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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第13話 秘密を守る人、秘密に救われる人

 その週の木曜日、営業管理課の空気は朝から少しだけ荒れていた。


 月末が近いせいでもあるし、前日の先方対応が思ったより長引いたせいでもある。数字の締めが迫る時期は、どの部署でも人の声が少しだけ固くなる。電話の受け答えが半拍早くなり、社内チャットの文面から余白が減る。誰も怒鳴ったりはしない。だが、丁寧さの内側に、今日これ以上余計な仕事を増やすな、という無言の気配が混じる。


 私は出社してすぐ、その空気を感じ取った。


 榎本はいつもよりも早く席に着いていて、朝のコーヒーもまだ半分しか減っていないのに、すでに二本目の社内メールを打っている。三浦は得意先から戻ってきた問い合わせ内容を見ながら小さく舌打ちしそうな顔をしていた。本城は淡々と資料を並べていたが、その動きがいつもより数ミリだけ速い。


 こういう日の係長の仕事は、数字を整えることと同じくらい、空気が荒れすぎないようにすることだ。


 私は椅子に座り、社内メールを開き、最初に一番面倒そうなものから処理し始めた。誰かが抱えている不機嫌というのは、早いうちに正体だけでも掴んでおかないと、午後には別の形で膨らむ。


「係長」


 榎本がモニター越しに声をかけてきた。


「昨日の関西の見込み、営業部がまた数字上げてきてます」


「どれくらい」


「ここです」


 画面を見せられて、私は思わず眉を寄せた。強い。かなり強い。希望が半分、祈りが半分、みたいな見込みだ。


「これは通せないな」


「ですよね」


「先方の返事、まだ一段階目だろ」


「はい」


「だったらこの数字は早すぎる。あとで下振れた時に説明できない」


 榎本は小さく息を吐いた。彼も分かっていたのだろう。分かっていても、営業部が持ってきた希望値をそのまま突き返すのは気が重い。仕事というのは、相手が間違っていると分かっている時ほど面倒になる。


「こっちで一回引き取って、現実的な線に戻します」


「頼む。言い方は少し柔らかくして」


「もちろんです」


 言い方は少し柔らかくして。

 そういう指示をしている時、自分がいかにも営業管理課の人間だと思う。正しいことだけでは通らない。通らないことを見越して、最初から言葉の角を一つだけ削っておく。それを姑息と呼ぶ人もいるだろうが、現実にはそうしないと回らないことのほうが多い。


 私はそのまま受信トレイを追っていき、三浦が昨夜作った返信文を確認し、本城がまとめた会議メモへ二、三の補足を入れた。


 午前十時を過ぎた頃には、ようやく部署全体の呼吸が一定になり始めた。

 だが、その空気は長くはもたなかった。


     ◇


 問題が起きたのは十一時前だった。


「すみません……」


 小さな声でそう言って、本城が私の机の横に立った。


 その手には、得意先へ送る予定だった添付資料の束がある。いつもの彼女なら、こういう時はもっと先に状況だけを簡潔に口へ出す。なのに今日は、最初の一言が「すみません」だった。


