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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 


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12/13

第12話 あなたの本、好きなんです

 翌日の昼休み、私は珍しく会社の外へ出た。


 理由らしい理由はない。強いて言えば、昨日の夜の“書けなさ”を、そのまま会社の席へ持ち込んだまま午前を過ごしてしまったからだ。午前中の私は、たぶん普段以上に丁寧で、普段以上に無難だった。無難であることは係長として正しい。だが、無難であることに全神経を使う時、人はたいてい少し疲れている。


 榎本が持ってきた数字の確認をし、三浦が先方とのやり取りで迷った語尾を二箇所だけ直し、本城がまとめた会議用メモに一行補足を入れた。どれもちゃんとできた。部長からも特に余計な差し戻しはなかった。営業部からの突っ込みも想定内の範囲だった。


 だからこそ、余計にしんどかったのかもしれない。


 仕事が破綻しているわけではない。

 原稿が完全に止まったわけでもない。

 新刊の動きだって悪くない。

 それなのに、昨日の夜の停滞が、まだ喉の奥の小骨みたいに残っている。


 昼休みのチャイムなど当然ない会社だが、フロアの空気が少しだけ緩んだのを見計らって、私は席を立った。


「係長、今日は外ですか?」


 三浦がモニターから顔を上げる。


「ああ、少しだけ」


「珍しい」


「気分転換だよ」


「係長もそういうことするんですね」


「四十七歳にもなると、しないと午後がもたない時がある」


「また年齢を盾にしてる」


「便利なんだよ、年齢は」


 三浦が笑う。その声に、私はきちんと笑い返した。笑い返せる程度には、今日の私はまだ会社員の顔を保てている。


 本城がそのやり取りを聞いていたらしく、資料をめくる手を止めずにだけ言った。


「少し歩いたほうがいいかもしれません」


「そうする」


 彼女はそれ以上何も言わない。その押しつけがましくなさがありがたかった。


     ◇


 会社の裏手にある小さな喫茶店は、昼休みのピークを少し外すと意外なほど空いている。


 チェーン店ではない。個人経営とも少し違う、昔ながらの小型店舗がなんとか今の街に残ったような店だ。木目の濃いテーブル、少し低い照明、入口のところに置かれた雑誌ラック。コーヒーの匂いに、トーストの焼ける匂いが混じる。店内のBGMは古い洋楽で、音量は会話を邪魔しない程度に抑えられている。


 私は窓際の二人席に座り、ブレンドコーヒーと卵サンドを頼んだ。


 ノートパソコンは持ってきていない。

 会社用のスマホと私物のスマホは鞄に入っている。

 どちらも見ないで済むなら、そのほうがいい。

 少なくとも最初の五分くらいは。


 私はカップが来るまで、ぼんやりと窓の外を見ていた。通りを行き交う人たちは、みんな昼休みの顔をしている。急ぎ足だが、午前の会議や午後の数字から少しだけ逃げてきた顔だ。たぶん私も、いまはああいう顔をしているのだろう。


 コーヒーが置かれる。湯気が立つ。

 私は一口飲んで、それからようやく私物のスマホを取り出した。


 新刊の感想を見たい、というより、見ないと逆に落ち着かない気がした。昨日の夜、あれだけ書けなかったのだ。言い方は悪いが、少しくらい外側から燃料をもらいたかった。


 通販サイトのレビュー欄。

 SNSの検索結果。

 出版社経由で転送される読者の感想メール。


 開く前に、一瞬だけためらう。

 こういう時に感想へ頼るのは健全なのだろうか、と考える自分がいる。ほめ言葉をガソリンみたいに使うのは、いかにも不安定な作家っぽくて格好が悪い。


 だが同時に、感想というのはそもそも、作者の手を少しだけ次へ押すために存在するのではないかとも思う。少なくとも、受け取る側の私はそうやって何度も救われてきた。


 私はレビュー欄を開いた。


『今回は静かだったけど、その静かさがよかった』

『言い切らない会話が刺さる』

『派手なことは起きないのに、人と人の距離が変わるだけでこんなに面白い』


 そこまではいつもの延長だった。

 ありがたい。

 ちゃんと読んでもらえている。

 そう思う。


 そして次のレビューで、私は親指を止めた。


『しんどい時に読むと、なんか余計しんどい。でも、そのしんどさが嫌じゃない。ちゃんと人がいる感じがする』


 私は、その一文をしばらく見つめた。


 しんどい時に読むと、余計しんどい。

 でも、嫌じゃない。


 その言い方が、妙に胸へ入ってくる。


 私が書きたかったのは、ずっとたぶんそこなのだ。楽しいだけでも、泣けるだけでもない。しんどい。だけど嫌ではない。むしろ、そのしんどさの中に、自分の生活と似た温度があるような気がする。そういう読み方をしてくれる読者が一人でもいるのなら、私はまだ書けるのかもしれない。


