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孤独な魂4

第四章


     一


 王都へと続く街道を歩いていた黒褐色の(たてがみ)をしたシシは、砂埃でやや霞んだ前方に小柄な女の姿を見つけて、目を瞠った。女は、肩に届く灰色の髪を風になびかせ、大きな琥珀色の双眸でじっと彼の方を見て佇んでいる。横薙ぎに吹く風の合間を縫って、匂いも嗅ぎ取れた。間違いない。シシ――冽泉は足を速めて彼女に駆け寄り、人態になった。

「殿下、何故このようなところに?」

 開口一番、真顔で問うてきた男を面白そうに見上げ、まだ若い女は、勝気な笑みを浮かべる。

「『殿下』は公式の場だけで結構だ、一甲」

「……では、穹円(きゅうえん)様」

「『様』も要らない」

 ぴしゃりと言われても、冽泉は怯まない。

「そういう訳にはいきません。貴方様は、私が仕えている方の妹君でいらっしゃるのですから」

「……分かったよ。それでいい」

 穹円は、冽泉の真っ直ぐな眼差しに負けたように小さく肩を竦めて言うと、すぐに真面目な顔になって、

「で、どうだったんだ?」

 と問うた。しかし、冽泉は顔をしかめて答えない。穹円は苦笑した。

「あたしには話せない、か。相変わらず融通の利かない奴だな、お前も」

 半ば呆れ、半ば感心した口調で言って踵を返す。

「せっかくこんなところまで迎えに来たのに、無駄足だったという訳だ」

「――今回の件は、他の者には一切話すな、との御命令ですので」

 冽泉は王妹の背に向かって、幾分すまなそうに弁明した。


          ◇


 玄穹は、また苛々と椅子の肘掛けを指で叩いていた。闘技会場で傍に付いていた侍従二人に、侍従長を直ちにこの大王の私室へ来させるよう命じたというのに、皦日はまだ姿を現さない。

(あやつめ、なにをしておるのだ……。わしの怒りを恐れるような玉でもなかろうに)

 いつも端然と平然と、玄穹の前に現れる男。細面の、三十代前半だろうと思われる顔には、常に慇懃無礼な表情を浮かべて、切れ長の細い目で、じっと玄穹を観察する男。玄穹は彼を好いてはいない。だが、皦日が一介の侍従であった頃から使える男だとは思っていたし、前侍従長が引退の際に推薦したりもしたので、彼を侍従長の座に据えたのだった。以後十一年間、皦日は今日まで玄穹の信頼を裏切らずに動いてきた。否、今日の朝までは。

(あやつめ、まさか失敗しおるとはな……!)

 またぞろ怒りがこみ上げてきて、玄穹は、今度は遠慮なく顔を歪める。その時、漸く、扉の外で皦日が入室を請う声が聞こえた。

「入れ」

 玄穹は不機嫌そのものの声で応じた。が、部屋に入ってきた皦日は、大王の顔色など窺う様子もなく、いつものように扉から数歩進んだところで足を止め、一礼すると、玄穹に先んじて口を開いた。

「猿族の殷雷について少々調べて参りました。彼の目的は〈十幹〉入りすることではなく、どうやらヒトについて探る為に、北州侯の戦士となったようです」

「……なんじゃと……」

 唐突且つ予想外の話に驚きを隠せない玄穹を見つめ、皦日は根拠を述べる。

「殷雷と共に、猿族の娘がおりました。胡桃色の髪の、十五、六歳の娘です。以前、山籟(さんらい)から報告のあった娘かと思われます」

 山籟とは、皦日が使っている密偵の名であり、その報告内容は全て玄穹に伝えられている。

「――溟沐の養女という、あれか……」

 玄穹は一拍を置いた後、低い声で呟いた。

 八年前、長男と次男を育て上げた猿族の首長・溟沐が、なんの気紛れか、娘を一人養女にした。ところがその娘が、実は〈生まれながらの人〉ではないかという噂が流れたのである。当時から、既に玄穹は〈生まれながらの人〉を捜していたので、皦日に命じ、山籟を猿首長国へ潜入させた。そして山籟は、噂の詳細に加えて娘の容貌や年齢等も伝えてきたのである。その報告により、玄穹と皦日は、噂の養女が彼らの捜している〈生まれながらの人〉ではないと判断したのだったが。

「溟沐も、人間には興味があるということか」

 玄穹が漏らした感想は、僅かに本題からずれていた。

「いずれにせよ」

 と皦日は言葉を続けた。

「この際、少々強硬な手段を取ろうとも、殷雷を捕らえるべきかと存じまする」

「――手段はそちに任せる。早急に致せ」

 玄穹は、余裕のない語調で簡潔に命じた。

「御意のままに」

 皦日は答えて頭を垂れると、大王の私室を辞した。


          ◇


 薬の入った幾つかの小さな袋と水を満たした水差しを手に、闘技会場へ戻ってきた雪渓は、東口へ向けた足を、つと止めた。行く手に、小柄な黒髪の青年が立っていた。辺りには、闘技会場から出てきた人獣達が三々五々うろうろしている。だが、彼だけは雪渓の方を向いてじっと佇んでいた。

 雪渓は、僅かに顔を強張らせた。微風に乗った匂いを幾度も感じていたので、黒雨がここにいることは、分かっていた。だが面と向かって会うのは、刃を交えた、あの夜以来である。雪渓は足を止めたまま、黙して黒髪の青年を見つめ、待った。目の前に現れ、行く手を遮った黒雨の意図は不明だ。出方を見てから、こちらの態度を決める必要があった。

 黒雨は、足を止めた雪渓に代わるように歩を進めて、二人の間に残っていた距離を縮めていき、低い声でも届くところまで来て止まった。そこは、雪渓が背中に負っている大太刀の間合いの中でもある。武器を手にせず、堂々とその近さにまで踏み込む大胆さが、攻撃の意思のないことを表していた。雪渓に向けられた眼差しにも、凍て付いた殺意は宿っていても、今なにかするという殺気はない。そして、黒雨は口を開いた。

「貴方と闘えます。覚悟しておいて下さい」

 簡潔な言葉だったが、雪渓にはそれで充分だった。黒雨は、今大会で、確実に雪渓と当たるのだ。

「そうか」

 雪渓は、余計な感傷を押し殺すように、短く答えた。

「では、またその時に」

 黒雨はそう締め括ると、ふいと視線を西口の方へ動かして、去っていく。その、青年にしては小柄な背中を見送って、雪渓は一瞬悲しげに目を細めた。寝覚めに見た夢の、あの幼い日々から、自分達はなんと隔たってしまったことだろう。だが、己の一族を守る、その一事に感傷などは必要ない。雪渓は黒雨の背中から視線を放すと、すぐにまた東口へ向かって歩き出した。


     二


 俯いた彩雲は、顔にかかった薄茶色の髪の陰で、唇を笑みの形に歪めていた。

(なにしに来たんだろう、あいつ。まさか、檻の中にいる私を見物しに来た訳……?)

 峻嶺の顔が人垣の向こうに消えるのを見送ってから、何故か苦い笑いが込み上げてきて仕方ないのだ。

(ねえ、峻嶺、どうなの……?黙っていなくなったら、分からないよ。……やっぱり、厄介払いできて、嬉しくて、それで檻の中にいる私を見たくなって、わざわざ、こんなところまで来たの……?)

 青年の口元には、ほんの僅かだったが、微笑が浮かんでいた。彼は、格子の中の彩雲を見て、笑っていたのだ。

(……やっぱり、笑いに来たのかな……?)

 惨めで、辛い。小犲族が憎い。輿の周りを取り囲んでいる、格子の外から彼女を見下ろしている人獣達が鬱陶しい。彩雲は奥歯を噛み締めて、苦い笑みの裏から滲み出た怒りに耐えた。

「そろそろ打ち切りましょう」

 不意に、香霧が衛兵達に言った。

「あまり長く晒しておくと、人間が参ってしまいますから」

「分かりました」

 例の、部屋の戸を叩いた隊長格らしい三十代半ばの衛兵が答え、他の衛兵達に、見物人達を下がらせて輿を担ぐよう、指示を出し始めた。

 彩雲は、上目遣いに香霧を見上げた。格子のすぐ外に凛として佇み、衛兵達の仕事ぶりを見つめている少年が、彼女を気遣ったことは明白だった。惨めさに浸ってしまった醜態を、憐れまれたのだ。

(最悪。最悪だね……)

 彩雲は胸中で呟きながらも、ふうっと肩の力がぬけるのを感じていた。こんな精神状態では、誰かに気遣われるのも、仕方ないのかもしれない。

 衛兵達にやんわりと追い払われ、立ち去っていく見物人達の内、二人の会話が彩雲の耳に届いたのは、その時だった。

「今見に来たところだったというのに、残念でしたな」

「本当に。けれど、公開は明日も行われるということですから。それよりも私は、次の対戦が楽しみですよ。なにせ、犲族同士の対戦ですからね」

「そうでしたな。確か、六己殿と、相手は……」

「坤州侯配下の、小犲族ですよ。あの人間を我が国に差し出した、例の部族の者です」

 彩雲は、目を見開いた。反射的に、立ち去る二人の背中を見た。が、その瞬間、衛兵達によって輿が担ぎ上げられ、少女はがくんと平衡を失って、敷物の上に両手をついた。

(峻嶺、お前――)

 彩雲は、鳶色の双眸を、今度は峻嶺が立ち去っていった方へ向ける。

(なんで……?)

