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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩 


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第1話 オリコンに入った朝も、私は会社へ行く

 スマートフォンが震えたのは、東西線が日本橋を過ぎたあたりだった。


 朝の通勤電車は、いつだって少しだけ人の気配が重い。押し合うほどではないが、誰もが自分の体温を小さく折りたたんで、他人の一日と接触しないように立っている。吊り革にぶら下がる腕、眠そうにうつむいた横顔、ニュースアプリの見出しを機械的に流していく親指。四月でも十月でも、月曜でも木曜でも、朝の車内だけは不思議と同じ匂いがする。寝不足と整髪料、まだ温まりきっていないコーヒー、そして誰にも言わない小さな憂鬱の匂いだ。


 私――佐伯真人、四十七歳、都内の機械部品メーカー営業管理課係長――は、その日もいつも通り、ドア脇の隅に半身を差し込むように立っていた。右手で黒いビジネスバッグを持ち、左手で吊り革を握る。ネクタイの結び目は今朝も少しだけきつい。歳を取ると首回りの肉付きが変わるのか、それともただ単に昔より余裕がなくなっただけなのか、自分でもよく分からない。


 震えたスマホをポケットから出す。画面には、担当編集の高梨からメッセージが一件。


 こんな朝から、と思った瞬間に、胸の奥が先に反応した。


 仕事の連絡ではない。仕事の連絡なら、営業管理課のグループチャットか社内メールだ。高梨から個人メッセージが来る時は、大抵、原稿か数字か、そのどちらかである。


 私は呼吸を一度だけ浅くしてから、メッセージを開いた。


『おはようございます! 朝早くにすみません。速報です。新刊、発売週オリコン入ってます。まずはご報告まで! 詳しい数字はあとで送ります』


 短い文章だった。


 短いのに、それだけで車内の音が少し遠くなった。


 視線が画面の文字に貼り付いたまま、私はしばらく瞬きができなかった。


 入った。


 今週も、入ったのか。


 新刊『放課後リライト・ノート』三巻。派手な異能も世界崩壊もない、地方都市の夜の図書室を舞台にした会話劇中心の青春もの。今どき爆発的なバズり方をするタイプではない。アニメ化の弾になりそうな大ネタもなければ、切り抜きで一人歩きしそうな強烈な台詞もない。けれど、ありがたいことに一巻からずっと追いかけてくれている読者がいて、新刊が出るたび、ちゃんと買ってくれる人がいる。


 それでも、発売週の数字を見る朝だけは、何度経験しても慣れない。


 私は、画面の光が誰かに見えないように少しだけ体を壁側へ傾けた。まるで浮気相手からの連絡でも隠すみたいだな、と苦笑しかけて、さすがに自分でも性格が悪いと思った。


 嬉しい。


 先に来たのは、ちゃんとその感情だった。


 嬉しいに決まっている。四十七になっても、自分の書いたものが全国の書店に並び、しかも発売週にランキングへ入る程度には読まれている。こんなこと、二十代の頃、社内の給湯室で缶コーヒー片手に「いつか本を出せたら」などと夢想していた頃の私に話したら、たぶん本気で泣いたと思う。


 だが、嬉しさのすぐ後ろに、ほとんど同じ速度で別の感情が来る。


 次も落とせない、という焦りだ。


 ランキングはご褒美ではあるけれど、同時に請求書にも似ている。良かったですね、で終わらない。良かったのなら、次もそれなりのものを出してください、という無言の要求が必ずついてくる。売れている時ほど、立ち止まる理由が消える。


 そして、どんな数字が出ても、電車は止まってくれない。


 ドアの上の液晶表示が次の駅名へ切り替わった。車内アナウンスが流れ、誰かの鞄が私の肘に軽く当たる。乗客たちは誰も、いま私のスマホの中で起きた小さな祝祭を知らない。


 知らないまま、それぞれの会社へ向かっていく。


 その時だった。


 今度は社内チャットの通知が、遠慮なく画面上部へ滑り込んできた。


『佐伯係長、おはようございます。本日10時の定例会議ですが、部長から前回案件の数字補足を求められています。九時半までに資料差し替え可能でしょうか』


 営業企画の榎本からだった。


 続けてもう一件。


『あと三浦くんが得意先向け見積の版を一部取り違えていて、先方から問い合わせが来ています。朝イチで相談させてください』


 私は思わず口の中だけで笑った。


 笑うしかなかった。


 オリコン入りの通知と、会議資料差し替えと、若手社員のミス対応。人生というやつは本当に容赦がない。いや、容赦がないのではなく、たぶん公平なのだ。私が何であれ、朝は朝として進み、会社は会社として始まる。


