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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第14話 発売週の幸福、月末の現実

 月末の金曜日は、街全体が少しだけ早足になる。


 オフィス街を歩く人の顔つきが、月初とも週半ばとも違う。今月の数字をどこまで持っていけたか、来月へ何を残したか、今日の会議をどこまで短く済ませられるか。そういう小さな計算が、それぞれの足の運びに出る。会社という場所は、暦と数字に人の機嫌をかなり正直に左右させる。


 営業管理課のフロアも、その例外ではなかった。


 朝から榎本は売上見込みの最終確認で営業部とやり合い、三浦は客先から戻ってきた条件書の行間を何度も読み直し、本城は月末資料を静かな顔で揃えながら、その実、誰より先に全体の遅れを把握しているようだった。私はその中で、いつものように“いちばん荒れそうなところを先に丸くする”仕事へ自然に手を伸ばしていた。


「係長、ここの数字、もう少し攻めてもよくないですか」


 榎本が、画面越しに少しだけ強い声を出す。


 私は表へ目を落とし、数秒だけ考えた。


「気持ちは分かる。でも、来週の先方返事がまだ確定じゃない」


「営業は“もういける”って」


「営業の“もういける”は希望込みだ」


 榎本が小さく息を吐く。

 苛立っているわけではない。彼だって分かっているのだ。分かっているが、月末の空気は人を少しだけ前のめりにさせる。


「下振れた時に説明できる数字にしておこう」


「……そうですね」


「来月に回せる余地は、今月の見込みより大事な時がある」


 そう言うと、榎本はようやく肩の力を抜いた。彼はこういう時、完全に納得した顔はしない。だが“それが現実だ”と理解した時の沈黙はきれいだ。中堅になると、人は納得と諦めの区別をある程度自分でつけられるようになる。


 私はそのやり取りを終え、社内チャットへ短い指示を送り、部長用の簡易報告をまとめ始めた。月末の仕事は、派手ではないぶん、妙に体へ残る。数字が合ったか、先方がどう受け取るか、来月に何を残すか。全部、未来へ少しずつ影響する。だから一つ一つを雑には扱えない。