 分からない。分からない。

 動揺した彩雲を閉じ込めたまま、輿はゆるゆると東口へ進んでいった。



「もう大丈夫だろう」

 崇阿は、控え室の床に寝かせた沛沢の傍らから膝を上げて言った。

「薬が効いた。後は、外傷を治せばいい」

「……すいません……」

 弱々しい声で、沛沢は礼を述べた。

「まあ、養生することだな」

 癖のない黒髪を二つに分け、両耳の上でそれぞれ束ねて垂らした美少女は、沛沢を見下ろしてふわりと微笑すると、斜め後ろにいる素影を肩越しにちらと一瞥する。

「誰かさんは、痛く心配していたようだし。どうであれ、あんたは勝って〈十幹〉に残れたんだから」

 沛沢は黙ったまま、多少血の気の回復した顔に複雑な表情を浮かべた。崇阿の語調には、沛沢に対する羨ましさがある。彼女の対戦は次で、その結果がどうなるかは、誰にも分からない。

「崇阿」

 沛沢は、改まった口調で呼んで、告げた。

「御武運を」

 祈っている、と。とうに覚悟を決めているらしい少女は、美しい顔に笑みを浮かべて、無言で頷いた。

「また輿が来たようですよ」

 通路から、夕靄の声が聞こえた。だが、今度は〈十幹〉の殆どが控え室の中に集まっていたので、輿の邪魔になることはない。沛沢を含めたその場の〈十幹〉達がそれとなく見守る中、雪渓が控え室の中から投げた視線の先を、彩雲を入れた輿はさっさと行き過ぎていった。人間の少女は、控え室の中をさっと見回したが、雪渓と目が合うことはなかった。


          ◇


 天飆は、王族専用の観客席の真ん中辺りに座って、ぼうっと闘技場を見下ろしたまま、串刺しにして炙った羊肉を食べていた。そこへ深潭が来て、隣へ腰掛けると、同じように闘技場へ視線を落として、口を開いた。

「……母上の、見舞いに行ってくれたそうだな。母上が喜んでいらした」

 天飆は暫し口の動きを止めて目を瞬いただけで答えず、口の中にあった肉を飲み込んでから言った。

「次、犲族同士の対戦だね」

 深潭からの返事はない。

「……気になる?」

 天飆は問うて、ちらと横目で異母兄の顔を窺った。深潭の体には、狗族の血に混じって、積淋から受け継いだ犲族の血が流れている。天飆がわざわざ問うてみたのは、異母兄が常々その血を意識していることを知っている為だった。

 深潭は、僅かに虚を突かれた様子で天飆を見返したが、すぐに厳しい顔付きになって、また闘技場へと視線を落とし、言った。

「気にしたところで、仕方がないだろう」

「……そうだね……」

 天飆は素直に同意すると、異母兄に倣い、闘技場へ視線を戻した。

 観客席には観客達が戻りつつある。異母兄弟二人の周りにも、王弟・澄空、第一王女・瞑天、第四王子・清霄と第二王女・清漣、王妃・泠風とその侍女達が順に戻ってきて、第二戦の開始が近いことを窺わせた。



 愛用の小太刀を手に闘技場の中央へ進み出た崇阿は、ぐっと頭を反らして、太陽を見上げた。真上に近い位置にある日輪は、眩い白光を地上へと降り注ぎ、細めた両目を容赦なく射る。

(この白日の下で)

 崇阿は顎を下ろし、目の前に立つ青年へと視線を移した。

「いい天気だ」

 言って、明るい笑みを浮かべる。硬い表情をしていた青年も、つられたように微笑んだ。

「ええ、本当に」

 答えて、崇阿の真似をするように太陽を見上げ、目を細める。大王が闘技会場に姿を現したのは、丁度その時だった。

 大王は、第一戦の時と同様に侍従を二人従え、畏まった衛兵達の前を通って据えられた玉座へと登っていく。ほぼ同時に審判も観客達の前に姿を見せて特別席へと進み、大王が玉座に腰掛けるのを待って、スウッと右手を上げた。同時に闘技会場全体がしんと静まり返り、観客達の視線が崇阿と峻嶺に注がれる。――そして。

「始め!」

 第二戦開始を告げる声が響き渡った。

 崇阿はシャァッと小太刀を抜いて、鞘を背後へ捨てた。対する峻嶺は、腰帯に挟んであった飛び槌を外して、縄の両端に槌を括り付けた、その片方をヒュンヒュンと頭上で回し始める。最早、二人の間に交わされる言葉はなかった。


     三


「決意と決意のぶつかり合い、といった感じですね」

 未だ互いに攻撃を仕掛けず、間合いを読み合っている両者を眺めて、夕靄が興味深げに言った。気紛れな振る舞いをする十九歳の青年は、今度は観戦することにしたらしく、林霏、巒丘と共に闘技場の入り口のすぐ内側に立っている。素影は、控え室でまだ沛沢に付き添っていて、出てきていなかった。

「あんたねえ……!」

 林霏は、真剣味の足りない唯一同い年の同僚を睨み付けた。

「そういう突き放したものの見方やめてよ。もうちょっと崇阿を応援するとかできないの?」

「応援したところで、勝てるものでもないでしょう?」

 夕靄は微笑を浮かべて言い、林霏を見つめ返す。歳若い女戦士は、栗色の髪に縁取られた顔に、険悪な表情を浮かべた。

「またそういうイタチっ子みたいなことを言う! しかもあんたってもう大人で、始末に終えないから、最悪」

 刺々しい口調で言うと、林霏は闘技場へ視線を戻した。



 微笑を崩すことなく聞いていた夕靄も、敢えて反論はせず、林霏に倣った。彼女が言ったことはなかなかに正しいと思えたし、口論を長引かせて観戦を疎かにするのもつまらない(・・・・・)と思ったのだ。そういうものの捉え方こそが、林霏の言う「始末に終えない」救いようのなさだと自覚しながらも。



 崇阿は、小太刀の刃を横に寝かせて両手で目の高さに構えたまま、小犲族の青年の動きに集中していた。彼女より優に頭一つ分は背の高い青年の全体像を視野に収めて、手や足や瞳の僅かな動きにも気付けるようにし、同時に、青年の右手が回す飛び槌の縄の長さを目測して、その攻撃範囲の広さを予測し、間合いの取り方を計算していた。飛び槌は、間合いの測りにくい厄介な武器なのだ。

 峻嶺は、中犲族の少女が仕掛けてくる瞬間を待っていた。少女は飛び槌を警戒して、小太刀の構えを、守りを重視したものにしている。故に仕掛け辛い。飛び槌の攻撃をいなされて懐に飛び込まれると、小回りの効く小太刀の方が圧倒的に有利になってしまう。仕掛けられるのを、その瞬間に隙が生じるのを待つのが上策だった。

 闘いは、読み合いから根比べへと、その様相を変えつつあった。


          ◇


 部屋には、香霧に代わって岫壑がいた。彩雲は、香霧よりも、この柔和な雰囲気を纏った岫壑の方が好きである。針を使う許可を貰ってきてくれたのも岫壑だ。だが、今ばかりは和む気になれなかった。

(峻嶺、お前、なんで……?)

 あの青年が、〈十幹〉の地位を欲するような人柄でないことだけは、知っている。では彼は、何故、闘技大会に出場するのだろう。何の為に、命を賭けるのだろう。今、なにを思って闘っているのだろう。彩雲は寝台にじっと座ったまま、足元の床を見つめて考え続ける。理由は……恐らく、雪渓と同じなのだ。だが、彩雲はその理由を知らない。雪渓が何故〈十幹〉になったかなど、知らない。

(分からないよ、峻嶺……)

 しかし、ただ一つ、はっきりしていることがある。

(お前は、私の前に現れるべきじゃなかった)

 彩雲は、布団をぎゅっと掴んだ。峻嶺は、あそこで彼女に姿を見せるべきではなかった。

(ずるいよ)

 彩雲は、唇を噛む。彼女を、狗王国に差し出しておいて。

(私に、こんな、心配させるなんて――)

 母以外の小犲族達のことなど、もう忘れるはずだった。全て過去のこととして、忘却の彼方に追いやるはずだった。なのに、強引に、今のこととして、峻嶺は彩雲の前に現れたのだ。

(――許さない)

 布団を放し、拳を握って、彩雲は寝台から立ち上がった。彩雲のいきなりの動きに、岫壑が目を瞬く。その岫壑に、彩雲は、

「厠」

 と不機嫌な声音で言った。


          ◇


「どうなりました?」

 素影が入り口に出てきながら問うた。

「まだ睨めっこ。殆ど動いてない」

 林霏は闘技場の方を向いたまま答えてから、ちらと素影を振り返る。

「沛沢の様子は?」

「容態が落ち着きましたから、もう安心です」

 素影は微笑んで言い、闘技場の崇阿へ視線を転じた。

「彼女の適切な処置のお陰です」

「うん……」

 林霏は相槌を打って、不安を湛えた双眸で、闘技場の中央付近から動かない崇阿を見つめる。

 中犲族の崇阿は、〈十幹〉の間では薬と毒の権威として知られている。本人は誰に教わったとも言わないが、十六歳とは思えない程、とにかく詳しいのだ。その彼女が、沛沢の症状を診て、明らかに毒に因るものだと断言した。状況と症状の軽さから診て、乾燥させた毒草を燃やし、その煙を吸わせたのだろう、と。しかもその毒草はタヌキゴロシといって、猫族とマタタビの関係のように、狸族に対してのみ絶大な影響があるものだ、と。つまり、この闘技大会には、そういう危険性もあるということなのだ。

(沛沢は、相手がよかったから、よかったけど……)

 崇阿の対戦相手は、先に夕靄が評した通り、決意を固めている。崇阿になにかあった場合、拾える勝ちを見逃すようには見えない。

(この闘いは、厳しいよ)

 林霏は苦しい顔をして、胸中で呟いた。

 闘技場の二人が動いたのは、その時だった。

「あ!」

 林霏は思わず低く叫んだ。踏み込むふりをしてわざと隙を見せた崇阿が、即飛んできた飛び槌の下を潜って相手の懐へ飛び込んだのだ。が、相手もさる者、だった。崇阿が小太刀を閃かせる前に、正確な狙いでその手元を蹴り飛ばしたのだ。重心を崩された崇阿は、体が傾いた方向へ身軽に地面を転がって、背中を襲った飛び槌を避け、くるっと器用に青年の方を向いて起き上がったが、仕掛け直すには一瞬遅かった。既に青年はヒュンヒュンと再び頭上で飛び槌を回し始めており、近寄れない。崇阿は険しい目をして、じりじりと間合いを取り直した。

 元の膠着状態に戻った二人へ視線を注いだまま、林霏は密やかに、ほうっと息をついた。全く心臓に悪い闘いである。

「実力伯仲、ですね」

 夕靄が、相変わらず緊張感の足りない口調で、短い攻防の感想を述べた。


          ◇


 厠は、部屋から出て、建物の中へ向かって歩廊を五十歩程行ったところにある。たかが五十歩の、短い距離だ。岫壑、或いは香霧も、必ず戸の前までついて来る。だが、それでも彩雲は、常々逃走経路や逃走方法について考えながら厠に行っていたのだった。

(一か八か)

 夕餉は要らない、などと悠長なことは言っていられない。闘いは、今行われているのだ。

(やってみるしか……ない)

 彩雲は決意を固めると、扉の前から普通に厠へ向かうかに見せかけて、さっと体を翻した。咄嗟に伸ばされた岫壑の腕を避けて、外へと全力で走る。いつも、のろのろとした動きを心掛けていたのが、功を奏したようだった。追って走り出す岫壑の反応は、二歩も三歩も遅れた。そして彩雲は、極限の集中力で、脱兎の如く歩廊を駆け抜け、庭園へ出たのだった。

 闘技場までの道筋は、先程、輿で運ばれて帰ってくる間に覚えておいた。後は、ただ一心に走るだけである。植え込みすれすれに曲がり、花々を踏み越え――、最短距離になる進路を見極めて、少女は走る。顔をしかめて、ひたすらに。彼女が赤い花を刺繍した靴を、未だに履いている青年の許へと――。



(どこへ向かっている?)