 私は高梨への返信欄を開き、短く打った。


『ありがとうございます。よかったです。詳細またお願いします』


 絵文字も感嘆符も入れない。担当編集相手ですら、四十を過ぎると嬉しさの表現は少しだけ慎み深くなる。いや、本当は単に、朝の電車で浮かれている自分を自分で見たくないだけかもしれない。


 送信してから、社内チャットへ戻る。


『榎本さん、おはよう。資料差し替えやります。三浦くんの件も出社後すぐ見ます』


 文字を打つ指は、驚くほどいつも通りだった。


 まるで今しがた、自分のもう一つの人生の側から、確かな手応えが届いたことなどなかったみたいに。


     ◇


 会社の最寄り駅を出ると、空は朝のくせに妙に白かった。


 高層ビルのガラス壁に曇った日差しが反射して、街全体が少し薄い。私は自販機でブラックコーヒーを買って、一口だけ飲んだ。ぬるい。最近、熱い飲み物をすぐ飲めなくなった。昔は平気だったのに、とまた年齢の話に結びつけそうになって、やめる。


 会社へ向かう通路の途中、小さな書店がある。


 出勤前に立ち寄る余裕など本当はない。九時半までに資料を直さなければならないのだから。だが、私は今日に限って、ほとんど反射のようにその店のガラス越しを覗いた。


 朝の開店準備を終えたばかりらしい店内は、まだ人が少ない。新刊台が入口のすぐ近くに置かれていて、春の新刊、ビジネス書、週刊誌、その隣にライトノベルの平台が見える。


 そして、あった。


 自分の本が、ちゃんとあった。


 白地に青い帯。主人公とヒロインが夜の図書室で向かい合っている表紙。イラストレーターの繊細な色使いが朝の蛍光灯の下でもよく映えている。三巻だけでなく、一巻と二巻も少し離れた棚差しに残っていた。


 たったそれだけのことなのに、胸の中で何かが静かにほどける。


 自分の本がある。


 誰かが並べてくれたのだ。当たり前だが、それは当たり前ではない。書店員が発注し、取次が運び、営業が動き、編集が本を作り、イラストレーターが絵を描き、デザイナーが帯を組み、印刷所が刷り、倉庫が出し、読者が店へ来る。その果てにようやく、ここにある。


 私はガラス越しに数秒見つめただけで、足を止めた自分を急に恥ずかしく感じた。四十七歳にもなって、自分の本が並んでいるだけで朝からこんな顔をするのか、と。


 だが、すぐに別の声が胸の中で言う。


 するだろう。何年やっても、するに決まっている。


 そうでなかったら、ここまで続けていない。


 私は書店へは入らず、そのまま会社へ向かった。店内に入って一冊手に取る時間すら惜しいわけではない。ただ、スーツ姿で自分の本の平台の前に立つ自分を、いまは見たくなかった。


 いつか慣れると思っていた。


 けれど、出版というものに慣れることは、たぶんない。


 慣れたふりだけが上手くなる。


     ◇


 九時二十七分、私は自席で前回案件の数字表を開き、営業部長の嫌いそうな余白の多いレイアウトを慌てて詰め直していた。社内ネットワークの反応が妙に重い。こういう日に限って重い。榎本が向かいの席から「すみません、部長が売上見込みの根拠も入れろと」と追加注文を投げてくる。三浦は三浦で、得意先から戻ってきた問い合わせメールを見ながら、顔色の悪いまま立ち尽くしている。


