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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十五章 汝轉って予を棄つ
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 雒陽の陰家の邸第(やしき)に強盗が押し入り、陰貴人の母・鄧夫人と弟・訢が殺害された。皇帝の寵姫の実家であり、かつ、陰次伯は侍中にして陰郷侯であり、陰君陵も黄門侍郎として最側近の地位にある。その家に強盗が入るなど、前代未聞であった。


 まず、陰家の警備が甘すぎた。

 もともと鍵もかけないようなど田舎の、大豪族だ。同じ南陽の豪族でも、半ばヤクザがかった舂陵(しょうりょう)(ちなみに、舂陵は建武六年に章陵と名を変えた)劉氏のような武闘派豪族と違い、陰家は要するに素封家であった。それまでは二千石(にせんせき)官(地方長官、中央の九卿クラスの高級官僚)を出すこともなく、他家から攻撃されることもほぼなかった。加えて、陰貴人の擅寵への批判を躱すために、陰家はことさらに倹約にこれ務めて、壊れた塀の修理も控え、使用人の数も最低限に絞っていた。当然、屋敷を警備する人員もこのクラスの大家にしては異様なほど少ない。


 豪家の邸内で下働きをしながら、いざという時に武器を取る奴隷たちは、往々にして破落戸(ごろつき)と大差がなく、平時には酔っぱらって他家といざこざを起こしたりする。陰家の配下の奴隷たちが他家の奴隷と喧嘩沙汰にでもなろうものなら、陰家の威光を笠にかけた非道だとして、批判の的になる恐れがあった。故に陰家では奴婢もすべて、南陽から連れてきた素行のよい、選りすぐりの者たちに限られ、その奴婢らもちょうど、冬に備えて(くりや)のある庭に集まって酒造りの最中であった。その結果、侵入者に気づくのが遅れたのだ。


「……なんだってそんなことに……」


 片手で額を覆ってしまった文叔に、李次元も苦渋の表情で、首を振る。


「……捕らえられた強盗が申しますには、陰家は女の縁で出世した強欲な家で、さらに警備が緩い。脅して金をとっても官憲に訴え出たりはすまいと……」

「そんな愚かなことが!」

「ですが……」


 李次元が言う。


「実際、陰家の息子が救けを求めて駆け込んだにも関わらず、捕盗役人の対応は遅く、捕り方の到着が遅れました」

「……なぜ、陰家はそこまで雒陽で侮りを受けねばならんのだ! 陰氏の娘は朕の貴人。陰家は朕の外戚であるぞ!」


 ダン!と文叔が拳で牀を叩きつける。李次元が、いかにも言いにくそうに言った。


「それは――世論は、側室である陰貴人が、皇后を差し置いて寵を独占しているのを、好ましからず思っているせいでございましょう」


 李次元の言葉に、文叔は眉間に深い皺を刻み、天を仰ぐ。


「陰貴人におかれましては……さぞ……」


 李次元が文叔を探るように見れば、文叔はぐっと口を引き結んだ。

 事件に衝撃を受けた陰麗華は倒れてしまい、北宮に退去したい、などと言い出している。


「あれは、ただでさえ神経が細い。このような事件、他人事であっても耐えらえまい」

「心優しい方でいらっしゃるから」


 李次元も頷いた。


「母や弟たちを雒陽に呼び寄せるべきでなかったと、悔いているようだ」

   

 ――貴人として後宮にいる陰麗華のために、母の鄧夫人と弟たちは故郷の南陽を出てきた。そして、雒陽で思わぬ奇禍に遭った。陰麗華が自分を責めるのも当然だった。


 ただでさえ、陰麗華は後宮暮らしを負担に思っている。今度こそ本当に、文叔の元を去りたいと願い出るのではと文叔は気が気でなく、何としても陰麗華を慰めたかった。文叔は深いため息を漏らすと、李次元に言う。


「せめて殺された弟に封爵と(おくりな)を与えてやりたいが……」

「貴人の、でございますか? 前例にないことでございます」

 

