我思古人
巻之二の開始であることをはっきりさせるために、冒頭部分を少し修正しています(2月18日)
緑兮絲兮 女所治兮
我思古人 俾無尤兮
――『詩経』邶風・緑衣
緑の絲は 女の治むる所
我 古人を思う 尤無からしめよ
緑の糸で衣を縫うのは、女の為すべき仕事。
私が昔の恋人を思っても、咎めないで欲しいのです。
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洛陽へと向かう仕度が整い、陰麗華はホッと溜息をつく。あとは傅子衛将軍の迎えを待つばかりだ。
持って行くものは全て、長櫃一つに入ってしまった。それとは別に、手回りの品を入れた行李。化粧道具と櫛と、僅かな装身具、針道具。旅の間の食事や宿泊は、傅子衛将軍が整えてくれるだろうが、ちょっと水を飲んだりするための椀などは、手の届くところに置いておいた方がいい。――二年前の秋から春にかけて、洛陽から宛周辺を漂うはめになった陰麗華の、教訓だった。
「ごくろうさま、小夏。あなたの準備は大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ。たいしたものもありませんし。着替えなんかは、お嬢様の長櫃の下の方に入れさせていただきましたしね。後は、この行李くらいでしょうか」
「旅ばかりで、ほんとうに、苦労をかけるわ」
陰麗華が忠実な侍女を労えば、小夏は照れ臭そうに笑った。
「とんでもない。お嬢様こそ、こんな苦労をなさるお人じゃないはずなのに……」
「そういう巡り合わせなのよ。……明日は早そうね、今夜は早く休みましょう」
そんな話をしていると、何やら言い争うような声が聞こえ、ドスドスと乱暴な足音と、ガチャガチャと鎧を鳴らす音が聞こえてくる。
「……待てよ、少君、待てったら……」
「うるさい、俺は認めないぞ! 今さら、どの面下げて……」
バン!と乱暴に戸を開けて堂に入ってきたのは、この舎の持ち主の鄧少君だった。彼は見回りにでも出ていたのか、戎装も解かず、兜だけを小脇に抱えている。
陰麗華が茫然と見上げている牀の前までズカズカと大股で近づいて、ポイっと兜を放り投げると、ガッと大きな両手で陰麗華の肩を掴んだ。
「本気か?! 本気で劉文叔のところに行くつもりか?……あの野郎、二年も放置した挙句、今さら麗華を後宮に入れるつもりなのか?」
ただでさえ上背のある鄧少君に圧し掛かられるように見下ろされ、陰麗華は圧倒されて、牀の上に倒れ込みそうになるのを、懸命に手をついて堪える。
「ちょ、ちょっと待っ……」
「この二年、お前がどんな目に遭って、どんな気持ちで待っていたのか、知りもしないで! 許せねぇ、あの、顔ばっかりの腹黒野郎が!」
「少君、痛い、離して……」
握りしめられた肩が砕けそうに痛くて、陰麗華が顔を歪めると、少君は慌てて両手を離した。
「す、すまん……つい、興奮して……」
「少君、先走り過ぎだ。文叔はまだ、後宮に女を集めるほど暇じゃないそうだ。……確かに、洛陽も落ちたばかりで、女にかまけている暇はなさそうだ」
背後から追いかけてきた陰次伯が、鄧少君を宥める。
「だがっ!!」
鄧少君はガッチリした身体ごと陰次伯に振り返り、ぎろりと睨みつけた。
「河北で何とかいう女と結婚したのは間違いないんだろう? 皇帝だろうが何だろうが、女房は一人だけと大昔から決まっている。他は妾にするしかねーじゃねーかよ! 仮にも陰氏の令嬢である麗華を、妾の一人にして囲うつもりか? それも、一度は妻にした女をよ! 以前の何とかいう、郡大夫のクソ野郎以下じゃねーか!」
「……うちは金はあるけど貴族じゃあない。向こうは、もとの真定王の姪だって言うじゃないか。身分の話をされたら、確実に負けるけど……」
陰次伯が気弱そうに言えば、鄧少君はさらに激昂した。
「あいつは麗華だけを愛するって言って、結婚したんじゃなかったのかよ! しかも、去年の五月には邯鄲を確保してるはずなのに、それ以後も一度だって便りも寄こしてこねぇ。なのに今さら、麗華はまだ自分の女房だって、何様のつもりだよ!」
「皇帝さまじゃないの?」
「けったくそわりぃ!」
べっと鄧少君が土間に唾を吐く。横で見ていた小夏が嫌そうに眉を顰めた。
「少君……正式に離縁されていない以上、まだ、妻だと言われてしまうと反論できないの。だから、気乗りはしないけど、洛陽まで行って、彼と話をしようと思って……」