「佐伯係長、本当にすみません」


 まだ二十代半ばの三浦は、謝る時だけ少年みたいな声を出す。普段は少し軽口が多いくせに、こういう時は妙に素直だ。


「取り違えたの、先方が気づいてくれてよかったです。もしそのまま発注進んでたら、かなり面倒でした」


「気づいてくれたならまだ間に合う。面倒なのはここからだけどな」


 私は画面から目を離さないまま答えた。


「朝イチで先方に電話したか?」


「しました。十時半にこちらから正式に訂正版送るって話で一旦おさめてます」


「じゃあ、まずはその十時半を死守しよう。焦って二つ目のミスを出すともっと痛い」


「……はい」


 三浦は素直にうなずいたが、まだ自分で自分を責める顔をしている。私はそこでようやく手を止めて、彼を見上げた。


「三浦」


「はい」


「ミスした時に必要なのは、反省より順番だ。へこむのは後でいい」


 彼は一瞬きょとんとして、それから苦笑した。


「係長、そういうの、たまにちょっと小説の台詞っぽいですね」


 心臓が一拍だけ変な打ち方をした。


 だが、表には出さない。


「朝から何言ってる。ほら、お前は訂正版の文面整えて。客先に送る前に俺が見る」


「了解です」


 三浦が自席へ戻っていく。私は平然を装ってパソコンへ向き直ったが、首の後ろに嫌な汗が少し滲んでいた。


 小説の台詞っぽい。


 ただの冗談だ。分かっている。三浦は私が小説を書いているなんて知らない。職場でその手の話は一切していないし、名刺交換の時にでも素性がばれるような派手なペンネームでもない。


 それでも、言葉というものは時々、こちらの隠しているものの輪郭を偶然なぞる。


 私はコーヒーを一口飲もうとして、すでに冷め切っているのに気づいた。


 十分後、会議室。


 部長は差し替えた資料を無言でめくり、売上見込みの根拠について二度ほど面倒な質問をし、そのたびに私は営業管理課らしい曖昧すぎず断定しすぎない返答を選んだ。営業は勢い、管理は保険、その両方の顔色を見るのがこの課の役目だ。若い頃は嫌いだった。いまでも好きではない。だが、嫌いだからといって誰かがやらなくていい仕事ではない。


 会議の最中、スーツの胸ポケットに入れたスマホが一度だけ微かに震えた。


 たぶん高梨から、詳しい数字か何かが来たのだろう。


 見られるはずもない。部長の説明が続いている最中に、係長がこっそりスマホを確認するわけにはいかない。


 私は視線を資料へ落としたまま、胸の内側にだけもう一つの画面を想像した。


 何位だろう。


 先週比はどうだろう。


 シリーズ既刊の動きはあっただろうか。


 そんなことを考えながら、私は口では営業利益率の見通しについて話していた。


 人間は、二つの人生を同時に生きられる。


 少なくとも、表面上は。


     ◇


 昼休み、社員食堂はいつもより少しだけ騒がしかった。


 月末が近いせいか、みんな疲れているくせに口数が多い。疲れていると人は無口になるか饒舌になるかのどちらかだが、うちの会社は後者が多いらしい。私は日替わり定食のトレーを持って隅の席へ座った。本当は一人で落ち着いていたいが、係長という立場は微妙で、あまり露骨に一人ばかり選ぶのも感じが悪い。とはいえ毎日若手と輪になって食べるほど社交的でもない。結果として、誰が座っても不自然でない席に先に座る、という中途半端な技術が身についてしまった。


 案の定、三浦と経理の吉岡が向かいに座る。


「係長、見ました? 昨日から新しいドラマ始まってて」


「見てない」


「即答ですね」


「昨日は帰って風呂入って寝た」


 嘘ではない。ただし、寝る前に二時間半ほど原稿ファイルとにらみ合っていたことは省略している。


 吉岡が味噌汁をすすりながら笑った。


「佐伯さん、家帰ってまで何かやってそうですもんね。資格の勉強とか」


「そのイメージは褒めてるのか」


「褒めてますよ。ちゃんとしてる大人って感じで」


 ちゃんとしている大人。


 その評価はありがたいし、実際、私は職場ではそう見られるように振る舞っている。締切前で三時間しか寝ていなくても、レビューに胸を抉られていても、営業会議ではちゃんとしている大人の顔をする。


