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世界の謎

第一章


     一


 水路から立ち昇った霧の漂う、まだ薄暗さの残る早朝。岫壑と見張りを交替した香霧は、昨夜のことを報告する為、早速に侍従長室へと歩廊を歩いていた。さらっと黒髪を揺らして人影が近付いてきたのは、彼が内苑の横を通っている時だった。

「崇阿」

 呟くように名を呼んだ香霧に、内苑から現れた、黒髪を頭の両側で束ねた少女は、複雑な笑顔を見せる。

「やっぱり、最後に挨拶していこうと思ってね」

 香霧は微かに顔を曇らせた。崇阿と目が合うのを避けて歩廊の先へ視線を向け、僅かな沈黙の後に、厳しさを含んだ口調で問う。

「……これから、どうするんだ……?」

「――急峡でも、捜しに行くさ」

 崇阿は、香霧の想像以上にあっけらかんとして言った。

「急峡……、前五戊の、あの人か」

 香霧は眉をひそめて崇阿を見る。狸族で、現五戊の沛沢と入れ替わりに〈十幹〉を抜けた男。狗族の間では、狸族を狗王国に売った男として知られている。

「まさか、狗族の考え方に毒された訳じゃないだろう?」

 崇阿は、香霧の懸念を一笑に付した。言葉の裏には、同じ中犲族だろうという意識が濃厚に感じられる。

「私は、ここに仕える侍従だ」

 香霧は顔をしかめて言った。

「うん」

 崇阿は爽やかに微笑む。

「頑張れ」

 一言残して、束ねた髪をまたさらっと揺らし、内苑を抜けて外宮の方へ戻っていった。その後ろ姿を見送ってから、香霧は再び歩き出しつつ、

「言われなくても。お前こそ」

 口の中で小さく呟いた。


          ◇


 また、あの部屋だった。明かり取りの窓から僅かな光が差し込むだけの暗がりの中、部屋には、いろいろなものが並べて置かれている。けれど、彩雲は、いつものようにそれらを眺めるのではなく、部屋の奥へと向かっていた。いろいろなものは、広さの分かりにくい、暗い部屋の両脇に所狭しと置かれていて、部屋の中央が、通路のように空いている。そこを、彩雲は奥へと歩いて行く。何故か、奥が気になる――。

 ふっと目が覚めて、彩雲はうっすらと目を開けた。浅い眠りの中で見たのは、このところ何度か見た、知っているようで知らない部屋の夢だ。しかし、今までとは夢の雰囲気が違った。今までの夢の中では、彼女は安心して、ものを眺めるのを楽しんでいた。ところが、今日の夢の中では、彼女はぼんやりとした不安を感じていた。奥にあるものを気にして歩いて行きながら、行きたくないという矛盾した思いを抱えていた。

(不安……だからかな……)

 布団の中でゆっくりと寝返りを打って、彩雲は思う。現実の不安が、夢に影響したのかもしれない。

(雪渓――)

 彩雲は胸中で呟いて、首から下げた飾りを肌着の上から握った。明かり取りの窓から差し込む光は、薄っすらと白く明るい。もう朝なのだった。


          ◇


 人態になり、横木を外して窓を開けると、爽やかな朝の大気が心地良い涼しさで流れ込んできた。昨日に続き、晴天である。雪渓はそっと目を閉じて、顔に微風を感じた。心は、静かに落ち着いている。気持ちは、定まっている。雪渓はゆっくりと目を開き、琥珀色の澄んだ双眸で朝の白っぽい風景を見つめてから、窓辺を離れた。

 いつも通り、一欠けらの干し肉を飲み下し、水差しから水を飲むと、雪渓は大太刀を手に取った。為すべきことはただ一つ。勝利者となって、九壬であり続けることである。雪渓は、シャァッと鞘から大太刀を抜き、その鋭利な刃を確かめて鞘に戻すと、いつも通りに背に負って、部屋を出た。だが、ひたと前を見つめた彼の双眸は、いつも以上に冷徹に、揺るがない意思を湛えて炯々としていた。


          ◇


 部屋の奥で黙々と仕度をする黒雨を、沙磧は入り口に立ち、腕組みして遠目に見つめていた。

 黒狼族の青年は淡々としていて静かだった。ただの一言も口を利かず、立てる物音は最小限であり、動く様子はむしろ穏やかと形容できる程だった。

(昨日の朝より、一層静かだな)

 沙磧は冷静な観察を心に浮かべてから、観察者になっている自分を恥じた。沙磧自身も、黒雨を利用して復讐を為そうとしている復讐者である。高見の見物人を気取るべきではないと分かっている。だが、実際に手を下そうとしている黒雨の様子は、どうしても気にかかるのだった。

(静かなのは、より決意を固めたということだろうか)

 幾ら裏切り者でも、かつては仲間だった、知っている相手である。付き合いの長い相手に、ただ一つの感情しか抱かないということはあり得ない。相手の様々な側面を、或いは憎み、或いは愛する。全てを憎むことも難しければ、全てを愛することも難しい。ただ、全てをひっくるめたその人を憎むか愛するか、だ。だが、殺したい程の憎しみは、なかなか持てるものではない。長く付き合えば、様々な側面の中の、いいところも見えてくる。いいところを少しでも知っている相手は、なかなか殺せるものではない。それでも。

(お前はもう、躊躇なくあの青年を殺すのか)

 知っている相手であればこそ、募る憎しみがあることも、沙磧は知っている。

(そしてあの青年も、〈十幹〉であり続ける為に、お前を迎え撃つのか)