 岫壑は少女を追いかけて走りながら、眉をひそめた。小柄な少女は、明らかになにかを目指して走っている。その行き先を知りたい気もしたが、しかし仕事を怠ける訳にはいかなかった。

(ごめんよ)

 岫壑は両手を前へ投げ出すようにして、獣態へ、イヌの姿へと戻った。ダッと着地した前足二本で全体重を支えながら後足を引きつけて、地面を後方へと蹴りつける。それだけで、もう少女との距離はぐんと縮まるのだった。ただ走るとなれば、四足歩行の獣態の方が格段に速いのだ。岫壑はあっという間に少女の横に並ぶと、更には追い越して彼女の前に回り込み、ザッと足を止めて立ち塞がった。だが少女は、足を止めようとしなかった。諦めず、迷わず、岫壑を避けて走り続けようとした。岫壑は素早くその行く手を阻みつつ、少女の顔を見上げて、そして愕然とさせられた。

 青い空を背景に、陰になった人間の少女の顔。その頬を、涙が伝っていた。



(おかしいな)

 彩雲は、イヌと睨み合ったまま、真顔で思った。最近の自分はおかしい。涙腺が弛んでいる。すぐに涙が出てくる。

(なんでだろう)

 今も、岫壑が獣態に戻ったことを知った途端、涙が出てきた。人獣の足に敵うはずもないと、峻嶺のところへは行き着けないという気持ちが込み上げてきて、それだけで涙が。



 新たに、ツーッと少女の頬を涙が伝うのを見て、岫壑は、小さく口を開けた。獣態に戻っていることも忘れて、思わず、なにか言おうとしてしまった。少女の、殆ど無表情のまま涙を流している顔は、それ程に痛々しかった。



「――どこへ、行こうとしてるんです?」

 すうっと人態になった岫壑に問われて、彩雲は濡れた睫毛を震わせ、訝る顔をした。岫壑が問う理由が、分からなかった。けれど岫壑の眼差しは真剣で、口調は真摯だった。

「……闘技会場」

 彩雲は目を伏せて、ぽつりと答えた。



 岫壑には、その答えだけで少女の行動の意味が分かった。闘技大会の出場者の中に小犲族がいることは、侍従仲間の間で噂になっていたのだ。――だが。

「……行って、どうするんです?」

 岫壑は敢えて問いかけた。

「行ったところで、貴方にできることはありませんよ?」

 少女は赤くなっている目で岫壑を睨み上げる。

「――騒ぎに、なれば……」

 硬い声で返された答えに、岫壑は小さく肩を竦めた。

「中断はされるでしょう。けれど、中止にはなりませんよ。そして、貴方に対する監視体制はもっと強化される訳ですね。……私は、罰則を頂いてお払い箱でしょうが」

 少女は顔を歪めると、岫壑から目を逸らすように俯いて唇を噛んだ。そんなことは、言われなくともある程度分かっていたのだろう。しかしそれでも。

(居ても立ってもいられなかったのか)

 岫壑は、嘆息した。ここまで人間に同情してしまうとは、我ながら、つくづく甘い。

「ちょっと待ってて下さい」

 言って、帯を解き、二枚重ね着していた衣を一枚脱いで、ふわりと少女の頭から被せた。少女は、きょとんとした顔をして、岫壑を見上げている。

「そうしとけば、貴方の独特の匂いも、私の匂いに紛れるでしょう。顔も見えにくくなりますし」

 言いながら帯を結び直すと、岫壑は被せた衣で少女を包むようにして、ひょいと抱き上げた。

「誰かに気付かれそうになったら、すぐ引き返しますからね」

 抱き上げた少女の顔を見上げて岫壑は小声で言い、早足で歩き出す。彩雲は少年の肩に手を置いて上体を支えつつも、未だ信じられないという顔で、彼の横顔を見下ろし続けた。


     四


(そろそろ……か?)

 巒丘は石壁に凭れて腕組みしたまま、闘技場の同僚を見つめる目を、やや険しく細めた。崇阿は、若いだけあって我慢強さが足りない。先程、膠着状態を破ったのも崇阿の方だった。再び訪れた今の膠着状態を破るのも、恐らくは崇阿だと、巒丘は見る。

(あの犲族、相当のてだれだ)

 崇阿と対峙する青年は、一部の隙も見せず、緊張を途切れさせることなく、飛び槌を回転させ続けている。恐ろしいまでの集中力と忍耐力だ。

「……よくないですね」

 向かいの壁際で、いつの間にか石畳に腰を下ろしている夕靄が、呟くように言った。

「どういうこと?」

 入り口ぎりぎりに立っている林霏が、すかさず夕靄を振り返って問う。原狢族の青年は、座った姿勢のまま林霏を見上げて、知的な顔にやや陰のある微笑みを浮かべた。

「つまり、崇阿の方が負けそうってことです。この闘いは、我慢比べになった時点で、崇阿に分が悪い。彼女は、最初からどんどん仕掛けるべきでしたね。小太刀の方が小回りが効くんですし。少々の手傷など恐れず、もっと連続して仕掛けていれば、さっさと勝機を見いだせたような気がします。彼女は、慎重に徹し過ぎた」

「じゃ、今からでも……!」

 サッと闘技場へ視線を戻した林霏の腕を、巒丘はぐっと掴んだ。

「なに?」

 林霏は巒丘を振り向いて、怪訝な顔をする。

「やめておけ」

 巒丘は真顔で、ゆっくりと唇を動かして言った。

「なにを?」

 林霏は巒丘の手を振り解いて、幾分険呑な口調で聞き返した。

「お前が今しようとしたことだ」

 あっさりと手を離した巒丘は、再び腕を組みながら答え、闘技場の崇阿へと視線を動かす。

「今は、あいつに対して、なにもするべきではない。助言も、声援もな。徒にあいつの集中を乱すだけだ」

「けど……!」

 反論しかけた林霏は、しかしそのまま暗い顔をして黙った。林霏も戦士である。巒丘の言ったことが限りなく的を射ていることは、分かるはずだ。

「崇阿を助けたい気持ちは、私も同じです」

 素影が、巒丘の隣から取り成すように優しく言った。

「けれど、今の状況では……。それに、闘っている二人にしか分からない呼吸というものも、ありますから」

「……そうだね」

 林霏は少し項垂れると、闘技場の少女へ、祈るような眼差しを向けた。


          ◇


 彩雲に裁縫を教えたのは、母・湖煙だった。夜毎、寝る前の僅かな時間に、家の前に置いた丸太に腰掛け、月明かりや小さな焚き火の灯かりの中で縫い物をしていた母。幼い日の彩雲はその隣に座って、針が動くさまをじっと眺めている内、眠くなっていく。そんな日々の積み重ねの中で、彩雲は少しずつ針の使い方を覚えていったのだった。

 十歳になる頃には、彩雲の縫い物の腕は、随分と上達していた。そして、彼女が峻嶺の存在を母の甥として意識し出したのも、その頃からだった。

 亜麻色の髪の青年は、黒髪だった彩雲の母とは、優しげな目元の辺りしか似ていなかったが、直接呼びかける時はいつも、伯母さん、と呼んでいたので、二人が伯母甥の関係であることを認識するのは難しくなかった。ただ彩雲は、母以外とろくに会話をしたことがなかったので、峻嶺とも、あの(・・・)までは、大して会話をすることもなく、そう親しくもなかったのだった。

(あいつは、優しかったから)

 彩雲は、彼女を抱えて歩く岫壑の肩に手を置いて揺れに耐えながら、ぽつりと思った。一年前のあの日、帰らない母を待ち侘びて夜になっても一睡もせず、ただじっと起きていた彼女を誰よりも気遣ってくれたのが、峻嶺だった。翌朝になってもたらされた悲報に、張り詰めていた彼女の心が弾けた時、ずっと傍に付いていてくれたのが、峻嶺だった。

(だから……)

 母のいない家に少し慣れた頃、峻嶺の革靴にあの赤い花を刺繍したのだった。ささやかな、しかし彩雲としては、精一杯の感謝を込めて。けれど峻嶺は、彼女が立ち直るにつれて、余所余所しくなっていった。他の小犲族達と同じように、彼女を〈生まれながらの人〉として扱うようになっていった。

(でも、あの靴は、ずっと履いてた……)

 そして今も、峻嶺はあの靴を履いている。彩雲を、狗王国へ差し出しておきながら。

(……勝手に死んだら、許さない)

 なんの正統性もない、そんな思いを抱いて、少女は口を引き結んだ。


          ◇


 先に動いたのは、やはり崇阿の方だった。中犲族の少女は、小太刀をスッと引いたかと思うと、次の瞬間、踏み込むと同時に体を捻り、腕を大きく振って小犲族の青年に斬りつけるかに見えた――。

