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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑書籍絶賛受付中


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第10話 部下の言葉は、読者の言葉に似ていた

翌朝、私は自分でも分かるくらい慎重に出社した。


 慎重に出社する、という言い方は少しおかしい。会社へ行くという行為そのものに慎重さが必要なわけではない。満員電車に乗り、改札を抜け、ビルへ入り、エレベーターに乗る。それだけの、昨日までと何一つ変わらない通勤だ。


 ただ、昨日の午後、共有スペースのテーブルで見つけた自分の新刊と、淡い黄色の付箋の一言が、まだ胸のどこかに残っていた。


『この言い方、わかる』


 たったあれだけのメモで、私はずいぶん長く引きずっている。

 我ながらどうかしていると思う。

 だが、どうかしているくらいでちょうどいいのかもしれない。作家というのはたぶん、他人にとっては何でもない数語を、勝手に一晩抱えてしまう程度には面倒な生き物だ。


 問題は、その“他人の何でもない数語”が、今度は職場の人間の口から似た形で戻ってくる可能性を、私は昨日から気にしすぎていることだった。


 誰があの本を読んでいたのか分からない。

 本城かもしれない。

 三浦かもしれない。

 まったく別の部署の誰かかもしれない。


 分からない以上、普段どおりにしていればいい。

 頭ではそう分かっている。


 それでも、出社して最初に本城の「おはようございます」を聞いた時も、三浦の「今日ちょっと客先早いっす」と言う声を聞いた時も、私は心のどこかでほんのわずかに身構えていた。


 ばかばかしい。

 本当に、ばかばかしい。


 だが、ばかばかしいことほど、人は理屈では止められない。


     ◇


 午前中は、ありがたいことに仕事が私をちゃんと現実へ引き戻してくれた。


 月末が近いせいで、数字の確認がいつもより細かい。榎本がまとめた見込み表には営業部から希望値が混ざり、本城が作った資料はきれいだが一箇所だけ用語の統一が必要で、三浦は朝から「客先がまた話戻してきました」と眉をしかめている。


 会社の仕事は、良くも悪くも具体的だ。

 数字、納期、先方の反応、部長の意向。どれも現実に触れる指先の感覚がある。そういう具体に触れている間だけは、昨日の付箋の余韻も少し薄くなる。


「係長、この数字、やっぱりここだけ固すぎませんか」


 榎本がモニターを寄せてきた。私は椅子を半分だけ回し、表を見た。


「固いな。営業が希望込みで出してる」


「ですよね」


「ここ、前月比で見るならまだ伸びる余地あるけど、いまの段階でこの見込みは強すぎる。あとで下振れた時に説明がきつい」


 榎本はすぐに修正へ入る。

 こういうやり取りをしている時、私は自分が完全に“係長の頭”になっているのを感じる。曖昧な期待値を、後で怒られにくい形へ変える。誰かの勢いを殺しすぎず、でも数字としては着地できる位置へ戻す。


