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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 


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第11話 書けない夜のはじまり

 書けない夜には、だいたい前兆がある。


 原稿ファイルを開く前から、もうどこかで分かっているのだ。今日の頭は重い、とか、目の奥に昼の会議がまだ残っている、とか、文章へ入る前の助走がいつもより長い、とか。そういう小さな不調の積み重ねが、最終的にカーソルの点滅だけを一時間見つめるような夜へ繋がっていく。


 その夜も、たぶん始まりはもっと手前にあった。


 会社を出る時にはすでに肩が硬く、駅までの道で信号を待っているあいだにも、私は無意識に首を一度、二度と回していた。午後の会議が思った以上に長引き、部長の説明はいつもよりくどく、榎本は数字の根拠で営業部と揉めかけ、三浦は先方との認識ずれをようやく落ち着かせたと思ったら別の問い合わせを持ってきた。本城が資料を整えてくれなければ、午後はもう少し確実にひどいことになっていただろう。


 そういう一日だった。


 疲れている。

 それは分かっている。


 だが、疲れているから書かない、という選択肢を私はもう長く持っていない。疲れていても、少しは開く。少しは触る。たとえ数百字でも前へ進める。そうやって積み上げてきたからこそ、いま机の上には新刊の見本誌があり、神保町の書店には私の本が並び、会社の共有スペースには職場の誰かが置き忘れたかもしれない私の新刊が存在したのだ。


 だから、疲れていることは言い訳にならない。

 少なくとも、私の中ではそういうことになっている。


 夕食の席で、真由美が「今日は顔が死んでる」と言った。


「そこまでか」


 私は味噌汁を飲みながら答えた。


「そこまでです」


 高校二年の娘、結衣まで同調する。


「なんか、会社の人全員に謝ってきたみたいな顔してる」


「そんな一日は嫌だな」


「でも今日はそういう顔」


「お父さん、たまに本当に疲れてる日、笑い方が薄いんだよね」


 それを聞いて、私は少しだけ苦笑した。

 家族にまでそんなところを見抜かれているのかと思うと、隠すということの頼りなさがよく分かる。


「今日はちょっと仕事が詰まっただけだよ」


「“ちょっと”の顔じゃないんだよなあ」


 結衣が冷ややかに言う。真由美はそれを聞いて「たしかに」と笑った。


 こういうやり取りに救われる日もあるし、逆に少しだけ逃げ場を失う日もある。今日はたぶん後者だった。家族に悪気がないのは分かっている。だからこそ、こちらも必要以上に気丈な顔をしなければならない気がする。


 食後、皿を流しへ運ぶ時、真由美が小さな声で言った。


「今日は無理して書かなくてもいいんじゃない?」


 私はすぐには返事をしなかった。


 そう言われると、むしろ書かなければいけない気がしてしまう。無理しなくていい、という言葉は優しい。優しいが、創作に対しては時々少し残酷だ。無理しなくていいを真面目に守っていたら、本はなかなか一冊にならない。


「少しだけやるよ」


 私は結局そう言った。


 真由美は、まあそう言うだろうな、という顔でそれ以上は何も言わなかった。


     ◇


 書斎へ入った時点で、すでに夜の十一時を回っていた。


 遅い。

 会社員兼作家の夜として、これはもうあまり余裕のある時刻ではない。少しだけ書いて、風呂に入って、寝て、朝また起きて会社へ行く。そんな当たり前の循環を維持しようとするなら、零時半までには切り上げるのが理想だ。理想だが、現実にはたいてい少しはみ出す。


 私はデスクライトを点け、パソコンを開いた。


 机の上には、会社の手帳と見本誌と健康診断の紙が、また仲良く並んでいた。片づければいいのだろうが、最近はわざとそのままにしている節もある。人生がすっきり整理された顔をしていないほうが、いまの自分には正直な気がするからだ。


 原稿ファイルを開く。


 昨日までの文章が並ぶ。

 主人公が、自分の言葉が思ったより近くで読まれているかもしれないと知り、日常の足場を少しだけ失うところ。ここから次の場面へ繋ぎたい。繋ぎたいのに、どう繋ぐかがまだ定まっていない。


 私はカーソルを文末へ置き、キーボードに手をのせた。


 数秒。

 十秒。

 三十秒。


 何も出てこない。


 いや、言葉がまったくないわけではない。ぼんやりとした断片は頭の中に浮かんでいる。誰かに気づかれるかもしれないことへの怖さ。近くにいる読者の存在へのうれしさ。会社の自分と作家の自分の境目が、少しだけ曖昧になり始める感じ。


 材料はある。

 あるのに、文章にならない。


 私は一行だけ打ってみた。


『その日の彼は、いつもより少しだけ職場の空気をうるさく感じていた。』


 悪くない。

 悪くはないが、続かない。


 もう一行。


『誰も何も知らないはずなのに、自分だけが何かを隠し損ねているような気がした。』


 そこで止まる。


 止まったまま、私は画面を睨んだ。

 違う。

 少なくとも、いまほしい感じではない。


 Deleteキーを二回叩いて消す。

 また最初の文を残して、続きだけ考える。

 何も出てこない。


 私は小さく舌打ちしそうになって、寸前で飲み込んだ。

 そんなことで文章が出るなら苦労はしない。


 書けない夜のいちばん厄介なところは、頭の中の焦りに対して、画面の白さがあまりにも静かなことだ。こちらだけが勝手に追い詰められている。画面はいつも通り明るく、カーソルは一定の速度で点滅しているだけなのに、その無表情さがひどく責めるように見える。


