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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第16話 書き続けるための一章

 本城に「私、その人の新刊、毎回買ってます」と言われた昨夜から、私はずっと少しだけ落ち着かなかった。


 落ち着かないと言っても、眠れないほどではない。食事は食べられたし、風呂にも入ったし、家族との会話も、たぶんいつも通りにこなした。真由美が「今日は少し静かだね」と言った時も、「仕事で頭が詰まってるだけ」と曖昧に返せた。結衣がテレビを見ながら「お父さんその“だけ”は絶対だけじゃない顔」と突っ込んできても、私は一応笑えた。


 だから表面上は、たいした乱れではなかったと思う。


 でも、内側は違った。


 本城は、私のペンネームを口にした。

 正確には作品名ではなく、作家名のほうだった。

 偶然そこへ辿り着いた読者の調子ではなく、前から読んでいる人間の言い方で。

 しかも「買ってます」と言った。

 借りてますでも、弟が読んでますでもなく、自分で買ってます、と。


 私はその瞬間、何と返したのだったか。


 たしか、

「そうなんだ」

 だとか、

「へえ」

 だとか、

 その程度の、何の意味も持たない返事しかできなかったはずだ。


 もっと自然に流せたのではないか。

 もっと露骨に動揺を隠せたのではないか。

 あるいは逆に、もっと人間らしく驚いてもよかったのではないか。


 寝る前に一度だけ、その場面を頭の中でやり直してみた。

 やり直してみても、結局どの返しもしっくりこなかった。


 たぶん、どんな返事をしても少しは不自然だったのだと思う。


 なぜなら私は、嬉しかったからだ。

 そして同じくらい、怖かったからだ。


 嬉しいと怖いが同じ重さで胸に来る時、人はたいてい上手く喋れない。


     ◇


 翌朝、通勤電車の窓に映った自分の顔は、少しだけ眠そうだった。


 目の下に薄く影がある。

 昨夜は一応、机へ向かった。だが原稿はあまり進んでいない。進まなかったというより、進める気持ちが妙に落ち着かなかったのだ。本城の一言が、仕事のこととも、創作のこととも、うまく分けられないまま頭の中へ残っていたせいだろう。


 会社の誰かが読者かもしれない。

 その予感だけで揺れていた頃とは違う。


 もう“かもしれない”ではない。

 少なくとも一人は、読者として私のすぐ近くにいた。


 それを知ったいま、私の会社員としての顔は昨日までと同じでいられるのだろうか。


 大げさだ、と自分でも思う。

 別に正体がばれたわけではない。

 本城は、係長とその作家が同一人物だと確信している様子ではなかった。少なくとも、あの場ではそう見えた。ただ好きな作家の名前を口にしただけで、そこに探る意図や、突きつけるような温度はなかった。


 それでも、境界線は少しだけ動いた。

 私の中で。


 これまで私は、職場では“ただの係長”でいられると思っていた。実際にはいつもそうだった。会社の人間は私を仕事の文脈でしか見ないし、私はそれを望んでいた。そうやって二つの生活を無理やり平行に走らせてきた。


