孤独な魂3
第三章
一
闘技大会前夜、王宮の外宮正殿黄の間では、州侯を代表とする諸侯達を招いた宴が催されていた。王都の市街においても、闘技大会の前夜祭が行われていたが、王宮内の宴は、外の単なるお祭り騒ぎとは一線を画す、政治的な色合いの濃いものである。そしてもう一点、王宮内の宴が外の祭りと異なるところは、今回の遠征の戦利品である〈生まれながらの人〉が公開されているという点であった。
彩雲は、椅子にきちんと座ったまま、格子の向こうから注がれる数多の視線に耐えていた。彼女の世話係である香霧と岫壑から宴に出される話を聞いた時に、既に檻に入れられるという予想はついていたが、檻が、あの馬車の荷台に取り付けられていたものとは比べものにならない程綺麗な、美術的価値の高い造りのものだということ、そして彼女を逃がさない為というよりも彼女を見物人達から守る為にあるのだということは、実際に宴に引き出されてから分かったことだった。
黄の間は広く、幾つもの柱がその天井を支えている。その各柱の傍らには必ず灯台が据えられており、着飾った人態の人獣達の姿を明々と照らし出すのだが、彼らの装いは、ずっと小犲族の集落で育ってきた彩雲の目には、滑稽としか映らない。特に、獣態に戻る時邪魔になりそうな髪飾りや指輪、人態の体にぴったりと形を合わせた衣服などは、一体何故身に付けているのだろうかと思われた。
と、檻の周囲に群がった人々の向こうを、一人だけ簡素な格好をした人獣が過ぎり、彩雲の目を引いた。
(あれって……天飆)
間違いない。半月以上も輿内の空間を分け合った、あの砂色の髪の青年である。
(そうか……、あいつ王子だから、ここにいるんだ……)
それにしても、周囲から浮いている。服装だけでなく立ち居振る舞いも、勿体を付けた動きをする貴族達とは異なり、無駄がなく、ある意味素っ気ない。
(でも、今日は、王子っぽくないんだ……)
正直、あの日の、大王の前に跪いて朗々と報告をした天飆には驚かされた。普段どのようであれ、やはり王子なのだと、冷えた思いを抱きつつも見直したものだった。だが、今、広間を過ぎっていく天飆の様子は、輿の中で見ていたものとあまり変わらない。
(それとも、あの、周りに合わせない態度こそ、王子なのかな……)
彩雲が、半ば呆れ半ば感心して思った時、不意に檻の周囲に群がっていた人獣達がざわざわと動き出した。彩雲の正面のところで左右に分かれて、場所を空ける。その場所へ当然のように堂々と現れたのは、彩雲と同い年くらいに見える、二人の子供だった。片方は少年で、もう片方は少女である。どちらも銀鼠色の髪をしていて、少年の方は耳に少しかかる程度の短さ、少女の方は胸の辺りまで届く長さだった。
「これが〈生まれながらの人〉か……」
少年は言って、彩雲をじっと見つめる。
「変わった匂い」
少女も言って、彩雲をしげしげと見つめる。
(こいつら、誰……?)
軽く眉をひそめた彩雲の疑問に答えるように、
「清霄様、清漣様」
と呼ぶ声がした。振り向いた二人に向こうから歩み寄ってきたのは、一人の老人である。
「お二方共、そろそろお部屋の方へ戻られませんと」
「しかし、爺、私達は今ここへ来たばかりだぞ……?」
少年の方が抗議したが、老人は首を横に振った。
「これ以上はなりませぬ。御母上様の仰せにござりますれば」
「母上の……」
少年は声の調子を落とし、俯く。
「清霄、仕方ないわ」
少女の方が慰めるように言った。
「ちゃんと人間を見られたんだし、もう戻りましょう?」
少年は、ちらと彩雲を振り返った。苛立ちを抑え付けたような顔をしていた。それから少年は黙ったまま檻から離れていき、少女と老人がその後に従った。
黄の間から出ていく清霄と清漣に気付いた天飆は、微かに呆れた顔をする。自分が王都に帰還してから、王妃・泠風はまた随分と神経質になっているようだ。
(俺が清霄を殺すとでも思ってんのかな……、あのおばさん)
天飆の母である前王妃・絳霞は、生前、泠風に随分ときつく冷たく当たっていたらしい。泠風は未だにその恐怖を忘れられないのか、絳霞の息子・天飆や娘・瞑天に対して、異様なまでの警戒心を抱いているのだった。
(まあ、瞑天がなに考えてるかは俺も知らないけど……)
絳霞は病死だったが、王宮内には、泠風が毒殺したのだという噂も流れた。元々絳霞のことを嫌っていた天飆は気にも留めなかったが、彼より四歳年下で当時まだ六歳だった瞑天は、黒い噂にそれなりに衝撃を受けていたようでもある。しかし、そもそも仲のいい兄妹とは言いがたい間柄なのだ。
(あいつのことは、俺には関係ないし)
天飆はさっさと思考を切り替えて、辺りを見回す。ここへ来た目的はまだ果たされていない。大勢の人獣達が動き回る広い黄の間の中に、天飆は未だ銀髪の異母兄の匂いも姿も感知できずにいた。
(深潭、まだ来てないのかな……?)