「え」

 林霏は小さく声を発し、目を瞬いた。小太刀が、崇阿の手から放れて飛んだ。手が滑ったという印象はない。意図して投げたのだ。



 峻嶺は、斬りつけてくると思えた小太刀が、切っ先を彼に向けて飛んでくる光景を目に映した直後、反射的に体を伏せた。使い手の方を狙って振った飛び槌では、単独で飛んでくる小太刀は防げない。案の定、屈めた頭のすぐ上を小太刀が掠めていき、突如として下に引かれた飛び槌は惰性で回転しながら地面を擦った。

(まずい)

 飛び槌を引きずって後ろへ飛び退りながら、峻嶺は顔を上げて対戦相手を見る。少女は頭の両側で束ねていた黒髪を解いて、今まさに、獣態へ戻ったところだった。



 巒丘は眉をひそめた。体格的に不利な崇阿が、武器を使わない獣態同士の闘いを仕掛けるのは、得策ではない。崇阿とて、そのことは分かっているはずなのだが。

(先手を打ち、隙を突く有利さに賭けたのか)

 険しい顔をした巒丘の視線の先で、獣態の崇阿は、全身を覆う長く黒い毛を波打たせて猛然と青年へ飛びかかる。その牙が狙っているのは、ただ一箇所、青年の咽笛。が、崇阿の牙は、かざされた青年の腕によって阻まれた。



 咄嗟に身を引きながら腕を上げて咽を庇った峻嶺は、黒いヤマイヌの牙が、衝撃と共に彼の皮膚を突き破って肉の中へ深々と食い込むのを感じた。腕を狙った訳ではないのだろうが、勢い余ってしまったのだろう。

(迂闊ですよ……!)

 痛いというよりは熱い激痛に歯を食い縛って、峻嶺は自らも獣態へ戻ると、牙を剥き、彼の前足に食いついたまま牙を抜けない対戦相手の鼻面へ噛みついた。



 キャウ……!

 崇阿の口から苦鳴が漏れて、闘技場に響いた。

「あれは、痛いね」

 夕靄が自らの鼻を指先で軽くつまみ、苦笑して言う。

「特に、尖った鼻の人達は」

 イヌ、ヤマイヌ、オオカミ、キツネ、タヌキは、とりわけ鼻が敏感なのだ。つまり、攻撃されると弱い、急所の一つでもあるのである。

「崇阿……」

 林霏が悲痛な表情をして呟いた。崇阿は痛みに堪えながら、いよいよ深く相手の前足に牙を埋め込んでいる。が、最早、彼女の不利は明らかだった。


          ◇


「どうやら、辿り着けそうですね」

 闘技会場を前に、岫壑が小声で言った。彩雲は、答える代わりのように彼の肩に置いた手に力を込めて、再び目前に迫った分厚く高い壁を、不安な面持ちで見つめる。ここへ来て、なにもできないのか、なにかができるのか。その答えは、まだ出せていない。ただ、とにかく峻嶺のところへ行かなければなにも始まらないと、それだけは分かっていた。

 岫壑は、闘技会場のどの入り口から入るかと考えて、殆ど直感的に東口へ向かった。大王の私兵である〈十幹〉達が彼らを見逃す道理などないはずだが、それでも、何故かそこが一番安全なような気がしたのだった。



 石壁に響く乱れた足音に、控え室にいた雪渓達は皆、通路の方を見た。直後、なにか大きなものを抱えた少年が一人、彼らの視界を走り過ぎていった。

「あれって、侍従の一人ですよね、確か」

 飛瀑が怪訝そうに言うのと同時に、雪渓は壁際の長椅子から立ち上がっていた。

「雪渓さん?」

 飛瀑の声にも振り向かず、雪渓は足早に控え室から出て侍従を追う。侍従が両腕で抱えていたものがなにであるのか。被せられていた衣の下から微かに漏れ出た匂いで、雪渓はそれと分かってしまった。淡いが、間違えようのない、もう随分と馴染んでしまった匂い。それに、侍従の方にも覚えがある。名は、確か。

「岫壑、殿」

 雪渓が硬い声で呼びかけると、侍従の少年は足を止めないまま、ちらと振り向いて答えた。

「見逃して下さい、九壬殿。お願いします」

 少年の、低く抑えられた声には、強い感情が滲んでいた。

(人間に、同情してしまったのか)

 雪渓は眉をひそめる。〈生まれながらの人〉を無断でこのようなところまで連れ出すなど、大王に許されるはずがない。見逃せば、雪渓もまた罪に問われるだろう。それは即ち、白狼族の不利益となる。

「岫壑殿」

 語気強く再び呼びかけた雪渓に応じたのは、それまでじっとしていた彩雲だった。少女は、揺れる岫壑の肩の上、衣の下から顔を上げて、無言で雪渓を睨んだ。冷たい恨みのこもった眼差しだった。行く手を阻む者全てを呪うような双眸だった。

 以前にも見たことがある、と雪渓は思った。同じように彼を睨み付けた目を、知っている。

(あの時の、黒雨の――)

 白狼族が裏切ったと知った直後の黒雨が、雪渓に向けた眼差しと、そっくりだった。

「――分かりました」

 雪渓は硬い声で言い、付け加えた。

「但し、私もついていきます」

「すみません」

 岫壑は小さな声で謝った。

 通路を走り抜け、闘技場の入り口に至った岫壑と雪渓を振り向いたのは、夕靄と巒丘だけで、しかも二人は衣を被った子供に目を留めながら、なにも言わなかった。巒丘はそのまま視線を闘技場の方へ戻し、夕靄は座ったままにこりと雪渓に笑いかけてから、やはり視線を闘技場へと戻す。促されて、雪渓が目を遣った闘技場の中央付近では、二匹のヤマイヌが互いに噛みついたまま、時折体を揺すって相手の牙を外そうと試みていた。



(峻嶺……!)

 岫壑の腕の中で体を捻って闘技場を見た彩雲は、亜麻色の毛のヤマイヌを認めて、顔を歪めた。峻嶺は、小柄で毛の長い黒いヤマイヌの鼻面に噛みついている。だが、その黒いヤマイヌの牙も峻嶺の前足に食い込んで、亜麻色の毛を血に汚れさせていた。



 痛々しい光景に言葉を失った様子の少女の顔を見上げ、岫壑は、さてどうしたものか、と考えなければならなかった。

(こんなところに長居なんて真っ平なんだが、終わるまで、ここにいたいんだろうしなあ……)

 見たところ、己崇阿よりも小犲族の青年の方に分があるようである。

(とにかく、この子が暴れるような結果にだけはならないでくれよ……)

 お人好しな岫壑は、ただそう願うより他なかった。



「……痛そうだね」

 傍らの天飆の呟きに、深潭は顔をしかめた。闘技場の二匹のヤマイヌが互いに噛みついてから、かなりの時が経ったように思える。どちらの噛み傷からも血が流れ、土の上に点々と滴っているさまは、不快感抜きに見ることなどできない。

(同じ血だというのに)

 深潭が居たたまれない思いに駆られかけた時、不意に己崇阿の方が口を開けて、噛みついていた相手の前足を放した。誰の目にも明らかな、無言の降参だった。

「第二戦終了!」

 すかさず、審判が高らかに宣言する。

「勝者、坤州侯配下小犲族の峻嶺!」



 勝利者宣言を受けて、峻嶺はゆっくりと相手から顎を離し、人化した。さすがにほっとしたようなその顔を遠く見つめると、彩雲は岫壑にこくりと頷いて見せた。岫壑は微笑んで頷き返し、雪渓にだけ会釈をして、来た時同様に小走りで闘技場を後にする。通路の暗がりへ消えるその後ろ姿を無言で見送る雪渓に、夕靄は興味深げな視線を投げつつ立ち上がると、闘技場へ視線を転じた。既に崇阿に駆け寄っている林霏、素影は、安堵の中にも落胆の色を隠せないようだ。

(これで、崇阿は〈十幹〉落ち。代わりにあの人が入ってくるという訳か)

「夕靄」

 前触れもなく、巒丘が呼んだ。通路の向かいに立って依然腕組みをしたまま、何故か呆れたような顔をしている。

「はい?」

 夕靄がきょとんとして応じると、巒丘は不機嫌な口調で言った。

「いつまでもにやけていると、また林霏の機嫌を損ねるぞ」

「ああ……、そうですね」

 夕靄は素直に答えた。なかなかに有り難い言葉である。が、真面目な顔や深刻な顔をするのは、正直なところ、苦手なのだった。


     五


 崇阿の傷は、大したことはなかった。しかしそれでも痛みは相当なものらしく、血を拭い薬を塗る林霏の手が傷口に当たるたび、黒いヤマイヌは微かな苦鳴を漏らした。小犲族の青年は、その様子を暫く見つめていたが、やがてくるりと踵を返して西口へ歩き始めた。

「待って下さい」

 立ち去りかけた峻嶺の背中へ声を掛けたのは、素影だった。

「峻嶺さん、ですね?」

「ええ」

 足を止めて振り返った峻嶺に、素影は穏やかな笑顔を向ける。

「これから、宜しくお願いします」

 峻嶺は微かに苦笑した。

「無理なさらなくていいですよ。私は、たった今、貴方方の仲間を傷付けた、憎い敵なんですから」

「いいえ」

 素影はきっぱりと否定した。

「貴方は、彼女に必要最小限の攻撃しかしなかった、よい方です」

「私も同感ですわ。ですから、気になさらないで」

 さらりと割り込んだ第三者の声に、素影と峻嶺は同時に声が聞こえた方を見た。いつの間にか、闘技場に、新たに一人の少女が現れていた。その面差しが、今は獣態に戻っている少女に似ている。

「申し遅れました。私、そこの崇阿の一腹の姉で、崇岳(すうがく)と申します」

 少女は微笑して名乗ると、背にかかる黒髪をなびかせて二人の前を通り過ぎ、黒いヤマイヌへと歩み寄った。

「手当てをして下さって有り難うございます」

 林霏にも声をかけてから、崇岳は腰に手を当てて、獣態の妹の顔を覗き込む。

「全く、崇阿ったら、少し諦めるのが早過ぎたんじゃなくて? それに、いつものことだけれど我慢強さも足りないし。貴方、もう少し忍耐というものを身につけた方がよくってよ?」

