業作家になれなかったのではない。

 まだ会社員でもあるのだ。


 そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが楽になる。


     ◇


 帰りの電車の中で、私は今日の打ち合わせメモを見返していた。


 次巻は、少しだけ先へ進んだ感じ。

 シリーズのらしさは残す。

 入口は少し広く。

 読者の満足感をもう一段。


 言葉にすれば簡単だ。

 実際に原稿へ落とすのは、簡単ではない。


 だが、会社の仕事だって同じだろう。

 客先対応、条件調整、現実的な落としどころ。どれも言葉は簡単だが、実際には細かい人間の気分や都合や立場の上に成り立っている。


 結局、どちらも会話なのだ。

 人の気持ちがどこで動くかを読むこと。

 相手が何を恐れ、何を欲し、どこで引くかを考えること。

 そして、その上で必要な言葉を置くこと。


 私は窓ガラスに映る自分を見た。

 会社の帰りみたいな顔をしている。

 実際には半休を取っていたのだが、そんなことは他人には分からないだろう。スーツ姿の中年男の顔など、夕方の電車の中ではどれも似たように見える。


 それでいい。

 それでいいのだが、胸の奥にだけ、喫茶店で聞いた高梨の言葉が残っている。


“このシリーズの読み方が共有され始めてる感じがある”

“地味だけどちゃんと動くシリーズ”


 ありがたい。

 本当にありがたい。


 私はその言葉を、家へ帰ったらメモしておこうと思った。忘れたくない。会社の会議資料や先方対応の文面と同じように、こういう言葉もまた、夜の原稿のどこかを支えてくれるからだ。


 窓の外に流れる街の明かりを見ながら、私は静かに思った。


 打ち合わせは有休のふりで行った。

 会社にはただの私用としか書いていない。

 誰も知らない。


 だが、知られていないからこそ守れているものもある。

 そして、その秘密を抱えたままでも、私は今日たしかに自分の本の次の話を前へ進めた。


 それで十分だとは言えない。

 けれど、ゼロではない。


 四十七歳にもなると、人生は「完璧に叶うか」「完全に諦めるか」の二択ではなくなる。少し足りない形で続けること、少し無理をしながら守ること、その中で何とか手放さずに済んだものを、自分なりの成果として数えるしかない。


 私は胸ポケットのスマホを軽く押さえた。

 そこには会社の通知も、編集とのメッセージも、読者の感想も、全部が入っている。


 重たい。

 でも、この重さごと、いまの私なのだ。

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