結局、凱旋の日以来一度も深潭と会えていない。同じ内宮に住んでいるので偶然に会えてもよさそうなものだし、時折見かけたり匂いを感じたりはするのだが、会えない。なにか理由があるのだろうか。
(でも)
例えそうだとしても。
(ここに顔出さない訳にはいかないはず……)
王族にとって、王宮で行われる宴に出ることは、半ば義務である。あの真面目な異母兄が、その義務を果たさないとは思えない。諦めず辺りを見回して深潭を捜す天飆の目に、その時、開放された扉の一つから入ってくる、銀髪を首の後ろで束ねた青年の姿が映った。深潭である。
(やっぱり来た)
天飆は人込みを緩やかに渡って、異母兄へと近付いていった。遠征に発つ前に会って以来、本当に久し振りに話せるのだ。だが、天飆の心に浮かんでいた仄かな喜びは、異母兄へ近付くにつれ、跡形もなく消えていった。異母兄の整った顔には、憔悴の陰りがあった。
「――どうしたの……?」
すぐ横から不意に掛けられた言葉に、深潭は僅かに意表を突かれて振り向いた。いつの間にか、異母弟・天飆が傍らに立っている。
「なんのことだ?」
どうしてもつっけんどんになってしまう声で問い返すと、天飆は無表情のまま深潭を見つめて、
「なんか、意気消沈してるって感じ」
とだけ言った。
深潭は顔をしかめて目を伏せた。この異母弟は、ぼうっとしているように見えて、妙に鋭いところがある。よく感付くし、なまじな嘘は通用しない。それに、自分の憔悴の理由は、この異母弟に隠すようなことでもなかった。
「――母上が……」
深潭は目を伏せたまま低い声で言った。
「このところ、体調が優れぬ様子で、臥せっておられるのだ」
「積淋が……」
天飆は僅かに目を見開いて呟いた。
大王の側室である深潭の母・積淋には、天飆も特別な思いを抱いている。自身が産み落とした子供に対して全く愛情を持ち得なかった母・絳霞に代わるように、天飆に愛情を注いでくれたのが、積淋だった。
当時、瞑天はまだ乳離れせず、邪険に扱われながらも絳霞の許にいたが、既に乳離れしていた天飆は、絳霞の傍に寄ることすら許されなかった。その天飆をなにかと気遣い、構ってくれたのが、深潭と彼の母親である積淋だったのだ。
「……そっか」
天飆は俯いて深潭から目を逸らす。
「お大事にって、伝えといて」
短く言い置くと、踵を返し、異母兄から離れて、扉の方に歩き始めた。
(第三王子・天飆、もう退場か)
砂色の髪の青年が広間から出て行くのに気付いて、沙磧は冷ややかに目を細める。
(あれでは、やはり、王位継承権の行方は危ういな)
思いながら、なんの気なしに視線を転じた先に、その青年がいた。沙磧は反射的に彼から視線を逸らし、彼から遠ざかる方へと足を向ける。だが、一足遅かった。
「沙磧、沙磧」
名を連呼されて、乾州侯女は渋々振り向いた。できれば気付かなかった振りをして遠ざかりたかったが、呼ばれて無視できる相手ではない。
「これは……淙琤殿」
とりあえず、初めて気付いたふうを装って微笑んだ少女に、青年は、いそいそと嬉しげに歩み寄ってきた。
坤州侯・淙琤、二十二歳。さっさと引退した父親の跡を継いで弱冠二十歳で坤州侯となった青年である。沙磧は、誰に対しても妙に馴れ馴れしい彼の性格が、嫌いで、苦手なのだった。
「いやだなあ、『殿』なんて付けないで下さいよ」
沙磧の隣に来た青年は、童顔に無邪気な笑みを浮かべて言う。
「淙琤、でいいです。歳だって、六歳しか違わないんだし」
六歳は大きいぞ、と沙磧は思ったが、口には出さない。代わりに彼女は、
「そうはいきません。貴方は州侯であり、私は州侯の娘に過ぎないのですから」
と答えた。
「そんなあ」
淙琤は情けない顔をする。
「僕だって、つい二年前までは坤州侯子だったんですから、そう変わりませんって。それに、貴方が実質的にやっていることって、多分、僕がやっていることと大差ないですし」
さらりと、鋭く指摘されて、沙磧は返す言葉に詰まった。青年は、反論しない沙磧を見つめて、朗らかに笑う。
「ね、そうでしょう?」
「では、……淙琤」
沙磧は非常な違和感と抵抗を覚えながら、六歳年上の、親しくしたくもない青年を呼び捨てにした。
「はい」
青年は嬉しげに返事をし、沙磧の次の言葉を待つ風情である。沙磧は、彼から逃げる口実を得る為、問うた。
「それで、あの、わざわざ私などを呼び止められて、なんの御用でしょうか?」
「ああ、そうでした」
青年は、ポンと手を打ち、目を輝かせる。
「僕のところで、今度の闘技大会用に面白い戦士を雇ったので、貴方に話しておこうと思いまして」
「『面白い戦士』?」
黒雨のことを思い浮かべながら、沙磧は聞き返した。
「はい」
淙琤はニコニコとして頷く。
「実は、小犲族なんです」
沙磧は、目を瞠った。小犲族とは、すぐそこで檻に入れられ晒されている〈生まれながらの人〉の出身部族ではないか。その人間を差し出した部族の者が、なにを思って今回の闘技大会に出るのか。
「狗王国が人間を獲得したことを祝っての闘技大会だぞ?」
思わず沙磧は驚きと憤慨を口に出していた。淙琤は、やや面食らったように瞬きする。
「なんであれ、服属したんですから、いいんじゃないですか? それこそ、闘技大会を口実にして彼女に会いに来たのかもしれませんし」
言って、ちらと、人垣に囲まれた檻の方へ視線を投げた。人間は、闘技大会期間中、昼休みの間に限って、闘技会場で公開されるという話なのだ。
沙磧も同様に人間の少女の方へ目を向けたが、少し顔をしかめただけで淙琤に視線を戻した。
「――用件がそれだけなら、もういいですか?」
まだ檻の方を見ていた青年に、冷たい声音で言う。
「私は、陛下に少々申し上げたいことがあるので、これで失礼したいのですが」
「え? ええ、ああ、はい」
面食らいながら答えた淙琤を残し、沙磧は大王がいる広間の奥の方へと歩き去った。
二
背後に気配を感じて、露台からいつものように王宮を見ていた黒雨は振り向いた。歩廊から部屋の中に、この家の家臣であるらしいあの青年が入ってきたところだった。黒雨に対して非好意的な彼が、わざわざ、沙磧が王宮の宴に行っていて不在のこの時に。
「俺に、なにか用ですか?」
問うた黒雨に、湍水は、
「旦那様が、お呼びです」
冷ややかな声で告げた。
乾州侯・洲島は、館の二階の、一番奥の部屋にいた。彼の個室らしいその広い部屋には、異なる方向に面した二つの大きな窓があったが、どちらも開かれたまま、簾が下ろされていた。部屋の中は三つの燭台によって照らされ、壁際にはいろいろな、黒雨が初めて見る重厚な造りの木製家具が並べられている。そして中央に据えられた大きな寝台の上に、この家の主である洲島――単を着た一匹のイヌが、蒲団を被って横たわっていた。尖った耳が特徴の、尖耳狗族である。
「連れて参りました」
部屋の入り口で湍水が言うと、イヌはゆるゆると人態になって、無言で黒雨を手招きした。
枕元に歩み寄った黒雨は、眉をひそめ、微かに沈痛な表情をする。乾州侯が病床にあることは聞いていたが、小犲族征討軍帰還の折には王宮の行事に参加したりもしていたので、これ程ひどいとは思っていなかった。――洲島は、単一枚では隠し切れない程に、痩せ衰えていた。
「初めまして、黒雨です」
黒雨が挨拶すると、痩せて老人のように見える男は、弱々しい動きで口を開いた。
「……そなた、黒狼族を抜けたそうだな。それは、なに故か?」