 今度は李次元が眉間に皺を刻む。

 漢代、皇后の父や男兄弟が封侯を受けるのは慣例であった。郭聖通についても、皇后冊立と同時に弟の郭長卿が緜蛮(めんばん)侯に封じられている。一方、陰麗華の兄・陰次伯が陰郷侯なのは、これは外戚としての封侯ではなく、自身の軍功によるものである。陰麗華の弟、陰訢はまだ出仕していないから、これに爵位と諡を追贈するには、理由がいる。


「……貴人の父、陰陸もまだ封侯していない。鄧夫人を顕彰するためにも、彼女の夫の故・陰陸を追封したいのだが……」


 もともと、女性には爵位はなく、夫の爵位に合わせて身分が決定される。亡き鄧夫人にしかるべく礼遇をと思えば、陰陸に封侯するのが一番よい。だが、李次元はにべもない。


「皇后以外の貴妾の父兄を封爵した故事はございません」


 正妻である皇后の父兄を封侯することは前例もあり、また儒教の論理に照らしても妻の父母の優遇は認められている。だが、皇后以外の貴妾の父兄の封侯を許せば、寵姫の一族がはびこる道を開いてしまう。


「陰麗華は……」


 文叔は目を閉じ、絞り出すように呟く。


「陰麗華こそ、朕の妻だったのに――」

「それを、公表せぬように陛下に求めた、(それがし)の罪でもございます」


 河北での、孔子の道に反した文叔の重婚を糊塗するために。あるいは、一度は棄てた妻を手放すことができず、妾として側に置き続けた文叔の醜い執着を誤魔化すために。

 そのツケを黙って支払い続けてきたのは陰家であり、その結果がこれだ。


「次元、これ以上の欺瞞を貫いて、我が最愛の妻とその家族を苦しめることは許されまい。それは天も嘉せぬことだ」


 文叔の言わんとする意味を理解し、李次元も頷く。


「今となれば、陛下への非難も口を噤む者が多うございましょう。幸い……と申しますか、耿伯山も雒陽には不在でございますれば」


 大司空・李次元の了承を得、文叔は陰貴人の亡父、陰陸を宣恩哀侯に、事件で殺された弟の陰訢を宣義恭侯に追爵する詔を下した。

 後世の皇帝と異なり、漢代の皇帝は自ら詔勅を書いていた。当然、この詔も皇帝文叔自身の手によるものである。建武九年のこの詔において、文叔は初めて、河北に赴く以前から――つまり、郭聖通と結婚する以前より――陰麗華と婚姻関係にあったことを認めたのである。


「私はまだ皇帝に即位する前の身分卑しい時に、陰氏を娶ったが、兵を引きいて征伐に赴き、互いに別れ別れになってしまった。幸い命を全うすることができ、どちらも危険な状態を通り過ぎていた。陰貴人は母としての優れた美徳があるため、当然、皇后の位に立てるべきだったが、しかし、みずから固辞して側室の地位に甘んじた。朕は彼女の謙譲の精神を素晴らしいと思い、せめて弟たちを封侯したいと思っていたが、それに及ばぬうちに母と子と、ともに奇禍に遭い死んでしまったのは、心から憐れでならない。詩の小雅・谷風の詩にも、「将に恐れ将に懼れんとす、惟だ予と汝とのみ。(まさ)に安んじ将に楽しまんとするに、汝 (かえ)って予を棄つ」と歌われている。詩の風刺し、戒めとするところ、慎まずにおれようか。

 それ、陰貴人の亡き父・陰陸を宣恩哀侯に追爵して諡号を贈り、弟の訢は宣義恭侯とせよ。弟の就には父・哀侯の後をついで、宣恩侯を継がせよ。さらに柩はまだ堂にある状態で、太中大夫に命じて列侯の印綬を拝受せしめ、領国で亡くなった列侯の礼と同様にせよ。死者の魂に霊があるならば、この栄誉を喜んでくれると思う」