 ふと、哀しいと感じて、沙磧は頭を振った。それは、今となっては考えてはならない、余計なことだった。


          ◇


 大王の私室に現れた皦日の顔色は、心なしか悪いように見えた。鉄面皮と陰口される侍従長には珍しいことである。昨日の失態の所為かと訝り、玄穹は重々しく問うた。

「例の猿族の件はどうなっておる」

「今暫く、時を頂きとう存じまする」

 皦日はさらりと返答した。猿族の戦士を勝たせられなかった失態を気に病んでいる様子は、微塵もない。皦日が徹夜したことを知らない玄穹は、僅かに不機嫌になりながら、

「早急に致せよ」

 と言って、話を次へ進めた。

「して、今日の対戦の組み合わせじゃが、第三戦は、乾州侯女より願いが出ておった故、九壬と乾州侯配下の黒狼族。第四戦は、獺族同士、三丙と艮州侯配下の北獺族とする。なにか異論はあるか?」

「畏れながら」

 皦日は少しも「畏れ」ていない口調で言った。

「なんじゃ」

 玄穹は不機嫌を顕にした声で先を促した。

「白狼族と黒狼族の対戦は、午後になさった方が宜しかろうかと存じまする」

 皦日は恭しく答えた。

「何故じゃ」

 玄穹は間髪を入れず問うた。

「観戦を希望する者が多数あると考えるからでございます」

 皦日は言って、目を上げ、珍しくまともに玄穹の顔を見る。

「白狼族と黒狼族の間の因縁は周知の事実。両狼族の対戦となれば、これは、今大会中、最も注目を集める対戦となりましょう。朝、対戦組み合わせを発表なされてすぐ対戦では、貴族の方々の期待が高まる時間がございません」

「行うからには、盛り上げよということか」

 玄穹は不機嫌を和らげ、顎に手をあてて考える。

「御意」

 皦日は頭を垂れて、そのまま玄穹の結論を待っている。

「よかろう」

 玄穹は長く待たせずに結論を出した。

「ならば、第三戦を獺族同士の対戦に、第四戦を狼族同士の対戦とする」

「御意のままに」

 皦日は決まり文句で答えて、大王の私室を辞した。



 侍従長室へ戻った皦日は、机の前の椅子に腰を下ろして、小さく吐息を漏らした。早朝、広場から王宮へ戻ってきて、自分の私室に立ち寄った後、この侍従長室へ来ると、香霧が既に待っていて、真夜中に猿族が人間を奪いに来たと報告した。結果、人間は奪われなかったものの、人間の血が凄まじい臭いであることが分かったという。しかも、人間が、自分で自分の血を流した、つまり、人間自身が自分の血の威力に気付いたというのだ。

(いずれ気付くだろうとは思っていたが……)

 皦日は簾越しに柔らかな朝日を届ける窓を見つめて考える。この事態を厄介と見るべきかどうか。どう対処するかを決めない内は、玄穹に報告する訳にいかない。

(とにかく、壬雪渓の対戦は今日の午後にした。第四戦が終わるまでは、逃げようなどとも思わぬだろう)

 皦日の読みが正しければ、ヒトとあの白狼族の青年との絆は、相当に強くなっているはずである。現に、香霧の報告でも、ヒトは逃げられるのに逃げなかったという。或いは、壬雪渓というよりも、昨日小犲族の戦士が勝利したことが大きいのかもしれないが、いずれにせよ、今のところヒトは逃げる意思を持っていない。

(より切迫した問題は、猿族の方か……)

 私兵達に与えた指示では、殷雷が再び内宮まで侵入を試みた場合、それを防げない可能性がかなりある。

(内宮の中は、やはり、衛兵と侍従に守らせるしかあるまいな)

 皦日が雇っている私兵達は非公式の存在であり、内宮に入る資格を有していない。そんな者達を内宮に入れては、皦日の責任問題になってしまうのだ。

(しかし)

 皦日は眉間に微かに皺を寄せた。衛兵と侍従に〈生まれながらの人〉を警備させることは、既に香霧を通じて行わせてある。けれど彼らが殷雷を捕らえた場合、その身柄を侍従長である皦日が預かるというのは少々不自然なのだ。諸官の誰かが必ず苦言を呈するだろう。特に、内宮の治安を司る近衛大将などは、面白くない顔をするはずである。

(大王に、巧い取り成しをさせねばな)

 半ば無意識に、皦日は再び吐息を漏らした。


     二


 残星に、随分な距離を走らせてしまったのだと、今更ながらに実感していた。漸く地平の向こうに城壁が見え始めた時、朗月の四肢は熱を持ち、咽は微かに血の味をさせて痛んでいた。けれど、そんなことはどうでもいい。平原の彼方、朝日はまだ低い位置にある。

(間に合った……)

 牙の間からだらりと舌を垂らしたまま、朗月は、川沿いを城壁へ向かって歩く。ここまでは、残星が走ってきた道を、匂いを頼りに逆に辿ってきた。だが、川の流れに身を任せて城壁内から出てきたらしい残星の匂いは、既に途切れている。ここからは、自分で侵入経路を捜して城壁内へ入らなければならない。

(とにかく、早く入らないと……!)

 朗月は注意深く城壁を観察しながら、風下から近付いていった。

「――珍しい部族がいるじゃないか」

 女の声は、突然背後から聞こえた。朗月がびくっとして振り返ると、そこに、灰色の髪の小柄な女と、もう一人、黒褐色の髪の長身の男が立っていた。

(しまった……!)

