第10話 部下の言葉は、読者の言葉に似ていた
翌朝、私は自分でも分かるくらい慎重に出社した。
慎重に出社する、という言い方は少しおかしい。会社へ行くという行為そのものに慎重さが必要なわけではない。満員電車に乗り、改札を抜け、ビルへ入り、エレベーターに乗る。それだけの、昨日までと何一つ変わらない通勤だ。
ただ、昨日の午後、共有スペースのテーブルで見つけた自分の新刊と、淡い黄色の付箋の一言が、まだ胸のどこかに残っていた。
『この言い方、わかる』
たったあれだけのメモで、私はずいぶん長く引きずっている。
我ながらどうかしていると思う。
だが、どうかしているくらいでちょうどいいのかもしれない。作家というのはたぶん、他人にとっては何でもない数語を、勝手に一晩抱えてしまう程度には面倒な生き物だ。
問題は、その“他人の何でもない数語”が、今度は職場の人間の口から似た形で戻ってくる可能性を、私は昨日から気にしすぎていることだった。
誰があの本を読んでいたのか分からない。
本城かもしれない。
三浦かもしれない。
まったく別の部署の誰かかもしれない。
分からない以上、普段どおりにしていればいい。
頭ではそう分かっている。
それでも、出社して最初に本城の「おはようございます」を聞いた時も、三浦の「今日ちょっと客先早いっす」と言う声を聞いた時も、私は心のどこかでほんのわずかに身構えていた。
ばかばかしい。
本当に、ばかばかしい。
だが、ばかばかしいことほど、人は理屈では止められない。
◇
午前中は、ありがたいことに仕事が私をちゃんと現実へ引き戻してくれた。
月末が近いせいで、数字の確認がいつもより細かい。榎本がまとめた見込み表には営業部から希望値が混ざり、本城が作った資料はきれいだが一箇所だけ用語の統一が必要で、三浦は朝から「客先がまた話戻してきました」と眉をしかめている。
会社の仕事は、良くも悪くも具体的だ。
数字、納期、先方の反応、部長の意向。どれも現実に触れる指先の感覚がある。そういう具体に触れている間だけは、昨日の付箋の余韻も少し薄くなる。
「係長、この数字、やっぱりここだけ固すぎませんか」
榎本がモニターを寄せてきた。私は椅子を半分だけ回し、表を見た。
「固いな。営業が希望込みで出してる」
「ですよね」
「ここ、前月比で見るならまだ伸びる余地あるけど、いまの段階でこの見込みは強すぎる。あとで下振れた時に説明がきつい」
榎本はすぐに修正へ入る。
こういうやり取りをしている時、私は自分が完全に“係長の頭”になっているのを感じる。曖昧な期待値を、後で怒られにくい形へ変える。誰かの勢いを殺しすぎず、でも数字としては着地できる位置へ戻す。
書くこととは別の技術だ。
別の技術だが、どこかでは少し似ている。
相手が何を見たくて、どこでつまずくかを考えるという意味で。
「三浦くんの件、先方から返信来ました」
本城が静かに言った。
彼女は自席からこちらへ身体だけ少し向けている。
「どうだった」
「条件の再整理で一旦受けるそうです。文面も落ち着いてます」
「よし。じゃあ今日はそこまで広げないようにしよう」
「はい」
その短い報告の言い回しが、妙に耳に残った。
“文面も落ち着いてます”。
ごく普通の業務報告だ。
おかしなところは何もない。
なのに私は、その“落ち着いてます”という言い方を聞いた瞬間、なぜか昨日の付箋を思い出した。
この言い方、わかる。
自分でも嫌になる。
あらゆる言葉が、いまはあちら側へ繋がって見えてしまう。
「係長?」
本城が首を傾げた。
「あ、いや。了解」
私は慌てて視線を表へ戻した。
仕事中にぼんやりするな。
そう自分に言い聞かせる。
だが、いったん“近くに読者がいるかもしれない”という可能性を意識してしまうと、普段なら流れるだけの言葉にまで変な影が差す。
たぶん、本当に良くない。
◇
午前の会議を終えて席へ戻る途中、三浦が自販機の前で缶コーヒーを開けていた。
「係長、お疲れですか」
彼は缶を軽く振りながら、いつもの軽い口調で言う。