 書くこととは別の技術だ。

 別の技術だが、どこかでは少し似ている。

 相手が何を見たくて、どこでつまずくかを考えるという意味で。


「三浦くんの件、先方から返信来ました」


 本城が静かに言った。

 彼女は自席からこちらへ身体だけ少し向けている。


「どうだった」


「条件の再整理で一旦受けるそうです。文面も落ち着いてます」


「よし。じゃあ今日はそこまで広げないようにしよう」


「はい」


 その短い報告の言い回しが、妙に耳に残った。

 “文面も落ち着いてます”。


 ごく普通の業務報告だ。

 おかしなところは何もない。


 なのに私は、その“落ち着いてます”という言い方を聞いた瞬間、なぜか昨日の付箋を思い出した。

 この言い方、わかる。


 自分でも嫌になる。

 あらゆる言葉が、いまはあちら側へ繋がって見えてしまう。


「係長?」


 本城が首を傾げた。


「あ、いや。了解」


 私は慌てて視線を表へ戻した。


 仕事中にぼんやりするな。

 そう自分に言い聞かせる。

 だが、いったん“近くに読者がいるかもしれない”という可能性を意識してしまうと、普段なら流れるだけの言葉にまで変な影が差す。


 たぶん、本当に良くない。


     ◇


 午前の会議を終えて席へ戻る途中、三浦が自販機の前で缶コーヒーを開けていた。


「係長、お疲れですか」


 彼は缶を軽く振りながら、いつもの軽い口調で言う。


「顔、ちょっと眠そう」


「眠いよ」


「昨日も書類ですか?」


「書類?」


「ほら、何か家でもやってそうじゃないですか。資格の勉強とか、データ整理とか」


 私は少しだけ笑った。


「会社に魂を売りすぎだろ、その発想は」


「いやあ、係長って家帰っても何かちゃんとしてそうで」


「ちゃんとしてない日もある」


「想像つかないなあ」


 三浦はそう言って笑ったあと、不意にスマホを見た。

 それから、何の前触れもなく言った。


「そういえば昨日、妹がまたうるさかったんすよ」


 私は反射的に表情を一定に保つ。

 昨日も聞いた、その妹の話か。


「なんか、読んでる本の会話が妙にリアルでしんどい、とか言ってて」


 その言葉に、私は内心で息を止めた。


 会話が妙にリアルでしんどい。


 それは、かなり私のシリーズの感想としてありそうな表現だった。

 いや、ありそうどころではなく、実際に近い感想をこれまで何度も見てきた気がする。


「へえ」


 私はそれだけ返した。


「ラノベで“しんどい”ってどういうことなんすかね。もっとこう、楽しいとか、盛り上がるとかなら分かるんですけど」


「しんどい、にもいろいろあるだろ」


「そうですか?」


「自分に近いと、楽しいだけじゃ済まないこともある」


 口に出してから、少しだけ後悔した。

 説明が具体的すぎた気がしたからだ。


 三浦は缶コーヒーを持ったまま目を丸くする。


「お、なんか今日はさらに実感こもってる」


「四十七歳は何でも実感がこもるんだよ」


「またそれ」


 彼は笑ったが、そのあと少しだけ言い淀むように続けた。


「でも、ほんと妹が言ってたんですよ。“この作者、人の言い方わかってる”って」


 私は缶コーヒーのタブを開く音すら、やけに大きく聞こえた。


 人の言い方わかってる。


 付箋の『この言い方、わかる』と、あまりに近い。


 もちろん偶然かもしれない。

 いや、むしろ偶然のほうが自然だ。会話の描写に反応する読者なら、似たような感想を持つことは十分あり得る。


 それでも、胸の奥で何かがじわりと立ち上がる。


「その言い方、面白いな」


 私は極力自然に言った。


「でしょ。意味わかるようで、ちょっとよく分かんないんすけど」


「分かる人には分かるんじゃないか」


「係長、そういうとこあるっすよね」


「何が」


「分からんものを“分かる人には分かる”で済ませるとこ」


 私はそこで笑ってしまった。

 これはたぶん、本気で笑っていた。


「便利なんだよ、その言い方は」


「仕事でも使ってるでしょ」


「使ってる」


「やっぱり」


 三浦は満足したように頷き、缶コーヒーを持ってフロアへ戻っていった。


 私はその場に二秒ほど立ち尽くしてから、自分の席へ戻った。


 偶然だろうか。

 それとも、昨日共有スペースに置かれていたあの本は、本当に三浦の妹のものだったのか。

 いや、妹のものなら職場に置きっぱなしにはしないだろう。なら三浦自身が読んでいて、妹の話として口にしただけなのか。あるいは全然違う。妹の話は本当で、付箋の本は別の誰かのものかもしれない。


 考え始めると、すぐに足場がなくなる。


 分からない。

 分からないのに、妙に気になる。


 そして、その“気になる”が、昨日より一段強くなっているのを私は認めざるを得なかった。


     ◇


 昼休み、本城が珍しく先に声をかけてきた。


「係長、今日、社食ですか」


「そのつもりだけど」


「よかったら一緒にどうですか。榎本さん、外に出るみたいで」


 断る理由もないので、私は頷いた。


「じゃあ行こうか」


 食堂へ向かう道すがら、本城はとくに雑談を広げるでもなく、静かな歩幅で隣を歩いていた。こういうところが彼女らしい。無理に会話を埋めない。必要があれば話すが、沈黙を“気まずいもの”として扱わない。