 朗月は動揺しながらも、素早く飛び退って二人から距離を取った。自分が城壁の風下にいることだけを考えていた。自分の風下から誰かが来るなどということは、考慮に入れていなかったのだ。

(二対一では不利だが……)

 朗月は頭を低くして身構えながら考える。二人は兵には見えない。朗月に対する敵意も感じられなかった。

「人態になりな。話をしよう」

 女の方が言った。鼻を向けて漸く嗅げた匂いから、彼女は紛れもなく狗族だと分かる。本来なら敵だ。しかし、話をしたいのは、むしろ朗月の方だった。彼はすっと人化して、女と男を見つめた。

「あんた黒狼族だろう? 王都になんの用だい?」

 女は単刀直入に訊いてきた。

「知り合いに、会いに」

 朗月は用心深く答えた。

「王都に知り合いがいるのかい?」

 女は探るように言ってから、不意に大きな両眼をぱちっと瞬いて、まじまじと朗月を見る。

「もしかして、闘技大会に黒狼族が出てるのか?」

 朗月は女をじっと見返して、如何なる反応が返ってくるのかと身構えながら、低い声で肯定した。

「――ええ」

「そういうことか」

 女は嘆息するように言うと、傍らの男を振り返る。

「となると、私らも全く無関係という訳じゃないね」

 男は微かに渋い顔をしたが、否とは言わなかった。

「じゃあ、まず自己紹介だ」

 気さくに言って、灰色の髪の女は穹円と名乗り、続いて、男が(こう)冽泉と名乗った。朗月もまた自らの名を告げて、改めて二人を見つめる。匂いから獅族と知れた男が〈十幹〉の一甲であったことは、自分にとって幸運なことなのかどうか、今一つ掴めない。そんな朗月の戸惑いを察してか、穹円が、安心させるような笑みを浮かべて言った。

「とりあえず、私らと一緒なら外の城壁の城門は通れる。王都に入りたいんだろう?」

「――それは、俺を、王都へ入れてくれるということですか?」

 朗月は警戒を解かずに確かめた。

「ああ」

 穹円は気安く頷く。

「外の城門を通すだけなら、あんたみたいな子供一匹、大した問題じゃないさ」

「――そうですか……」

 朗月は少し考える。穹円の言葉に嘘はないように思える。そう思う自分の勘を信じるなら、彼女の申し出は有り難い。外の城壁だけでも容易く通過できれば、それに越したことはないのだ。できることなら内の城壁を通過する算段もつけたいが、贅沢を言っている場合でもない。

「では、宜しくお願いします」

 朗月は真摯な眼差しで穹円を見つめて、頭を下げた。


          ◇


 身支度を整え、朝餉を食べ終えた少女は、いつものように寝台に腰掛けていたが、小さく貧乏揺すりをしていて、いつになく落ち着かなげに見えた。

「……どうかしたんですか?」

 とうとう岫壑が問うと、人間の少女は目を上げて、彼を見た。不安げな眼差し、決意しあぐねているような重苦しい表情だった。ひどく深刻そうな様子である。

「どうかしたんですか?」

 岫壑は、思わず問いを繰り返していた。少女は微かに顔をしかめ、貧乏揺すりを激しくして視線をさ迷わせた挙句、言いにくそうに、一つの問いを口にした。

「――今日……、……闘う……?」

 かなり省いた問い方だったが、岫壑は、彼女が問わんとしたことを正確に理解した。

「まだ発表されてないので分かりませんが」

 一応答えて、狗族の少年は人間の少女の顔を窺う。

「発表が為され次第、報せましょうか?」

 少女は、ちらと岫壑の目を見ると、重苦しい表情をしたまま、床に視線を落として無言で頷いた。


          ◇


 西大門の衛兵隊長・凍原は、近付いてくる三人の人獣を見つめて、眉をひそめた。一人が一甲であることはすぐに分かった。灰色の髪の小柄な女にも見覚えがある気がする。だが、残りの一人――十二、三歳に見える少年が問題だった。風に乗って漂ってくる狼族の匂いと、少年の黒髪が示す事実は、一つである。

(また(・・)、黒狼族――)

 あの黒狼族の青年が乾州侯配下の戦士となり、闘技大会に出場していることは、凍原も知っている。一甲と共に来た少年は、あの青年と関係があると考えるのが普通だ。けれど、凍原は西大門の衛兵隊長として、そう簡単に不審人物を通す訳にはいかないのだ。

「待って下さい」

 門の前までやって来た一行に、凍原は毅然として言った。

「なんだ」

 灰色の髪の女が、横柄に応じた。大きな両眼で睨み上げるように凍原を見る。その眼差しに、凍原は怯んだ。

(誰だった?)