 そんなふうに仕事を回しながら、私は今週ずっと別の数字も頭のどこかで見続けていた。


 新刊の動き。

 既刊の連れ。

 通販サイトの順位。

 書店からの追加発注。


 発売週の幸福、と言えば聞こえはいい。

 たしかに幸福だ。

 新刊が出る。読者が買う。感想が届く。ランキングへ入る。編集が次を急ぎたがる。そういう一連の流れの中にいる時、私は間違いなく作家として生きている実感を持つ。


 だが、月末の現実は同時にそこへ並んでくる。


 住宅ローンの引き落とし。

 娘の模試代。

 定期の更新。

 会社の締め。

 次巻のラフ。

 健康診断の紙。


 幸福と現実は、互いを打ち消し合わない。

 ただ、同じ机の上へ一緒に乗る。


 私は最近、その“打ち消し合わなさ”が少しずつ分かるようになってきた。


     ◇


 昼前、三浦が珍しく真面目な顔で資料を持ってきた。


「係長、これ確認お願いします」


「どれ」


「先方への条件整理メールです。さすがに今回は、あんまりふわっと書くと危ない気がして」


 私はそれを受け取り、目を通す。

 文面は悪くない。前よりもずっといい。余計な期待を持たせる表現が減り、必要な条件が整理されている。まだ若いが、この数か月で彼なりにいろいろ学んでいるのだろう。


「……だいぶ良くなったな」


 三浦が顔を上げた。


「マジですか」


「マジだよ。ここ、前なら“前向きに検討します”って書いてた」


「うわ、書いてそう」


「でも今回は“現時点での調整範囲”って言えてる。これなら向こうも変に夢見ない」


 三浦は照れくさそうに頭をかいた。


「いやあ、最近ちょっとだけ分かってきたんすよね。仕事って、相手を気分よくさせるより、変に期待させないほうが大事な時あるんだなって」


 私はその言葉に、少しだけ意外な気持ちになった。


「いいこと言うな」


「係長に言われると、なんか皮肉っぽく聞こえるんだよなあ」


「気のせいだ」


「いや、たぶん気のせいじゃないです」


 本城が資料を抱えたまま横から口を挟む。

 それで三人とも少しだけ笑った。


 何でもない昼前のやり取りだ。

 でも、その何でもなさが妙に心地よい。


 期待させないほうが大事な時がある。

 それはたぶん、小説にも、人生にも同じように言える。


 若い頃の私は、もっと分かりやすい達成感を求めていた。

 一冊出たら変わる。

 ランキングに入れば変わる。

 会社を辞められるくらい売れれば、ようやく“本物”になれる。


 だが四十七歳の今、私の前にあるのは、そんな一直線の変化ではない。


 新刊はちゃんと動いている。

 でも、来月の会社の予定もちゃんとある。

 読者の感想はありがたい。

 でも、定年後までを考えると簡単には飛べない。

 どちらか一方が正しいのではなく、どちらも現実としてそこにある。


 それを“中途半端”と呼ぶこともできる。

 けれど最近は、その言い方に少しだけ違和感が出てきた。


 中途半端、というより、両方を抱えているだけではないか。

 それは弱さかもしれないが、同時に、いまの私の形そのものでもある。


     ◇


 午後一時過ぎ、部長への報告を終えて自席へ戻ると、本城が静かにファイルを差し出した。


「係長、月末の一覧、最新版です」


「ありがとう」


 私は受け取りながら、そのファイルの端がきれいに揃っているのを見た。本城はこういうところが本当に丁寧だ。見せる前提の資料は、内容だけではなく揃え方にも性格が出る。彼女の仕事には、たぶん“乱れていると落ち着かない”種類の真面目さがある。


「今日、だいぶ忙しいな」


 私が何気なく言うと、本城は少しだけ笑った。


「月末ですから」


「そうだけど」


「でも、今月はまだマシなほうじゃないですか」


 私は一覧へ目を落とす。

 たしかに、去年の同じ時期よりは荒れていない。炎上案件がないだけでもずいぶん違う。


「……そうかもしれないな」


「係長、最近ちょっとだけ顔が柔らかいです」


 不意にそう言われ、私は一瞬だけ手を止めた。


「柔らかい?」


「はい。月末って、いつももう少しだけ眉間に力入ってる気がします」


「いいことなのか悪いことなのか分からないな」


「私はいいことだと思います」


 本城はそれだけ言って、自席へ戻っていった。


 私はしばらくその背中を見送ったあと、苦笑した。

 顔が柔らかい、か。


 心当たりがないわけではない。

 今週、私は新刊の動きにたしかに支えられている。隣席の読者の会話も、付箋も、サイン本も、書店のPOPも、どれも小さなことだ。だが、小さいからこそ日中の私へじわじわ効いている。


 それなのに、同時に月末の現実は何一つ軽くなっていない。


 不思議なものだと思う。

 幸福は、現実を消してくれない。

 でも、現実の中の顔つきを少しだけ変えることはあるらしい。


     ◇


 夕方、会社を出る少し前、私は一度だけ家計アプリを開いた。


 職場で見るものではないと分かっている。だが、今日はなぜかそうしたかった。昼間のうちに現実の輪郭を確かめておかないと、夜の机の前でまた妙に気持ちが揺れそうだったからだ。


 引き落とし予定。

 今月の支出。

 来月の見込み。


 数字は、相変わらず数字のままだ。

 新刊の好調も、家計全体へ換算すると“余裕”ではなく“少し呼吸がしやすい”程度に収まる。もちろん、その“少し”は大きい。外食を一回我慢するかどうかみたいな話ではない。家族旅行の日程、教育費のやりくり、将来への不安の濃度。そういうものの色合いが少し変わる。


 だが、人生を一気に別の軌道へ乗せるほどではない。


 それでいいのか。

 それで足りるのか。


 以前の私は、そこでいつも少し苛立っていた気がする。

 ランキングへ入っても、なぜまだ自分は会社へ来ているのか。

 なぜ“作家として成功した”と言い切れる場所まで届いていないのか。


 だが最近は、少しだけ見方が変わってきた。


 足りない。

 それは本当だ。


 でも、その足りなさを理由に、今ある幸福まで薄めてしまうのは、あまりにももったいないのではないか。


 新刊が動く。

 読者が感想をくれる。

 書店員がPOPを書いてくれる。

 編集が次巻を待っている。

 会社では相変わらず私は係長で、家では父親で、夜には机に向かう。


 それはたぶん、完璧ではない。

 でも、十分に人生ではある。


 そのことを、私はようやく少しずつ認め始めている。


     ◇


 夜、家に帰ってから、私は珍しく少しだけ早く書斎へ入った。


 食卓では真由美が「今日は少し顔がまし」と言い、結衣は「それはそれで失礼じゃない?」と笑っていた。大きな事件のない家の会話。だけど、私はそういう会話を愛してきたし、たぶんこれからも愛していくのだろうと思う。