 ヤマイヌは、ふて腐れたように、薬の塗られた鼻面を下げてそっぽを向いたが、自分を見つめている林霏や素影に気付くと、ゆらりと尾を振って、すたすたと東口へ向かって歩き始めた。

「では、また」

 峻嶺も、素影達に軽く会釈をして、改めて西口へと歩き去る。

「いい人そうだね」

 林霏が崇阿、崇岳に続いて東口へ足を向けながら呟いた。素影は頷き、そしてふうっと表情を弛める。

「とにかく、第二戦も怪我人だけで終わって、なによりです」

 しみじみとした素影の言葉に、林霏も漸く微笑んだのだった。



(こちらは望み通りに運んでくれたな)

 皦日は無表情のまま胸中で呟くと、観客席を立った。ゆっくりとしてはいられない。猿族の殷雷を如何に捕獲するか、計画を練り、下準備をしなければならないのだ。

(全く、面倒なことになったものだ)

 しかし、これしきのことで、今まで積み重ねてきたことをふいにする訳にもいかない。皦日は足早に闘技会場を後にした。


          ◇


 歩廊を走り、部屋に滑り込んだ岫壑は、素早く戸を閉めると、彩雲を下ろすついでのように、その場に座り込んでしまった。肩で息をし、大汗を掻いている少年を見下ろし、彩雲は抑揚に乏しい声で、

「大丈夫?」

 と問うた。

「ええ、なんとか」

 岫壑は荒い息の合間に答え、苦笑する。

「寿命が縮まったような気も、しないではないですが」

「……有り難う」

 少女は、唐突に、ぽつりと礼を述べた。

「え?」

 あまりに意外な言葉に、岫壑は思わず聞き返したが、少女は二度は言わず、被っていた衣をふわりと彼に返すと、寝台の方へすたすたと歩いていった。


          ◇


 〈十幹〉達にとっては、覚悟していたよりもずっと穏やかな夜だった。部屋の片付けを始めた崇阿には、皆、気を遣ったが、彼女の傍には姉の崇岳がいて、口うるさく指示を出しているので、あまり沈んだ雰囲気にはならないのだった。

「けど、なんで対戦見てたんだ、あの姉ちゃん?」

 通路の端に立って、動き回る崇岳を遠目に見ながら、幽谷は通りかかった飛瀑に小声で訊いた。一般人は、対戦を見ることなどできないはずだ。

「ああ、崇岳さん、王妃殿下の侍女だって」

 飛瀑はあっさりと答えた。

「だから闘技会場にも入れたし、ここにも王妃殿下の許可を貰って手伝いに来たらしいよ。僕も、王妃殿下の侍女さんとは付き合いがないから、知らなかったけどね」

 言って、飛瀑は当の崇岳へ歩み寄っていく。その手に、外で絞ってきたらしい雑巾があるのを見て、幽谷は呆れた顔をした。崇岳が指示を出している相手は、崇阿だけではない。様子見に崇阿の部屋に近付いた素影や林霏、飛瀑をも使って、片付けを行っているのだ。

(俺は捕まってやんねえからな)

 ふいっと身を引いて自室に消えようとした幽谷だったが、少し遅かった。

「十癸殿」

 まるで空気を切り裂くように鋭く爽やかに、崇岳の声が届いた。

「少々、手をお貸し下さいません?」

 凛とした崇岳の双眸に見つめられると、幽谷は断わる言葉を思いつけなかった。



 同じ時、雪渓は自室で、窓際に置いた寝台の上に座って外を眺めていた。遮る物もなく開け放した窓からは、清々しい夜気が流れ込み、大月の晧々とした光に照らされた、昼間とは別世界さながらの地上が見渡せる。雪渓は窓枠に片肘を乗せて僅かに身を乗り出し、天空の大月を見上げた。

 遠征から帰ってくる間に一度欠けて、また丸くなった大月は、小犲族の集落を出て最初に過ごした夜と同じ眩さで空にある。

――「あんたでも、大月を見ると血が騒ぐ?」

 不意に林霏の問いが思い出されて、雪渓は微かに顔をしかめた。あの夜、彼女に答えた言葉には、若干の嘘がある。「多少は」血が騒いでいたのは、月華が死ぬ前までの話だ。

(彼女が死んでからは)

 天空に浮かぶ大月を見ても、血が騒ぐどころか、気持ちが重く沈むようになった。眩い大月は、月の光という意味の名だったあの少女を思い出させる。忘れてはならない、背負っていかなければならない、彼ら白狼族の罪を思い出させる。

(いつも)

――「月を見るたび、あいつに責められている気がする」

 脳裏を、一腹の兄の言葉が掠めて、雪渓は月光に照らされた顔を曇らせた。一族の運命が己の双肩にかかっていると思えば、月を見ても強くあることができる。けれど、感傷に負ければ、碧渓のように心を弱くしてしまう。

(俺は、負けないから)

 雪渓は、大月を見つめる目を険しく細めた。感傷に負け、黒雨に負ければ、黒狼族を裏切ってまでして守った白狼族をすら、今度は守れなくなる。

(そんなことになれば、多分、月華にも軽蔑されるから)

 だから。雪渓は、心に浮かんだ兄の面影を見据える。別れた時のまま、少年のままの兄に言う。

(お前も、戻って来い――)

 碧渓は五年前に一族を抜けて、その後の行方は知れない。彼は、月華のことが好きだった。為に、白狼族の裏切りの結果としての月華の死に、耐えられなかった。

(俺は、負けないから)

 胸中でもう一度繰り返すと、雪渓は体を起こして腕を伸ばし、両開きの戸を引いて窓を閉じた。途端に部屋は闇に没し、雪渓は僅かな隙から漏れる月光を頼りに、窓に横木を差し渡して、寝台に横になる。掛け布団を被り、まだ続いているらしい戸の向こうの片付け騒ぎを他所に、目を閉じた。林霏や素影、飛瀑のように、他人を気遣う余裕はない。

――「貴方と闘えます。覚悟しておいて下さい」

 昼間会った黒雨の真っ直ぐな眼差しを瞼の裏に思い起こしながら、雪渓は布団の中、静かにオオカミへ戻った。


          ◇


 彩雲は、布団の中で重い溜め息をついた。峻嶺が無事で、しかも〈十幹〉入りしたことは、素直に嬉しかった。だが、闘技大会前から心配している雪渓の対戦は、明日かもしれない。

(今日、睨んじゃったな……)

 少し、後悔してもいた。いつも動じない雪渓が、あの時は、微妙に顔を強張らせたように見えた。

(随分、凄い目をして睨んじゃったかもしれない……)

 ごろりと、彩雲は寝返りを打って仰向けになる。雪渓を傷付けたかった訳ではない。ただ、あの時は峻嶺のことで頭が一杯だった。

(気が気じゃなかった)

 今度は、同じように雪渓のことが心配になるのだろうか。彩雲は、もう一度溜め息をついた。心配するという、今日のように疲れることは、二度としたくない。けれど、対戦相手は、恐らく、あの黒狼族なのだ。

(……絶対、死なないで)

 少女は、掛け布団の下で手を動かして、単の上から飾りを握る。

(……死んだら、許さない。許さないから)

 祈るというよりは呪いをかけるように、胸中で呟いた。


          ◇


 邸の庭木の向こう、街路に面した方からは、前夜祭から続く祭りの賑わいが聞こえてくる。王都の大部分の狗族達にとって、闘技大会はただの祭りでしかない。

 黒雨は、振るっていた大剣を静かに鞘に戻すと、降り注ぐ光に誘われるように、頭上の大月を仰いだ。

(月華……)

 大月には、いつも妹の面影を重ねてしまう。そして、いつの間にか大月を追うように空の片隅に現れている小月を見れば、朗月の顔が浮かんでくる。あの猱族の売人と共に黒狼族の群れを去ってから、もうふた月程も見ていない顔。

 黒雨は小月から顔を背けるように視線を下ろし、庭を過ぎって館内へ入った。



 ひっそりと露台にいた沙磧もまた、黒雨が館内に入るのを見届けて、室内へ戻る。

(明日か、明後日か、明々後日か)

 大王へは、前夜祭の時に頼んでおいた。父・乾州侯配下の黒狼族を、是非とも壬雪渓と闘わせて頂きたく、と。大王は傍らの侍従長と目配せし、快く承諾してくれたので、黒雨は望み通り、壬雪渓と闘える。

(闘って、そして)

 殺すのだ。月華の仇として、あの白い髪の青年を。

(裏切りの代償として――)

 沙磧は心に重苦しさを感じて、目を伏せた。復讐劇に手を貸している自分もまた、復讐者である。立場上、黒雨のように純粋に白狼族を憎むことなどできるはずもないが、自分もまた、白狼族の裏切りを憎んでいるのだ。

(自らの手を汚さず復讐を成し遂げようなど、醜い行為だとは分かっているが)

 しかし、黒雨には正当性がある。黒雨は、復讐を行える立場にある。でなければ、黒雨のやり場のない心が、救われない。復讐という行為は、一つの決着なのだ。永久に取り戻せない喪失というものを、相手にも味わわせる。そして、そこから新しく始めるのだ。


          ◇


 一日走り通して、朗月の許へ戻った残星は、息を切らせながら、黒雨を止められなかった旨を伝えた。

「……面目ない」

 報告を終えて項垂れた残星に、朗月は表情を暗くしたが、責める言葉は口にしなかった。

「お前にも無理なら、黒雨は、もう誰にも止められない」

 沈んだ声で言って、朗月は腰掛けていた石から立ち上がる。森の暗がりの中、周囲に控えている黒狼族の生き残り達を見回し、重い口調で告げた。

「これより、黒雨は我が一族とは一切関わりのないものとしよう」

 残星は俯いて顔を歪めた。

(黒雨の大馬鹿野郎……! お前は、月華のことしか頭にねえのか!)