 事件の衝撃で臥牀に伏してしまった陰麗華は、詔のことを鄧曄将軍から知らされて、思わず起き上がった。


「……お父さまを列侯に?」


 もう二十年も前に亡くなった父に列侯爵を、と言われても、陰麗華にはピンとこない。もともと、南陽の農家の出で、官位や爵位といったものへの執着は薄い。


「そんなことをしても、お父さまが喜ぶかしら……?」


 陰麗華は亡父のことは大好きで、いまだに思い出せば涙の滲むことがあるくらいだが、封侯して欲しいなんて、考えたこともなかった。列侯爵というのは、軍功を挙げた人への褒賞だと思っていたからだ。


「皇后の父親は封侯するのが漢の習いですから、それに準じたのでしょう」


 鄧曄将軍の言葉に、陰麗華は眉を寄せた。


「そんな……長秋宮さまがなんとおっしゃるか……」

「本当はお嬢様を皇后にしたかった、ってハッキリ、詔で仰ったんですって」


 小夏が温めた(あまざけ)を目の前の机に置きながら言う。陰麗華はますます目を剥いた。


「なんですって! なんてことを!」

「それどころか、挙兵前からお嬢様と結婚していたことを、とうとう、告白なさったのですよ! やっとですよ! 今さらですけど、言わないよりはマシですよ」

 

 すっかり血の気が失せてしまい、陰麗華は青い顔で臥牀の上に座り直す。鄧曄将軍がそっと、その肩に綿入れの上着を着せかけた。


「今度のこと、陛下もかなりの衝撃を受けていらっしゃるのさ。それで、反省なさった」

 

 陰麗華は目を伏せる。


「陛下のせいではないわ。……結局はわたしが――」

「そう言う風に、すぐ、ご自分をお責めになる。千秋殿さまの悪い癖ですよ」


 鄧曄将軍に言われても、陰麗華はため息をつくばかりだ。


「お母さまには、苦労ばかりかけて……まさか、あんな……」

 

 思わず両手で顔を覆う陰麗華に、鄧曄将軍が言った。


「そのための、亡き父上への封爵ですよ。夫が列侯になれば、妻は列侯夫人。お葬式も、その格式で行うことになりますから……」

「……列侯夫人……」


 陰麗華は母の生前の姿を思い浮かべる。いつも髪を二つにわけてうなじのところでまとめる簡素な髪型に、地味な曲裾深衣。何かの用で宮中に上がる時は少しだけ装いをこらしていたようだが、田舎の主婦の体面を崩さなかった。


