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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第17話 終わるシリーズ、始まらない次

シリーズが終わるかもしれない、という話は、終わりかけてから出るものではない。


 むしろ逆だ。

 ちゃんと動いている時にこそ、静かにその気配は差し込んでくる。


 私はそれを、作家になってから何度も経験してきた。一巻で終わったものもある。三巻まで伸びたものもある。思っていたより長く続いたシリーズもあれば、まだ書けると思っていたのに、営業の会議で静かに終わりが決まったものもある。


 だから、分かっていたはずだった。


 いまのシリーズが順調に見えることと、それが永遠に続くことは、まったく別の話だと。


 それでも、その話を実際に担当編集の口から聞く時、人はやはり少しだけ呼吸を整えなければならないらしい。


     ◇


 その日の打ち合わせは、珍しく出版社の会議室だった。


 神保町の雑居ビルの三階。エレベーターを降りると、少しだけ乾いた紙の匂いがする。受付の奥には本棚があり、最近出た新刊や既刊見本が背を揃えて並んでいる。文芸、ライト文芸、ビジネス、実用、ライトノベル。部署ごとに棚は分かれているが、同じ会社の中でそれぞれが違う速度で売れ、違う速度で忘れられていくのだろうと思うと、その整然とした背表紙の列は時々ひどく無言に見える。


 高梨は会議室の奥で、すでに資料を広げていた。


「すみません、今日は社内のほうが都合よくて」


「いや、こっちも大丈夫です」


 私はそう言いながら席に着いた。会議室のテーブルは白く、少しだけ傷が目立つ。誰かが何度もノートパソコンを開き、企画書を並べ、売上表を見てきた場所なのだろう。喫茶店の木目と違って、ここには“仕事の話しかしません”という固さがある。


 高梨は三十代半ば。細身で、眼鏡の奥の目はいつも少しだけ眠そうだが、打ち合わせになると声の輪郭がくっきりするタイプの編集だ。無理に熱くはならないし、必要以上に夢も見せない。そのぶん、口にする言葉にはたいてい現実の裏打ちがある。


 私はその現実味に、これまで何度も助けられてきたし、時々少しだけ傷ついてもきた。


「まず、今巻の数字からなんですが」


 高梨はいつも通り、そこから入った。


 売上推移。

 店頭の動き。

 既刊の連れ。

 追加発注の数。

 通販サイトの初速。

 営業からのざっくりした反応。


 資料の数字は悪くない。

 いや、悪くないどころではない。会議室へ来る前から薄々分かってはいたが、やはり今巻はシリーズとしてかなりいい位置にいる。派手な爆発ではない。ニュースになるような大ヒットでもない。だが、地味に長く読まれるシリーズとしては十分に胸を張っていい数字だった。


「今回、かなり安定してます」


 高梨がそう言った。


「一巻から追ってくださってる読者さんもいるし、途中から入ってくださった方も今巻でさらに定着してる感じです」


「ありがたいな」


 それは本音だった。


 ありがたい。

 本当にそう思う。

 書店で平台に並び、レビュー欄に会話の感想がつき、会社の共有スペースに誰かが持ち込んでいたかもしれない私の新刊。そういう小さな事実の一つ一つが、ここ数週間の私をじわじわ支えている。


