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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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15/21

第15話 そのペンネーム、もしかして

その日の帰り際、フロアには月末特有の疲れがきれいに沈んでいた。


 誰かが大きなため息をつくわけではない。露骨に不機嫌な人間がいるわけでもない。けれど、パソコンを閉じる音や、引き出しを戻す音や、「お先です」と声をかける時の声量が、いつもよりほんの少しだけ低い。数字と会議と客先対応で削れた気力が、みんな同じように机の上へ薄く残っている。


 私は自席で今日最後の社内チャットを返し終え、モニターを落とした。


 月末資料はどうにか片づいた。

 榎本の見込み表は現実的な線へ戻した。

 三浦の返信文も大崩れせずに済んだ。

 本城が揃えてくれた一覧も、今日はほとんど手を入れずに回せた。


 仕事としては、悪くない一日だったと思う。

 それなのに、胸の奥は妙に落ち着かなかった。


 理由は分かっている。

 本城だ。


 昼の共有スペースでの会話。

 好きな作家の新刊が出た週は、少しだけ仕事を頑張れる、というあの言い方。

 そこに探る色はなかった。なかったはずなのに、私はずっと、何かが少しだけこちらへ近づいてきた感覚を拭えずにいた。


 職場の誰かが読者かもしれない、という予感はもう終わっている。

 少なくとも一人、本城は確実に私の本を読んでいる。

 しかも、ただ知っているだけではなく、自分の生活の中にちゃんと置いている感じで。


 それはうれしい。

 うれしいが、落ち着かない。


 私は鞄へ手帳をしまい、席を立った。

 今日はもう帰ろう。これ以上ここにいても、たぶん余計なことを考えるだけだ。夜になれば原稿もあるし、会社の顔を少しでも長く貼りつけていると、それだけで体のどこかが乾いていく。


 フロアを出て、共有スペースの横を通る。

 給湯器の明かりがまだついている。丸テーブルの上には、午後のうちに片づけきれなかったらしい紙コップが一つだけ残っていた。付箋の挟まった本は、今日はもうない。


 私はエレベーターホールへ向かいかけて、コピー機の前で止まった。


 そこに本城がいた。


 最後の数枚らしい資料をトレイから抜き取り、丁寧に揃えている。蛍光灯の白い光の下で、彼女の横顔はいつもより少しだけ疲れて見えた。だが、その疲れ方はどこか整っている。雑に崩れない人間の疲れだ。


「あ、係長」


 彼女が先に気づいて会釈した。


「まだいたんだな」


「ちょっとだけ残ってた分を出してました。係長も、今帰りですか」


「いま閉めたところ」


「お疲れさまです」


 私は「お疲れ」と返して、そのまま通り過ぎようとした。

 だが、足はなぜか少しだけゆっくりになった。


 このまま帰ってしまえば、今日は何も起きない。

 何も起きないまま終われる。

 そのほうがたぶん賢い。


 でも、私はその賢さを選べなかった。


「それ、明日の分か」


 私はコピー用紙の束を指すようにして言った。

 会話を続ける理由としては、あまりに平凡だった。


「はい。午前の会議で使う分だけ」


「ずいぶんきれいに揃えるな」


「癖です。乱れてると落ち着かなくて」


 本城が少しだけ笑う。


「係長の机も、見た目より中は整ってますよね」


「見た目より、は余計だな」


「見た目も整ってます」


「言い直しが早い」


 彼女はそこで、ようやく小さく声を出して笑った。

 その笑い方は穏やかだった。探る感じも、試す感じもない。だからこそ、私は少しだけ気が緩んだのかもしれない。


「本城」


「はい」


「今日は助かった。午前の一覧、あれがなかったらたぶんもう少し面倒だった」


 彼女は一瞬、きょとんとした顔をした。

 たぶん、こういうふうに正面から礼を言われるのがあまり得意ではないのだろう。


「いえ、私は揃えただけなので」


「揃えるのがいちばん面倒なんだよ、ああいうのは」


「そうですか?」


「そうだよ」


 本城は少しだけ視線を落とし、それから資料をトントンと揃え直した。

 細い指が紙の角を丁寧に合わせる。その何気ない仕草を見ていると、私はまた少しだけ思う。こういう“整え方”を知っている人間が、私の本の会話を読んでくれているのかもしれないのだ、と。