 ――母は、そんな名目など不要だったろう……


「雒陽になど、呼ぶのではなかった……」


 陰麗華は自分を責めるように呟いた。




 その夜、千秋万歳殿を皇帝が訪れた。

 文叔は陰家襲撃の後始末に追われ、陰麗華は体調を崩してしまったから、ここ数日間、文叔は却非殿の後殿で一人で休んでいた。

 陰麗華の体調が上向いたと聞いて訪れたのである。


「ちちうえ!」


 五歳になる陰麗華の長男の子麗――文叔の皇子としては四番目――が、父親に駆け寄る。


「おお子麗! 数日来られなかったが、いい子にしていたか?」

「はい! ははうえのおぐあいがよろしくないときいて、ぼくはおとうとたちのめんどうもみました!」


 ニコニコと父に話しかける子麗を抱き上げ、文叔が言った。


「そうか、偉いな、子麗!……母上のおかげんはどうか?」

「すこしおげんきになったそうです。おひるはごいっしょにいただきました!」

「そうか!」


 奥の、陰麗華の房室(しんしつ)から、(いぬ)(リュウ)が巻いた尻尾を振りながら出てくる。茶色い毛並みに、白いものが目立つ。

 文叔は片腕に子麗を乗せ、柳の頭を軽く撫でてやりながら思う。


 ――もう、この狗を飼って七年、八年か――


 少なくともそれだけの年月を、陰麗華は後宮で過ごしている。 

 柳に続くように、襦衣の上に上衣を羽織った陰麗華が房室から出てきた。

 普段は高髷に結っている髪も、今はかつてのように二つに分け、うなじでまとめた簡素なもの。


「麗華。……もう、いいのか」


 文叔が声をかけると、陰麗華はそっと目を伏せて頭を下げる。


「はい……取り乱しまして、ご迷惑をおかけいたしました」

「いい。当然のことだ。……すまなかった」

「文叔さまが詫びられることでは……」


 両親のやり取りから、敏い子麗はなんとなく、母の周囲でよくないことが起きたのを気づいているのだろう。

 廊下の方からやってきた小夏が声をかける。


「先にお食事になさいますか? 子麗さまもご一緒に?」

「ああ、そうしてくれ。麗華は粥か何か、軽いものの方がいいかな?」

「ええ……そうしてください」


 文叔が堂の牀に腰を下ろして安座し、その膝の上に子麗が座っていると、乳母が次男の蒼の手を引き、二月に生まれたばかりの皇子(けい)を抱いて入ってきた。父の姿を目にした蒼は乳母の手を振り払って文叔のもとに駆けていく。


「ちちうえ!」

「おお、蒼も起きたのか。父上のお膝においで」


 子麗は幼いながら利口で、すぐに弟に父の膝を譲れば、その膝に当然のように蒼が座った。


「蒼もいい子にしていたか?」

「はい! でも荊はきょうも、たくさんなきました」

「そうか。赤子はそれが仕事だからな」


 文叔が総角(あげまき)にした皇子の頭を撫でる。乳母は陰麗華に近づき、布に包まれた赤子の荊を陰麗華に手渡す。難産だった荊はいささか気難しく、育てにくいたちだった。陰麗華が赤子をあやしていると、もう一人の乳母が六歳になる義王を連れてくる。こちらは魏宮人の忘れ形見で実子ではない。だが、なるべく分け隔てせず、家族の団欒は共にするように心掛けていた。


「こちらにお座りなさい」


 陰麗華が声をかけ、義王が頷いて陰麗華の牀に座る。


「父上、いらっしゃいませ」

「ああ」


 丁寧に頭を下げる娘にも、文叔は軽く頷く。もともと陰麗華に似ているとの触れ込みで嬪御に上がった魏宮人の子であるから、義王もなんとなく陰麗華に似たところがあり、事情を知らなければ生さぬ仲とは思わないだろう。


 やがて侍女たちが食事の(おぜん)を運んできて、小夏らの給仕で家族で夕食を囲む。野菜中心で、干し肉と洛水の魚の煮つけが添えられた、質素な料理が並ぶ。


「ホラホラ、こぼすなよ。……蒼、ほっぺに飯粒がついてる。子麗! 干し肉を丸のまま齧るんじゃない。小さくちぎってから食べる! お行儀が悪いぞ」


 幼い息子たちに、煮つけにした魚の骨を外して取り分けてやる文叔は、田舎の当たり前の父親と変わらない。次男の蒼は匙を握り込んで粥をかっこみ、丸い頬には飯粒がついている。それを摘まみ取ってやりながら、文叔は干し肉を大きなまま齧って食べようとする子麗を窘める。

 ――もし、文叔が挙兵しなければ、南陽の片田舎で続いたであろう暮らし。

 皇帝となっても、ごく普通の士大夫の家族の日々を守ろうとする文叔は、やはりどこかに無理をしているのではないか。

 

 陰麗華はふと、長秋宮の皇后のもとで過ごす、息子の異母兄弟たちを思う。

 今、我が子が父親である文叔に甘えているこの時、あちらの兄弟たちは父親不在の食膳を囲んでいることになる。

 