 私はそこで、少し嫌な予感がした。


「どうした」


「送付前に確認していて気づいたんですが」


 本城は一枚目を開き、指先で該当箇所を示した。


「この仕様番号、先週更新した版じゃなくて、ひとつ前の資料が混ざっていました」


 私は紙へ目を落とす。

 たしかに古い版だ。見落とせば大きな事故にはならないかもしれない。だが、送ったあとで発覚すれば、説明がひとつ増える。忙しい月末に増えてほしくない種類の説明だ。


「送る前に気づいたなら、まだ大丈夫だ」


 私はまずそう言った。


 本城は少しだけ肩の力を抜いたが、表情はまだ硬い。


「……すみません。昨日のうちに揃えたつもりだったんですけど」


「人間だから揃わない時もある」


「でも、私が確認の最後を持っていたので」


「だったら、いまこうして止めたのもお前の仕事だろ」


 私は紙を閉じて本城へ返した。

 彼女は一瞬だけ目を上げて、それから小さく頷く。


「修正版、すぐ差し替えます」


「頼む」


 彼女が去ったあと、私は少しだけ考え込んだ。


 本城は普段、仕事の取り回しがきれいだ。

 気配りもできるし、資料の整理も早い。だからこそ、たまにこういう小さなミスがあると、本人が必要以上に引きずる。自分が“ミスをしない側”に見られていることを知っている人間ほど、一度の綻びに敏感だ。


 私はその感じを、嫌というほど知っていた。


 作家としても同じだからだ。

 普段そこそこ整った文章を書いている人間ほど、一本の弱い会話や一場面の鈍さに、自分で一番先に傷つく。できると思われていることが、時々いちばんしんどい。


 だからこそ、本城の背中が少し気になった。


     ◇


 昼休みに入っても、本城は席を立たなかった。


 弁当箱を机の端へ寄せたまま、さっきの資料をもう一度見返している。食べる気が失せているのか、それとも食べながらでないと落ち着かないのか、箸の進みが妙に遅い。


 三浦はそんなことには気づいていないらしく、営業部の同期と一緒に外へ出ていった。榎本はコンビニへ行くらしい。フロアには、紙の擦れる音と、たまに鳴る電話の保留音だけが残る。


 私は社食へ行くつもりだったが、結局やめた。

 机の引き出しに入れていたカロリーメイトを一箱出し、コーヒーを淹れる。昼としては味気ないが、そういう日もある。


「本城」


 私は自席からあまり大げさでない声量で呼んだ。


「はい」


「もう送る資料は差し替えたんだろ」


「はい」


「じゃあ、昼休みくらい紙から離れろ」


 彼女は少し驚いたようにこちらを見た。

 その顔に、私は少しだけ笑う。


「資料の神様に謝っても、数字は綺麗にならないぞ」


 本城が、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「係長、それたまに変なこと言いますよね」


「変なことを言うのは、疲れてる人間を紙から引き離す時の基本だ」


「そんな基本、初めて聞きました」


「いま作ったからな」


 そこでようやく、彼女は小さく笑った。

 私はそれを見て、少しだけ安心する。完璧ではないが、ちゃんと笑えるなら、まだ大丈夫だ。


 本城は弁当箱を閉じかけて、また開いた。


「……係長」


「ん?」


「私、向いてないんですかね」


 その言葉は静かだった。

 だからこそ、少しだけ重い。


 私はすぐには答えなかった。

 こういう問いに、安っぽく即答するのはたぶん一番よくない。大丈夫だよ、向いてるよ、誰でもミスするよ。そのどれも間違いではない。だが、いま本城が聞きたいのは、そういう型どおりの慰めではない気がした。