 私は一度椅子にもたれ、深く息を吐いた。


 焦るな。

 焦ったところで出るものはたいてい浅い。


 そう自分に言い聞かせても、焦りは消えない。なぜなら時間が足りないからだ。専業作家なら、こういう夜は一度散歩にでも出て、頭を冷やして戻るという選択肢があるのかもしれない。だが、私には明日の出社がある。夜更けの散歩は、そのまま睡眠時間の圧縮へ繋がる。会社員兼作家にとって“気分転換”は無料ではない。


 私はせめてもの代わりに、メモ帳を開いた。


 本文が出ない時は、本文の外側にいる感情から書く。

 それだけでも、まったくの空白よりはましだ。


『今日は、職場の誰かが読者かもしれないというだけで、ずいぶん気持ちが揺れた。』


 打つ。

 それは、事実だ。


『うれしいはずなのに、怖い。怖いのに、どこか誇らしい。』


 ここまでは出る。


 だが、その先がまた止まる。


 私は手を止め、画面の端に表示された時刻を見る。十一時二十三分。まだ二十分も経っていない。なのに、もう一時間くらい戦っている気がする。


 若い頃は違った。

 いや、本当に違ったのかは分からない。ただ、少なくとも当時の私は、書けない夜であっても「時間を使えばどうにかなる」とどこかで信じていた。深夜二時、三時まで粘って、翌朝眠い目をこすりながら会社へ行く。それでも、体力のほうが最後まで騙されてくれた。


 いまはもう違う。

 零時を過ぎたあたりから、頭の質が確実に落ちるのが分かる。徹夜なんて言葉は、今の私にはもう武勇伝ですらない。ただ翌日の仕事を壊すだけの選択肢だ。


 体力も、気力も、若い頃のままではない。


 その事実が、書けない夜にはいっそう重く感じられる。


     ◇


 十二時前、編集の高梨からメッセージが来た。


『遅くにすみません。書店さんの動き、今日も悪くないです。次巻のラフ、無理のない範囲で大丈夫ですので、また進捗教えてください』


 無理のない範囲で大丈夫です。


 その一文が、今日は妙にきつく感じた。


 高梨に悪気がないのは分かっている。むしろ気を使ってくれているのだ。私が会社員で、時間に限りがあることも、体力が無限ではないことも、彼なりに理解している。そのうえでの言葉だ。


 だからこそ、つらい。


 無理のない範囲で。

 そんな範囲が、本当にあるなら。

 あるなら、私はもっと楽に書けている。


 商業作品というのは、結局どこかで無理の上に立っている。締切も、宣伝も、次巻の構想も、売上の確認も、ぜんぶ“無理のない範囲”にきれいには収まらない。その外側へ少しずつはみ出しながら、どうにか形にしていく。


 もちろん高梨だって分かっているだろう。

 分かっているけれど、こう言うしかないのだ。


 私は返信画面を開いたまま、しばらく止まった。

 何を書けばいい。

 進んでいない、と正直に書くか。

 少しずつやっています、と曖昧に返すか。

 どちらも嘘ではない。

 どちらも少しだけ、いまの私には痛い。


 結局、私はこう返した。


『ありがとうございます。今夜は少し難航していますが、形にはしていきます』


 送信してから、自分の文面を見て苦笑した。

 形にはしていきます。

 会社員みたいな返事だ。


 でも、それしか言えなかった。


 私は画面を閉じ、また原稿へ戻る。


 難航しています。

 その通りだ。

 いや、難航というより、立ち往生に近い。


 登場人物は頭の中にいる。

 場面も分かっている。

 言いたいこともある。

 なのに、文章の流れがそこへ辿り着かない。


 私は新しい文を打ってみる。


『彼は、読者が近くにいることを喜ぶべきなのか、それとも日常の境界が侵されることを恐れるべきなのか、自分でもよく分からなかった。』


 少し長い。

 説明も多い。

 だが今夜は、こういう説明くさい文しか出てこない。


 消すか。

 残すか。


 私はしばらく迷って、結局そのまま残した。

 今は質より、止まらないことが先だ。


 そう思った次の瞬間、急に何も出なくなる。


 頭の中が、すっと暗くなる感じがした。

 疲れが一段深く落ちてきたのだろう。目の奥が熱く、肩が重い。会社で使った言葉の残りかすがまだ脳のどこかに溜まっていて、小説の言葉がその上を滑っていく。


 私は両手で顔をこすった。


 書けない。


 いよいよ、その事実を認めるしかなくなってきた。


     ◇


 たぶん初めてではない。

 もちろん、これまでだって難航した夜はいくらでもあった。予定字数に届かない夜も、冒頭を五回書き直した夜も、締切前に頭を抱えて風呂場へ逃げた夜もある。


 それでも今日の“書けなさ”が少し嫌なのは、どこかに年齢の影を感じてしまうからだ。


 若い頃なら、無理やりでも押し切れたかもしれない。

 徹夜の勢いで。

 カフェインで。

 あるいは、自分はまだ伸びると信じる馬力だけで。


 いまは、そういうごまかしが効きにくい。

 疲れている日はちゃんと疲れているし、頭が鈍い日はその鈍さをごまかせない。無理やり書けば書いたで、翌日に見返した時に“これは駄目だ”とすぐ分かる程度には、自分の文章の質感にも敏感になってしまっている。