予想外に鋭い問いに、黒雨は病人を見下ろす眼差しを僅かに険しくする。さすが州侯というべきか。
「……首長の意に背くことを、行いたいが為です」
黒雨は淡々と答えた。
「――壬雪渓、か……」
掠れた声で呟いた乾州侯の顔には、笑うような痛むような複雑な表情が浮かんでいる。
「わしらより……、白狼族が憎いということかな……?」
黒雨は答えない。
「……それとも」
洲島は、不意に声に力を込めた。
「わしらの方へ、寝返るということかな?」
入り口のところで二人を見守っていた湍水には、その瞬間、部屋の中の空気が凍り付いたように感じられた。
「……勘違いしないで下さい」
黒雨は感情の表れない声で言った。
「俺はただ黒狼族を抜けただけです。出身部族を裏切るつもりはありません」
「――そうか……」
洲島は、失望も不安も表さず、ただ深い嘆息と共に呟いた。
◇
再び出た露台からは、傾いた大月と頭上に浮かんだ小月の両方を望むことができた。
――「そなたの一族には、すまぬことをしたと思っておる」
洲島が言った言葉が、黒雨の頭の中を、ぐるぐると回る。
――「狗王国が、大王陛下の命でわしらがそなたらにしたことを、悔やまぬ日はなかった……。故に、だからこそ、警告しておく。――陛下と、そして侍従長・皦日には気を付けよ……!」
(一体、どういうつもりだ……)
黒雨は夜空を見上げたまま、眉をひそめる。
――「……どういうことです。諸侯の冠たる州侯の言葉とも思えませんが」
聞き返した黒雨に、洲島は、
――「先程言うた通りだ。後悔故よ」
と短く答えただけだった。しかし、ただの後悔のみで、自分達が頂く大王とその側近に気を付けろなどという警句が出てくるはずはない。なにか、根拠があるのだ。
(だが、彼がなにを胸の内に秘めているかなど……、今の俺には、関係ない)
黒雨は、露台の手摺りにそっと手を置いた。内の城壁に囲まれた王宮は目の前に見える。ここまで来たのである。五年を経て、やっと雪渓を殺せる条件が揃ったのだ。明日には、内の城壁の中へ入ることができる。〈十幹〉の一員となった雪渓に、確実に牙が届く。そして雪渓も、最後まで相手をすると明言したのである。
黒雨は王宮に注ぐ視線を鋭くした。これ以上待つ気はない。なにがあろうと、この絶好の機会を逃す訳にはいかないのだ――。
簾を通して入ってくる僅かな夜気は、病床にあっても心地いい。燭台の火を全て消させ、一人となった暗い部屋で、洲島はまたゆっくりと獣態に戻った。狗族の間では、常に人態でいることが好まれる。洲島が、この頃のように、一日の内長い間を獣態で過ごすのは、人化の法を完全に習得した五歳の時以来だった。
(そう、わしが人態のまま一日を過ごせるようになったのは、五歳の時だった。だがあの子は、まだ三歳であったというのに、ずっと人態を保っておった……)
三歳とは思えない程、賢く聡明な子供だった。人質として差し出された己の運命を理解していたのか、或いは、ただ周囲の厳粛な雰囲気に飲まれていただけなのか。疲れる人態で難しい顔をしていた姿が、健気だった。名は、確か皎月といったはずである。当時の黒狼族首長の末子ということだった。
黒狼族側から一族の安泰の為にと差し出されたその子供を、洲島がこの王都まで連れてきた。そして、その子供は王宮で消えてしまった――。
(陛下は、逃げたと仰せられた。だが、あの子は――)
逃げるような子供ではなかった。黒狼族の集落から王都までの長い道のりを旅する間、洲島は、皎月を緩い監視の下に置いていた。大王・玄穹は狼族を攻めたがっており、人質受け入れに消極的だった為、逃げるならばそれでいいと思っていたのだ。だが皎月は、一度として逃げるような素振りを見せなかった。洲島に連れられて王都に行かねばならないと自分の親に言われたことを、守り続けたのだ。
(それに、王宮からあんな子供がどうやって逃げる? 内の城壁から外へ出ることなど不可能だ……)
では何故皎月は王宮から消えてしまったのか。洲島は、大王と、当時から侍従長であった皦日を疑わずにはいられないのだった。
(わしは、悔いている……)
イヌは、悲しげに目をしばたく。黒雨というあの青年は、消えた子供のことは知らないようだった。無理もない。九年前の話であるから、彼も子供だったはずである。一族の安泰の為とはいえ、三歳の子供を差し出すという行為は褒められたことではない。黒狼族の大人達は、その事実を他の子供達には秘したのだろう。その後、結局黒狼族は狗王国に攻められて散り散りとなり、一部族としての存続を危うくしている。そして皎月は――平和の礎になろうとしたあの健気な子供は、誰の記憶からも消えていってしまうのだ……。
黒雨に手を貸すことが皎月に対する償いになるとは洲島も思わない。だが、目の前にやって来た黒狼族を冷たく追い返すことなど、悔やみ続けている洲島には、できなかった。
◇
(とうとうここまで来てしまった……)
窓辺に立ち、亜麻色の髪に月光を映した青年は、仄かに苦い微笑みを浮かべた。
(明日は、貴方に会えるかもしれません)
胸中で語りかけた相手は、あの、小柄な薄茶色の髪の少女。
(まだ、怒って拗ねていらっしゃいますか? それとも、寂しがっていらっしゃいますか……?)
不思議だった。自分はあの少女を嫌っていたはずなのに、今は、懐かしいような気さえしている。しかし、経った時間は、隔たった距離は、元には戻らない。それに、あの少女に会いに来た訳ではないのである。
(とにかく、どんな手を使ってでも、〈十幹〉にならなければ)
決意を新たにして、青年は窓辺を離れる。全ては、一族の安泰の為に。
と、邸の表の方で陽気な人声が響いた。どうやら、王宮の宴に行っていたこの家の主が帰ってきたらしい。前夜祭は終わったのだ。明日からは、血生臭い闘技大会である。
青年は寝台に入り、蒲団を被ると、獣態――亜麻色の毛のヤマイヌに戻って、目を閉じた。
三
草原にいる夢だった。山の麓の、光溢れるなだらかな丘陵地帯で、見知った子オオカミ達が走り戯れており、自分はそれを微笑して眺めている――。そんな夢だった。
朝日の差す寝台の上に上体を起こし、雪渓は額に手を当てる。丘陵地帯。山岳部と平野部とに住み分けていた二つの狼族が、交流を深めた場所。夢の中の風景には、子供の頃の、月華や碧渓、黒雨もいた。
(どうして、今更、あんな夢を……)
眺めていた雪渓は一人人態だったが、しかしやはり子供の頃の姿だった。夢の余韻は、悲しく懐かしい、郷愁にも似た感情である……。
「ちょっとーっ」
扉の外で、林霏の声がした。
「幽谷、飛瀑、なんでもう行くのよ? せっかくなんだから、皆で一緒に行こうよー!」
「やだね。俺はその『皆で一緒に』ってのが一番嫌いなんだ」
「僕も、幾ら闘技大会とはいえ、大勢でぞろぞろ行くのはどうかと思うので、お先に」
「なによ、イタチっ子にカワウソ坊や! ほんと協調性に欠けてるんだから!」
「……僕は十四歳ですよ? その『カワウソ坊や』というのはやめて下さい」
「協調性がないのはガキの証拠! ガキを坊やと呼んでなにが悪いのよ」
「林霏さんこそ、通路で叫んで大人げない。大体『協調性』なんて、ネコらしくないですよ?」
「ネコらしいかネコらしくないかなんて、なんでカワウソのあんたに言われなくちゃいけないのよ!」
「ほら、また叫ぶ。あーあ、こんな下らない言い合いをしてる間に、幽谷が行っちゃったじゃないですか」