 文叔は、詔で河北に渡る前から陰麗華を娶っていたと告白した。当然、郭聖通の耳にも入っているだろう。彼女はどう、思っているか――


「……麗華?」


 呼びかけられてハッと顔をあげれば、文叔が不安そうにこちらを見ている。慌てて笑顔を作り、首を振った。


「なんでもありません」

「そうか? ならいいけど……」


 文叔が小夏に声をかける。


「おーい、白湯をくれ」

「はい、ただいま!」


 粥を食べ終えた漆塗りの椀に白湯を満たし、かるくすすいでから美味そうに飲み干して、文叔が椀を案に置く。


「ちちうえ! きょうはあそんでくださるやくそくです!」


 文叔の膝の上に座った蒼が言えば、文叔が口ひげを布で拭いながら笑った。


「おお、そうだったな! 少しだけならいいぞ。何をする?」

「おすもう!」

「ボクも!」


 兄弟が口々に言い、文叔は二人を両腕に抱えて牀を降りる。脇に伏せていた狗の柳が立ち上がって、三人についていく。

 陰麗華の隣に座る娘の義王が、少しだけ羨ましそうな表情をするが、すぐに視線を落として、大人しく食後の白湯を飲んでいる。

 六歳になる彼女に陰麗華は何も告げてはいないが、すでに麗華が実の母ではないと知っているようだ。

 ――後宮で、その手の秘密に口を噤むことなど不可能だ。陰麗華はただ、彼女に誠心誠意相対するよりしようがない。


 陰麗華は小夏に命じて杏の蜜漬けを持って来させて、小皿にとり、勧める。


「お食べなさい」

「は、はい。母上さま」


 慌てて顔をあげ、コクコクと頷く義王の、伸ばし始めたまっすぐな黒髪を撫でてやると、義王は照れたようにはにかみ笑いをした。

 ガランと広い堂の一部を宦官たちに片付けさせ、「よーし、来い!」と言って子供たち二人を同時に相手取る。


「こら、蒼、足取りは反則だぞ」

「えい!えい!」

「おお、危ない、危ない! あと少し!」


 荒っぽい遊びをする男児二人と夫を心配そうに見やって、陰麗華は「しょうがない」と、義王に肩を竦めてみせる。ふいに、幼い頃の南陽の家での思い出と、今は亡い母と弟の面影が脳裏によぎって、涙がこみ上げてきて、そっと目じりを拭う。


「母上さま……?」


 不安そうに自分を見上げる義王に、陰麗華は急いで微笑みかけた。


「なんでもないのよ。ちょっとね……」



 


 夜、子供たちは乳母に連れられてそれぞれの部屋に下がり、陰麗華と文叔は奥の(しんしつ)に二人きりになる。


「その……」


 臥牀の上に座り、陰麗華が膝の上で両手を重ねるように、薬指の銀環を握りしめた。


「父と、弟に列侯爵を追贈いただいたそうで……ありがとうございます」


 冠を外していた文叔が、陰麗華を振りかえる。


「ああ……こんなことしかできなくて、すまない。陰家には、本当にすべての厄介を押し付けるかたちになっていた。もっと早くこうしていたら……」

「河北に行く前にわたしと結婚していたことを、公表なさったと聞きましたが……」

「ああ……」


 陰麗華は詔自体は見ていないし、見てもおそらく読めないだろう。

 

「……その、長秋宮様はなんて?」

「長秋宮がどうしたかは知らない」


 文叔は冠を臥牀の脇の机の上に置くと、陰麗華に向き直り、じっとその顔を見つめた。


「僕は、君を皇后にするつもりだった。君こそ、僕のただ一人の妻で……言い訳になるが、僕が望んで裏切ったわけじゃない。でも、結果的に君を傷つけた」

「文叔さま……」


 文叔は目を伏せ、安座した両膝をそれぞれ握りしめた。

 

「君の、母さんが僕を恨むのは当然だ。もともと結婚も反対していたようだし。……まして、側室の地位に落としても手放さず、あの人を無理に雒陽に呼び寄せた」

「母も、納得していたことですから……」


 陰麗華は俯き、自身の揃えた膝に視線を落とす。


「鄧夫人を、皇后の母の格式で送りたい。今さらかもしれないが、僕の……せめてもの誠意だと思ってくれないか」


 陰麗華は礼法に詳しくないが、「婦人の爵は夫に従う」というのは知っている。漢代にも封君(ほうくん)といって女性に対する封号を賜うことはあるが、文叔は陰麗華の亡父を追爵することにより、陰麗華の母の爵位を上げる方法を選んだ。――それは要するに、陰麗華を皇后とほぼ同等に扱うということで――


「長秋宮様のお気持ちを考えますと、そこまでしていただかなくとも……」 

「今回の件は、陰家に対する批判が集まるままにしてしまった、僕の落ち度だ。君は糟糠の妻から寵愛を奪ったのではなく、君こそが糟糠の妻なのだと、きちんと表明するべき時期が来ているんだ」