 思い出さねばならないと、非常な焦りが心の中で頭をもたげた。

「隊長……!」

 小声で呼ばれたのは、その時だった。傍らにいた配下の衛兵の一人が、青褪めた顔を凍原に向け、そして囁いた。

「王妹殿下です……!」

 凍原は、あっ、と叫びそうになり、息を呑んだ。思い出した。王妹・穹円。大王の同腹の妹でありながら、その奔放な性格故に王宮に留まることをせず、度々諸国漫遊の旅に出ている、最も王族らしくない王族。三十歳を過ぎているはずだが、二十代といっても通じる外見をしている。

「で、なんだ?」

 王妹が威圧的な口調で問いを繰り返した。凍原は顔をしかめ、彼女の斜め後ろに立つ少年をちらと見遣った。王妹がそれと承知で黒狼族を王都へ入れるなら、なにも言えることはない。だが、その確認作業くらいは許されるだろう。なにも口を挟まずに服属していない部族の人獣を通すことは、城門を守る衛兵隊長としての矜持が許さなかった。

「失礼ですが、そちらの子供は、王都への立ち入りを禁じられている部族の者のように見えます」

 硬い表情で凍原が言うと、王妹は薄く笑った。

「仕事熱心な奴だね」

 感心したように言って、改めて凍原を見る。

「そうさ、この子は黒狼族だ。だが、闘技大会に出場している黒狼族の親族なんでね、王都に入れてやりたい。責任は私が持つ」

「分かりました。どうぞ」

 凍原は配下達に合図して道を空けさせ、自らも一歩下がった。責任の所在さえ明らかになればいいのだ。それに、闘技大会に出場している黒狼族の親族ならば、当初の予想通りである。阻む理由はない。

 王妹は、ふっと笑って無言で城門を通過した。

「有り難うございます」

 と凍原達に礼を述べたのは、当の黒狼族の少年だった。真っ直ぐな目をしていた。

「……礼なら、王妹殿下に」

 凍原は僅かに頬を弛めて答えた。

 少年の後に一甲が続き、三人は王都の人通りの中へと紛れていった。

「……黒狼族にも、いろいろいるんですね」

 「王妹殿下です」と告げた配下が、ぽつりと言った。

「どの部族でも、そうさ」

 凍原は感慨を込めて応じた。



 通り過ぎる人獣達が、次々と訝る視線を向けてくる。だが皆、一様に、朗月の前を歩く穹円や後ろを歩く一甲に遠慮する素振りを見せて、なにも言わないのだ。一甲は〈十幹〉だからだろう。そして、穹円は。

「――『王妹殿下』なんですか……?」

 朗月は、前を行く小柄な背中に淡白な口調で問うた。

「一応な」

 穹円は殆ど振り返らずに、やや自嘲気味な声音で肯定した。

「あまり真面目にやっている訳じゃないが、生まれる場所は選べないからね」

 朗月は硬い表情をして黙った。狗族こそが黒狼族の敵である。その狗族を束ねる大王の妹に、自分は助けられたのだ。

「――いやな相手に助けられた、か?」

 穹円が、からかうような物言いで問うてきた。

(「いやな相手」?)

 朗月は、自問する。穹円は、一族の仇とすべき相手なのだろうか。初対面で手を貸してくれた相手でも、敵の部族の王妹だからと、憎むべきなのだろうか。

「――それは、まだ、分かりません……」

 朗月は目を伏せて答えた。


     三


 肩から、ばっさり斬られる夢を見た。今回は駄目かもしれないという不安が、夢に表れてしまったのだろう。飛瀑は、仰向けに寝転んだまま、掛け布団の下でゆっくりと手を動かし、左肩から胸にかけての、夢の中の傷をなぞった。無論、痛みなどはない。ただ、斬られたという、まざまざとした感触が、未だ鮮明に残っている。飛瀑は、感触が残る肌の上を暫くなぞり続けてから、漸く起き上がった。体が、恐ろしくだるい。頭が、くらくらとする。

(こんな日に……)

 飛瀑が寝台に腰掛けたまま額に手を当てた時、戸を叩く音が響いた。続いて、

「飛瀑、あんたまさかまだ寝てんの? もう闘技場行かないとやばいわよ?」

 林霏の声である。

(うるさいな。頭に響く)

 顔をしかめながら飛瀑は立ち上がり、

「すぐ行きます」

 戸の向こうへ返事をして、肌着の上に上着を着る。

「ほんと、急いだ方がいいわよ?」

 林霏が応じた。まだ戸の向こうで粘っている様子だ。

「先に行ってて下さい」

 飛瀑は苛々した口調で答えると、机の上の水差しから水を飲んで、鎖鎌の点検を始めた。



「全くもう」

 林霏はぶつぶつ言いながら、専用兵舎の戸口を出た。と、そこに、幽谷が腕組みして立っていた。

「あれ、あんた、とっくに闘技場へ行ってたんじゃなかったの?」

「……あいつ、どうなんだ?」

 幽谷は林霏の問いを無視し、逆に問うてきた。

「『どうなんだ』って、言われても……」

 林霏は顔を曇らせ、声を落とす。飛瀑が時折体調を崩すことは、〈十幹〉全員が知っていた。飛瀑自身は、体調を崩してもできるだけ普段通りに振る舞おうとするのだが、寝起きの悪さ、顔色の悪さ、体の動きの鈍さは隠しようもない。

「あいつ……、あんまり丈夫な個体じゃないから……」

 林霏の言葉に、幽谷も無言で顔を曇らせた。

「――貴方達が気にすることじゃないですよ」

 不意に聞こえた当人の声に、林霏は慌てて振り返り、幽谷は睨むような視線を向けた。専用兵舎の戸口に出てきた飛瀑は、軽く苦笑した顔に不快感も浮かべて二人を見、その間を通り抜けるようにして戸口を離れる。

「これは、僕の、そして西獺族の問題なんですから」

 言い残して、さっさと闘技場へ歩いていく飛瀑の後に、少し距離を置いて幽谷が続き、更にその後に、暗い顔をした林霏が続いた。なんにせよ、闘技大会は、飛瀑の体調になど構わず進行していくのだ……。


          ◇


(今日は、一段といやな感じだ……)