「『大勢でぞろぞろ』はいやな癖に、幽谷は一緒じゃないといけない訳?」
飛瀑が答えるまでに、僅かな間があった。――そして。
「――貴方は、分かってないんですね」
答えた少年の声は、ひどく冷ややかだった。
「あいつを一人にしておくと、危険なんですよ」
会話はそれきり途絶え、暫くは、物音一つしなかった。飛瀑はさっさと幽谷を追っていったようであり、林霏は通路で立ち尽くしているようである。
(「危険」か……)
雪渓は顔を曇らせた。幽谷は最も新参の〈十幹〉である。幽谷の前に十癸と呼ばれていた獱族の青年を、前回の闘技大会で倒して〈十幹〉入りを果たしたのだ。その後、獱族は狗王国から苦役を強制されたりして、衰退した。その所為で幽谷は、表には出さないが、〈十幹〉の誰よりも闘技大会というものに対して、神経を尖らせている――。雪渓は幽谷のことをそう観察していたので、飛瀑の懸念が理解できた。今、幽谷を一人にしていてはよくないのだ。
(彼も俺と同じという訳だ)
寝台から足を下ろし、立ち上がりながら、雪渓は暗い顔をして思う。
(自分の一族を守る為と迷いはなかったにしても、犠牲にしてしまった部族のことを、犠牲にしてしまったその事実を、忘れることなどできはしない……。――だが)
他を犠牲にしてまで守ってきた、なにより自分の一族だからこそ。
(俺は、守り通してみせる――)
どれだけ非情に徹しなければならないとしても。
(せめて、お前が帰ってくるまでは、生き抜いて、守ってみせるよ、碧渓)
机の上の水差しから水を飲み、鹿の干し肉を一欠け飲み込み、服装を整えると、雪渓はいつものように大太刀を背負って、自室から出た。
◇
内の城壁の城門は、王宮の正面である南向きの南宮門だけが開放されて、闘技大会の観客と出場者を受け入れていた。観客といっても貴族とその従者に限られていて、一般市民には観戦が許されていない。しかしその高貴な観客達であっても、内の城壁の中へ乗り物に乗ったまま入ることはできなかった。それは、王族だけの特権なのだ。
洲島、沙磧、湍水、黒雨を乗せた乾州侯家の馬車も、他家の馬車や輿や馬同様、南宮門の前で停まった。真っ先に扉を開けて降りた沙磧に続いて地面に足を下ろした黒雨は、すぐに気付いて門の脇の方へと顔を向ける。待ち受けていたらしい青年は、不敵に笑って手を振った。
「同部族の者か」
沙磧が、黒雨の視線を辿って低い声で言った。
「少し、話をしてくる」
黒雨は沙磧に短く告げると、三歳年上の青年へと歩み寄る。
「元気そうだな」
残星は小柄な黒雨と目の高さを合わせるように背を屈めて言った。
「残星さんも」
黒雨は答えて真っ直ぐに残星を見つめる。
「わざわざこんなところまで俺を止めに来たんですか?」
「朗月に頼まれてな」
残星が言うと黒雨は微かに顔をしかめた。
「俺が黒狼族を抜けたということは?」
「伝えた。けど、それでも止めろってな」
黒雨は溜め息をつき、目を伏せる。
「――すみません」
拒絶を表す硬い声で謝った。
「黒雨」
今度は残星が顔をしかめ、低く抑えた声で言う。
「俺達の敵は狗王国だ、狗族の奴らだ。お前が今していることは無意味などころか、一族への裏切り行為だぞ?」
「だから、一族を抜けると言ったんです」
黒雨は再び真っ直ぐに残星を見つめた。
「俺はもう貴方達とは関係なくなった。もう朗月にも、俺の行動に口出しする権利はない。俺は、俺のしたいようにします」
頑なに告げた言葉に、残星はまじまじと黒雨の顔を見た。
「お前……、まさか朗月のこと嫌ってたんじゃ――」
「――いいえ」
黒雨は至極冷静に否定した。そして、話は終わりだと、踵を返し、背を向ける。
「……あいつは……最愛の弟でしたよ」
残星からは、最早、引き止める言葉は出てこなかった。
「もういいのか?」
沙磧に問われて、戻った黒雨は無言で頷いた。
「そうか」
とだけ言って、沙磧は父と家臣を振り返る。
「では、参るとするか」
洲島が言い、一行はゆるゆると南宮門をくぐっていった。
◇
闘技会場は、外宮右殿から続く広大な庭園の中にそびえている。八角形をしており、観客は南北の入り口から、出場者は東西の入り口から入る造りである。その西口に向かって歩く小豆色の髪の少年を見つけて、飛瀑は小走りに走り寄っていった。
匂いと気配で気付いて振り向いた幽谷の横に並んで、飛瀑は言う。
「僕らの入り口は東口だ。この西口は、州侯の配下達が入るところだよ」
幽谷は、前回の闘技大会の時には西州侯の配下として出場した為、〈十幹〉としての動き方がまだよく分かっていないのだ。
「……一々めんどくせえな」
顔をしかめながらも、幽谷は飛瀑に従って東口の方へと向きを変えた。
「……確かにね」
実感を込めて答え、飛瀑はすたすたと前方を見据えて歩いていく。辺りには、もう高貴な観客達が現れていて、彼ら二人に視線を向けてきたり、そこここで談笑したり、南北の入り口に向かって歩いたりしていた。
「あのう、すいません」
不意に声をかけられて、飛瀑は振り返り、足を止めた。
(こいつ、犲族……)
匂いと状況から瞬時に相手の正体を悟り、顔をしかめる。犲族の者で、この場所へ来られる者といえば、闘技大会の出場者か貴族の従者か、或いは王宮で働く者かなのだが、声をかけてきた青年の服装はどう見ても貴人に仕えるそれではなく、しかも腰帯の後ろに飛び槌を挟んで下げていた。
「私は坤州侯様配下の戦士なんですが、この闘技会場にはどこから入ったらいいものか、ちょっと分からなくて」
青年は、困った顔にぎこちない笑みを浮かべて言った。
(坤州侯・淙琤か)
飛瀑は無表情で納得する。あの能天気な青年は、どうやら、どこから入るべきかをきちんと教えずに、自分だけ観客用の入り口から中に入ってしまったようである。
「ああ、闘技大会の出場者の方ですね」
飛瀑は名乗られて初めて分かったように言うと、自分達が後にしてきた西口の方を指差した。
「あちらの入り口が貴方方の入り口になってます」
「ああ、あっちですか。どうも有り難うございます。助かりました」
犲族の青年は丁寧に礼を述べて頭を下げ、西口の方へ去っていった。
「……敵に親切にしてどうすんだよ」
幽谷が、ぼそりと言った。
「僕は、お人好しだから」
青年の背中を見送っていた飛瀑は真顔で答えると、幽谷を振り向き、ふわりと微笑む。
「じゃ、僕らも行こうか」
対戦は一日二戦ずつ、闘技大会は四日間に渡って行われる。対戦の組み合わせは全て大王が決め、直前になって戦士達、観客達に知らされる。誰と戦うことになるかは、飛瀑も幽谷もまだ知らない。ただ〈十幹〉達にとって、同僚の対戦相手は将来の同僚かもしれないというところが、複雑なのだった。
四
最終的に出場戦士として申告された八人は、東州侯配下の玃族、巽州侯配下の猱族、南州侯配下の山狢族、坤州侯配下の小犲族、西州侯配下の大犲族、乾州侯配下の黒狼族、北州侯配下の猿族、艮州侯配下の北獺族だった。
「結局どの州侯も猴族の戦士を雇うことはできなかったようでございます」
淡々と報告した皦日に一瞥を投げ、大王・玄穹は不機嫌だった。後少しというところで、必要な手駒が揃わない。しかし、とにかくも猿族が出てくるのである。確実に手に入れなければならなかった。
「〈十幹〉の内、最も弱いのはどれであったか」
玄穹は独り言めいた言い方で問うた。
「恐らくは、狸族の戊沛沢ではないかと。いざとなれば、薬を使いまする」