「顔、ちょっと眠そう」
「眠いよ」
「昨日も書類ですか?」
「書類?」
「ほら、何か家でもやってそうじゃないですか。資格の勉強とか、データ整理とか」
私は少しだけ笑った。
「会社に魂を売りすぎだろ、その発想は」
「いやあ、係長って家帰っても何かちゃんとしてそうで」
「ちゃんとしてない日もある」
「想像つかないなあ」
三浦はそう言って笑ったあと、不意にスマホを見た。
それから、何の前触れもなく言った。
「そういえば昨日、妹がまたうるさかったんすよ」
私は反射的に表情を一定に保つ。
昨日も聞いた、その妹の話か。
「なんか、読んでる本の会話が妙にリアルでしんどい、とか言ってて」
その言葉に、私は内心で息を止めた。
会話が妙にリアルでしんどい。
それは、かなり私のシリーズの感想としてありそうな表現だった。
いや、ありそうどころではなく、実際に近い感想をこれまで何度も見てきた気がする。
「へえ」
私はそれだけ返した。
「ラノベで“しんどい”ってどういうことなんすかね。もっとこう、楽しいとか、盛り上がるとかなら分かるんですけど」
「しんどい、にもいろいろあるだろ」
「そうですか?」
「自分に近いと、楽しいだけじゃ済まないこともある」
口に出してから、少しだけ後悔した。
説明が具体的すぎた気がしたからだ。
三浦は缶コーヒーを持ったまま目を丸くする。
「お、なんか今日はさらに実感こもってる」
「四十七歳は何でも実感がこもるんだよ」
「またそれ」
彼は笑ったが、そのあと少しだけ言い淀むように続けた。
「でも、ほんと妹が言ってたんですよ。“この作者、人の言い方わかってる”って」
私は缶コーヒーのタブを開く音すら、やけに大きく聞こえた。
人の言い方わかってる。
付箋の『この言い方、わかる』と、あまりに近い。
もちろん偶然かもしれない。
いや、むしろ偶然のほうが自然だ。会話の描写に反応する読者なら、似たような感想を持つことは十分あり得る。
それでも、胸の奥で何かがじわりと立ち上がる。
「その言い方、面白いな」
私は極力自然に言った。
「でしょ。意味わかるようで、ちょっとよく分かんないんすけど」
「分かる人には分かるんじゃないか」
「係長、そういうとこあるっすよね」
「何が」
「分からんものを“分かる人には分かる”で済ませるとこ」
私はそこで笑ってしまった。
これはたぶん、本気で笑っていた。
「便利なんだよ、その言い方は」
「仕事でも使ってるでしょ」
「使ってる」
「やっぱり」
三浦は満足したように頷き、缶コーヒーを持ってフロアへ戻っていった。
私はその場に二秒ほど立ち尽くしてから、自分の席へ戻った。
偶然だろうか。
それとも、昨日共有スペースに置かれていたあの本は、本当に三浦の妹のものだったのか。
いや、妹のものなら職場に置きっぱなしにはしないだろう。なら三浦自身が読んでいて、妹の話として口にしただけなのか。あるいは全然違う。妹の話は本当で、付箋の本は別の誰かのものかもしれない。
考え始めると、すぐに足場がなくなる。
分からない。
分からないのに、妙に気になる。
そして、その“気になる”が、昨日より一段強くなっているのを私は認めざるを得なかった。
◇
昼休み、本城が珍しく先に声をかけてきた。
「係長、今日、社食ですか」
「そのつもりだけど」
「よかったら一緒にどうですか。榎本さん、外に出るみたいで」
断る理由もないので、私は頷いた。
「じゃあ行こうか」
食堂へ向かう道すがら、本城はとくに雑談を広げるでもなく、静かな歩幅で隣を歩いていた。こういうところが彼女らしい。無理に会話を埋めない。必要があれば話すが、沈黙を“気まずいもの”として扱わない。
その距離感が、私はわりと好きだった。
食堂で席を取り、私は焼き魚定食、本城は親子丼を選んだ。向かい合って座っても、しばらくは味噌汁の湯気と食器の音だけが間にある。
先に口を開いたのは本城のほうだった。
「係長、昨日の午後、共有スペースにいましたよね」
私は箸を持つ手を止めそうになった。
「……いたな」
「やっぱり」