 三浦がスマホを見ながら、ふと思い出したように言った。


「そういえば、今週またラノベの売上ランキング出てましたね。なんか結構、昔より普通に売れるんすね」


 箸を持つ手が、ほんのわずかに止まりそうになった。


「へえ」


 私は自分でも驚くくらい平板な声を出した。


「いや、アニメ原作とかだけじゃなくて、普通に新刊でランキング入るやつもあるんだなって。俺、あの手ってもっと一部の超有名作だけかと思ってました」


 吉岡が首をかしげる。


「ラノベって、そんなに数字動くの?」


「いや、ものによるんじゃないすか。でも最近、妹が買ってるやつ見たら帯に『オリコン上位!』とか書いてあって」


 妹が買っているやつ、か。


 私は焼き魚を崩しながら、内心でどうでもいいところに引っかかる。三浦に妹がいたことは知っているが、まさかその妹が私の本を買っている可能性までは考えたことがなかった。いや、ないだろう。世の中そんなに狭くない。


「作家って楽しそうだけど、現実は大変なんでしょうねえ」と吉岡が軽く言う。


「ですよね。好きなこと仕事にしても、みたいな」と三浦が続ける。


 私は味噌汁を口に運びながら、なるべく自然なタイミングで返した。


「楽しそうに見える仕事ほど、外から見えないところが大変なんじゃないか」


「お、またそれっぽい」


 三浦が笑う。


「係長、妙に含蓄ありますよね」


「四十七にもなると、誰でも少しは含蓄っぽく見える」


「いや、四十七ってまだ全然若いじゃないですか」


「そう言ってくれるのはありがたいけど、朝の階段で膝が笑う日がある」


「え、マジですか」


「マジだよ」


 二人が笑う。


 私も笑う。


 その輪の中にいる自分は、たぶんかなり自然だった。


 自然だったのに、心のどこかで別の自分が、いま食堂で交わされている「作家って大変なんでしょうね」という無邪気な一言を、妙に丁寧に拾い上げている。


 大変だよ、と言ってしまえば早い。


 でも、その一言の中には収まらないのだ。大変で、嬉しくて、苦しくて、くだらなくて、みっともなくて、やめられない。そういうものを全部まとめて、たった一言で説明する方法を私は知らない。


 だから黙って、昼の定食を食べるしかない。


     ◇


 午後二時過ぎ、ようやく一人になれたタイミングで、私は給湯室の奥へ入り込み、高梨からのメッセージを開いた。


『改めておめでとうございます。今週はかなり良い位置です。既刊も少し動いてます。書店さんの反応も悪くないです。次巻の打ち合わせ、少し早めにやれたらと思ってます』


 続いて、数字のスクリーンショットが送られている。


 私はそれを見て、息を止めた。


 たしかに、悪くないどころではなかった。


 派手な大ヒットの数字ではない。ニュースになるような桁でも、書店の棚を一面埋めるような怪物級でもない。けれど、現場で本を作っている人間にとっては十分に手応えのある位置だ。少なくとも、「シリーズ継続を前向きに考えられる」側の数字である。


 胸の奥がじんと熱くなる。


 私は思わず、古びた給湯器の前で目を閉じた。


 四十七歳にもなって、会社の給湯室でそんな顔をするなよと、自分で自分に言いたくなる。だが、嬉しいものは嬉しいのだ。


 高梨へ返信を打つ。


『ありがとうございます。既刊動いているのはありがたいですね。打ち合わせ、日程調整します』


 送ろうとして、指が止まる。


 日程調整します。


 この言い方一つにも、会社員である自分の癖が滲む。もっと作家らしく、嬉しさを前に出した返し方があるのかもしれない。だが、私は結局そのまま送信した。


 その直後、給湯室のドアが開く音がして、私はほとんど反射的にスマホを伏せた。


「失礼します……あ、係長」


 本城だった。経理から今期だけ出向してきている三十二歳の女性社員で、うちの課では書類処理と調整役を広く担っている。派手ではないが仕事が早く、人の空気を読むのが上手い。誰に対しても一歩引いた丁寧さを崩さないところがある。