皦日が顔を伏せたままさらりと答えた。
「では、最初の組み合わせは、猿族と沛沢じゃな」
「御意のままに」
頷いてから、皦日は続けて言う。
「ところで陛下、恐れながら今回の闘技大会に際し、一つ提案したき儀がございまする」
「なんじゃ、申してみよ」
「ヒトのことでございます」
皦日は上目遣いに大王を見た。
「戦士の中には、小犲族がおります。ヒトを操るには便利な駒かと存じまする」
「ふむ……」
玄穹は、座っている椅子の肘掛をトントンと指で叩いて、考える顔をする。以前、皦日から提案されて人間の散歩に雪渓を付けることにしたのも、人間を操り易くする為だった。なにしろ、彼らは迂闊に人間を傷付けられない。人間に言うことを聞かすにも、暴力に訴える訳にはいかないのだ。
「……〈血の制約〉とは、真に厄介じゃな」
玄穹はしみじみと、そして忌々しげに言った。
「ヒトが我ら人獣を恐れた証にございます」
皦日は抑揚に乏しい声で答え、更に言う。
「己崇阿は中犲族。犲族同士の交換なれば問題はないかと存じまする」
犲族は、〈初めの十幹族〉の内の一種族である。必要な手駒であり、一人は手元に留めておかねばならないのだった。
「ふむ」
玄穹は顎鬚を撫ぜ、頷いた。
「では、本日の第二戦目は、崇阿と小犲族を闘わせることとする。そうして小犲族を我が〈十幹〉に入れるのじゃ」
「御意のままに」
「……最後に人間のことじゃが」
玄穹は再びトントンと肘掛を指で叩いて言う。
「一々公開するというのは、危険ではないのか」
「ヒトは内宮から檻に入れ、侍従、衛兵らに警護、運搬させれば安全でございましょう。ヒトの特異性を示し、手中にした者に繁栄をもたらすという、かの言い伝えが単なる伝説ではないことを示すことは、必要かと存じまする」
「うむ……」
玄穹は眉間に皺を寄せたが、皦日が言ったことも尤もである。祝賀の場では、遠征の成果を明らかにし、国の威信を示すことが必要なのだ。
「では、くれぐれも安全性に留意して公開を行うのじゃ」
「御意のままに」
皦日は形ばかり恭しく頭を垂れると、大王の居間を辞していった。
◇
北州侯・灌莽と別れ、言われた通りに西口から闘技会場に入っていった殷雷は、自分の顔が柄にもなく強張るのを感じた。入り口からすぐのところにあった控え室らしいその薄暗い部屋には、ひどく重苦しい殺気と好戦的な殺気とが入り混じった、異様な雰囲気が充満していた。
(たまらんね……)
盗賊少年は心中で舌打ちし、周囲の人獣達をそれとなく窺う。誰も彼も並々ならぬ殺気を漂わせていて、対戦相手ではないということが素直に嬉しく思える相手ばかりだ。
(特に、あの狼族の野郎……、思い詰めた顔しやがって)
黒髪であるから、恐らく黒狼族だろう。殷雷より一、二歳年上に見える小柄な青年は、目を伏せ気味にして、静かに佇んでいる。だが、癖のない黒髪が頬にかかったその横顔は、消化しきれなかった重く深い感情によって、仮面の如く固められているように見えた。そして、その冷たい面の内には、本人にも御し得ない激情が封じられている、というふうに。
ふと、また別のいやな殺気を感じて、殷雷はそろりと振り向いた。今し方入り口から入ってきたらしい、金髪の青年がそこにいた。匂いから犲族と分かるその青年は、凶悪そのものの目付きで殷雷達を眺め回して、口元に大きく歪んだ笑みを浮かべている。
「ありゃ大犲族の狂瀾だ」
殷雷の傍らにいた猱族の男が囁いてきた。
「一族の中で悪事の限りを尽くして追放になったっていう、悪党だぜ」
「道理でいやな目をしてやがる」
答えて、殷雷は猱族の男に視線を移す。
「だが、あんたの目付きも相当だな」
「お褒めに預かり光栄だ、盗賊頭・殷雷」
言われて、殷雷は顔をしかめた。
「俺を知ってんのか」
「嶔崖から聞いたのさ」
男は答えてにやりと笑う。
「俺は売人・嶔崖の弟で崖涘という。まあ、あの野郎とはいつ兄弟の縁を切ってもおかしくない仲だがな」
「で、その崖涘が、なんでまたこの闘技大会に出場しようなんて考えたんだ?」
「嶔崖にそそのかされたってのもある。あの野郎、お前さんに協力するだけで千金出すって言いやがった。あのけちな野郎がな。それに」
崖涘は、ニィッと目を細めた。
「闘技大会で生き残る手段なんざ幾らもあるしな。巧くすりゃ〈十幹〉入りもできるとありゃ、出場もするさ」
「成る程な」
殷雷は暗い笑みを浮かべると、ひやりと冷たい石壁に凭れて腕組みした。
五
始まりを待つ観客達の興奮したざわめきが聞こえてくる。観客席はもうほぼ埋まったようだ。林霏は、重い吐息を漏らした。そこは、東口を入ってすぐの控え室。〈十幹〉十人は、既に全員集まって、闘技大会の開始を待っている。その場を支配しているのは重苦しい沈黙だ。
(あー、緊張する)
林霏は、少しでも気を楽にしようと、話し相手を求めて周囲に立つ同僚達の顔を窺った。だが、誰も彼も俯いたり目を閉じたり彼女に背を向けたりしていて、話しかけ辛い。
(この雰囲気、なんとかならないのかなー)
林霏が弱り果てて思った時、ざわざわと、急に観客達のざわめきが大きくなり、次いで、しんと静まり返った。
(いよいよだ……)
林霏は顔をしかめ、腹を決める。その耳に、遠く、
「大王陛下のおなりー!」
と告げる侍従長・皦日の声が聞こえた。
王子、王女、王弟、王妃に続いて最後に現れた大王は、侍従を二人従えて、要所要所に配置された衛兵達が順に敬礼していく前をゆっくりと歩いていき、最上段にある王族専用の観戦席の中心に据えられた玉座に腰を下ろした。
八角形をした闘技会場の内側は、一番底にある闘技場を垂直の壁が囲み、その上に階段状になった観客席が続く構造になっている。その観客席を埋めた従者連れの貴族達を見回して、玄穹は口を開いた。
「これより、小犲族が我が国へ〈生まれながらの人〉を差し出し、服属したことを祝して、闘技大会を開催するものである。諸卿らも知っての通り、〈生まれながらの人〉は、それを手中にした者に繁栄をもたらす存在である。これを獲得したことにより、我が王国には更なる繁栄が約束された。この闘技大会はその前祝いともなろう。諸卿らには、大いに楽しんで貰いたい」
オオ、と観客達から歓声が上がり、続いて、狗王国万歳、王室万歳、の歓呼の声が闘技会場内に溢れた。暫くその歓呼の声を聞いていてから、玄穹はおもむろに手を上げてこれを静め、そして重々しく発表する。
「第一戦、〈十幹〉戊沛沢対、北州侯配下猿族の殷雷! 第二戦、……」
第二戦の対戦組み合わせ発表など、細颸の耳には聞こえていなかった。北州侯に無理を言って従者になり、観客席にいた彼女は、思わず両手で口を覆っていた。
「……そんな、殷雷が、最初だなんて……」
青ざめて呟いた猿族の少女を、隣に座る北州侯・灌莽はうんざりした目で見遣る。元々こんな少女を雇う気などなかった。だが、大王の機嫌を取る為に必要な猿族の戦士を雇おうとしたところ、その売人が、彼女も一緒でなければ売れないと言ったのである。なにしろ戦士の殷雷と彼女とは許婚で、彼女を引き離すと殷雷は働かないからと。普段なら、そんな面倒な買い物をする灌莽ではないのだが、大王が望む猿族の戦士を逃す訳にもいかなかったので、仕方なく二人一緒に雇ったのだった。しかし、この細颸という少女には全く呆れたものである。
(最初だろうが最後だろうが、闘技大会に出場した以上、危険なのは変わりないのだぞ?)