 崖涘は、闘技会場西口の控え室の隅で、顔をしかめていた。黒狼族の青年が纏う、背筋の凍るような殺気。大犲族の狂瀾が放つ、絡みつくような殺気。そして、北獺族の女戦士が発する、刺すような殺気。また、それらには劣るものの、玃族の勇者・地脊(ちせき)が漂わせる重苦しい雰囲気と、山狢族の首長の甥だという青年が有する薄ら寒い雰囲気も、決して心地良いものではない。

(全く、どいつもこいつもひどい状態だな)

 戦慄を感じると同時に呆れてしまって、崖涘は心の中で溜め息をついた。昨日の対戦で負けた殷雷はもうここへは来られないので、今日は一人でこの空気に耐えねばならない。

(それにしても)

 崖涘は、盗み見るように、唯一の女戦士へ目を向けた。白狼族への復讐に燃える黒狼族の青年や、音に聞こえた問題児である狂瀾と同じ程の殺気を発している彼女は、どういった事情を背負っているのであろうか。

(闘う相手を見ない内から殺気を出すなんざ、尋常じゃねえ)

 情報通を自負する崖涘も、北獺族が殺意を持つ相手については、思い当たるフシがない。

(まあ、いずれ分かることだあな)

 身を小さくして、崖涘は、対戦組み合わせの発表と対戦の開始を待つ。寝不足なので、できれば今日は闘いたくないという気持ちだった。


          ◇


 白い髪の青年は、冴えた眼差しを暗がりの虚空へ向けて、長椅子の端に座っている。

(今日は一段と近寄りがたいですね)

 素影は控え室の反対側から雪渓を観察して思った。同じことを感じているのだろう、控え室にいる他の〈十幹〉達も、今日は誰一人雪渓の傍には近寄らず、話し掛けもしない。

(無理もない)

 普段は物静かなだけの雪渓が、今朝からは怖さを漂わせているのだ。対戦に向けての普通の緊張などではない。乾州侯配下の黒狼族の戦士を意識してであることは、明白である。

(黒狼族を裏切った、その罪の重さを知る故か)

 素影は、微かに沈痛な表情をした。雪渓は、何事も、真正面から受け止め過ぎている。一族の罪も命運も、全てを背負っていこうとしている。

(一族よりも己を優先している私とは随分な違いだが……)

 胸中で自嘲した素影は、白狼族の青年へ向けた双眸に、深刻な陰りを浮かべた。なにがあろうと一族を守り通すと思い定めた雪渓は、確かに強い。だが、思い詰めている分だけ、柔軟性を欠いた強さだろう。例えるなら、柱のようなものだ。縦方向にはどれ程強くとも、横からの圧力や衝撃には弱い。素影には、雪渓の強さも、そういう危うい強さに思えるのだった。

(一方向にだけ強くとも、世の中渡ってはいけませんよ? さまざまな方向に対して強くなければ、からめ手から攻められた時、脆いですからね)

 素影が心の中で青年に忠告した時、観客席から聞こえていたざわめきが、急に静まった。一瞬遅れて、控え室にいる面々の間に緊張が走る。素影達が澄ました耳に、闘技場から通路を抜けて、大王が闘技会場に現れたことを告げる皦日の声が届いた。



「第三戦、〈十幹〉(へい)飛瀑対、艮州侯配下北獺族の紫嵐(しらん)! 第四戦、〈十幹〉壬雪渓対、乾州侯配下黒狼族の黒雨! 以上の対戦を本日行うこととする」

 しんと静まった闘技会場内に、大王の声は昨日と同様に重々しく響いた。直後、西口の控え室では、紫嵐が暗がりの中爛々と光る双眸を上げ、黒雨が静かに深く息を吸って吐いた。



 東口の控え室では、対戦組み合わせ発表に辛うじて間に合う形で中に入った飛瀑、林霏、幽谷が、そのまま、入り口で立ち尽くしていた。その場の皆の視線が雪渓へ集中し、雪渓自身は呼吸すら止めたように微動だにしない。だが、問題は、雪渓の対戦相手ばかりではないかもしれない。