 その時だった。


「係長」


 本城が資料を抱えたまま、何でもない調子で言った。


「この前、話してた作家さんなんですけど」


 私はその瞬間、心臓が少しだけ遅れて打つのを感じた。


「……ああ」


「新刊、やっぱりよかったです」


 よかったです。

 それだけの、控えめな感想だった。

 なのに、私はうまく返事ができなかった。


「そうなんだ」


 ようやく出たのは、その程度の言葉だ。


 本城は私の反応を気にしたふうでもなく、続ける。


「最後のところの会話、ちょっとしんどかったです」


 私は喉の奥が乾くのを感じた。


 最後のところ。

 しんどかった。


 それはまさに、今巻で感想が割れると思っていた場面だった。派手な盛り上がりではなく、言い切れないまま関係が少しだけ動く場面。人によっては地味だと流すし、人によってはそこに強く残る。私はそういう分かれ方を、たぶん誰よりも気にしていた。


「……そういう話、好きなんだな」


 苦しまぎれにそう言うと、本城は首を傾げた。


「好き、というより」


 少しだけ考える間があった。

 その間の置き方が、ひどく彼女らしかった。


「ちゃんとしんどいのが、いいんだと思います」


 私はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


 ちゃんとしんどい。

 本当に、本城は変なところで妙に正確だ。


「楽しいだけの話も読みますけど」


 彼女は静かに続ける。


「でも、その人の本って、ちゃんと優しくないじゃないですか」


 また、その言い方だ。

 前に喫茶店で聞いた、知らない読者の会話と同じ方向の言葉。いや、本城はもちろんあの時の彼女ではない。でも、似たような温度で同じ芯を言い当てられると、こちらはもう笑うしかない。