陰麗華が言い訳するように言えば、鄧少君は悔しそうに顔を歪める。
「あんな戦乱の中での結婚なんて、根拠にならないかもしれないって、前に言ってたじゃないか。だから、あいつは河北で別の女と結婚を……」
「そう……思って……文叔さまは、結婚そのものをなかったことにするつもりだと、思っていたのだけど」
陰麗華は目を伏せる。諸侯王の姪にあたる高貴な出身の妻を得るにあたり、以前に結婚していた事実は不都合なものとして、葬り去るつもりなのだろうと。――もしかしたら、新しい妻には、結婚のことは秘密にしているのかもしれない。もしそうなら、陰麗華がしつこく騒ぎ立てれば、彼は困った立場に追い込まれる。文叔が望むのなら、陰麗華は黙って身を引くつもりだったのだ。
だがその場合、文叔の方も陰麗華が妻であった事実を言い出さないというのが、前提条件のはずだ。
しかし、傅子衛将軍の話によれば、文叔は陰麗華を離縁するつもりはないという。彼の中では、陰麗華はまだ、「妻」だと。
陰麗華と劉文叔の婚姻は、宛の官衙の混乱もあって、まだ「官」(届け出)していない。しかし、漢代の法では、「官」して初めて婚姻が成立するわけではない。たとえ「官」していなくても、法的に夫婦と認められ得る。究極的には、お互いが夫婦だと認めればいいのである。
漢代の法は当たり前だが男女平等ではない。夫からの離婚は「棄」「絶」の一方的な通告で可能だが、妻からの離婚は夫の了承が必要だ。――それは、特殊な事情がある場合に、「特にこの場合は妻が去ろうと望んだ場合は(国家が)許す」と、夫の了承がなくとも、国家が介入して特に離婚を認める場合があることから、想像される。つまり、陰麗華から婚姻を破棄しようとしても文叔の了承が必要で、文叔が陰麗華のことを妻だと思っている以上、妻のままなのである。
――ならば、河北で娶った郭氏との関係はどうなるのか。
漢代でも重婚は罪である。だが男は、妻の外に小妻、偏妻と言った妾ならば持つことができた。陰麗華や陰次伯が懼れたのは、文叔が陰麗華を小妻として、そのまま身近につなぎとめるつもりなのか、という点だ。
陰麗華の実家の陰家は、南陽でも有数の富豪である。漢代、公士から列侯に至る二十等の爵位(*1)は、すべて皇帝からの賜与に基づいている。身分社会でありながら、皇帝の絶対的権威の下に、誰もが平等にひれ伏さねばならず、また「編戸の斉民」と呼ばれる自由民の分厚い層が基層を支える、極めてフラットな社会とも言えた。家内奴隷が皇帝の寵愛一つで皇后に登り詰めることもあれば、高位の爵位もあっさり剥奪され、貴族から無爵の庶人へと突き落とされる。陰家は貴族ではないが王侯を凌ぐ資産を有する、所謂る素封家であり、一方、漢の宗室に連なる劉家の資産は、陰家に比べれば微々たるものであった。身分違いとまでは言えないが、むしろ陰家が折れて、列侯家の分家の三男坊のもとに麗華を嫁に出した。二人の結婚は、本来はそういう形であった。
しかし、この戦乱で状況は大きく変化した。河北の有力者の姪を新たに娶った文叔は、河北豪族の支持を得て皇帝に即位し、ついに洛陽を陥落させた。現在の文叔の地位に貢献したのは河北で娶った郭氏であり、陰麗華も陰家も、何の貢献もしていないと言われれば、その通りである。だが一方で、この後、文叔が洛陽以南の潁川郡、南陽郡の支配を確固たるものにするには、陰家の資産と南陽の地縁、血縁は、手放すわけにはいかないのだろう。
ただの一士大夫である劉文叔が、南陽の名家、陰氏の娘を妾にすれば、非難囂々である。だが皇帝ともなれば、ろくに高官も出したことのない、田舎の一素封家の娘を後宮に召し上げるのは、かえって偉大なる恩典とされるだろう。
しかしながら、官と一線を画し、世々田業に生きてきた陰氏だからこそ、斉民としての矜持がある。
かつて、銭の盗鋳の冤罪を脅迫の材料として、郡大夫は陰麗華を小妻に差し出すように陰家に要求し、それを飲まざるを得なかったのは大変な屈辱であった。女を有力者に差し出し、閨閥によって地位と財産を守るなんて、管仲を祖とする、春秋以来の名家のプライドが許さない。それも、一度は「斉しい」妻として嫁ぎながら妾に落とされるなど、これ以上はないほどの屈辱ではないか。――相手が皇帝だろうがなんだろうが、陰麗華や陰家がそれに耐えねばならぬ義理はないのだ。