「すみません、お電話中でしたか」


「いや、もう終わった」


 私はできるだけ自然に答えた。


 本城はマグカップにお湯を注ぎながら、こちらにちらりと視線を寄越す。


「午後の部長説明、助かりました。あの数字の補足、榎本さんだけだと多分まとめきれなかったので」


「まとめるのも仕事だからな」


「係長って、そういう時いつも落ち着いてますよね」


「そう見えるなら得してる」


 彼女が少し笑った。


「見える、じゃなくて、そうなんだと思ってました」


「買いかぶりだよ」


「そうですか」


 本城はそれ以上踏み込まず、湯気の立つマグカップを両手で包む。その仕草が妙に静かで、私はふと、この人はこの人で何か人に見せない疲れ方をしているのだろうと思った。


 職場というのは不思議な場所だ。毎日顔を合わせ、会議も雑談も共有するのに、互いの人生の本筋はほとんど知らないまま何年も過ぎる。


 私は今しがた、自分の本の数字を見て胸が熱くなっていた。彼女はたぶんそれを知らない。彼女がどんな夜を過ごしているのか、私は知らない。


 それでいて、書類の締切だけは共有できる。


「係長」


「ん?」


「朝、ちょっと顔色悪かったですけど、大丈夫ですか」


 私は一瞬だけ言葉に詰まった。


 見られていたのか。


「寝不足だよ」


 半分は本当だ。


「無理しないでくださいね」


「ありがとう。無理しないで済む年齢ならよかったんだけどな」


「その言い方、ちょっとずるいですね」


「ずるい?」


「言われると『そうですよね』ってしか返せないので」


 本城が珍しく少しだけ困ったように笑った。


 私はそれにつられて笑いそうになったが、その時、胸ポケットのスマホがまた震えた。今度は社内ではなく、通販サイトからの通知だ。


『あなたが関連作品を登録しているタイトルが売れ筋ランキング上昇中です』


 どうしてこういう通知はタイミングを選ばないのだろう。


 私は当然見せるわけにもいかず、会話を切り上げるように軽く頷いた。


「じゃ、戻ろうか」


「はい」


 給湯室を出る時、私は無意識に胸ポケットを手で押さえていた。


     ◇


 その日の退勤は、結局八時を回った。


 会社を出る頃には、朝の白っぽい空はすっかり夜になっていた。ビルの谷間に風が抜ける。私は駅へ向かう道の途中で、もう一度だけ朝見た書店の前を通った。


 今度は会社帰りの人たちが何人も店に出入りしていて、入口近くの平台の前に若い女性が一人しゃがみ込んで本を見ていた。私の新刊の前でも何秒か立ち止まり、スマホで何か確認してから、一巻を手に取る。


 胸の奥が、また静かに鳴る。


 私は足を止めなかった。止めたら不審者だし、何より自分が耐えられない。自分の本を手に取る瞬間の読者を、こんな近くで見てしまうのは、幸福すぎて少し怖い。


 駅へ着くまでのあいだ、私は何度もその光景を思い返した。


 一巻を手に取っていた。


 三巻ではなく、一巻だ。


 ということは新しく入ってくれた読者かもしれない。あるいは巻数を間違えただけかもしれない。そんな些細な推測をしている自分が、みっともなくも愛おしい。四十七歳、兼業会社員、現役ライトノベル作家、発売週オリコンランカー。肩書きをいくつ並べても、読者が本を一冊手に取る場面に一喜一憂する小ささは変わらない。


 帰宅すると、夕食はラップをかけて食卓に置いてあった。妻と娘は先に済ませたらしい。メモが一枚、味噌汁の横にある。


『おつかれさま。温めて食べてね。遅くまで大変だね』


 丸い字だった。


 私はそのメモを見て、一日の終わりにしては少しだけまっすぐすぎる気持ちになった。大変だね、と書いてある。会社のことを言っているのだろう。まさか今朝オリコンに入ったことも、さっき知らない誰かが書店で自分の一巻を手に取っていたことも、このメモの書き手は知らない。


 知らないままで、ねぎらってくれる。


 それがありがたいのか、少し寂しいのか、自分でも判別がつかない。


 風呂を済ませ、家の灯りがすべて落ちてから、私は書斎代わりの小部屋に入った。六畳にも満たない部屋だ。壁際に古い本棚が二つ、仕事用と執筆用で兼用している机が一つ、デスクライト、ノートパソコン、資料の山、読みかけの文庫、数冊の見本誌、使い切れなかった付箋、冷めたマグカップの跡がついたコースター。