 けれど、もう完全に平行ではいられない。

 少なくとも、そう思っている自分がいる。


 私は電車の揺れに合わせて、つり革を少し持ち直した。

 揺れる。

 それでも電車はちゃんと前へ進む。


 たぶん、いまの私に必要なのもそれなのだろう。

 揺れることを止めることではなく、揺れたまま前へ行くこと。


     ◇


 会社に着くと、営業管理課の朝はいつも通り始まっていた。


 榎本がすでに営業部とチャットでやり合っていて、三浦は早い時間の客先電話に備えてメモを確認し、本城は共有フォルダの資料を順に開いていた。


 その光景を見た瞬間、私は少しだけ救われる。

 世界は昨日の一言で急にドラマチックには変わらない。

 朝の会社は、相変わらず朝の会社の顔をしている。


「おはようございます」


 本城が顔を上げた。

 声はいつも通りだった。


「おはよう」


 私も、できるだけいつも通りの声で返す。


 その一秒で、私は少しだけ分かった。

 たぶん今日一日の鍵は、“いつも通りを壊さないこと”ではない。

 “いつも通りの中に、昨日知ったことを静かに置いておくこと”なのだ。


「係長、昨日の先方返信、朝イチで返ってきてます」


 榎本が言う。


「条件整理で一旦了承です。ただし、次回打ち合わせで数字の根拠もう少し詰めたいそうです」


「分かった。じゃあ午前中にドラフトだけ作っておこう」


「了解です」


 三浦がこちらを見た。


「係長、俺、十時の電話の前に一回だけ文面見てもらっていいですか」


「いいよ」


「助かります」


 いつもの朝だ。

 本当に、拍子抜けするくらいいつも通りだ。


 でも、その“いつも通り”の中に、昨日とは少し違うものが一つだけある。

 本城が読者だという事実。

 そして、私はそれを知っているという事実。


 それだけで、職場の空気の見え方が少し変わる。


 たとえば本城が資料を揃える手つき。

 たとえば三浦が迷った語尾をこちらへ持ってくる時の間。

 たとえば榎本が数字の現実に息を吐くタイミング。


 私はそのどれもを、前より少しだけ丁寧に見るようになっていた。

 この人たちは、私の昼の同僚であると同時に、もしかすると私の夜の言葉へ触れる側の人間でもあるのだと思うと、雑には見られなくなる。


 いや、これまでも雑に見ていたわけではない。

 ただ、見え方の焦点距離が少し変わったのだ。


     ◇


 午前の仕事は案外スムーズに進んだ。


 三浦の文面は前よりずっと安定していて、私は二箇所だけ言い回しを柔らかくした。本城の会議メモは相変わらず整っていて、補足は一行で済んだ。榎本は営業部の希望値をきちんと現実へ戻してきた。


 だから、十時半を過ぎた頃には、私は不思議なくらい静かな気持ちになっていた。


 昨日のことを引きずっているのは確かだ。

 でも、その引きずり方が少し変わっている。


 怖さが消えたわけではない。

 ただ、怖さだけではなくなった。


 私はそれを、共有スペースで一人コーヒーを飲みながら考えていた。今日はあのテーブルの上に本はない。紙コップも、付箋もない。給湯器の低い音と、自販機の小さな作動音だけがある。