 その距離感が、私はわりと好きだった。


 食堂で席を取り、私は焼き魚定食、本城は親子丼を選んだ。向かい合って座っても、しばらくは味噌汁の湯気と食器の音だけが間にある。


 先に口を開いたのは本城のほうだった。


「係長、昨日の午後、共有スペースにいましたよね」


 私は箸を持つ手を止めそうになった。


「……いたな」


「やっぱり」


 彼女はそれ以上すぐには続けなかった。唐辛子を親子丼に少しだけ振り、紙ナプキンを指先で整えてから、ようやく静かに言う。


「あそこに本、ありましたよね」


 私はそこで、いったん味噌汁を飲んだ。

 熱かった。

 でも、飲む以外に間を作る方法が思いつかなかった。


「そうだな」


「たまたま見ただけですか」


 たまたま見た。

 それはたぶん本当だ。

 けれど、“たまたま見たあと、かなり気になった”まで含めると、話は変わる。


「まあ、そうだよ」


 本城は少しだけ頷いた。

 そして、こちらをまっすぐ見ずに、どこか斜め下のテーブルの木目を見ながら言った。


「私、あの本、知ってます」


 今度こそ、私は箸を置いた。


 鼓動が妙に大きい。

 頭の中のどこかが、一瞬で熱くなる。


「知ってる、って」


「弟が読んでるので。家にありました」


 私は胸の奥で、ほんの少しだけ力を抜いた。

 ばれたわけではない。

 まだ何も直接は起きていない。


 だが、近づいた。

 昨日より確実に、近づいている。


「そうか」


「はい」


 本城はそこでようやくこちらを見た。


「弟が言ってたんです。“この作者、人の言い方が変にリアルなんだよね”って」


 私は笑うべきか迷った。

 三浦の妹の言葉と、あまりに近い。

 そして昨日の付箋とも、ほとんど同じ方向を向いている。


「変に、か」


「褒めてる感じでした」


「だろうな」


「私も少しだけ読んだことあります」


 私は顔を上げた。

 そうか。

 本城も読んだことがあるのか。


 嬉しさと、落ち着かなさと、少しの気恥ずかしさが一度に来る。


「へえ」


 それしか言えなかった。


「私は、すごくたくさん読んだわけじゃないですけど」


 本城はあくまで静かに言葉を選ぶ。


「でも、会話がちゃんとしてるなと思いました。ちゃんとしてるって、変な言い方ですけど」


 ちゃんとしてる。


 その表現も、私には妙に嬉しかった。

 派手な賛辞ではない。文学的な絶賛でもない。けれど、“ちゃんとしてる”というのは、会話を書く人間にとって案外深い褒め言葉だ。言葉がその人の口から出てきたように聞こえること。会話が展開のための記号ではなく、ちゃんと人間の呼吸を持っていること。


「変じゃないよ」


 私はようやくそう返した。


「そう思ってもらえたなら、たぶん書いた人は嬉しいだろうな」


 言ってから、自分の言い方に少しだけ危うさを感じた。

 “書いた人”。

 どうしてそんな距離の取り方をしたのか、自分でも分からない。


 本城は一瞬だけ目を細めたが、そこには追及の色はなかった。


「そうですね」


 ただそれだけ言って、親子丼に視線を戻す。


 その穏やかさが、むしろありがたかった。

 もし彼女がここで「係長、詳しいですね」とでも言ったら、私はたぶん必要以上に構えていただろう。


「ところで」


 本城が少しだけ空気を変えるように言った。


「三浦さんも、たぶん何か知ってる感じでした」


 私はまた顔を上げた。


「知ってる?」


「今朝、自販機の前で少し話してたんです。妹さんがそのシリーズ読んでるって」


「……そうか」


「たぶん偶然だと思いますけど」


「偶然、か」


「でも、偶然にしては、なんだかちょっと面白いですよね」


 本城はほんの少しだけ笑った。

 私も、つられて口元を緩めた。


 面白い。

 そう言っていいのかは分からない。

 だが、たしかに少し面白いのかもしれない。会社で一緒に働いている人たちの周辺に、自分の本が思ったより近い距離で存在していた。そのことを、私はこれまでほとんど意識していなかった。


 職場と作家の世界は、もっときっぱり分かれていると思っていた。

 だが実際には、そんなにきれいな壁は最初からなかったのだろう。


     ◇


 午後の仕事中、私は何度も本城の言葉を思い出していた。


 会話がちゃんとしてる。

 弟が言ってた。

 三浦の妹も似たようなことを言っていた。

 そして昨日の付箋には『この言い方、わかる』とあった。


 点と点が、勝手に線になりかけている。

 もちろん、それは私の頭の中だけでの話だ。

 現実には何も確定していない。誰が昨日の共有スペースに本を置いたのかも分からないし、三浦が実際に読んでいるのかどうかも曖昧だ。本城は本城で、自分では“少しだけ読んだことがある”と言っただけだ。