胸中で呟いて、灌莽は闘技会場の底へと視線を向ける。彼の戦士にして細颸の許婚である少年が登場するまで、もう間もなく。生まれて四十八年の灌莽は、既に暴力に酔う歳でもなく、闘技大会など面白くもなんともないのだが、宮中の居心地をそこそこ快適な水準に保つ為には、殷雷の闘いを真剣に見なければならないのだった――。
(まさか一番手とはね)
不敵に笑った殷雷は、控え室を過ぎって闘技場の四角い入り口へと向かう。戊沛沢というのが何族であるかもまだ知らないが、とにかく、第一に死なないこと、第二に見ているであろう細颸を心配させないことを心掛けて闘わねばならない。
(あいつ、呆れるくらいに心配性だからな……)
口元に微かに浮かんだ苦笑を消して、殷雷は屋根の下から光溢れる闘技場へと踏み出した。
「沛沢、大丈夫かな……」
東口の方の闘技場入り口に立って、狸族の青年の背中を見送りながら、林霏は呟いた。
「少なくとも、死にはしませんよ」
同じく入り口に立っている素影が優しい口調で言う。
「彼は、ああ見えて結構強かですから」
「なら、いいけれどな」
口を挟んできたのは、二人に遅れて控え室から出てきた巒丘である。
「あの猿族の殷雷という奴、恐らく西方で名を馳せている盗賊団の団長だ。前に知り合いから話を聞いたことがある。相当に腕の立つ、しかもそれなりに頭のいい奴だとな」
「そんな……」
林霏は巒丘に向けていた顔を再び沛沢の後ろ姿へ向けて、遠ざかったその背中を食い入るように見つめる。沛沢とはそう親しい間柄でもないが、同僚が、仲間が死ぬのなど、絶対に御免だった。
控え室に残った面々を見回して、飛瀑は小さく肩を竦め、微かに吐息を漏らした。夕靄に崇阿、雪渓そして幽谷。崇阿は第二戦に出ることが発表されたので、心の準備が要るのだろう。気紛れな夕靄は、闘いが始まれば見に行くかもしれない。雪渓は、飛瀑が報告した黒狼族のことが気にかかっているのだろう。だが、幽谷は。
(まあ、無理もないけど)
幽谷は未だ、他の〈十幹〉達と仲間になったという意識を持っていない。というよりむしろ、他の〈十幹〉達に本当の仲間として受け入れられるとは思っていないのだ。
(僕らの仲間の嵐光さんを倒して〈十幹〉入りしてしまったと、まだ後ろめたい思いをしてるんだな、君は)
幽谷の前に十癸と呼ばれていた獱族の青年・嵐光。穏やかで温厚な性格だった彼を、飛瀑達が仲間として好いていたことは事実だ。だが。
(君は嵐光さんを殺さなかった。それだけでいいんだよ。僕らはそれだけで君を受け入れられる。なにせ、僕らもそうして〈十幹〉入りしたんだから)
皆、同じなのだ。
(君が早くそのことを悟ってくれればいいんだけど)
〈十幹〉入りする事情は問題ではない。その経緯も、本当なら問題にされるべきではない。ただ〈十幹〉になった、その時点から、彼らは同僚なのであり、お互いにうまくやっていかなければならないのだ。でなければ、大王からの命令に支障を来たすようなことになる。
(でも、君はもうある程度持ってる(・・・・)ようにも感じるし)
仲間意識、とでも呼べるもの。
(最近は、憎まれ口叩きながらも、ちゃんと会話してるもんね。――もし、僕がいなくなっても、大丈夫かな……)
飛瀑は寂しい目で幽谷を見遣った。親しくしている侍従から聞いた話では、今回、北獺族の戦士が出場するという。飛瀑はそれを聞いた時から、不吉な予想をせずにはいられなくなった。何故なら、これまでの闘技大会を振り返ると、同じ種族が交替するように〈十幹〉入りしている場合がかなりあるのだ。
(僕も、もう駄目かもしれない……)
飛瀑が難しい顔をして目を伏せたその時、一際大きな観客のざわめきが聞こえ、そして急速に静まっていった。恐らく審判が登場したのだろう。後少しで闘いが始まるのだ。
(殺し合いを見るのが、そんなに楽しみか)
十四歳の少年は、胸中で冷ややかに呟いた。
闘技場は、平らにならされた地面が八面の垂直の壁によって囲まれた八角形の空間である。審判として、王族専用観戦席の真下の、観客席の中でも闘技場に最も近い位置にある特別席に現れた狗族の男は、闘技場の中央付近で既に距離をとって対峙していた沛沢と殷雷を確認すると、おもむろに口を開いた。
「では今から、勝敗の決定方法を説明致します。まず、片方が死亡した場合、或いは敗北を認めた場合、もう片方の勝利と致します。その際、確かに死亡したかどうか、敗北を認めたかどうかは審判である私が判断致します。また、相討ち、失神、戦闘不能などが生じた場合、対戦を続けさせるか否か、またどちらを勝利者とするかについては、陛下の御裁可を仰ぐことと相成ります。以上。では――」
簡潔に説明すると、審判はスウッと右手を上げた。同時に闘技会場全体が静まり返り、固唾を飲んだ観客達の視線が、闘技場中央の二者に注がれる。――そして。
「始め!」
対戦開始を告げる声が響き渡り、殷雷と沛沢はそれぞれさっと身構えた。
六
殷雷は鋭い目で対戦相手の青年を見つめる。両手で中剣を構えた殷雷に対し、匂いから狸族と分かった相手は両手に一本ずつ小刀を握っている。気負いもなにもない、冷静な構えである。肝が据わっているのだ。
(さすがに〈十幹〉か)
感心した殷雷は、相手に気取られないよう剣の柄を握る指に力を込めると、スッと一気に間合いを詰めた。度胸ならば誰にも負けない自信がある。剣は誰に教わった訳でもなく、実戦でその腕を磨いたのだ。そうして得た教訓の中でも最大のものは、相手の攻撃を恐れずにさっさとその懐へ飛び込んで深手を与えてしまえ、というものだった。
(ここだっ)
殷雷は狸族の青年の腹へ向かって、中剣を真っ直ぐに突き出した。実戦経験から、突く攻撃が最も防がれにくく、そして体の中心こそが最も避けられにくい場所だと学んだのだ。が、青年は最小限の動きで素早く右半身になってぎりぎりで中剣の切っ先をかわし、その腹をこすった刃には見向きもせずに、右手の小刀で殷雷の咽目掛け斬りつけてきた。二人の間に間合いは殆どない。
(殷雷……!)