 あの本を置いたのが本城だったのかは、まだ分からない。

 もしかすると違うかもしれない。

 付箋のメモを書いたのも彼女ではない可能性がある。

 でも、もうそういう細かな特定は少しどうでもよくなり始めていた。


 大事なのは、近くに読者がいたということだ。

 しかもそれは、会社員としての私と同じ空気を吸い、同じ時間割の中で働いている人間だった。


 私はコーヒーを一口飲んだ。

 少し苦い。

 でも、今日はその苦さがちょうどいい。


「係長」


 後ろから声がして振り返ると、本城だった。

 マグカップを持っている。


「ここ、いいですか」


「どうぞ」


 彼女は向かいではなく、少し斜めの席に座った。

 その距離感もまた、らしいと思う。


「午前、落ち着いてましたね」


「今日はな」


「こういう日が続くといいんですけど」


「続かないから仕事なんだろうな」


 本城が少し笑う。


「係長、その言い方好きですね」


「どの言い方だよ」


「ちょっと諦めてるようで、でも投げてない感じの」


 私は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく笑った。


「褒めてるのか、それ」


「たぶん」


「たぶん、か」


「はっきり褒めるの、ちょっと照れるので」


 その返しに、私は胸のどこかが少しだけほどけるのを感じた。

 読者だからとか、正体がどうとか、そういう話ではない。ただ、この人とはこういう会話の間合いでいられるのだ、ということが少し嬉しかった。


 それで十分なのかもしれない。


 作者として名乗る必要もなく、

 係長として隠し通すことに怯えすぎる必要もなく、

 ただ同じ職場で働く二人として、こうして言葉を交わせる。


 秘密を抱えたままでも、人間関係は案外ちゃんと続いていく。


「昨日の話ですけど」


 本城が静かに言った。

 私はほんの少しだけ身構える。

 だが彼女は、思ったよりあっさりと続けた。


「好きな作家の新刊が出た週って、ちょっとだけ仕事頑張れますよね」


 私はその言葉に、しばらく何も返せなかった。


 あまりにも、まっすぐだったからだ。

 探ってもいない。

 試してもいない。

 ただ、自分の感覚をそのまま言っただけの声だった。


「……そうかもしれないな」


 私はようやくそう言った。


「私は、そうです」


 本城はマグカップの縁を見ながら言う。


「別に仕事が急に楽しくなるわけじゃないんですけど、でも、帰ったら続き読もうとか、次巻どうなるんだろうとか、そういうのが一つあるだけで、少し違うので」


 私はその横顔を見ていた。

 作者としては、こんなにうれしいことはない。

 それなのに私は、ここで「ありがとうございます」と言えない。


 言えないけれど、たぶんそれでいい。


 大げさな確認や告白より、こういう小さな共有のほうが長く残ることを、私はずっと書いてきたのだから。


「それなら、いいな」


 私はそれだけ返した。


 本城は少しだけ笑った。

「はい」


 それで会話は終わった。


 終わったが、その短いやり取りは、今週のどのレビューよりも、どの売上報告よりも、私の中へ深く残った気がした。


     ◇


 夜、書斎へ入る頃には、私は妙に静かな気持ちになっていた。


 何かが解決したわけではない。

 会社へ正体を明かしたわけでもないし、専業になれる目処が立ったわけでもない。新刊の動きがこのままずっと続く保証もない。月末の現実は相変わらずそこにあり、家計簿の数字も、健康診断の紙も、会社の予定表も、何ひとつ消えていない。


 それでも、昨日までとは少し違う。


 職場の誰かが自分の本を読んでいる。

 その事実が、もう“足場を失う怖さ”だけではなくなっている。

 むしろ、自分がまだ書いていていい理由の一つみたいに感じ始めていた。


 私は机に座り、メモ帳を開いた。


『秘密は消えていない。けれど、秘密があるままでも、人と穏やかに言葉を交わせる。』


 打つ。

 続ける。


『名乗れないことが、必ずしも嘘になるわけではない。名乗らないまま受け取れるものもある。』


 そこまで書いて、私は少しだけ笑った。

 若い頃の私なら、もっと決着を求めただろうと思う。ばれるのか、ばれないのか。会社を辞めるのか、辞めないのか。作家として生きるのか、会社員として埋もれるのか。


 だが、四十七歳の今の私は、そういう二択よりも“その途中のまま生きる”ことのほうがずっと現実に近いと知っている。


 名乗れない。

 でも届いている。

 隠している。

 でも、書いた言葉はちゃんと誰かの仕事帰りを少しだけ支えている。


 それなら、書き続ける理由としては十分だ。


 私は原稿ファイルを開いた。

 カーソルが点滅している。

 もう、その白さは昨夜までのように責める顔をしていなかった。


 私は一行目を打つ。


『彼は、秘密が消えたから前へ進めるのではなく、秘密を抱えたままでも人と笑い合えると知ったから、もう一度だけ机へ戻れた。』


 少しだけ考え、さらに続ける。


『生活は何も解決していない。会社も辞められないし、明日の朝も満員電車だ。それでも、自分の書いたものが誰かの一週間のどこかにちゃんと居場所を持っているなら、まだ書く意味はあるのだと思えた。』


 打ち終えた時、私は静かに息を吐いた。


 これだ、と思う。

 少なくとも、今夜の私にはこれがいちばん近い。


 私はまだ会社員だ。

 たぶんしばらくはそうだろう。

 作家であることも隠したままだ。

 それも、急には変わらない。


 でも、その変わらなさは、もう完全な停滞ではない。

 変わらないままでも、人との距離の見え方は変わる。

 変わらないままでも、自分の書く意味は少しずつ更新される。


 四十七歳の人生なんて、たぶんそういうものだ。


 私はキーボードへ指を戻し、そのまま次の一行へ進んだ。


 書き続けるための一章。

 それはたぶん、物語の中だけではなく、私自身の生活にも必要だったのだと思う。


 会社も、

 家も、

 秘密も、

 足りなさも、

 読者の声も。


 その全部を抱えたまま、私はまだ次の一行を書ける。


 それだけで、今夜は十分だった。

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