「北獺族の、紫嵐……」

 飛瀑は、ぽつりと呟いた。雪渓を見守っていた林霏が振り向き、眉をひそめて問うてきた。

「――もしかして、知り合い?」

「いえ。でも、知り合いの、知り合いかもしれない」

 飛瀑は硬い表情で答えた。

「『知り合いの、知り合い』?」

 ますます眉をひそめて聞き返した林霏を、飛瀑は微かに悲しみを湛えた双眸で見上げる。

「紫嵐、紫に映える山気。嵐光、山の靄に映じた日の光。名前に、同じ『(らん)』という言葉が入ってます」

「嵐光の同腹の兄弟姉妹……!」

 林霏は小さく叫んで、飛瀑の瑠璃色の双眸を見つめ返した。

「偶然、という可能性もあります」

 二人の会話にさらりと加わったのは、素影だった。

「偶然、同じ言葉が名前に入っているだけかもしれません。それに、嵐光は獱族。北獺族である君の対戦相手とは、部族が異なります」

 素影の眼差しを受け止めて、飛瀑は顔をしかめる。

「けど、嵐光さんと無関係とも言い切れませんよ。獺族と獱族は、同じカワウソ。交配可能なんですから……」

 控え室内に、僅かな沈黙が生じた。と、その隙を突くように、それまで黙っていた幽谷が口を開いた。

「その、嵐光って……誰だ?」

 飛瀑、林霏、素影、沛沢、巒丘、そして夕靄の視線が幽谷へ集中する。飛瀑は、自分と同じ色の瞳を持つ二つ年下の少年の顔を見つめて、忙しく思考した。幽谷は、前回の闘技大会で自分が倒した獱族の青年の名が、嵐光だと覚えていないのだ。恐らく、対戦相手の名を気にしている精神的余裕がなかったのだろう。だが、今、幽谷の表情を見る限り、嵐光が、あの獱族の青年の名であると薄々気付いているようだ。飛瀑は、小さく溜め息をつき、嵐光が幽谷のかつての対戦相手であると教えようとして、ふとまた口を閉じた。紫嵐が嵐光の兄弟姉妹とするなら、当然、幽谷のことをよく思っていないはずである。飛瀑は、幽谷の顔を見たまま眉根を寄せた。二歳年下の少年は、怪訝そうに彼を見つめ返している。

「――まさか……」

 飛瀑は低く呟くと、くらくらする頭を――額を右手で押さえつけながら、さっと体を動かして控え室を出、足早に闘技場へ向かった。


     四


「おい――」

 幽谷が発した声は、完全に無視された。飛瀑は、暗い通路をさっさと進んでいってしまった。

「ちょっと、どうしたのよ、あいつ――」

 林霏は不安そうに呟き、飛瀑の後を追っていく。幽谷もそれに倣い、更に、素影、沛沢、巒丘が続いた。控え室には、夕靄と雪渓のただ二人きりが残された。

「他人の心配をしている余裕はない、か――」

 夕靄は、白い髪の青年を視界の隅に収めて言った。声には感心する響きがあり、知的な顔には薄い笑みが浮かんでいる。

「本当に、ここにいる人達は皆大変ですね」

 雪渓は一瞬夕靄に視線を投げたのみで、後は無反応である。夕靄は構わず言葉を続けた。

「知り合いの侍従に拠れば、昨夜、内宮の中にまで賊が入ったんだそうです。目的は、あの〈生まれながらの人〉を奪うことだったみたいですけど、監視の侍従がなんとか撃退したそうで。もし、〈生まれながらの人〉が奪われていたら、闘技大会どころじゃなかったでしょうに。貴方にとっては、残念な結果に終わったというところでしょうか」

 雪渓は長椅子に腰掛けたまま一つ瞬きして、冴えた眼差しをはっきりと夕靄へ向けた。しかし、相変わらず無言である。夕靄は一つ年上の青年の双眸をちらと見返して、更に言葉を続けた。

「素影は策士を気取っているようだけど、状況に流され過ぎて、今一情報を掴みきれていない。沛沢は冷静だけど、行動力に欠けている。巒丘は情報を掴んでも、活用しようという気があまりない。冽泉は狗王国の在り方を受け入れてしまっている。崇阿はいなくなるし、飛瀑と幽谷は子供で、林霏はかなり鈍い。そして貴方は、己の一族を守ろうという一事以外の全てから、目を背けようとしている。全く、〈十幹〉の今の状態を見たら、急峡さんはなんと言うでしょうね。――まあ、僕の知ったことじゃないですけど」

 ふと顔から笑みを消して、夕靄は雪渓へ真顔を向ける。

「僕が知っているのは、あの〈生まれながらの人〉が、やはり伝説の通りに、僕達人獣を従える力を持っているということです」

 夕靄へ向けられた雪渓の眼差しが、僅かに険しくなった。それを見て、夕靄は再び薄く笑う。

「やっぱり知っていたんですね、彼女の血のこと」

 雪渓は依然口を開かない。だが、夕靄は満足だった。

「ということで、話はこのくらいにしておきましょう。伝説のいろいろな側面について語るのも面白いですけど、とりあえず今は、僕も観戦しに行ってきます」



 明るく言って立ち去る青年の後ろ姿を見送り、雪渓は床へ視線を落とした。「やはり伝説の通り」。「僕達人獣を従える力」。「彼女の血のこと」。「伝説のいろいろな側面」。夕靄の言葉が、頭の中を回る。

(どういうことだ……?)

 雪渓は眉をひそめた。〈生まれながらの人〉にまつわる伝説は、手中にした者に繁栄をもたらすというものだけではなかったのだろうか。

(「伝説のいろいろな側面」……か)

 〈生まれながらの人〉が、手中にした者に繁栄をもたらすという話も、「人獣を従える力」を持つという話も、雪渓の知らない一つの伝説から出てきているのかもしれない。大王と、そして恐らくは侍従長の、真の意図を知るには、まずその伝説を知らねばならないのかもしれない。――だが。

「今の俺には、関係ない――」

 雪渓はひっそりと、頑なに呟いた。


          ◇


 膝の上に頬杖を突いて、東西の入り口から闘技場の中央に進み出てくる二人を眺めていた天飆は、ふと、東の入り口へ目を遣った。入り口のところで、二、三人の〈十幹〉が、なにやらもめている様子なのだ。

「……なんか、もめてる」

 見たままを呟いた天飆の声に、傍らに座っている深潭が振り向いた。異母弟の視線を辿って、深潭は訝しげに眉をひそめる。

「あれは……、十癸殿と八辛(はっしん)殿、それに四丁殿……」

 入り口のすぐ内側に立った〈十幹〉達は、言い争っているように見えた。

「……喧嘩かな……?」

 天飆が完全に他人事の口調で言った時、スウッと審判の手が上がり、観客達が静かになった。



 飛瀑の後を追って闘技場に飛び出そうとした幽谷は、林霏に腕を掴まれて一応踏みとどまったものの、落ち着いた様子は全くなかった。

「あいつ、絶対様子おかしい」

 いつになく焦った声を出す十二歳の少年と、闘技場の中央へ進み出た十四歳の少年を見比べて、林霏も顔を曇らせる。

「しかし、君が一緒に出て行ってどうなるものでもないでしょう」

 素影が、諭すように、冷静な声音で言った。しかし、その表情には、幽谷とは多少異なるものの、やはり焦りが滲んでいる。

(もし、紫嵐とやらが嵐光の異母妹ならば、この幽谷に、恨みを抱いている可能性が高い。飛瀑は、それを確かめるつもりか……?)