 部屋に入ると、ようやくもう一人の自分の呼吸が戻る気がする。


 スマホを開き、改めて今日の数字を見る。


 高梨から送られてきた順位。SNSで新刊写真を上げている読者たち。感想サイトで「今巻もよかった」と書いてくれている短い文章。中には手厳しいものもある。会話が地味だ、展開が遅い、もっと強いフックがほしい。そういう声だって、今となっては痛みの一部として受け取れる。


 全部、本物だ。


 読まれている。


 届いている。


 私はしばらく、ノートパソコンの前で何もせず座っていた。


 今日くらいは休んでもいいのではないか、と頭のどこかが囁く。発売週にオリコン入りしたのだ。自分を褒めて、少し眠っても罰は当たらないだろう。


 だが、机の端には次巻のプロットメモが置いてある。高梨はさっき「打ち合わせを早めたい」と言っていた。読者が待っている。編集も待っている。売れている時ほど、次の準備は早くなる。


 嬉しいはずなのに、休めない。


 その矛盾が、私はたまらなく好きで、同じくらいたまらなく嫌いだった。


 ノートパソコンを開く。原稿ファイルのタイトルは『放課後リライト・ノート4_初稿』。カーソルが白い画面の左上で、小さく点滅している。


 何を書こうとしていたんだっけ、と一瞬だけ思う。


 昼の会議、三浦のミス、本城の「無理しないでください」、書店で一巻を手に取った知らない誰か。今日一日で頭の中にいろんな声が入りすぎて、創作の声が少し遠い。


 私はキーボードに指を置いたまま、しばらく動けなかった。


 ふと、机の隅に置いた見本誌が目に入る。帯には、編集部がつけた煽り文が躍っている。売れていることを示す言葉、シリーズ継続の期待をにおわせる言葉。営業的には正しい。ありがたい。けれど、そのどれも、いま画面の前で立ち止まっている四十七歳の男を直接救ってはくれない。


 救うのは、たぶん、次の一文だけだ。


 私は息を吸って、ようやくキーボードを打った。


『その朝、彼は褒められるより先に、会社へ行かなければならなかった。』


 打ってから、少し笑った。


 分かりやすすぎる書き出しだな、と思う。だが、今日はこれでいい。うますぎる一文より、自分の中でちゃんと体温のある一文のほうが大事な夜もある。


 もう一行、続ける。


 その次も。


 十行ほど書いたところで、スマホがまた震えた。


 時間を見る。深夜一時を少し回っている。こんな時間に来る連絡は、担当編集か、緊急の会社案件か、そのどちらかだ。どちらにしてもろくなものではない。


 私は少しだけ身構えながら画面を見た。


 高梨からだった。


『遅くにすみません。今日は本当におめでとうございます。先生の本、ちゃんと届いてます』


 私はその短い文章を、すぐには閉じられなかった。


 先生。


 届いてます。


 昼間、会社では誰も私をそんなふうには呼ばない。呼ばれたくもない。けれど、こうして深夜の机の前で一人になった時、その呼び方にだけ少し救われる自分がいる。


 私は返事を打つ。


『ありがとうございます。明日も会社なので、少しだけ書いて寝ます』


 送信してから、自分で自分に苦笑した。


 少しだけ書いて寝ます。


 作家の返事としては夢がない。だが、これが現実だ。明日も私は会社へ行く。朝はまた電車に乗り、資料を直し、誰かの相談に乗り、会議で頷く。その合間にきっと、また数字を気にしてしまう。


 それでも、いまこの机に向かっている時間だけは、間違いなく自分のものだった。


 私はスマホを伏せ、画面へ向き直る。


 デスクライトの光が、キーボードの端を照らしている。部屋の外は静かだ。冷蔵庫の低い音だけが、生活の続きとして遠くにある。


 嬉しいはずなのに、休めない。


 その事実はたぶん、しんどい。


 でも、しんどいだけなら続いていない。


 私はまた指を動かした。


 四十七歳、現役ライトノベル作家。発売週にはオリコンランカー。だけれど生活はまだ会社員のまま。


 その男は、オリコンに入った朝も、会社へ行った。


 そして今、深夜の机で、次の一行を書いている。


 それが今日の私の勝ち分なのだと、誰にも言わずに思いながら。

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