「ちゃんと優しくない、か」


「変ですか」


「いや」


 私はかろうじて首を振った。


「たぶん、その言い方で合ってるんだろうな」


 本城が、そこでほんの少しだけ目を細めた。


 何かを確かめるような、でも確かめきらないような目だった。


「係長」


「ん?」


「意外と詳しいですよね」


 その一言で、空気が少しだけ変わった。


 ほんのわずかだ。

 コピー機の作動音は同じだし、廊下の向こうから誰かの足音も聞こえてくる。職場の夕方は何も変わっていない。

 変わったのは、私の呼吸だけだった。


 詳しい。

 そう見えたか。


 私は一瞬、いくつかの返答を頭の中で転がした。

 弟が読んでるって言ってただろ、だから少し話を合わせただけだ。

 最近はそういう感想を聞く機会があるからな。

 たまたまレビューで見たような気がした。


 どれも、言えなくはない。

 でも、どれも少しずつ不自然だ。


 私は結局、いちばん曖昧なところへ逃げた。


「本の話は、聞かれると少し気になるだけだよ」


 本城はそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。

 その沈黙が、私には少し長く感じられた。


 まずいかもしれない、と私は思った。

 いまの返しは、たぶん上手くない。

 会社員としても、隠しごとを持つ人間としても、少しだけ温度が出すぎた。


 だが、本城は問い詰めるようなことはしなかった。

 ただ、資料を抱え直して、小さく頷いた。


「そういうの、ありますよね」


 その言い方に、私は一瞬だけ救われる。


 だが、救われたのも束の間だった。


 本城はコピー機の蓋を閉じ、去り際に、ほとんど独り言みたいな声量で言った。


「私、その人の新刊、毎回買ってます」


 私は、今度こそ何も返せなかった。


 毎回、買ってます。


 借りて読んだでも、家族が持っているでもなく。

 毎回、買っている。


 読者としては、ごく普通の申告だろう。

 好きな作家の新刊を追っている。ただそれだけのことだ。


 でも、その“ただそれだけ”が、作者の胸にはまっすぐ刺さる。


 しかも、職場のコピー機の前で。

 係長と部下として話していたはずの空気の中で。


 私はたぶん、ひどく間抜けな顔をしていたと思う。

 少なくとも自分ではそう感じた。


「……そうか」


 ようやく出たのは、ひどく乾いた声だった。


 本城はそこで初めて、少しだけ真正面から私を見た。

 探るような目ではない。

 でも、何かがほんの少しだけ引っかかっている人の目だった。


「はい」


 それだけ言って、彼女は資料を持って歩き出した。


 私はその背中を見送るしかなかった。


     ◇


 エレベーターへ向かう途中で、私はようやく自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。


 妙だ。

 ただの会話だ。

 ただの部下の、ただの読書の話だ。


 なのに、胸の奥がざわついて仕方ない。


 正体がばれたわけではない。

 本城は何も断定していない。

 私があの作家本人だと決めつけたわけでもない。


 それでも、たぶん彼女は何かを感じた。

 私の返事の間。

 “ちゃんと優しくない”という言葉への反応。

 詳しいですよね、のあとに落ちた微妙な沈黙。


 ああいうものは、きれいに隠せない。

 隠しごとをしている人間は、そのことをいちばんよく知っている。


 エレベーターの鏡に映る自分の顔を見て、私は小さく息を吐いた。

 疲れた中年会社員の顔だ。

 そこに、いまの会話の動揺はたぶんほとんど残っていない。


 それでも、本城の目には何かが残ったかもしれない。

 それが怖い。

 でも、怖いだけではない。


 嬉しかった。

 それがいちばん厄介だ。


 職場の誰かが、私の新刊を毎回買っている。

 しかも、そこにちゃんとした感想を持っている。

 その事実は、作家としてはたまらなくうれしい。


 もしここが会社でなければ、私はたぶんもっと素直に「ありがとうございます」と言えただろう。

 でもここは会社で、私は係長で、彼女は部下だ。

 ペンネームを名乗るわけにはいかない。


 うれしさの行き場がない。

 行き場がないから、そのまま怖さと混ざってしまう。


 私はエレベーターを降り、駅までの道を歩きながら、何度もあの一言を思い出していた。


 私、その人の新刊、毎回買ってます。


 ただの読者なら、たぶん百万回だって言われたい。

 でも、職場の人間から言われると、胸の奥へ刺さる角度が少し違う。


     ◇


 家に帰ってからも、私はしばらく落ち着かなかった。


 夕食の味は分かる。

 真由美の話も聞ける。

 結衣が学校の小テストの愚痴を言っていたのにもちゃんと相槌が打てた。


 それでも、頭のどこかにコピー機の前の空気がずっと残っている。


 真由美が「仕事、まだ残ってるの?」と聞いた。

 私は少し迷ってから「ちょっとだけ」と答えた。

 嘘ではない。会社の仕事が残っているわけではないが、心の中にはたしかに何かが残っていた。


 風呂に入っても、そのざわつきは取れなかった。

 湯に浸かりながら、私は自分に言い聞かせる。


 落ち着け。

 まだ何も起きていない。

 今日の会話一つで、全部が変わるわけじゃない。


 分かっている。

 でも、変わる時はたいてい、こういう小さなきっかけからだということも知っている。


 私は風呂を上がり、家族が寝静まったあとで書斎へ入った。


 机の上には、いつものように見本誌がある。

 会社の手帳もある。

 健康診断の紙も、まだ隅へ追いやったままだ。


 私はパソコンを開いた。

 だが、すぐに原稿ファイルへは入れなかった。


 メモ帳を開き、しばらくカーソルを点滅させたまま考える。

 そして、打った。


『ばれたかもしれない、という不安は、ばれていない時のほうが強い。』


 その一文を見て、私は少しだけ息を吐いた。

 そうだ。

 たぶん、今夜の私はその場所にいる。


 完全に正体が割れたなら、まだ話は単純だ。

 何かを決めるしかない。

 だが、“もしかしたら”の段階では、人は一番落ち着かない。


 もう一行。


『相手が何を感じたのか分からない。分からないから、こちらの沈黙や間ばかりが気になる。』


 私はそこまで打ってから、背もたれに寄りかかった。


 本城は、たぶん何も言わないだろう。

 そういう人だ。

 確信がないことを無遠慮に口へ出すような人ではない。


 だからこそ、余計に分からない。


 分からないまま、でも彼女は明日も会社に来て、私に「おはようございます」と言うのだろう。そして私も「おはよう」と返す。その中に、今日の会話が少しだけ混ざったまま。


 私はそのことを想像して、少しだけ笑ってしまった。

 なんだか可笑しい。

 中年会社員が、部下の読書話一つでここまで揺れるのか、と。


 でも、揺れる。

 揺れるからこそ、たぶん私はこの仕事をまだやめていない。


 私はようやく原稿ファイルを開いた。


 今夜書くべきなのは、たぶんこういう場面だ。

 正体が明かされるわけではない。

 ドラマチックに暴かれるわけでもない。

 ただ、何でもない会話の中で、秘密の輪郭が少しだけ誰かの手に触れる。


 その瞬間、人はたぶん、恐怖よりも先に“もう元の距離には戻れないかもしれない”という静かな気配を感じる。


 私は最初の一行を打ち始めた。


『その人は、正体を見破られたわけではなかった。ただ、秘密の外側をそっと撫でられただけだった。けれど、人は時々、その“だけ”で十分に揺れる。』


 打ってから、少しだけ肩の力を抜く。


 これでいい。

 たぶん今夜は、これでいい。


 前後のことなど考えすぎない。

 ばれたかどうかも、明日にならなければ分からない。

 でも、今日のこの揺れは、ちゃんと書いておいたほうがいい。


 そうしないと、私はまた、会社の顔のまま全部をなかったことにしてしまうからだ。


 私はキーボードに指を戻した。

 コピー機の前のわずかな沈黙と、

 「毎回買ってます」というまっすぐな言葉と、

 返せなかった自分の声を、

 今夜のうちに別の誰かの物語へ移しておきたかった。

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