むしろ陰麗華は「妻」の矜持を維持するために、すっぱり離縁してもらいたかった。愛した夫だからこそ、最後まで、文叔にとって対等な「妻」でありたい。だから文叔に直接会い、離縁の言質を取らねばならない。
「離縁してもらいに行くだけよ。彼の、後宮に入るつもりはないわ」
陰麗華が少君に微笑めば、だが少君は疑い深そうに首を振る。
「あいつは、麗華にものすごく執着してた。手放すとはおもえねぇ」
「でも、妻を二人もつことはできないわ。新しい奥様を迎えた以上、わたしのことは諦めてもらわないと」
陰麗華は無意識に、左手の薬指の指環に触れる。
文叔の出征を見送ってからからいろいろなことがあって、結局、彼からもらったもので、手元に残っているのは、この指環だけだ。
陰麗華が、文叔のものだという証の、銀の指環。
彼にすっぱりと別れを告げ、この指環も返そう。――そんなものは必要ないと言われたら、黄河にでも投げ捨ててしまおう。
陰麗華と文叔の間を引き裂いた、あの濁流に流し、すべて忘れてしまえばいい――。
一瞬、陰麗華の意識が、洛陽の北を流れる大河に向かった時、少君が震える声で言った。
「嘘だ。……嘘だろ、そんなこと言って……やっぱりお前は、あいつのことがまだ、好きなんだろ? あいつに会ったら、お前は絶対、あの口先三寸に騙されて戻ってはこねぇよ……あんな、あんな目に遭ったのによ!」
「少君……」
陰麗華がぎくりとして、少君の顔を見上げる。少君の後ろに立つ兄の陰次伯も、そして陰麗華の隣に控える侍女の小夏も、きっと少君と同じことを考えているに違いない。
そう、陰麗華は文叔を愛していた。――たぶん、今でも。
彼が望むならと、黙って身を引くことを決意するほどには――。
「それは……」
陰麗華は目を伏せた。
彼に会って、彼の口からまだ愛していると言われたら。正式な妻にはできないけれど、小妻として側にいて欲しいと言われたら。素直で従順なだけが取り柄の陰麗華は、きっと頷いてしまうだろう。でも――。
「どうしてだよ、どうしてあんな男がいいんだよ! 勝手にお前を戦乱に巻き込んで、人質みたいに洛陽に置いて行って――その後、お前がどんな目に遭わされるか、脳筋の俺にだって想像できる。その上、新たに結婚までして――!さびしくって、小妻を置いたんでも許せねぇってのに、どっかのお姫様と結婚しやがって! なのにいけしゃあしゃあと! どの面下げて迎えにこれるって言うんだよ!」
「少君、もうやめて――」
「いい加減、目を覚ませよ! あいつはお前を裏切ったんだぞ!」
「少君……」
陰麗華は長い睫毛を伏せ、俯いて、身を震わせる。
「それは――裏切ったのは、彼だけじゃないから……」
その言葉に、鄧少君と陰次伯、そして小夏がはっとして顔色を変える。
「麗華、自分を責めるな! あの時は、どうしようもなかったんだから!」
「そうですよ、お嬢様! もう、いやなことは全部、忘れてしまうべきです! お嬢様が気にされることは何もありません!」
陰次伯と小夏が口々に言い、鄧少君は悔しそうに両手を握りしめた。
「麗華……俺が、奴のことを許せないのはそれだ。一番、苦しんだのは麗華なのに、あいつは麗華に罪悪感まで植え付けやがって!……もう、忘れちまえよ! あんなクズ野郎!」
「うん……そう、すべきなのかも、しれないけど……」
少君の言葉に頷いた陰麗華の、膝の上に置かれた白い手に、ポツンと涙の雫が滴り落ちた。
「でも……わたしも、約束を守れなかった。文叔さまだけを責めることはできないわ……」
鄧少君が陰麗華の前に片膝をつき、目線を合わせて言う。
「……麗華、文叔のとこには行くな。あいつが何を言ってこようが、俺が追い払ってやる。何、皇帝だろうが何だろうが、気にすることはない。だから……」
その真剣な表情に、陰麗華は泣き笑いの表情で首を振る。
「だめよ、少君。……三百人、兵士を連れてきているの。護衛だって名目だけど。もし、少君がわたしを引き渡すのを拒むようなら、力ずくでもって命令したそうよ?」
「俺が、あんな奴には負けるはずない。前に、決闘で俺が奴をぶっ飛ばした現場、お前だって見ただろう?大丈夫、絶対、守ってやる」
大きな手で陰麗華の華奢な両肩を押さえ、必死に説得する少君を、だが陰麗華ははっきりと拒絶した。
「わたしは、小競り合いを起こして欲しくないの。せっかく、落ち着いているのに……それに……実は、これまでも甘えすぎだとは思っていたの。妻でもないのにずっと居候して。……ちゃんと、ケリをつけるわ。お母様は、なおさらわたしを許してはくれないかもしれないけど」