「向いてないって、何に」


「こういう……調整とか、確認とか、細かいところを見る仕事に、です」


 私はコーヒーを一口飲んだ。

 少し苦い。


「今日の件だけなら、向いてない理由にはならない」


「でも、こういう小さいのって、たぶん後で大きくなるじゃないですか」


「なる時はなるな」


 私は正直に言った。

 本城は少しだけ顔を曇らせる。


「でも」と私は続けた。「送る前に気づいたんだろ」


「はい」


「そこが仕事だ」


 彼女は黙っている。

 私は言葉を探した。


「細かい仕事が向いてる人間って、ミスしない人間じゃないんだよ」


 本城が、わずかに目を上げる。


「ミスに気づいた時に、誤魔化さず止められる人間のほうだ」


 私はそう言ってから、自分でも少しだけ言い過ぎたかと思った。妙にきれいな台詞に聞こえたかもしれない。だが、本音でもある。


 作家だって同じだ。

 うまい人間は最初から完璧な文章を書くわけではない。変な一文に気づき、鈍い会話を削り、違和感のある流れを戻せる人間のほうが、結局長く残る。


 本城はしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。


「……それ、救われますね」


「そうか」


「はい」


 彼女はほんの少しだけ笑った。

 今度の笑いはさっきよりも自然だった。


「じゃあ、午後はちゃんと食べてから働きます」


「それがいい」


「係長も、それでお昼ですか」


 彼女が私の机の上のカロリーメイトを見る。

 私は箱を持ち上げてみせた。


「今日はこれで済ます」


「説得力ないですね」


「あるだろ」


「ありません」


 そのやり取りで、本城は完全にいつもの調子へ戻ったように見えた。

 私は心の中だけで少し息を吐く。


 大人同士の会話というのは、結局こういうものだ。全部をさらけ出すわけでも、劇的に救うわけでもない。ただ、相手が自分の立ち位置を少しだけ戻せるように、言葉を一つ差し出す。


 それが大げさではなくできる人間になりたいと、私は時々思う。

 小説の中でなら書けても、現実では難しいことが多いからだ。


     ◇


 午後一番で、今度は三浦が本気でしょげた顔をして現れた。


「係長、俺ちょっと終わったかもしれないです」


「その“終わったかもしれない”は、たいてい終わってないやつだ」


「いや、でもだいぶやばいです」


 彼の手には客先とのメールのやり取りが印刷されていた。

 ざっと見て、私は状況を理解する。先方が一文だけ、こちらの意図よりも強く受け取っている箇所がある。昨日に続き、また認識の角度がずれたらしい。


 若い営業にありがちなミスだ。

 熱意を込めて言った一言が、相手には約束みたいに見えてしまう。


「謝る相手は先方であって、俺じゃない」


 私は印刷された紙を机へ置いた。


「まず落ち着け。文面で訂正するな」


「電話ですか」


「電話だ。文字だけだと硬くなる」


「でも俺、いま話すとたぶん余計なこと言います」


「だから俺が先に筋道だけ作る」


 三浦は少しだけ目を見開いた。

 それから、あからさまにほっとした顔になる。


「……すみません」


「謝るのは後でいい。まず収める」


 私は電話の構成を短く伝えた。先方にどう入るか、何を先に言うか、どこで言い切るか、何を曖昧にしないか。三浦はメモを取りながら、途中で二回ほど「なるほど」と頷いた。


「係長って、やっぱこういう時うまいっすよね」


「うまいんじゃない。痛い目見てきただけだ」


「それ、説得力ある」


「お前もそのうちつく」


「できればつけたくない経験だなあ」


 私は思わず笑った。


「たいてい、つけたくない経験のほうが人を上手くするんだよ」


 三浦は「それもなんか深い」と言いながら、電話の準備へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、私はふと思う。

 秘密を抱えているのは、私だけではないのかもしれない。


 三浦は軽口の多い若手だが、その実、営業としての不安や、評価への怖さや、自分がまだ未熟だと知っている居心地の悪さをたぶん人一倍抱えている。軽さは、案外そういうものの上に乗っていることが多い。


 本城だって、落ち着いて見えるぶん、自分が綻ぶことに敏感だ。

 榎本は中堅としての責任を分かっているからこそ、営業部の無茶を受けた時の表情が時々固い。


 秘密、というほど劇的なものではない。

 けれど、人は皆、言わないものをいくつか抱えて働いている。


 そう思うと、少しだけ気が楽になる。


 私だけが作家であることを隠し、二重生活のしんどさを抱えているわけではないのだと分かるからだ。もちろん、私の秘密は少し特殊かもしれない。だが“言えないものを抱えている”という意味では、たぶんそんなに特別ではない。