 黒雨の行動は、一族を背負って立っている異母弟の心を傷付けている。残星は、黒雨の一途さ、頑なさを改めて恨めしく思わずにはいられなかった。


     六


 殷雷は、妙に上機嫌だった。明々とした提灯が並ぶ街路を歩きながら、屋台を覗いたり、大小の月を愛でたりしている。後をついて行く細颸と霖瀝には、とても真似できない余裕ぶりだった。

「全く、緊張感というもののない男でございますね」

 少年の背中を見ながら霖瀝が眉根を寄せて呟くので、細颸は仄かに微笑んだ。

「慣れておられるから。闘技大会などよりは、余程、あの方の本領発揮なのです」

 そう言いつつ、細颸自身は、さすがに不安を隠せない。

 ヒトの奪取を、今宵決行すると言い出したのは、殷雷だった。

――「けれど、貴方はひどい怪我をしているのに」

 反対した細颸に、盗賊少年は珍しく真面目な顔をして言った。

――「なんとなく、急がなきゃいけねえって気がするんだよ。まあ、盗賊の勘ってやつだ。――俺も、負けちまったしな」

 「盗賊の勘」と言われては、反対の仕様もない。細颸は承諾せざるを得なかった。

「しっかし、祭りはいいねえ」

 殷雷が、不意に二人を振り返って言った。

「普段とは違う、別世界な雰囲気になるし、誰も彼も楽しそうだし。なあ?」

 同意を求められて、顔を曇らせていた細颸は、ぎこちなく微笑む。

「そうですね。こういう、人が集まって賑やかに行うお祭りはいいですね」

「そう言えば」

 霖瀝が、やや声を高くして会話に加わった。

「次の満月の日が、月祭りでございますね」

 「月祭り」とは、猿首長国で年に一度、この時期の満月の日に行われている伝統的な大祭である。

「ああ、そうだな」

 殷雷は頷き、目を細めて細颸を見た。細颸も殷雷を見つめ返し、懐かしそうに微笑する。二人が始めて出会ったのが、三年前の月祭りの夜だった。猿族の首長宮殿の表部分は、月祭りの時に限って出入り自由となる。それを利用して裏部分にまで忍び込んだ殷雷が、偶然にも細颸と遭ってしまったのである――。

「お、崖涘だ」

 人込みの向こうに協力者の姿を目敏く見つけた殷雷が、手を上げた。崖涘は、夕方に交わした約束通り、内の城壁を背にして待っている。嶔崖よりも殷雷と気の合う彼は、今宵の冒険にも付き合うと申し出てくれたのだ。

「おや」

 崖涘は、細颸と霖瀝の姿を認めて意外そうな顔をした。

「まさか、このお二人も同行するのかい?」

 真顔で訊かれて、殷雷は苦笑する。

「いや、単なる見送りさ」

「それはまあ、御丁寧なことで」

 呆れた口調で言った崖涘に、細颸がつと頭を下げた。

「宜しく、お願いします」

 真摯な言葉と態度だった。崖涘は面食らった顔をしたが、呆れ顔の殷雷や余計なことだと言わんばかりに眉間に皺を寄せている霖瀝よりも、細颸の心情を察した様子で頷いた。

「ま、できる限りでな」

 そうして崖涘はおもむろに歩き出す。殷雷も細颸達にひらりと手を振るとその後に続いて歩き出し、人込みの中へ紛れていった。


          ◇


 ふと気付いて、残星は身を起こし、辺りを見回した。

(いない……?)

 朗月の姿が、見当たらない。匂いも、そこここに残っているだけで、薄まってきている。

「――朗月?」

 残星は人化し、焦りを含んだ声で低く呼びかけた。が、返事はない。

「朗月が、どうかしたのですか?」

 朗月の側近の一匹、滄海が人態になって怪訝そうに声をかけてきた。

「いない」

 残星は抑えた声で短く答えた。夜も更けた森の中、一族の者達は皆オオカミの姿で体を丸め、眠っている。彼らの活動時間は昼過ぎから真夜中までであり、真夜中過ぎの今は寝入ったところなのだ。



「いない……?」

 滄海は囁くように繰り返して眉をひそめた。ここを今日の寝場所と定めて後、朗月も皆と同じように獣態に戻って眠りについたはずである。少なくとも、木の根元で朗月が丸くなって目を閉じるのを、滄海は見ていた。――だが、滄海が振り向いたその木の根元から、朗月の姿は消えてしまっている。

「まさか――」

 滄海は僅かに顔を強張らせて、残星を見た。

「その『まさか』らしいな」

 残星はとうにその可能性に思い至っていたらしく、暗い表情をして頷く。

「あいつ、自分で黒雨を止める気だ」

「無理だ」

 滄海は即座に呟いた。黒雨の譲らない性格は、二歳年下の彼もよく知るところである。

「――それでも、説得してみたいんだろ」

 低い声で会話に加わったのは、いつの間にか二人に歩み寄ってきた震霆だった。

「とりあえず、向こうの川のところまで送ってきた」

 かなり省いた言い方をして、十三歳の少年はその場に腰を下ろし、収まり悪く逆立った黒髪の中に右手を差し入れて、ぽりぽりと頭を掻く。意表を突かれた残星と滄海が小さく口を開けて見下ろすと、震霆はぶっきらぼうに言葉を続けた。

「あいつが黙っていなくなるようなこと、すると思ってたのかよ? ちゃんと俺に言ってから行ったんだよ。どうしても黒雨に直接会って話したいから、戻るまで、この辺りで待っててくれって。三日の内には必ず戻るから、その間、俺らで群れ、まとめといてくれ、頼むってさ」



「――あいつ、なんで俺に言わねえんだ……」

 残星は不機嫌に呟いた。朗月が個人的になにかをする時、大概いつも相談を受けてきたのは彼なのだ。

「言いにくかったんだろ」

 震霆があっさりと言った。

「そうだな」

 滄海が相槌を打ち、残星に微笑みかける。

「わざわざ走って貰った残星さんには、ね……」

 残星はフンと鼻を鳴らすと、口を尖らせて周囲を見回した。他の仲間達は依然、歳若い首長の不在に気付かず眠っている。だが、明日目覚めて事態を知れば、朗月を非難する者も出てくるだろう。

「全く、世話のかかる兄弟だぜ……」

 残星は不機嫌な顔のまま、微かに哀しげに呟いた。


          ◇


 祭りの人出に紛れ、内の城壁の周囲を巡り巡った殷雷と崖涘は、漸く、侵入できそうな箇所を発見していた。

 そこは王宮の裏手に当たり、飾り気のない門の脇に衛兵の詰め所のあるところだった。

「物資を運び込む門、てなところだな」

 崖涘が囁き、殷雷は鋭い目をして頷いた。凡そ宮殿というものには、こういうところがあるものなのだ。

(さて、どうやって忍び込むか)

 殷雷は辺りの屋台を覗く合間に、目立たないよう、ちらちらと門を窺う。

(やっぱ、詰め所を利用しない手はねえな)

 ちらと不敵な笑みを浮かべると、殷雷は傍らの崖涘を小突いた。

「お前、囮になれ。詰め所にいる奴らの注意を引くんだ」

「一人で入る気かい? そりゃ無茶ってもんだぜ?」

 崖涘は屋台に並んだ果実を一つ抓んで銭を払いながら答えた。

「俺様を誰だと思ってやがる」

 殷雷は憮然として言う。

「俺に限っちゃ『無茶』じゃねえんだよ」

「ならいいがね」

 崖涘はさらりと言って、果実を口に入れ、門を見遣った。殷雷もそちらを見る。脇の詰め所にいる員数は二人。充分、一人で引きつけられる数である。

「じゃ、ちゃんとあのお嬢ちゃんところに帰ってやれよ」

 ぼそりと囁くと、崖涘は行動に出た。


     七


 ずっと疑問に感じてきたことがある。

 後ろへ寝かせた耳に吹き付ける風の音を聞きながら、朗月は四肢で大地を蹴り、前だけを見据えて走り続ける。ひたすらに狗王国王都を目指す彼の心を占めているのは、ただ一つの疑問だった。

 残星の報告に拠れば、闘技大会に出場する為に、黒雨は乾州侯の配下になっているという。そうしなければ闘技大会に出場できない為、如何なる手段を用いてか、黒雨は州侯の配下にまでなったのだ。あの、揺ぎない意思を持った青年と闘う為に。

(何故、兄さんは……)

 白狼族全てを恨み憎んでいる他の仲間達とは、明らかに違う。

(何故、雪渓一人にこだわる……?)

 白狼族を許せないのなら、彼らの集落を襲うという手段もある。〈十幹〉の一人となり、王都に住む雪渓と闘うよりも、その方が簡単なくらいだ。けれど黒雨は、白狼族の集落を襲いたいと言ったことも、そういう素振りを見せたこともなかった。いつも静かで、他の仲間達に比べて、白狼族に対する憎しみが少ないようにすら見えていた。そんな黒雨が、売人・嶔崖の話に乗って群れを離れた時には、正直、朗月は驚いたのだ。あの寡黙で冷静な異母兄の心にも、それ程の憎しみが秘められていたのかと。だが、雪渓に実際に会い、残星を通して黒雨の一連の行動を知る内に、異母兄の胸の内にある憎しみが、ただの憎しみではないような気がしてきたのだった。

(あの二人の間には、特別な事情がある……?)

 少なくとも、異母兄が殺そうとしているのは、雪渓ただ一人だ。

(姉さん――)

 朗月は、地平に沈みかけた大月と、その斜め上に浮かぶ小月から注がれる穏やかな光に祈る。

(どうか、俺に、黒雨兄さんを止めさせて下さい――)

 雪渓の人となりについては、月華も、よく知っているはずである。ならば、姉とて、黒雨と雪渓が命を賭けて闘うことなど望まないはずだった。


          ◇


 崖涘の演技は完璧だった。よろけた振りをして露店の天幕を一つ倒し、そこの店主と見事な喧嘩を始めて、詰め所の衛兵達が止めに入らなければいけない騒ぎにした。二人の衛兵が詰め所から離れて喧嘩の仲裁をする隙に、殷雷は素早く詰め所に入り込み、そこから城壁の中へと侵入を果たすことができた。

 内の城壁の中は、外とは打って変わって、しんと静まり返っており、そこここに隠れるに都合のよい闇が横たわっていた。殷雷は、昼間、怪しまれない程度に歩き回って把握しておいた王宮の建物の配置を思い起こしながら、闇から闇へと移動していき、灌莽からそれとなく聞き出した内宮の方へと向かった。

(しかし、妙だな)

 暫く進んだ後、殷雷は顔をしかめた。衛兵はおろか、女官すら、一人も見当たらない。匂いはするが、それも建物の中から漂う微かなものばかりである。

(これも、狗族のしきたりってやつか……?)