母の反対を押し切って勝手に結婚し、さらに勝手に捨てられた娘を、母は陰家の恥だとして一生、許さないだろう。
「麗華、俺は……お前にずっとここにいて欲しい。……できればその……妻として……」
鄧少君の言葉に、麗華はしかし済まなそうに首を振った。
「……あなたは今では、育陽を守る立派な将軍だわ。何も出戻りを妻にしなくても。それに……」
「やっぱり、文叔じゃねーとダメなのか? 思い切ったって、言ってたのに」
「思い……切ったつもりだけど……でも、それと、これとはまた別なの。文叔さまと別れる決心はとっくの昔についているけど、だからと言って、少君と結婚する決心はつかないわ」
長い睫毛を伏せ、申し訳なさそうに俯く陰麗華を見下ろして、鄧少君は唇を噛む。陰次伯と小夏はそっと、顔を見合わせた。二人とも、少君の気持ちは以前から知っている。しかし、夫に捨てられたからと言って、彼の気持ちを利用するように嫁ぐことはできない、という陰麗華の潔癖さもまた、理解していた。――まだ恋というものの存在すら知らない幼い時に、陰麗華は劉文叔に出会い、彼に恋をした。陰麗華にとって、恋とはただ一途に相手に向ける気持ちだった。恋に破れ愛を失ったからと言って、容易に対象を替えられるものではないのだ。
「ごめんなさい。……やっぱり、もっと早くにここを出るべきだったわ。どうしても、幼馴染の気安さで、あなたに頼り過ぎてしまった。こんなんじゃ、いいお嫁さんも来てはくれないわよね?」
「だから! 俺が来て欲しいお嫁さんはお前だけだから!……だから……いつまでも待ってる。文叔とすっぱり別れて、俺のところへ戻って来てくれないか。俺は、お前を泣かせるようなことは絶対にしない」
陰麗華は困ったように眉尻を下げ、微笑んだ。
「……文叔さまもね、そうやって、何度も何度も誓ってくださった。それでも、どうにもならないことはあるの。だから……待たないで」
「麗華!」
少君の悲鳴のような声に、さすがに陰次伯が見かねて口を挟む。
「麗華、今はまだ右から左に気持ちは動かないかもしれないが、考えてみてくれないか。僕も、少君ならお前を安心して預けられる。文叔は、まさか皇帝になるとまでは思わなかったけれど、最初から少し、胡散臭かった」
「お兄さままで……」
夫に捨てられ、母には勘当された陰麗華が曲りなりにも生きてこれたのは、異母兄である次伯と、幼馴染の少君のおかげである。
陰麗華は返答に困って下を向く。
心が、動くことはおそらくない。陰麗華にとって、少君はあまりに近すぎる幼馴染だったから、恋だの愛だのの対象にはどうしても見られなかった。少君の気持ちは折に触れて告げられていたが、幼馴染としての情があるだけになおさら、生活のためにその手を取るような、打算的なことはしたくなかった。兄の次伯が少君の配下の一将軍として動いているのを言い訳に、少君の家で暮らしていたけれど、やはりいいことではなかったと、陰麗華は今さらながら後悔に苛まれる。
わたしは、卑怯者だ。いつも、言い訳ばかり――。
「……約束はできないわ。でも、もしかしたら、再会してみたら、文叔さまにすっぱり、愛想が尽きるかもしれない。そうなった時に、また、ゆっくり考える時間をちょうだい」
陰麗華がその場しのぎの妥協案を提示すれば、少君は渋々頷く。
「わかった。俺はいつまでも待つ。……俺も、気持ちは生涯変わらないと思うから、お前が、あっさり気持ちを変えられないってのも、わかるつもりだし、無理強いはしたくない」
やはり、どこまでも陰麗華の気持ちを優先してくれる幼馴染に申し訳なく思いながら、陰麗華は無言で頷いた。
*1 二十等爵制
秦代から続く爵制。もともとは敵の首一個で爵一級もらえた軍功爵であった。
0、士伍/庶人 諸説あり
1、公士
2、上造
3、簪裊
4、不更
5、大夫
6、官大夫
7、公大夫
8、公乗 ここまで民爵
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9、五大夫 ここからは、官秩六百石以上のみ
10、左庶長
11、右庶長
12、左更
13、中更
14、右更
15、少上造
16、大上造
17、駟車庶長
18、大庶長
19、関内侯
20、列侯 封国あり
この上に 諸侯王(ただし皇族のみ)