細颸が凍り付いたのと同時だった。殷雷は、獣態へと戻って口を開き、ガキッとばかりに向かってきた小刀の先端に食らいついたのだった。
沛沢は、一瞬にして朽葉色の毛のサルへと変わった対戦相手に顔をしかめた。めくれ上がった唇の下から覗いた頑丈そうな歯の間に捕らえられた小刀は、押しても引いても自由にならない。
(これ程素早く獣態に戻れる者がいるとは)
正直、驚いていた。だが、呆然としている猶予はない。朽葉色のサルが腹に斬りつけてくる半瞬前に、沛沢は右手から小刀を放して後ろへ飛び退った。と、その時にはもうサルは再度人化を遂げて少年の姿になっている。人化の方も素早いのだ。
(侮れない)
沛沢は上着の下からスッと新たな小刀を取り出すと口で鞘を咥えて抜き放ち、少年を見つめる目を鋭くした。
霖瀝は一人きりになった部屋で、溜め息をついた。この部屋に、嶔崖と殷雷を呼んで内の城壁内への侵入手段を決めたのは、つい先日のことだ。結果、殷雷は北州侯に雇われ、そして何故か細颸まで一緒に雇われてしまった。
(やっぱり、どうあってもお止めしておけばよかった……)
霖瀝は深く後悔していた。
細颸が殷雷と共に行動したいと言い出したのは、あの話し合いの翌日、殷雷と嶔崖が巽州侯と北州侯に会う為、いざこの宿屋を出ようとした時だった。
――「あの」
細颸が二人に向かって思い詰めた表情でそう切り出した時、霖瀝は嫌な予感がしたのだ。そして細颸が、殷雷と共に行きたい旨を話し終えた時には、霖瀝の顔は完全に強張っていた。
――「なりません、姫様!」
抗議した霖瀝に、細颸は真剣な眼差しを向けた。
――「貴方には心配をかけてしまいます。けれど、行かせて下さい。私は、これから始まることの為に生まれたと、そう思うから」
胸に手を当てた少女を見つめたまま、霖瀝は強く抗議する言葉を失った。霖瀝には、細颸の生い立ちについて、誰よりもよく知っているという自負がある。溟沐によって細颸と名付けられたこの少女が生まれながらに抱える欠陥と、それ故の彼女の不幸と苦悩について、誰よりもよく分かっているという自負がある。だからこそ霖瀝は、ただ弱々しく言った。
――「けれど姫様、姫様が危険なことをなさるのを、私は黙って見ている訳には参りません……。どうか、お考え直しを……」
少女は静かに首を横に振った。
――「考えは、変えられません。すみません、霖瀝」
そうして嶔崖、殷雷と共に行ってしまう少女を、あの時の霖瀝は、ただ見送ることしかできなかった。華奢な背中が遠ざかるのを、見ていることしかできなかった。
(姫様……)
霖瀝は、もう一度溜め息をついた。嶔崖の事後報告によれば、細颸は、よりにもよって、殷雷の許婚などという立場で北州侯に雇われたという。以ての外、とんでもないことだ。
(あんな、どこの馬の骨とも知れない盗賊などの許婚だなんて……)
彼らに殷雷を紹介したのは溟沐だったが、霖瀝は、今一つあの少年を信じきれないのだった――。
「……勝負がつかないな」
巒丘がぽつりと言った。その言葉に顔をしかめた林霏の見つめる先で、沛沢と猿族の少年は、再びお互いに距離をとって対峙している。両者とも体のあちこちに浅い傷を受け、呼吸を荒くしていた。
(今のところは、互角……)
硬い表情をした素影は、沛沢と猿族の少年を見比べながら思う。殷雷という猿族の少年は、巒丘が話した通り、相当強い。恐らくは実戦で培ったのだろうと思われる、自由奔放で思い切りのいい戦い方をする。対して沛沢は、堅実に相手の攻撃を受け流し、その直後に生じる隙を突いて反撃する、いつもの戦い方だ。それでも傷を負っているのは、殷雷というこの相手の攻撃が、予想以上に鋭い為だろう。戦闘能力だけを比較すれば、殷雷は、ほぼ確実に沛沢を凌いでいる。
(だが、あの少年は、本気を出せていないように見える……)
剣の振りに、足の踏み込みに、どことなく甘さがある。
(まだ、覚悟をしていないのか……)
敵である沛沢を殺す心構えができていないのか、或いは最初から殺すつもりなどないのか。
(ならば、この対戦、沛沢に分があるか)
沛沢には、覚悟があるはずだ。彼もまた、雪渓や幽谷同様に、己の一族の命運を背負っている。そして、実力差が少ない闘いにおいて勝負を決するものは、なによりも覚悟の大きさなのである。
(勝てよ、沛沢)
素影は、対戦相手に視線を固定したままじりじりと動く友を見つめて、心の中で呟いた。
闘技会場の、王族専用観戦席とは丁度反対側の位置に並ぶ観客席の中でも、下の方の場所にさり気なく座っていた皦日は、細い眉をほんの僅か、ひそめていた。対戦は膠着状態に陥っており、勝敗の行方は定かではなくなっている。
(――面倒なことはしたくなかったのだが)
胸中で愚痴をこぼしつつ、皦日は観客席から立ち上がった。別段急ぐふうでもなく、他の観客達の間を歩いて通り過ぎ、入り口へと通じる階段を下りていく。だが彼の行く先は、闘技会場の外ではなかった。皦日は、陽光が差し込んでくる入り口を一瞥し、辺りに誰もいないのをそれとなく確認すると、階段の横にある扉の鍵穴に袖口から出した鍵を差し込んで回し、開錠された扉を押してスッと中へ入っていった。
闘技会場に地下室がある事実は、大王と皦日以外では一部の侍従しか知らないことである。入った扉の後ろに続いている階段を皦日は更に下りていき、目的の場所、闘技場の真下にある地下室へと行き着いた。
闘技場は地面そのままのように見せかけてあるが、その実、造られた地下室の天井の上に土を敷いてあるのである。ところどころに天井を支える石柱が立つ、そのひんやりとした広い空間を、皦日はひたひたと進んだ。彼の手に灯かりはないが、地下室には天井のあちらこちらから細く淡い光の筋が差し込んでいて、人獣の目には充分な視界を保っている。皦日は、頭上の闘技場から響いてくる音に耳を澄ませて、地下室の中央付近に差し込んでいる光へと歩み寄った。
光を入れているのは、目立たないよう精巧に造られた通気口であり、闘技場の地面へと直接開いている。
(この辺りでよいか)
皦日は差し込む一筋の光を前に、おもむろに足を止めると、懐から巾着袋を取り出し、その口を開いて逆さまにした。直後、皦日の足元へバサバサと落ちたのは、からからに乾燥し、ある程度砕かれた枝や葉や実である。続いて皦日は、懐から更に小さな巾着袋を取り出し、その口を開いた。中から取り出されたのは、ひと組の火打ち石。皦日は淡々とした面持ちで石の床で小山となっている枝、葉、実の上にしゃがみ込み、カチッと勢いよく火打ち石を打ち合わせた。瞬間、薄暗い空間に火花が散り、そして、チリリと一枚の葉の端が動き出す。そこに炎が宿り、薄く煙が出始めたのを確認すると、皦日は立ち上がり、やや足早に乾燥植物の小山を後にした。
地下室から階段を上がった皦日は、再び周囲の物音に耳を澄ませて誰もいないことを確認してから扉を引いて出る。そして素早く元通りに施錠すると、何事もなかったかのように、観客席へ出る階段を登っていった。
殷雷と沛沢、匂いに気付いたのは、ほぼ同時だった。
(なんだ?)