 会社ではただの係長で、夜に机へ戻るときだけ作家の名前が少し体温を持つ。

 その細い橋を、今巻の数字はたしかに強くしてくれていた。


「で」


 高梨がそこで、紙を一枚めくった。


 私はその“で”の温度を聞いた瞬間に、次の話が来るのだと分かった。


 作家と編集の打ち合わせでは、売上の確認は前置きにすぎない。

 本題はいつだって、その先だ。


「もちろん、このシリーズはまだちゃんと動かしていきたいです」


 高梨はまずそう言った。

 その順番はありがたかった。先に“まだ続けたい”を置いてくれるのは、編集の優しさでもあり、現実の整理でもある。


「ただ、同時に」


 彼は少しだけ言葉を選んだ。


「そろそろ次の柱になりそうな企画も、少しずつ考えていけるといいなと思ってます」


 私は、そこで初めてコーヒーカップへ手を伸ばした。

 まだ一口しか飲んでいないのに、少しぬるくなりかけている。


 そろそろ。

 次の柱。

 少しずつ。


 どれも柔らかい言葉だ。

 柔らかいが、中身ははっきりしている。


 このシリーズは順調だ。

 けれど、永遠ではない。

 だから、今のうちから次を考えましょう。


 たったそれだけのことだ。

 分かっていたことだ。

 それなのに、胸の奥へ落ちる時には思った以上に重たかった。


「……そうだな」


 私はそう答えた。

 それしか言えなかった。


 高梨は私の顔色を見たのか、少しだけ笑って言った。


「終わりが近い、という意味ではないです」


「わかってるよ」


「ただ、シリーズって、調子がいい時に次を考え始めるくらいじゃないと、逆に間に合わないんですよね」


「それもわかる」


 わかる。

 嫌になるくらい、わかる。


 シリーズが傾いてから次を考えても遅いのだ。営業も書店も読者も、今動いているものに期待しながら、同時に“その次に何を出せる人なのか”を見ている。商業で書き続けるというのは、今の一冊だけで勝負できることではない。つねに一歩先の企画が影のようについてくる。


 若い頃の私は、それがひどく嫌だった。


 一冊ずつ丁寧に向き合いたいのに、どうしてまだ終わっていないうちから次を考えなければいけないのか。目の前の物語に集中させてくれ、と何度も思った。


 だが今は、その理屈自体はよく分かる。

 分かるし、編集にそう言われる前から、自分でも少しずつ考え始めていた。


 問題は、考え始めていたのに、まだ何も掴めていないことだ。


     ◇


「いくつか、断片的にはあるんですけど」


 私はカバンから小さなメモ帳を取り出した。

 いつも持ち歩いている黒い表紙のやつだ。電車の中でも会社の昼休みでも、何か浮かんだら書きつける。タイトルだけ、設定だけ、ワンシーンだけ。そうやって溜まっていった断片が、机の引き出しにも、ノートパソコンの中にも、もう何年分もある。