 と、不意に間近に匂いを感じて、殷雷は体の動きを止めた。

「そっちが風上だね」

 背後で、若い男の声が言った。

「まさか、そんな端っこの方に誰かいるとはな」

 殷雷は不敵に笑って答え、そろりと振り向いた。植え込みの中に立って殷雷を見つめているのは、知的な顔に微笑を湛えた青年だった。

「あんた、〈十幹〉か」

 殷雷は訊くともなしに言った。青年の匂いは狢族のもの。この王宮には似つかわしくない匂いである。それ故、殷雷は逃げなかったのだった。

「二乙、と呼ばれているね」

 青年はひたと殷雷を見つめたまま、まるで他人事のように答えた。

「二乙、ね」

 殷雷は呟くと、

「それで、あんたは俺の敵なのかね、味方なのかね」

 と、また訊くでもなしに言った。青年は目を細めた。

「出会った相手を、片っ端から自分の敵か味方かに分類するのは感心しないな。というのは一般論としても、この場合、僕は君の出方によって態度を決めるつもりだし。なにしろ僕は〈十幹〉で、君は見たところ侵入者だからね」

「つまり、敵ってことのように聞こえるが」

 殷雷は体を緊張させながら言った。

「僕と敵同士になりたいかい?」

 青年は、微笑を崩さぬまま問うてきた。

「いや――」

 殷雷は眉をひそめて否定した。青年の微笑は、謎めいて見える。本当に、殷雷の出方次第で態度を変えるつもりなのだろうか。

「なら、どうする?」

 青年は重ねて問うてきた。殷雷が「どうする」ということなのか、青年が「どうする」ということなのか。或いは両方の意味なのか。殷雷は数瞬迷った挙句、意を決して言った。

「手伝ってほしい」

 青年はふっと笑うと、

「ついておいで」

 と言って歩き始めた。



(そう、その姿勢が大切なんだよ)

 猿族の少年を先導して闇の中を歩きながら、夕靄は心の中で思う。

(仲良くしたい、という友好的な姿勢が大切なんだ。人と人との間も、部族と部族の間も、種族と種族の間も、そして、国と国との間も、全ては、そこから始めないとね……)

 真に争いを避けたいならば、異なる相手でも理解しなければならない。理解すれば、憎むことが難しくなる。一人の人獣にはいろいろな側面があって、そのどれもを憎むことは簡単ではない。

(ただ、誰かを憎んでる方が楽だって場合があるのも確かだけど。でも、憎しみに頼って生きてると、その憎む対象が失われた時、訪れるものは虚無だけだって、急峡(きゅうきょう)も言っていたし)

「おい、あんた」

 背後から少年が囁いてきた。

「どこへ連れて行く気だ」

「君が行きたいところへ」

 夕靄は肩越しに振り向いて囁き返す。

「もし違う方へ進んでると思ったら、そう言って」

 殷雷は黙った。とりあえず、この二乙という青年は内宮の方へ向かっているようである。だが、その真意ははっきりしない。

(気紛れか、同情か、それとも、俺をなにかに利用する気なのか……)

 「敵」と断定する要素はまだない。殷雷は警戒を怠らずに、もう暫くついて行くことにした。



 また、あの部屋の夢だった。夢だと半ば理解していながらも、彩雲は前の時と同じように、並べられたいろいろなものを興味深く眺めていた。それらのものの詳細はよく把握できないが、しかし知っているものだという感覚があった。不思議な懐かしさを覚えていた。

(変な、夢……)

 夢だと確信した途端、眠りが浅くなっていくのが分かった。眠りから覚め、細く目を開いた彩雲は、暗闇の中、また目を閉じた。胸に、不思議な懐かしさが残っている。暫くの間浸っていたいような、正体不明の懐かしさ。――だが彼女に、夢の余韻を味わう時間は与えられなかった。

 聞き慣れた音が小さく響いて、香霧が戸口の横の椅子から立ち上がったのが分かった。

「誰です?」

 続いて誰何した香霧の声は、緊張に満ちていた。彩雲は再び目を開き、布団の中で体を強張らせる。こんな夜更けに、一体何者が現れたのだろう。闇を透かして香霧を窺うと、立ち上がった格好のまま、明かり取りの窓を見上げて険しい表情をしている。

 その時、不意にコンコンと外から戸を叩く音がした。反射的に振り返った香霧の隙を突くように、明かり取りの窓で影が動く。高い位置にある円形の窓をするりと器用に通り抜けて部屋の床へ着地したのは、一匹のサルだった。香霧はすぐにサルの方を向いたが、元々の戦闘能力に違いがあり過ぎた上、仕掛ける側と仕掛けられる側の心構えの差が影響した。香霧が獣態に戻る間もなく殷雷は人化し、彩雲の咽元に小刀を当てていた。

「やめて下さい……!」

 香霧の大きな声が、部屋の中に響いた。

「大声出すな」

 殷雷は抑えた声で応じ、匂いから犲族と分かる相手を見据える。

「お前が俺の不利になるようなことをしない限り、こいつを傷付けるつもりはない」

「――私の都合は、お構いなし……?」

 ぼそりと、殷雷の腕の中で彩雲が呟いた。

「まあな」

 殷雷はニッと笑って答えた。彩雲は顔をしかめ、香霧の出方を窺う。彼女の見張りと世話を役目とする少年は、険しい顔をして殷雷を睨み付けているが、如何に対処するか苦慮しているように見えた。

(どうするんだろう)

 彩雲は咽元の小刀を気にしながら考える。香霧の立場からすれば、彼女を傷付けさせる訳にも連れ去らせる訳にもいかないはずだ。

(やっぱり、ここで私に怪我させるよりは、一旦逃がして、それから……かな?)

 と、彩雲を捕らえた腕に新たに力が入った。侵入者は、彼女共々寝台から下りようとしているようである。

(また知らないところに連れてかれるの、いやだな)

 思った彩雲の体は、微妙な抵抗を示していた。途端に、ヒヤリと、少女の首に小刀の刃が触れたのだった。

 びくり、と彩雲は体を硬直させ、同時に同じ首の部分の痛みの記憶を思い出した。あの、小犲族の集落から連れ去られた夜。離れない雪渓を鬱陶しく思いつつ、用を足しに分け入った森の中。突如襲ってきた、二人組――。

(臭い……!)

 彩雲の思考は、一瞬その場の状況から離れて、まるで雷が空を走って地上の木へ落ちるように、一つの推測へ行き着いていた。前々から疑問に思ってきたこと。あの時、雪渓達を苦しめた臭いの正体。

(でも、まさか……。けど……)

 半信半疑の表情で彩雲は目だけを動かし、彼女を抱えた少年の眼差しが香霧に向いていることを確認すると、咽元の小刀へ視線を転じた。よくは見えないが、しかし鋭利なものだと思える。

(思った以上に切れちゃうかもしれないし……)

 迷った彩雲の頭に、別の選択肢が浮かんだ。

(そうか、こんな小刀利用しなくても……)

 そして彩雲は、寝台から下ろされて両足が床に着いた直後、覚悟を決めて、がぶりと思い切り自分の唇を噛んだのだった。


     八


 殷雷は、一瞬なにが起こったか分からなかった。突然気分が悪くなり、頭がくらりとした。原因が臭いであると気付いた後も、なんの臭いであるのか、暫くは分からなかった。ただ、頭の一部に残った冷静な意識が危険を告げていたので、盗賊少年は人間を離し、入ってきた時と同じように飛び上がって明かり取りの窓に取り付くと、外へ逃げた。自分を苦しめたのが血の臭いであると気付いたのは、走りながら、新鮮な夜気を暫く呼吸した後だった。



 香霧もまた、一瞬なにが起こったのか分からなかった。ひどく不快な臭いが鼻と口に充満して、ひどい吐き気がした。部屋から逃げ出したいのを我慢して、左手の袖口で鼻と口を塞ぎ、懸命に吐き気を抑えながら、彼は彩雲へ視線を注いだ。侵入者は、同じ臭いにあてられたらしく、さっさと逃げ出している。

(だが、もう一人)

 香霧は体を動かし、鍵を外して戸を開けた。しかし、戸を叩いたはずの何者かの姿はない。

(やはり、仲間か)

 香霧の注意を一瞬引き付け、猿族の少年の侵入を助けたのだ。

(しかし、この匂い……)

 歩廊や戸に残った匂いは、狢族のもの。しかも覚えのある匂いである。重苦しい表情をした香霧の耳に、その時、少女の低い呟きが届いた。

「やっぱり」

 香霧が振り向いて見ると、人間の少女は自分で噛み切った唇に指先を当てて目を伏せ、真剣な顔をしている。なにが「やっぱり」なのか、香霧には即座に分かった。少女は明らかに意図的に自らの唇を噛んだ。彼女は試し、そして結果は導かれたのだ。今も、彼女の血の臭いは部屋の中に充満して、香霧は鼻を押さえて尚、開け放した戸の傍から離れられない。

(人間の血がこれ程臭うなど……、まるで、伝説の通りだ)

 香霧は顔をしかめて胸中で呟いた。



 狢族の青年は、獣態で殷雷の前に現れると、無言のまま彼を内宮の外へと案内してから人化した。そして、更に黙々と内の城壁へ向かって歩き続ける。殷雷も黙ったまま後に続いた。辺りは静かで、全てが飲み込まれそうな闇に覆われている。人間の部屋にいた犲族の少年は、何故かまだ、人を呼んだりしていないようだ。

(まあ、あのひどい血の臭いじゃ、口を利くのも至難だろうがな)