彼女はそれ以上すぐには続けなかった。唐辛子を親子丼に少しだけ振り、紙ナプキンを指先で整えてから、ようやく静かに言う。
「あそこに本、ありましたよね」
私はそこで、いったん味噌汁を飲んだ。
熱かった。
でも、飲む以外に間を作る方法が思いつかなかった。
「そうだな」
「たまたま見ただけですか」
たまたま見た。
それはたぶん本当だ。
けれど、“たまたま見たあと、かなり気になった”まで含めると、話は変わる。
「まあ、そうだよ」
本城は少しだけ頷いた。
そして、こちらをまっすぐ見ずに、どこか斜め下のテーブルの木目を見ながら言った。
「私、あの本、知ってます」
今度こそ、私は箸を置いた。
鼓動が妙に大きい。
頭の中のどこかが、一瞬で熱くなる。
「知ってる、って」
「弟が読んでるので。家にありました」
私は胸の奥で、ほんの少しだけ力を抜いた。
ばれたわけではない。
まだ何も直接は起きていない。
だが、近づいた。
昨日より確実に、近づいている。
「そうか」
「はい」
本城はそこでようやくこちらを見た。
「弟が言ってたんです。“この作者、人の言い方が変にリアルなんだよね”って」
私は笑うべきか迷った。
三浦の妹の言葉と、あまりに近い。
そして昨日の付箋とも、ほとんど同じ方向を向いている。
「変に、か」
「褒めてる感じでした」
「だろうな」
「私も少しだけ読んだことあります」
私は顔を上げた。
そうか。
本城も読んだことがあるのか。
嬉しさと、落ち着かなさと、少しの気恥ずかしさが一度に来る。
「へえ」
それしか言えなかった。
「私は、すごくたくさん読んだわけじゃないですけど」
本城はあくまで静かに言葉を選ぶ。
「でも、会話がちゃんとしてるなと思いました。ちゃんとしてるって、変な言い方ですけど」
ちゃんとしてる。
その表現も、私には妙に嬉しかった。
派手な賛辞ではない。文学的な絶賛でもない。けれど、“ちゃんとしてる”というのは、会話を書く人間にとって案外深い褒め言葉だ。言葉がその人の口から出てきたように聞こえること。会話が展開のための記号ではなく、ちゃんと人間の呼吸を持っていること。
「変じゃないよ」
私はようやくそう返した。
「そう思ってもらえたなら、たぶん書いた人は嬉しいだろうな」
言ってから、自分の言い方に少しだけ危うさを感じた。
“書いた人”。
どうしてそんな距離の取り方をしたのか、自分でも分からない。
本城は一瞬だけ目を細めたが、そこには追及の色はなかった。
「そうですね」
ただそれだけ言って、親子丼に視線を戻す。
その穏やかさが、むしろありがたかった。
もし彼女がここで「係長、詳しいですね」とでも言ったら、私はたぶん必要以上に構えていただろう。
「ところで」
本城が少しだけ空気を変えるように言った。
「三浦さんも、たぶん何か知ってる感じでした」
私はまた顔を上げた。
「知ってる?」
「今朝、自販機の前で少し話してたんです。妹さんがそのシリーズ読んでるって」
「……そうか」
「たぶん偶然だと思いますけど」
「偶然、か」
「でも、偶然にしては、なんだかちょっと面白いですよね」
本城はほんの少しだけ笑った。
私も、つられて口元を緩めた。
面白い。
そう言っていいのかは分からない。
だが、たしかに少し面白いのかもしれない。会社で一緒に働いている人たちの周辺に、自分の本が思ったより近い距離で存在していた。そのことを、私はこれまでほとんど意識していなかった。
職場と作家の世界は、もっときっぱり分かれていると思っていた。
だが実際には、そんなにきれいな壁は最初からなかったのだろう。
◇
午後の仕事中、私は何度も本城の言葉を思い出していた。
会話がちゃんとしてる。
弟が言ってた。
三浦の妹も似たようなことを言っていた。
そして昨日の付箋には『この言い方、わかる』とあった。
点と点が、勝手に線になりかけている。
もちろん、それは私の頭の中だけでの話だ。