     ◇


 夕方、客先への電話を終えた三浦が「なんとかなりました」と報告に来た時には、もう顔色も戻っていた。


「完全に納得って感じじゃないですけど、少なくとも火は消えたと思います」


「なら上出来だ」


「係長の順番どおりに言ったら、思ったより向こうの声のトーン下がりました」


「人は、順番でだいぶ機嫌が変わるからな」


「それ、会話全部に言えます?」


 不意にそう言われて、私は少しだけ笑った。


「たぶんな」


「小説とかも、そうなんすかね」


 私は一瞬だけ言葉を失いかけたが、三浦は気づいていないらしい。


「知らないけどな」と私は軽く返す。


「でも、話って順番でだいぶ印象変わるだろ」


「それはわかる気がする」


 彼はそれだけ言って、満足したように去っていった。


 小説とかも、そうなんすかね。

 そんなことを、何気なく口にする。


 私は自席でパソコン画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 たしかにそうだ。

 小説も、会話も、仕事の説明も、たいてい順番で人の受け取り方が変わる。私は会社でそのことを覚え、夜の原稿で使ってきた。あるいは逆かもしれない。夜の原稿で知ったことを、昼の会社で応用していたのかもしれない。


 どちらにせよ、二つの生活はもうきれいには分かれていない。

 同じ人間の中で、ずっと行き来している。


     ◇


 夜、書斎へ入る頃には、昼の本城との会話がまだ心の中へ残っていた。


 向いてないんですかね。

 ミスに気づいた時に止められる人間のほうだ。

 それ、救われますね。


 大した会話ではない。

 外から見れば、ただの職場の雑談だ。


 だが、私はそういう“ただの雑談”をずっと書いてきた。

 言い切らず、励ましすぎず、でも少しだけ息がしやすくなる会話。大人が大人に差し出せる言葉は、多くの場合その程度のものだ。だからこそ、その程度の言葉がちゃんと届く瞬間を、私は書きたいのだと思う。


 パソコンを開く。

 原稿ファイルではなく、まずはメモ帳を立ち上げた。


『秘密を抱えているのは自分だけじゃない。人は皆、言わないものを少しずつ抱えて働いている。』


 打つ。

 続ける。


『だから、救われる言葉もたいてい大げさではない。相手の立ち位置を少しだけ戻してやる程度の言葉でいい。』


 私はそこまで書いて、少しだけ肩の力を抜いた。


 昼間、本城へ返した言葉は、たぶん作家の私の言葉でもあった。

 “ミスしない人間”ではなく、“ミスに気づいた時に止められる人間”。

 それはそのまま、いまの自分にも向けたい言葉だった。


 書けない夜がある。

 停滞する夜がある。

 それでも、違和感に気づけるなら、まだ完全には終わっていない。


 私はようやく原稿ファイルを開いた。


 今日の私は、少しだけ分かる気がする。

 秘密を持ちながら働き、誰かの秘密にも気づきすぎないようにし、それでも時々、言葉ひとつで救われてしまう人間の感じが。


 最初の一行を打つ。


『彼は、自分だけが秘密を持っているつもりでいた。けれど、働く人間のほとんどは、誰にも言わない何かを一つくらい抱えているのだと、その日ようやく気づいた。』


 続ける。


『だからこそ、人を救う言葉もまた、秘密を暴くような強さではなく、ただ“そこに戻ってこれる”と思わせる程度の小ささでいいのかもしれなかった。』


 私はその文章を見ながら、少しだけ笑った。

 今日の自分には、これで十分だと思えたからだ。


 秘密を守る人。

 秘密に救われる人。


 どちらも、たぶん同じ人間の中にいる。私の中にも、本城の中にも、三浦の中にも、榎本の中にも。そう考えると、職場の空気も少しだけ柔らかく見えてくる。


 明日また何かが起きるだろう。

 数字は揺れるし、会議は長いし、私は依然として職場に作家であることを隠している。

 その事実は何も変わらない。


 でも、変わらないままでも、人との距離の見え方は少しだけ変わる。

 今日はたぶん、そういう日だった。

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