「仕事もの寄りの話が一つ。少し年齢高めの男女の群像。あとは、現代が舞台だけど、もう少しだけ非日常を足した案とか」


「見せてもらってもいいですか」


 私はメモ帳を開き、整理しきれていないページをいくつかめくった。

 高梨へ見せるには、どれもまだ形になっていない。だが、形になっていないものを見せるしかない段階もある。


 私は三つほど、比較的まとまりのある案を口頭で説明した。


 一つ目は、地方都市の小さな書店を舞台にした、再会と居場所の話。

 二つ目は、四十代の会社員男女が、誰にも言えない副業の文芸活動を通じて少しずつ言葉を交わしていく話。

 三つ目は、現代のごく普通の街に、ほんの少しだけ奇妙なルールを持ち込む群像劇。


 高梨は黙って聞いていた。

 相槌は少ない。

 私は彼がこういう時、頭の中で「読める」「売れる」「続く」「書きやすい」「先生らしい」の線を一気に引いているのを知っている。


 説明し終えたあと、会議室にはほんの少しだけ静かな間が落ちた。


「どれも、先生らしさはあります」


 高梨が最初にそう言った。


 私はそこで、少しだけ息を止めた。

 “先生らしさはあります”の次に来る言葉が、たいてい本題だからだ。


「ただ」


 やはり来る。


「まだ決め手が弱い気はします」


 私は苦笑した。

 真正面から来たな、と思う。


「そうだろうな」


「悪くないんです。本当に。でも、“これだ”って押し切る熱が、まだちょっと薄いというか……」


 高梨はそこまで言って、言葉を探すように指先で紙の端をなぞった。


「今のシリーズを読んでくださってる方が“次もこれ読みたい”ってなるものかというと、もう一押し欲しい感じです」


 会議室の時計が小さく音を立てた。

 秒針の音が、妙に近く聞こえる。


 もう一押し。

 決め手が弱い。

 熱が薄い。


 それは全部、私が自分でも薄々分かっていたことだった。

 だからこそ、編集の口からきれいな日本語として言われると、少しだけきつい。


「安全運転すぎる感じがしますか」


 私は自分でそう口にしてから、少しだけ嫌になる。

 自分で先に言ってしまうのは、防御だ。


 高梨は首を傾げた。


「安全運転、というより……そうですね。失敗しない方向へ整えすぎてる感じは少しあります」


 その言葉は、想像していた以上に胸へ入った。


 失敗しない方向へ整えすぎてる。


 ああ、たぶんそうなのだ。

 私は最近、新シリーズを考える時に、“これで大外しはしないだろう”という案へ無意識に寄っていた。今の読者が離れないこと。営業が極端に困らないこと。編集が企画会議で説明しやすいこと。自分が会社と両立しながらでも書き切れそうなこと。