 それは、成長なのかもしれない。

 でも、単純にしんどい。


 私は机の上のメモ帳を引き寄せ、ペンを取った。

 こういう夜は、せめて自分の今の状態だけでも言葉にしておかないと、ただ不機嫌なまま終わる気がした。


『若い頃のように書けない。』


 まず、それを書く。


『若い頃のように無茶もできない。』


 続ける。


『でも、だからといって、書かなくていい理由にはならない。』


 そこで、ペン先が少し止まった。

 インクの先が紙へわずかに滲む。


 私はその一行を見ながら、ひどく疲れた気持ちになった。

 そうだ。

 結局、それなのだ。


 できない理由はいくらでも増える。

 年齢、体力、仕事、家族、時間、責任、気力の上下。

 でも、書かなくていい理由にはならない。

 少なくとも、私の中では。


 そのことが、時々ひどくつらい。


 書きたいから書くのではなく、書かないと自分が少しずつ乾いていくから書く。そういう段階へ来ているのかもしれない。好きだとか、夢だとか、そういう言葉だけでは支えきれない場所まで、もう来てしまっている。


 そこまで来てなお、今日は書けない。


 私はメモ帳の端に、思わず本音を一行だけ殴り書きした。


『もう無理かもしれない、と思う夜がある。』


 書いてから、自分の字を見つめる。


 ひどく弱気で、ひどく情けない。

 でも、今夜の私はたしかにそう思った。


 もちろん、本当に“もう無理”なわけではないのだろう。

 たいてい翌朝になれば少し持ち直すし、数日かけてどうにか流れを作ることもある。いままでだって、何度もそうしてきた。


 それでも、今日この瞬間の私は、もう無理かもしれないとたしかに感じている。

 それを認めることは、敗北ではなく、ただの正直さだと思いたかった。


     ◇


 結局その夜、私は原稿をほとんど進められなかった。


 消しては戻し、打っては止まり、メモ帳にだけ本音を書き散らす。時計が零時半を過ぎたところで、ようやく「今日は駄目だ」と認めるしかなかった。


 パソコンの画面を閉じる前に、私は最後にもう一度だけ原稿ファイルを見返した。増えたのは数百字。しかも、その半分は明日の私が消すかもしれない、骨組みにも満たない説明文だ。


 普段なら、こういう日は自分に少し腹を立てる。

 だらしないとか、根性が足りないとか、もっとやれただろうとか。


 だが今日は、腹を立てる元気もあまりなかった。


 ただ、ひどく静かに疲れていた。


 私はパソコンを閉じ、デスクライトだけを残して、しばらく暗い画面を見ていた。自分の顔が薄く映る。目の下に疲れがある。いかにも四十七歳の顔だと思う。若い頃の、夜更けでもまだどこか尖っていた顔ではない。


 でも、その顔で、ここまで来たのだ。


 会社を辞めずに。

 家計を壊さずに。

 若い頃みたいな無茶もできないまま。

 それでも新刊を出し、オリコンへ入り、サイン本を書き、読者の付箋に心を揺らし、こうして書けない夜まで含めて机の前へ戻ってきた。


 その事実だけは、たぶん消えない。


 私は立ち上がり、メモ帳を閉じた。

 最後に書いた一文が、まだ目に残っている。


『もう無理かもしれない、と思う夜がある。』


 ある。

 たしかにある。


 でも、その一文を書いた時点で、私はまだ完全にはやめていないのだろうとも思う。やめる人間は、たぶんこういうふうにわざわざ言葉にしない。言葉にしてしまうのは、まだどこかで“本当は無理じゃないかもしれない”と信じているからだ。


 そう考えると、自分の未練深さに少しだけ救われる。


 私は部屋の灯りを消し、ドアのところで一度だけ振り返った。

 机の上には見本誌がある。会社の手帳もある。健康診断の紙も、メモ帳も、そのままだ。


 整っていない。

 きれいでもない。

 でも、これが今の私の人生だ。


 書けない夜のはじまり、というのは、たぶん終わりのはじまりではない。

 ただ、今までどおりのやり方だけでは押し切れなくなった、というだけの話なのかもしれない。


 そう思いながら、私は静かにドアを閉めた。明日の朝になれば、また会社へ行く。誰にもこの夜の停滞を知られないまま、係長として席へ座り、会議へ出て、数字を整えるだろう。


 そして、夜になればまた、たぶん机へ戻る。うまくいかなくても、少しでも。


 そういう人間に、もうなってしまっているのだ。

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