「けど、あいつ、体調だって悪いのに……!」

 幽谷が素影に言い返した、その声に重なるように、

「始め!」

 対戦開始を告げる審判の声が闘技会場に響いた。



 手にしていた斧槍を体の前に構えた紫嵐とは対照的に、飛瀑は鎖鎌を腰帯から抜こうともしなかった。

「――どういうつもりだ?」

 険しい顔で問うてきた北獺族の女戦士に対し、飛瀑は真剣な顔で口を開いた。

「貴方に訊きたいことがあります」

「『訊きたいこと』?」

「ええ」

 飛瀑は、眉根を寄せた対戦相手の美しい顔を、真っ直ぐに見据えると、単刀直入に問うた。

「貴方は、嵐光さんの同腹の方ですか?」

「ああ、そうだ。あたしは、獱族と北獺族の合いの子だ。だが、そんなことを訊いてどうする?」

「貴方の、本当の目的を訊きたいんです」

「『本当の目的』だと?」

 紫嵐はいよいよ険しい顔をした。

「ええ」

 飛瀑は硬い声で答える。

「貴方が、なんの為に〈十幹〉に入りたいのか、訊きたいんです。一族の為なのか、それとも、なにか別の目的、例えば、復讐、とかのためなのか」

「訊いてどうする? お前には関係のないことだろう」

 紫嵐は微かに訝しげに言った。

「確かに、僕と貴方が同僚になることはありません。でも」

 飛瀑は紫嵐を見据えた両眼に力を込める。

「もし貴方が僕に勝てば、現十癸とは同僚になる可能性がある。もし、貴方の目的が嵐光さんの復讐で、現十癸の幽谷を傷つけるということなら、僕は、命に替えても、貴方を倒します」

「嵐光ニィは死んじゃいない。まるで仇討ちみたいな言い方するな」

「でも、嵐光さんは、前の大会で、左腕を失った。戦士として、命を断たれたも同然です」

「ニィは、別に戦士として生きたい訳じゃない。ただ、一族を守りたかっただけだ。おまえらも、皆そうだろう?」

「良かった……。それだけ聞ければ、安心です」

 飛瀑は、微笑んで腰帯から鎖鎌を抜く。

「これで、正々堂々と戦える」

 一瞬で後ろへ跳び退って、ヒュンヒュンと頭上で分銅を回し始めた飛瀑を、紫嵐は睨みつける。

(勝負は正々堂々と。そうですよね、嵐光さん?)

 胸中で問い掛けつつ、間合いと相手の呼吸を測った飛瀑は、ここというところで、鎖鎌の分銅を女戦士目掛けて放った。鎖を引きながら、一直線に飛んだ分銅は、素早く捌かれた斧槍に叩き落され――。地に落ちる前に、飛瀑は右手で鎖を引いて、再び分銅を頭上で回し始める。そこへ、間髪入れず、紫嵐が間合いへ飛び込んできた。回し始めこそが、鎖鎌の弱点と知っているのだ。

(でも、そんなことは、貴方より僕のほうがよく知ってる)

 鎖鎌の弱点を知った上での戦い方など、身に染み付いている。飛瀑は、後ろへ跳び退りつつ、右手で鎖を強く引いて分銅を戻し、同時に左手の鎌を構えた。そして今度はダッと地面を蹴って紫嵐を迎え討つべく前へ出る。下がった直後に前へ出た飛瀑の急な動きに、間合いを狂わされた紫鸞の斧槍は、狭まり過ぎた間合いの中、充分な威力を持たず突き出されたので、飛瀑は難なく鎌でいなすことができた。いなした斧槍を左下へと流しつつ、右前へ動いて、紫嵐の隣へ並ぶように体を捌き、飛瀑は右手で鎖を操る。くるりと宙に輪を作った鎖は、次の瞬間には、紫嵐の細い首をギリリと締めていた。

「くっ……!」

 抗う女戦士の耳に、飛瀑は囁く。

「鎖鎌は、遠距離と近距離、どちらも得意なんです。中距離でしか威力を発揮できない斧槍よりも、便利なんですよ。でも……」

 僕の体力は、ここまでです――。紡いだつもりの言葉は、最後は音にならなかったかもしれない。視界がふっと暗くなり、飛瀑は自身の体がその場に崩れ落ちるのを、他人事のように感じた。



「飛瀑!」

 叫んで再び闘技場へ飛び出ようとする幽谷を、素影が、羽交い絞めにして引き止める。林霏はおろおろとして、幽谷と、闘技場の真ん中に倒れた飛瀑とを見比べた。鎖鎌の鎖はまだ相手の女戦士の首に巻きついたままだが、その端を握る飛瀑の手に力はない。飛瀑は意識すらないように見える。と、見る間に、北獺族の女戦士は、斧槍を足元の飛瀑へ突き下ろそうと捌く。