 それでも私は、もう完全に“職場の人間と私の本は無関係”とは思えなくなっていた。


 その変化は、地味だが大きい。


 午前なら流せた雑談が流せない。

 ちょっとした言い回しに意味を探してしまう。

 誰かの感想らしきものを、自分の書いた場面へ勝手に結びつけてしまう。


 不自由だ。

 だが、まったく嫌ではない自分もいる。


 もし本当に、職場の誰かが私の読者なら。

 もしその人が、私をただの係長として見ながら、一方で本の中の会話にも頷いてくれているなら。


 それは、作家としてはたまらなく嬉しいことのはずだ。


 会社ではただの人。

 書店では名前のある人。

 そうきっぱり分けて考えてきた私にとって、その二つが少しだけ重なる感覚は、怖いけれど、どこか救いでもある。


 人は案外、自分の書いたものと同じ空間に生きているのかもしれない。


 そんなことを考えていたせいで、三時過ぎ、私は危うく在庫表の行を一段読み飛ばしかけた。本城が「係長、そこ一行ずれてます」と静かに指摘してくれなければ危なかった。


「悪い」


「お疲れですか」


「少しな」


「甘いもの食べたほうがいいかもしれません」


「会社でそんな高校生みたいなこと言われるとは思わなかった」


 本城が少し笑う。


「でも、頭使いすぎてる時って、そういう感じしませんか」


「する」


 私は正直に言った。

 頭を使いすぎている。

 それも、仕事に対してだけではなく、昨日からの小さな出来事に対して。


 こんなふうに読者の気配に振り回されるのは、作家としてどうなんだろうな、と少し思う。

 もっとどっしりしていてもいいはずなのに。

 けれど、どっしりしていないからこそ、私は会話の端っこにまで反応してしまうのだろう。


 弱さと感受性は、たいてい近いところにある。


     ◇


 夜、書斎で原稿を開くまでにも、私は何度も昼の会話を反芻していた。


 部下の言葉は、読者の言葉に似ていた。

 その事実が、妙に胸に残る。


 レビュー欄やSNSに書かれる感想は、どこか“作者へ向かって投げられた言葉”として読むことができる。だが今日、本城の口から出た「会話がちゃんとしてる」、三浦の「妹が“人の言い方わかってる”って言ってた」は、作者へ向けた言葉ではない。彼らはただ、身近な話題として軽く共有しただけだ。


 その無防備さが、かえって生々しい。


 私はメモ帳を開き、思いつくまま打つ。


『作者へ届ける感想より、日常の会話の中にこぼれた感想のほうが、時々ずっと本音に近い。』


 打って、少し手を止める。

 そうかもしれない。

 読者はレビュー欄では“感想を書く”つもりで言葉を選ぶ。

 だが、弟や妹や同僚との雑談の中では、もっと素の言い方をする。


『この言い方、わかる』

『会話がちゃんとしてる』

『人の言い方わかってる』


 それらは、きれいに整えられた批評ではない。

 でも、たぶんすごく本質的だ。


 私はそのまま、原稿ファイルへ戻った。


 いま書くべきなのは、たぶんこういう場面だろう。誰かが自分の外側で言っていた言葉が、思いがけず自分へ返ってくる。しかも、それは正面から投げられた賛辞ではなく、日常の横顔の中にまぎれた小さな共感だ。


 そういうものなら、今夜の私はよく分かる。


 カーソルの点滅を見つめながら、一行目を打つ。


『彼は、感想欄に並ぶ褒め言葉よりも、誰かの雑談の中へこぼれたたった一言のほうが、ずっと長く残る夜があることを知った。』


 打ち終えて、私は少しだけ肩の力を抜いた。


 答えは出ていない。

 職場の誰が読者なのかも、まだ分からない。

 分からないままのほうがいいのか、いっそ知ってしまいたいのかも、自分でも定まっていない。


 でも、部下の言葉が読者の言葉に似ていた、という今日の発見は、確実に私のどこかを揺らした。


 そしてその揺れが、こうしてまた夜の原稿へ流れ込んでいる。


 たぶん、それでいいのだろう。

 少なくとも、いまの私はそう思うことにした。

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