 細颸から注意されてはいたが、まさかあれ程とは思わなかった。

(しっかし、面倒なことにしちまったな)

 間違いなく、人間の警備態勢は強化されるだろう。次の侵入は困難だ。しかも、あの犲族の少年に顔を見られてしまった。彼が、もし殷雷のことを北州侯配下の戦士だと知っていれば、かなり面倒なことになる。

(どうしたもんかな……)

 思い悩む殷雷の目の前で、ひらひらと、闇の中、先導する青年が着ている白っぽい衣の袖や裾が規則的に揺れている。動き易いとはとてもいえない衣。

(狗族の趣味に染まってるのか)

 ひらひら。ひらひら。規則的に揺れる袖と裾は、青年が獣態で走った所為で、引きずられて汚れてしまっている。

(かなりいい布だな。仕立ても贅沢だし。汚すなんて、勿体ねえことしやがるぜ)

 ひらひら。ひらひら。ひらひら。ひらひら。

 ひらひら。ひらひら。ひらひら。ひらひら。

 いつしか、殷雷の両眼は揺れる衣に吸い付けられたようになっていた。そして、青年が立ち止まった時、殷雷は初めて自分があの詰め所の近くまで導かれたことを知ったのである。

「さて」

 青年は小さく言って、くるりと殷雷を振り向いた。

「これから、どうする?」

 微笑んで、訊いてきた。殷雷は微かに苦笑すると、

「逃げるさ」

 簡潔に答えて、今度は爽やかに微笑する。

「そしてまた出直してくる。あれ(・・)は、どうしても必要だからな」

 青年は、ただ黙って目を細めた。

「じゃあな、世話になった」

 殷雷は礼を述べると、人態のまま、身軽に手近な庭木を伝って内の城壁の上に至った。そして、身を低くした姿勢で思い出したように青年を見下ろす。

「いい衣、台無しにさせて悪かったな」

 小声で謝って、城壁の向こう、詰め所からは完全に死角になっていて、且つ人目の届かない屋台の陰へ、音もなく飛び下りた。



 暫く聞き耳を立てていた夕靄は、城壁の外で騒ぎが起きないことに満足すると、専用兵舎の方へ踵を返した。

(さすが盗賊)

 感心してから、仄かに笑い、付け加える。

(お目が高い)

 そして更に数歩進んでから、夕靄はふと真面目な顔になった。

(でも、『あれ』じゃない)

 つい助けてしまった盗賊少年に、胸中で話し掛ける。

(あの子、或いは、彼女、だよ。そう思えなければ、多分、伝説(・・)と同じになってしまうから)

 少なくとも、急峡はそう言っていた。

(だから、気を付けなくちゃ駄目だよ、殷雷)

 最後には愉快そうに微笑して、夕靄はしんとした闇の中を歩いていく。この時間に、この広大な庭園のどこに衛兵がいてどこに衛兵がいないのか、五年も〈十幹〉をしていれば、いやでも分かるのだった。



 彩雲は唇の血を少し舐め、鉄分の味に顔をしかめながら、目を上げて香霧を見た。侍従の少年は、開け放した戸の前から動こうとせず、袖口で顔の下半分を覆い、険しい眼差しで彼女を見つめている。彼女の血の臭いが影響を及ぼしていることは明白だった。

(今なら、逃げられる……?)

 彩雲は、ふと思った。香霧は彼女に近寄れない。戸も開いている。空に最早月はないのか辺りは暗いが、目は暗がりに慣れているし、他の人獣達に遭遇したとしても、先程の少年がそうであったように、大慌てで彼女から離れるだろう。

(この血が流れてる限り、誰も私に近付けない)

 彩雲は、一歩、香霧へ――戸口へ向かって踏み出した。香霧は、びくりと半歩後退った。だが、少女が戸口へ進んだ距離はそれだけだった。

「薬」

 少女はぽつりと要求すると、寝台へ戻って、いつものように腰掛けた。香霧には、人間の少女がなにを考えたのか、分からなかった。だが、ともかく、彼女が逃げる危険が一時であれ去ったことだけは、理解できた。


          ◇


「失敗か」

 殷雷を見付けて近寄ってきた崖涘は、ぼそりと言った。

「予想外の事態がいろいろ起こったのさ」

 殷雷は悪びれず言う。

「で、さすがの俺も、出直そうと思ってな」

「『予想外の事態』?」

 人を避けて歩きながら、崖涘は聞き返した。

「ああ」

 殷雷は不敵に笑う。

「まあ、帰ってからゆっくり話すさ」

 そして、少年は溜め息をついた。崖涘が察するに、待っているであろう少女のことを考えたらしかった。


     九


 いつもの銅鑼の音で、しかしいつもは呼ばれない時間に呼ばれた游糸は、部屋の中に漂う臭いに、思わず顔をしかめた。

「傷薬を持ってきてくれ」

 何故か戸を開け放して待っていた香霧が言った。人間の少女は眠っておらず、灯かりの一つもない中で、寝台の上に座っていた。

「分かりました」

 游糸は答えて、人間の少女の衣や裁縫道具などが置いてある小部屋に行き、薬箱を持って戻った。

 人間の少女は唇を切っていた。その傷口に薬を塗ろうと近寄って、游糸は嗅覚を占領した臭いに吐き気を覚え、堪らず少女から顔を背けて、口と鼻を手で押さえ、咽の奥からせり上がろうとするものを抑え込んだ。目に涙が浮かんだ。そうしてぼやけた双眸で香霧を見ると、彼は厳しい顔をして顎をしゃくり、游糸に手当てを促した。人間の傷について、なんの説明もなかったが、なにか尋常でない事態であることだけは、游糸にも理解できた。游糸は息を詰め、再び人間に向き直って、その唇の切れ目に傷薬を塗った。人間は痛そうに顔をしかめたが、言葉を発することはなかった。


          ◇


 闇の中、匂いを感じてそちらに目を向けた夕靄は、専用兵舎の外壁にひっそりと凭れて佇む人影を認めて、足を止め、顔に苦笑を浮かべた。猫族の匂いと、人影の肩を覆う、ふわふわとした輪郭の髪。

「どこへ行っていた?」

 巒丘は、単刀直入に、容赦なく訊いてきた。

「散歩です」

 夕靄は苦笑したまま答えた。

「この王宮の中、獣態で散歩か」

 巒丘は突き放すように言った。衣の裾をぼろぼろにした格好を見れば、獣態になったことなど一目瞭然なのだろう。

「ええ」

 夕靄は悪びれず答えると、言った。

「巒丘さんて、意外といい人だったんですね」

 斑猫族の女戦士は、怪訝そうに沈黙する。夕靄は続けて言った。

「午後の対戦の時、林霏の腕を掴んで止めたじゃないですか。彼女があそこでなにか叫んでいれば、確実に大王の反感を買っていた場面でしたよね、あれ」

 巒丘は、小さく溜め息をついたようだった。そして。

「話を逸らすなら、もう少し巧くやれ」

 素っ気無く言い残して、先に専用兵舎の中へ入っていった。後に残された夕靄は、その後ろ姿を見送って、肩を竦める。

「結構本気で言ったのに」

 呟くと、巒丘の後を追って、専用兵舎の戸口へと歩みを再開した。


          ◇


 游糸が薬箱と共に去って暫く。そっと部屋の空気を嗅いだ香霧は、強張っていた表情を僅かに弛めた。耐えがたい臭気は拡散されて、かなり薄くなりつつある。

(これなら、明け方には消えているだろう)

 安心しつつ、まだ戸を閉める決心はつかないまま、香霧は寝台に横になった少女を見遣った。少女は布団を被って香霧に背中を向け、何事もなかったかのように大人しくしている。だが、彼女がまだ寝ていないことは、気配で分かった。

「……一つ、訊いてもいいですか?」

 香霧は、低めた声で静かに少女に話し掛けた。少女の返事はないが、彼は、構わず問いを口にする。

「何故、逃げなかったんです?」

 逃げられることに気付きながら、少女は逃げなかった。それが、香霧には疑問だった。一体なにが彼女を留めたのか、侍従としては知っておかなければならないという気持ちと、純粋な興味の両方が胸の内にあった。

 少女は、香霧に背を向けたまま、全く体を動かさなかった。返答があったのは、無視されたかと香霧が思い始めた矢先だった。

「ここ以外に、生きてくところなんて、ないから」

 布団の向こうから聞こえたのは、ひどく冷静な声だった。



(嘘じゃない)

 彩雲は、頬まで引き上げた布団の中から闇を見つめて、心の中で呟いた。香霧に答えたことは、嘘ではない。自分は、ここなら生きていけるのだ。だが、ここ以外の生きていける場所など知らない。ならば、自分はここにいるべきなのである。

(でも)

 逃げられると気付いたあの時、真っ先に頭に浮かんで、彼女を留めたのは。

(雪渓の対戦、明日かもしれないから)

 あの青年の対戦が終わるまでは、ここを離れられないと、彩雲は、何故か咄嗟に思ったのだった。


          ◇


「失敗か」

 提灯の灯かりに照らされた街の広場で待っていた皦日は、戻ってきた彼の私兵達を見遣って、低く呟いた。

「申し訳ございません」

 筆頭の男が、皦日の前に跪いて詫びる。

「館と宿、双方を張っていたのですが、奴はどこかへ出掛けており、捕獲すること、叶いませんでした――」

「そうか」

 皦日は淡々と頷いた。

(行き違いになったかもしれぬな)

 思いながら、噴水の縁から腰を上げ、東の空を見る。つい先程まで星明りしかなかった漆黒の空の端が、ほんの僅か、青みを帯びていた。もう夜明けが近いのだ。

「ならば、本日中に。必ず」

 皦日は、控えている私兵達に低い声で命じると、内の城壁の最寄りの門目指して歩き始めた。殷雷は、ヒトを盗りに内の城壁の中へ入ったのかもしれない。だが、その企みが成功したなら、もっと騒ぎになっているはずである。

(恐らく、奴も失敗したのだろう)

 勝負は一日持ち越されたのだ。

(そして次は、私が勝つ――)

 感情の表れない双眸で静かに前を見つめて、皦日は足早に街路を抜けていった。

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