 昨日の夜、真っ白な画面の前で立ち止まっていた自分を思い出す。

 もう無理かもしれない、と思った。

 あれはたしかに本音だった。


 でも、その本音のすぐ横に、こうして誰かの言葉が届く。


 私は次の感想を開いた。


『この作者、人のどうでもいい会話を、どうでもよくなく見せるのが上手い』


 思わず、少しだけ笑ってしまった。

 どうでもいい会話。

 そう、たぶん外から見れば本当にそうなのだ。食堂での一言、帰り道の沈黙、言い換えた語尾、目を逸らす間。そんなものに一々意味を見出しているのは、作者と読者だけかもしれない。


 でも、その“どうでもいい”の中にしか出ない本音があることを、私は知っている。

 知っているから、何冊も何冊も同じような会話を書いてしまう。


「……大変そうですね」


 ふいに、隣の席から声が聞こえた。


 私は顔を上げた。

 声の主は、二十代前半くらいの女性だった。肩までの髪をゆるく巻き、薄いベージュのカーディガンを羽織っている。隣席と言っても、テーブルは一つ離れている。こちらへ話しかけたのではない。向かいに座る友人らしい女性へ向けた声だ。


 テーブルの上には、見覚えのある白地に青い帯。


 私の新刊だった。


 心臓が、今度は静かに鳴った。


「何が?」


 向かいの女性がストローをくわえたまま聞く。


「いや、この本の人たち。ちゃんと好きなのに、ちゃんと話せてない感じが」


「あー、分かる」


「自分のことちゃんと分かってる人ほど、逆に言えないことあるじゃん」


「あるね」


「そういうの読むと、なんか、うわってなる」


 私はコーヒーカップへ手を伸ばしたまま、動けなかった。


 名乗るわけにはいかない。

 そんなことをしたら、たぶん相手は困るだけだ。

 “いま私たちが雑談していた本の作者が、隣でコーヒー飲んでました”なんて状況は、日常として少し強すぎる。


 分かっている。

 分かっているのに、耳が勝手にその会話の続きを拾ってしまう。


「でも、この人の会話、好きなんだよね」


 最初に話していた女性が、本の表紙を軽く指で叩いた。


「なんか、ちゃんと優しくないじゃん」


 その言い方に、私は息を止めた。


 ちゃんと優しくない。


 それはすごく、いい言い方だった。

 優しくないわけではない。だけど、気の利いた救いの言葉ばかりではない。相手を傷つけたくなくて言い淀んだり、変に強がって失敗したり、優しくしようとして逆に距離を作ってしまったりする。そういう、不器用さ込みの優しさを、たぶん彼女は“ちゃんと優しくない”と呼んだのだ。


「きれいに励まさない感じがリアルってこと?」


「そうそう。なんか、ちゃんと人間」


 向かいの女性が笑う。


「めっちゃ褒めるじゃん」


「褒めてるよ。こういうの書ける人すごいと思う」


 その瞬間、私はたぶん少しだけ救われたのだと思う。


 直接褒められたわけではない。

 こちらへ向けて言われた言葉でもない。

 ただ、隣の席で本を読んでいた誰かが、友人との雑談の中でふっと漏らした感想だ。


 でも、その無防備な言葉のほうが、昨夜の私にはよく効いた。


 ちゃんと優しくない。

 ちゃんと人間。


 それは、私が会話を書く時にずっとどこかで大事にしてきたことだった。登場人物を“気の利いた人”にしすぎないこと。正しいことばかり言わせないこと。言えなさや気まずさのまま、関係が少しだけ進んだり、進み損ねたりすること。


 そこを誰かが拾ってくれた。

 しかも、作者の前ではない雑談の中で、自然に。


 私はそれがたまらなくありがたかった。


     ◇


 店を出る頃には、コーヒーはすっかり冷めていた。


 卵サンドは半分ほどしか減っていない。情けない話だが、さっきの会話を聞いてからあまり空腹を感じなくなっていた。胸のあたりが少しだけ満たされたせいかもしれない。


 会計を済ませ、店のドアを押す。春の終わりの風が、店内より少し冷たく感じる。ビルの谷間を通る空気に、コーヒーの匂いがうっすらついてきて、すぐに消えた。


 私は歩きながら、さっきの言葉を何度も思い返していた。


 ちゃんと優しくない。

 ちゃんと人間。


 そうか、と心のどこかで思う。

 それでよかったのかもしれない。


 私はしばらく、物語の中で人をきれいにしすぎないように気をつけてきた。若い頃の私は、会話をもっと上手く、もっと気の利いたものに書こうとしていた時期がある。読者へ届く言葉は、鋭くて、印象的で、ページをめくりたくなるものでなければいけないと思っていた。