現実には何も確定していない。誰が昨日の共有スペースに本を置いたのかも分からないし、三浦が実際に読んでいるのかどうかも曖昧だ。本城は本城で、自分では“少しだけ読んだことがある”と言っただけだ。
それでも私は、もう完全に“職場の人間と私の本は無関係”とは思えなくなっていた。
その変化は、地味だが大きい。
午前なら流せた雑談が流せない。
ちょっとした言い回しに意味を探してしまう。
誰かの感想らしきものを、自分の書いた場面へ勝手に結びつけてしまう。
不自由だ。
だが、まったく嫌ではない自分もいる。
もし本当に、職場の誰かが私の読者なら。
もしその人が、私をただの係長として見ながら、一方で本の中の会話にも頷いてくれているなら。
それは、作家としてはたまらなく嬉しいことのはずだ。
会社ではただの人。
書店では名前のある人。
そうきっぱり分けて考えてきた私にとって、その二つが少しだけ重なる感覚は、怖いけれど、どこか救いでもある。
人は案外、自分の書いたものと同じ空間に生きているのかもしれない。
そんなことを考えていたせいで、三時過ぎ、私は危うく在庫表の行を一段読み飛ばしかけた。本城が「係長、そこ一行ずれてます」と静かに指摘してくれなければ危なかった。
「悪い」
「お疲れですか」
「少しな」
「甘いもの食べたほうがいいかもしれません」
「会社でそんな高校生みたいなこと言われるとは思わなかった」
本城が少し笑う。
「でも、頭使いすぎてる時って、そういう感じしませんか」
「する」
私は正直に言った。
頭を使いすぎている。
それも、仕事に対してだけではなく、昨日からの小さな出来事に対して。
こんなふうに読者の気配に振り回されるのは、作家としてどうなんだろうな、と少し思う。
もっとどっしりしていてもいいはずなのに。
けれど、どっしりしていないからこそ、私は会話の端っこにまで反応してしまうのだろう。
弱さと感受性は、たいてい近いところにある。
◇
夜、書斎で原稿を開くまでにも、私は何度も昼の会話を反芻していた。
部下の言葉は、読者の言葉に似ていた。
その事実が、妙に胸に残る。
レビュー欄やSNSに書かれる感想は、どこか“作者へ向かって投げられた言葉”として読むことができる。だが今日、本城の口から出た「会話がちゃんとしてる」、三浦の「妹が“人の言い方わかってる”って言ってた」は、作者へ向けた言葉ではない。彼らはただ、身近な話題として軽く共有しただけだ。
その無防備さが、かえって生々しい。
私はメモ帳を開き、思いつくまま打つ。
『作者へ届ける感想より、日常の会話の中にこぼれた感想のほうが、時々ずっと本音に近い。』
打って、少し手を止める。
そうかもしれない。
読者はレビュー欄では“感想を書く”つもりで言葉を選ぶ。
だが、弟や妹や同僚との雑談の中では、もっと素の言い方をする。
『この言い方、わかる』
『会話がちゃんとしてる』
『人の言い方わかってる』
それらは、きれいに整えられた批評ではない。
でも、たぶんすごく本質的だ。
私はそのまま、原稿ファイルへ戻った。
いま書くべきなのは、たぶんこういう場面だろう。誰かが自分の外側で言っていた言葉が、思いがけず自分へ返ってくる。しかも、それは正面から投げられた賛辞ではなく、日常の横顔の中にまぎれた小さな共感だ。
そういうものなら、今夜の私はよく分かる。
カーソルの点滅を見つめながら、一行目を打つ。
『彼は、感想欄に並ぶ褒め言葉よりも、誰かの雑談の中へこぼれたたった一言のほうが、ずっと長く残る夜があることを知った。』
打ち終えて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
答えは出ていない。
職場の誰が読者なのかも、まだ分からない。
分からないままのほうがいいのか、いっそ知ってしまいたいのかも、自分でも定まっていない。
でも、部下の言葉が読者の言葉に似ていた、という今日の発見は、確実に私のどこかを揺らした。
そしてその揺れが、こうしてまた夜の原稿へ流れ込んでいる。
たぶん、それでいいのだろう。
少なくとも、いまの私はそう思うことにした。