 その全部を考えた結果、案はどれも少しずつ無難になっていたのかもしれない。


 無難。

 それは会社員としては大切な技術だ。

 だが、小説の企画としては、時々いちばん弱い。


「先生」


 高梨が言った。


「たぶん今、失敗しない企画を考えすぎてます」


 私はその言葉を聞きながら、視線を少しだけ落とした。


 会議室の白いテーブル。

 置きっぱなしの資料。

 冷めかけたコーヒー。

 会社の昼休みに慌てて整えたネクタイの結び目。


 失敗しない企画。

 たしかにそれは、四十七歳の会社員兼作家である私がもっとも考えそうなことだった。


 仕事でも、家庭でも、もう大きく外せない。

 だから創作でも、無意識にその身体感覚を持ち込んでしまう。


 だが、賞を取る話や、新シリーズとして強く立ち上がる話は、たいてい少しだけ危うい。どこかに偏りがあり、削り切れていない熱があり、きれいではないまま強く立っている。


 私はそれを知っている。

 知っているのに、そこへ行き切れない。


 高梨は、私がすぐには何も返さないのを見て、少しだけ声をやわらげた。


「もちろん、今の先生の強みはそこじゃない、って見方もできます。整ってるから読めるし、会話の温度がちゃんとあるから続いてる。だから否定したいわけじゃないんです」


「わかってる」


 私はそう答えた。


「わかってるよ。たぶん、痛いところをちゃんと突かれただけだ」


 高梨が少しだけ笑った。


「それならよかったです」


「よくはないだろ」


「でも、ズレたこと言ってるよりはマシです」


「それはそうだ」


 私はようやくコーヒーを飲んだ。

 少しぬるい。

 だが、さっきよりは飲みやすかった。


     ◇


 打ち合わせはそのあとも続いた。


 今のシリーズの次巻について。

 販促のタイミング。

 書店側の反応。

 ここまではどの層が読んでくれているか。

 そして、もし次の企画を動かすなら、どれくらいの時期感が現実的か。


 実務の話をしているうちに、さっきの痛みも少しずつ現実の中へ溶けていく。

 ありがたいことだと思う。

 編集との打ち合わせは、時々こちらの傷口をきれいに見せるが、そのあと必ずガーゼも置いていってくれる。


「急がなくていいです」


 帰り際、高梨がそう言った。


「ただ、先生の中で“これは少し危ないけど、やってみたい”って思える案が出てきたら、一回見せてください」


 私は鞄の持ち手を握りながら、少しだけ考えた。


 危ないけど、やってみたい。


 その感覚を、私はしばらく忘れていた気がする。

 会社では危ないことは基本的に避けるべきだ。家庭でもそうだ。人生設計としても、なるべく大きく外さないことのほうが重要になってくる。


 だからこそ、創作の中でまで安全運転ばかりしていたのかもしれない。


「わかった」


 私はそう言った。


「少し掘り返してみる」


「お願いします」


 会議室を出て、エレベーターへ向かう。

 社内の廊下を歩きながら、私はさっきの言葉を繰り返していた。


 終わるシリーズ。

 始まらない次。

 失敗しない企画。

 危ないけど、やってみたい案。


 胸の奥に、少しだけ重いものがある。

 でも、それはただ嫌な重さではなかった。刺さってはいるが、死んではいない。むしろ、久しぶりにきちんと自分の創作の痛点へ触られた感じがする。


 ありがたいことなのだろう。

 痛いけれど。


     ◇


 帰りの電車の中で、私はスマホを開かなかった。


 ランキングも、レビューも、今日は見ないことにした。見ればたぶん元気は出る。出るだろう。だが今日は、その元気で高梨の指摘を薄めたくなかった。


 失敗しない方向へ整えすぎてる。


 あの言葉を、今日はちゃんと痛いまま持ち帰りたかった。


 電車の窓に映る自分は、相変わらずくたびれた中年会社員だった。ネクタイは少し緩み、目元には打ち合わせ帰りの疲れがある。どこから見ても、神保町の出版社で新シリーズの企画を相談してきた人間には見えない。


 それでいい。

 でも、それだけではない。


 私は胸ポケットのスマホに手を当てた。

 その中には会社の連絡先も、高梨とのメッセージも、読者の感想も、全部入っている。


 売れている今のシリーズがあり、次の企画がまだ決まらず、会社は相変わらず忙しく、家に帰れば食卓があり、夜にはまた机に向かう。


 その全部をまとめて、いまの私なのだ。


 四十七歳。

 現役ラノベ作家。

 オリコンランカー。

 でも生活はまだ会社員のまま。


 その肩書きの“でも”の部分が、今日はいつもより少しだけ重い。

 だが同時に、その“でも”があるからこそ、私は無難な企画へ逃げたのだとも分かる。


 だったら、次は少し違うところへ手を伸ばさなければならないのかもしれない。


     ◇


 夜、書斎へ入ると、私はいつもより長く企画フォルダを見つめていた。


 ノートパソコンのデスクトップに並ぶフォルダの一つ。

 名前はシンプルに『次回作候補』。

 その中には、いくつものファイルが眠っている。タイトルだけのもの、冒頭三ページで止まったもの、設定だけが妙に細かいもの、あらすじだけはそれっぽいのに会話がまるで立ち上がらなかったもの。


 企画書フォルダの墓場。

 そんな言い方が、頭をよぎる。


 どれも一度は“いけるかもしれない”と思ったのだ。

 夜中に手帳へ書きつけ、通勤電車で構成を考え、昼休みにタイトル案を並べた。そうやって少しずつ集めた断片たちだ。

 そのどれもが最終的には決め手を欠いたまま、いまここにいる。


 私はゆっくりとフォルダを開いた。


 ファイル名の列。

 日付。

 仮タイトル。

 短いメモ。


 その一つ一つを見ながら、高梨の言葉がもう一度胸へ戻ってくる。


 失敗しない企画を考えすぎてます。


 たぶん、その通りだ。


 私は一つのファイルを開いては閉じ、次を見て、また閉じた。どれも悪くない。悪くないが、どれも少しだけ「うまくまとまりそう」に見える。それが今夜は、少しだけつまらなく感じた。


 もっと危ないものはなかったか。

 昔の自分が、一瞬だけ熱に任せて書きかけて、翌朝見て怖くなって閉じたような案は。


 私はフォルダの下のほうへスクロールした。

 日付の古いファイルが並ぶ。

 五年前。

 七年前。

 十年近く前のものまである。


 その中に、一つだけ、名前を見た瞬間に指が止まるファイルがあった。


『未整理_やりすぎ案』


 自分でそんな名前をつけていたのか、と少しだけ笑う。

 でも、今夜の私には、その無造作さが妙に頼もしく見えた。


 私はそのファイルを開いた。


 画面の中には、粗く、勢いだけで書いたような設定と、妙に強い一行目が残っていた。

 うまくない。

 整っていない。

 でも、少なくとも“失敗しない”方向へ整えてはいない。


 私はしばらく、その古いファイルを見つめたまま動かなかった。


 終わるシリーズ。

 始まらない次。


 そのあいだにいる今の私へ、昔の私が少しだけ乱暴に手を振っている気がした

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