「やめろォ!」

 叫んだ林霏の視界の先で、ガッと斧槍が突き立った。

「第三戦終了!」

 審判が高らかに宣言する。

「勝者、艮州侯配下北獺族の紫嵐!」

 その宣言が終わるか終わらない内に、林霏は、幽谷は、素影は、闘技場へ飛び出した。

「飛瀑!」

 倒れた少年に駆け寄ると、斧槍がその体ではなく、纏った衣と地面のみに突き立っていることが分かった。血は流れていない。

「ありがとう、こいつ殺さないでくれて」

 心から感謝した林霏に、北獺族の女戦士は、硬い面持ちで斧槍を地面から抜きながら言った。

「勝敗が明白な時に、わざわざ殺す必要もない。それよりも、そんな体調で出てきて、しかもあれだけ動くほうが馬鹿げている。もう少しそいつが倒れるのが遅かったら、本気で殺していた」

 成る程、女戦士・紫嵐は今だに肩で息をしている。

「こいつは、戦士として、お前に礼儀を尽くしただけだ」

 幽谷が低い声で言いながら、素影の手を借りて、自分よりも背の高い飛瀑を背に負った。飛瀑はやはり意識がないようだ。体調の悪い体で無理に全力の戦いをしたためだろう。

「とにかく、これから、同じ〈十幹〉として、宜しくな!」

 林霏は、癖のある長い焦げ茶色の髪を風に揺らす女戦士の、瑠璃色の双眸を見据えて決然と告げ、幽谷達の後を追って、東口へ戻った。


     五


 飛瀑の体に、特に傷はなかった。東口の控え室の長椅子に寝かせ、熱を持ったその額に、巒丘が持ってきてくれた濡らした布を置いて、幽谷はじっとその寝顔を見守る。飛瀑が無事だったことにはほっとしたが、もう〈十幹〉として共にはいられないということが、しみじみと胸に迫ってきて、ひどく離れ難い思いがした。幽谷にとっては、これが〈十幹〉となって初めての闘技大会であり、こういう別れも初めてなのだ。

(結構、当たり前の気持ちで、こいつといたんだな、俺……)

 今になって思う。〈十幹〉の一員となって以来、たくさん気遣われ、たくさん助けられ、たくさんの時間を共に過ごしたのだと、改めて感じる。

(ごめんな、お前、俺のために、無茶したんだろ……?)

 そのぐらいのことは、幽谷とて分かった。

「――ありがとう――」



 そっと飛瀑の手を握り、目を閉じたその顔に顔を寄せて、何事か囁いた幽谷から、皆距離を置いて、見て見ぬ振りをしている。そうでもしなければ、恥ずかしがりやの少年は、最も大切な言葉さえ、音にすることはできなかっただろう。

(全く、世話の焼ける……)

 胸中で溜め息をついた巒丘は、視線を転じて、次に一番心配な同僚を見た。雪渓は、控え室の反対側の長椅子の端に座ったまま、朝から微動だにしていないように見える。飛瀑の様子に安堵し、幽谷に遠慮した同僚達は皆、林霏を筆頭に、そちらの方に心配そうな眼差しを向けている。否、夕靄だけは違う。入り込む光によって色を変える金色の双眸に浮かんでいるのは、好奇の色だ。

(度し難いな)

 夕靄だけではない。白狼族と黒狼族の争いに興味津々で見入る全ての者達――巒丘自身も含めた、愚か者達。皆、見たいのだ。

(愛憎の果てに、一体、なにがあるのか。あたし達皆の予想を裏切ってほしいよ――)


          ◇


 西口の入り口に立った黒雨は、空を見上げた。雲行きが怪しい。朝は晴れていた空には、いつの間にか雲が増えている。風が湿っている。午後は、雨が降る。

――「あんたの名、あたし好きよ」

 月華の声が、耳の奥に蘇る。

――「激しい雨って、あんたの姿、生き様そのものに思える。でも、時には晴れ間も見せて。あたしが、ほっとできるから」

(――無理だ)

 黒雨は、正面の東口へと視線を移す。

(俺には無理だよ、月華。俺には、無理だ――)

 雪渓を殺す。そのようなこと、月華は望んでいないだろう。だからこそ、黒雨はここまで来た。黒雨にできることは、最早これしかない。

(お前が死んで、俺が生き残ったことで、こうなることは決まっていた。お前は、死んではならなかったんだ――)



 西口の入り口に、闘技場を見据えて静かに佇む青年を、崖涘は通路の奥から、なんとなく観察していた。逆光となった遠く小柄な後ろ姿は、何故か打ちのめされているように見えた。もう間もなく、昼休みさえ終われば、憎い仇と戦える喜びは、少しも見て取れない。

(負けることを、恐れているのか……?)

 だが、勇猛果敢で知られた黒狼族の、中でも一番の戦士と称えられていた黒雨に、それは当てはまらない気がした。

(余人には窺い知れぬこと、というやつか……)

 黒狼族は強かった。少ない人数で、圧倒的多数の狗王国相手に、罠や奇襲を駆使した遊撃を仕掛け、確実に戦力を殺いでいった。だが、黒狼族側の犠牲も最小とはいえ、確実に出てしまう。そして、その繰り返しは、黒狼族の敗北を意味していた。狗王国側には、黒狼族の独立を認めるつもりは毛頭なかったのだ。誇り高い黒狼族はそれでも戦い続け、その状況の中で、月華という少女の犠牲が出たのだった。


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