 書斎の机の上には、いつもの三点セットみたいに見本誌、会社の手帳、健康診断の紙が並んでいる。少し滑稽だ。だが、いまの私にとっては妙に正しい風景でもある。


 私は椅子へ座り、まずメモ帳を開いた。


 今日のうちに言葉にしておきたいことがあった。


『発売週の幸福と月末の現実は、どちらかがどちらかを消すわけではない。』


 打って、続ける。


『昔はそれが不満だった。幸福なら、もっと現実を軽くしてくれと思っていた。』


 そこまで書いて、少しだけ指を止める。


 そうだ。

 私は長いあいだ、幸福に対しても無茶を言っていたのかもしれない。売れたならもっと自由にしてくれ。評価されたならもっと安心をくれ。夢に近づいたのなら、現実の重さを少しは減らしてくれ。


 だが幸福は、そんなふうには働かない。


 幸福は現実を消さない。

 ただ、現実を抱えたままでも息をつける時間を少しだけ増やしてくれる。

 たぶん、それだけだ。

 でも、それだけで十分な時もある。


 私はもう一行打ち足した。


『足りないと思うことと、ありがたいと思うことは、たぶん両立していい。』


 その一文を書いた時、胸のどこかが少しだけ静かになった。


 両立していい。

 それは当たり前のことのはずなのに、私は長いこと、どちらかに寄せないと駄目だと思い込んでいたのかもしれない。


 満足しているなら、まだ足りないなんて思うな。

 まだ足りないと思うなら、幸福だなんて言うな。


 そういう極端な二択は、若い頃の私にはわかりやすかった。

 でも、四十七歳のいまの生活は、そんなきれいな線で割れない。


 新刊が売れて嬉しい。

 それでも会社は辞められない。

 仕事はしんどい。

 でも、会社で得た言葉や表情が夜の原稿を支える。

 家計は気になる。

 でも、読者の一言で少しだけ呼吸が深くなる。


 その全部が一緒にある。


     ◇


 私は原稿ファイルを開いた。


 今日は、少しだけ自然にカーソルの点滅を見られる気がした。昨日までのような焦りはない。もちろん、時間は限られているし、次巻の構成だってまだ固まり切っていない。新刊が動いているからこそ、次を落としたくないという気持ちも強い。


 でも、その焦りの手前に、今日は少しだけ落ち着きがある。


 幸福を誇張しない。

 現実を悲劇にもしない。

 足りなさを認めながら、いまあるものもちゃんと数える。


 そういう物語なら、今の私に書けるかもしれない。


 私は最初の一行を打ち始めた。


『彼は、足りないことにばかり目を向けていると、自分がすでに受け取っているものまで見えなくなることを、四十を過ぎてようやく知った。』


 悪くない。

 続ける。


『売れているのに足りない。足りないのに、たしかに幸福でもある。その矛盾を、若い頃の彼は中途半端だと呼んだだろう。だが、今の彼にはそれが生きているということそのものに思えた。』


 打ってから、私は小さく息を吐いた。


 これだ、と思う。

 少なくとも、今夜の私はそう思えた。


 発売週の幸福。

 月末の現実。

 どちらも本当だ。

 どちらか一方だけで自分を説明しなくてもいい。


 そのことを受け入れられたら、たぶん次の話も少し違う色になる。

 登場人物たちにも、もっと無理のない呼吸をさせられる気がする。


 私はキーボードへ手を戻した。

 書店で本が動くことも、会社で資料を揃えることも、家で娘に「顔がまし」と言われることも、全部がひと続きの人生だ。


 四十七歳になって、ようやくそこを少しだけ好きになれてきたのかもしれない。


 そう思いながら、私はさらに二行、三行と続きを打っていった。今夜の言葉は、少しだけ静かで、少しだけやさしかった。若い頃のような鋭さはないかもしれない。だが、その代わりに、いまの自分にしか書けない受け止め方がある。


 発売週の幸福、月末の現実。

 その両方を抱えたまま、私は今夜も机の前に座っている。


 それは、負けでも勝ちでもなく、ただ私の生活だった。

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