 もちろんそれも必要だ。

 商業である以上、読みやすさも引きも、会話の牽引力も要る。


 でも、私が最後に残したかったのはたぶん、もっと不格好なものだった。

 言えていない言葉。

 言わなかったせいで残る距離。

 ちゃんと優しくなれない人間の、でも見捨てきれない気持ち。


 それを“好きなんだよね”と誰かが言った。


 ただそれだけで、昨夜の白い画面が少しだけ別のものに見え始める。

 何も解決していない。

 書けなかった事実も消えない。

 時間が足りないことだって、会社を辞められない現実だって、そのままだ。


 でも、まだ書けるかもしれない。


 その“かもしれない”が戻ってくるだけで、作家の昼休みとしては十分すぎる成果だった。


     ◇


 会社へ戻ると、営業管理課のフロアは昼休みの緩みをすでに終えていた。


 榎本が電話をしながら資料をめくり、本城は何かの集計表を無言で確認し、三浦は客先メールの返信文と睨み合っている。私の席にも未読メールが何件か溜まっていた。どれも大したものではないが、放っておくと大したものになりかねない種類の用件だ。


 私は鞄を置き、パソコンを開きながら「ただいま」とも「戻りました」ともつかない声を小さく出した。


「おかえりなさい」


 本城が顔を上げる。

 その一言が、今日は少しだけ柔らかく聞こえた。


「午後便の件、先方からは一旦落ち着いてます」


 榎本が受話器を手で押さえながら言う。


「ありがとう」


「あと三浦くんの返信、見ていただければ」


「分かった」


 三浦がこちらを見た。


「係長、気分転換できました?」


 私は少しだけ考えてから答えた。


「……少しな」


「へえ。何かいいことありました?」


 その問いに、私は思わず口元を緩めそうになった。


 いいこと。

 たしかにあった。

 隣の席の知らない読者が、私の本を好きだと言っていた。

 しかも、私がいちばん残したかった部分をきちんと拾ってくれていた。


 だが当然、そんなことは言えない。


「コーヒーがうまかった」


 私は結局そう答えた。


 三浦が笑う。


「係長、それ、だいぶおじさんの答えっすよ」


「四十七歳だからな」


「またそれ」


 本城が小さく笑った。

 私は自分の席へ座り、メールを開いた。


 指先はもう、昨日の夜ほど重くない。

 軽くなったわけではないが、少なくとも“止まりそうな重さ”ではなくなっている。


 私はそのことに、少しだけ感謝した。


     ◇


 夜、書斎へ入った時、私は珍しく迷わずにパソコンを開いた。


 疲れていないわけではない。

 会社の仕事は今日も普通にあったし、夕方には部長の説明が少し長かったし、榎本と数字の擦り合わせもしたし、三浦の返信文も三箇所直した。肩は少し張っている。目も乾いている。四十七歳の体は、昼休みに喫茶店で知らない読者の会話を聞いたくらいで急に若返ったりはしない。


 それでも、昨夜のような“もう無理かもしれない”感じは、いまは少し遠い。


 私はメモ帳を開き、昼休みに頭の中で何度も反芻していた言葉を書き留めた。


『ちゃんと優しくない』

『ちゃんと人間』


 それだけ打って、しばらく見つめる。


 いい言葉だと思う。

 少なくとも、私にはとても効いた。


 レビュー欄の感想もありがたい。順位も、追加発注も、編集の前向きな言葉も、全部嬉しい。けれど、今日の私を立て直したのは、隣の席で誰かが友人に向かって漏らしたあの何気ない雑談だった。


 作者へ向けて整えられた感想より、思わずこぼれた言葉のほうが、本音に近いことがある。

 昼休みの私は、それを身をもって知った。


 私はそのまま原稿ファイルへ戻る。


 カーソルが点滅している。

 昨夜はあれほど責めるように見えた白い画面が、今日は少しだけ待っていてくれる顔に見えるから不思議だ。


 最初の一行を打つ。


『彼は、その本を好きだと言う誰かに名乗ることはできなかった。けれど、名乗れないまま聞いた言葉のほうが、かえって長く胸に残る夜がある。』


 少しだけ考える。

 続ける。


『褒められたから救われたのではない。自分が残したかった不器用さを、ちゃんと不器用なまま受け取ってくれた誰かがいた。その事実が、彼の止まりかけた手をもう一度だけ前へ押した。』


 打ち終えて、私は深く息を吐いた。


 まだ書ける。

 少なくとも今夜は、そう思えた。


 もちろん、また書けなくなる夜は来るだろう。会社の仕事もなくならないし、家計簿の数字も、健康診断の紙も、会社へ隠している秘密も、全部そのままだ。たった一度、隣の席の読者の会話を聞いただけで、人生は都合よく変わらない。


 それでも、人はたまに、ほんの小さな言葉ひとつで立ち直る。


 それを書いてきたのは、ずっと私だった。

 ならば、自分自身がそれに救われても、たぶん少しもおかしくない。


 私はキーボードへ手を戻し、そのまま次の一行を打ち始めた。


 昨夜の白い停滞は、まだ記憶の中に残っている。

 けれど今夜は、その停滞の上にもう一度薄く橋を架けられそうだった。


 あなたの本、好きなんです。


 実際にはそう言われたわけではない。

 でも、昼の喫茶店で聞いた言葉の温度は、たしかにそれに近かった。


 私は名乗らなかった。

 名乗れなかった。

 けれど、名乗れないまま受け取ったあの会話は、たぶん今夜の私に必要なものをちゃんと渡してくれたのだと思う。

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