 陰麗華が顔を上げれば、文叔の黒い大きな瞳と目が合う。覚悟を決めた表情に、陰麗華はただ頭を下げた。


「……ありがとうございます。兄や弟への批判がこれで和らぐならば、わたしは何も……」

「だから、麗華」


 文叔の手が伸び、陰麗華の頬に触れる。


「こんなことになって……すまないと思っている。でも、僕から離れるなんて思わないで」 

「文叔さま……」


 真正面から見つめる漆黒の瞳が不安そうに揺れているのを見て、陰麗華は諦めたようなため息をついた。


「そもそも、わたしが最初に、母よりも、故郷よりもあなたを選んだのです。結局、わたしはあなたから離れられなかった――」

「……麗華」


 文叔の指先が頬を滑り、陰麗華の耳に嵌る耳璫(みみだま)に触れる。文叔の、執着の証。陰麗華を文叔のところに繋ぎとめる、白玉の小さな枷。


 身体髪膚、之を父母より受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。


 ――親不孝を積み重ねた挙句、お母さまはあんな形で命を落とした。わたしが、文叔さまに嫁いだせいで。親の命に背いて嫁ぎ、捨てられて、そして囚われて――


「麗華。僕が、君を縛りつけた。君は自分を責めるのはやめなさい」


 文叔は両手で顔を覆った陰麗華の、細いうなじを掴んで抱き寄せ、耳朶に口づける。


「孔子の道に背いても君を手放さなかった僕を、君の母上は恨んでいただろう。こんなことで、許してもらえるとは思ってない。でも今はまだ、これしかできない。いつか――」


 それ以上の言葉を聞くのがおそろしくて、陰麗華はギュッと目を閉じた。


引用の詔(『後漢書』皇后紀・光烈陰皇后)

【訓読】

(建武)九年、盜の后(陰麗華)の母鄧氏及び弟訢を劫殺せることあり、帝甚だ之を傷めば、乃ち大司空に詔して曰く、「吾れ微賤たりし時、陰氏より娶るも、兵を将いて征伐せるに因り、遂に各おの別離す。幸いにも安全たるを得、俱に虎口を脱せり。貴人に母儀の美有るを以て、宜しく立てて后と為すべきも、而れども固く辞して敢えて当たらずとし、媵妾に列せらる。朕 其の義讓を(よみ)し、許くか諸弟を封ぜんとす。未だ爵土に及ばずして、而るに患に遭い禍に逢い、母子命を同くし、(こころ)に愍傷す。小雅に曰く、『將に恐れ將に懼れんとするは、惟だ予と汝とのみ。將に安んじ將に楽しまんとするに、汝(かえ)(われ)を弃つ』と。風人の戒、慎まざるべけんや? 其れ追爵謚して貴人の父陸を宣恩哀侯と為し、弟訢を宣義恭侯と為し、弟就を以て哀侯の後を嗣がしめよ。及び尸柩 堂に在り、太中大夫をして印綬を拜授せしむること、在国列侯の礼の如くせよ。魂にして霊有らば、其の寵栄を嘉せん!」と。


【原文】 

九年,有盜劫殺后母鄧氏及弟訢,帝甚傷之,乃詔大司空曰:「吾微賤之時,娶於陰氏,因將兵征伐,遂各別離。幸得安全,俱脫虎口。以貴人有母儀之美,宜立為后,而固辭弗敢當,列於媵妾。朕嘉其義讓,許封諸弟。未及爵土,而遭患逢禍,母子同命,愍傷于懷。小雅曰:『將恐將懼,惟予與汝。將安將樂,汝轉弃予。』風人之戒,可不慎乎?其追爵謚貴人父陸為宣恩哀侯,弟訢為宣義恭侯,以弟就嗣哀侯後。及尸柩在堂,使太中大夫拜授印綬,如在國列侯禮。魂而有靈,嘉其寵榮!」



詩経・小雅・谷風

習習谷風、維風與雨。將恐將懼、維予與女。將安將樂、女轉棄予。



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