殷雷は、中剣の切っ先と視線を沛沢に向けたまま、眉をひそめる。今まで嗅いだことのないその匂いは、足下から立ち昇ってくるようであった。
沛沢も小刀を構えたまま眉をひそめていた。嗅いだことのない淡い匂いには、妙な不快感を覚える。
(なにかの香……?)
沛沢は目の前で剣を構えている猿族の少年の顔をじっと窺ったが、相手もまた、自分と同じように不快げな戸惑った表情を浮かべている。彼の仕業ではないらしい。第一、そんな素振りも見なかった。
(では、一体……)
今年二十四歳の青年は、突如発生した不安要素をどうするか考える為に、じりりと、慎重に対戦相手から距離を取ろうとした。が、その途端、くらりと、頭の芯が揺れるような感覚が沛沢を襲ったのである。
(う……?)
なんとか構えを保ちながらも、沛沢は、抵抗しがたいなにかが自分を捕らえたのを感じた。
(様子がおかしい)
殷雷は、即座に対戦相手の異常に気付いていた。狸族の青年の全身を包む緊張がぶれているような、妙な感じがする。
(構えが甘くなってる……。目の焦点も、合ってないのか……?)
青年には、明らかに隙が生じている。だが、殷雷は攻撃することを躊躇った。様子がおかしいのだ。恐らくは、この正体不明の匂いの所為で。
(どうするべきか……)
殷雷は控えめに踏み込んで中剣を横に振り、青年の右手の小刀に当てた。反応を見る為の一撃である。しかし、結果は予想を超えていた。
キンッ、という響きを残して小刀は狸族の青年の手を離れて飛んでいき、当の青年は二、三歩よろよろと後退って、なんとか体勢を保っているという様子である。しかも息は乱れ、顔色まで悪くなっている。
(いよいよ、おかしいな)
殷雷は確信し、同時に、さっさと勝利することに決めた。なんであれ、楽に勝てる絶好の機会なのだ。
(誰かが俺の勝ちの方に賭けてて、小細工したってことかね)
唇の端に薄笑いを浮かべて、殷雷は中剣を振り上げた。
「ちょっと、沛沢どうしたの? 動きがおかしいよ!」
林霏の焦った声を聞きながら、素影は眉根を寄せ、すぐ傍らの石壁に左手の爪を立てて、飛び出していきたい衝動をこらえた。沛沢になにかが起きた。それは明白だが、しかし闘いが中断されることはない。素影達に許されるのは、ただ見ていることだけである。
(もし、あの少年が沛沢を殺す覚悟を決めたなら、禁を破ろうとも、飛び出すか?)
素影は苦戦する沛沢を凝視したまま自問した。
素影も、沛沢達同様一族の命運を背負っている。だが彼は、自分を〈十幹〉に入れて安泰を図った一族の者達のことを、それ程大切には考えていなかった。それでも〈十幹〉であり続けたのは、強大な狗王国を維持する政治に興味を持ったからである。一対一と決められている対戦に割って入り、〈十幹〉でなくなろうとも、一族の者達に後ろめたく思うことはない。けれど――。
――「もし、私が負けたら、後は頼みますね」
昨夜、沛沢は素影に言った。
――「多分、あれ(・・)こそが、狗王国の基盤だと思いますから」
(行く訳には、いかん、か)
素影は眉根を寄せ、悲しく険しい顔をする。しなければならないことがあるのだ。一族の長である父の命令で、十七歳の時に無理やり〈十幹〉入りさせられたとはいえ、四丁として様々なことを見聞きする内に、どうしてもせねばならない、探らねばならないこと(・・・・・・・・・・)を見つけたのだ。
(だが沛沢、お前が本当に殺されそうになったなら、私はどうするか分からんぞ)
素影は胸中で呟いて、袖の陰で拳を握り締めた。沛沢は、素影が〈十幹〉になってから初めてできた、友なのだ。
キン、ガッ、ガキッ、シャッ。
響く音の数だけ後退しながら、沛沢は、殷雷の攻撃を左手の小刀のみで辛うじて防いでいく。やはり相当な腕なのだと再認識しつつ、殷雷は中剣を振り続ける。勝負は見えている。殷雷の勝利は最早確定しているも同然なのだ。なのに。
(なんで、まだ防げる)
狸族の青年は、絶えずふらつきながらも、殷雷の攻撃を防ぐのだ。防ぎきれず傷を負っても、決して諦めず小刀を構え直し、距離を取り、反撃の機会さえ窺ってくる。
(こいつには、諦めって感情はねえのか?)
殷雷は顔をしかめた。負けを認めればいいだけなのだ。殷雷に本当の殺意がないことは、もう充分伝わっているはずである。けれど青年は、手にした小刀を構え直すのだ。悲壮な覚悟を宿した眼差しを殷雷へ向けて――。
(クソッ)
殷雷は、とうとう悟らねばならなかった。このまま闘い続けていれば、いずれ殷雷の剣が青年を殺すだろう。だが、例えそうなっても、殷雷はきっと勝ったという実感を得られないのだ。
(俺は、お前には勝てねえよ)
そもそも、勝つことが目的でここへ来たのではない。殷雷は狸族の青年を眩しげに見つめて小さく笑うと、中剣を構え直し、裂帛の気合いと共に青年の懐へ飛び込んだ。
七
器用に針を使う人間の少女を、香霧は興味深く見つめていた。昨日、游糸が持ってきた上着に綻びが見付かった為、岫壑が裁縫道具を持ってきて人間の目の前で繕ったところ、人間が暇潰しに裁縫をしたいと言い出したらしい。岫壑がその旨を侍従長に報告すると、人間が再び食事を拒否することを懸念したのか、昼間に限って裁縫道具がこの部屋に置かれることになったのだった。
――「但し、くれぐれも怪我をさせるな、万一、怪我をさせた場合には、すぐ報告に来いってさ」
昨日の引き継ぎの時に岫壑が言った言葉を思い出しながら、香霧は少女の動きをじっと見守る。針で指を突いたりした時にすぐ気付けるよう見ているのだが、この少女がなにかに集中しているところを見るのは初めてで、つい興味深く思ってしまうのだった。
(なにもできない子供だと思っていたのに、針を使えるとはな)
明かり取りの窓から差し込む陽光の中で、黙々と縫い物をしている少女の姿は、なんとなく微笑ましい。いつもどこかしらにある刺々しさが、今ばかりは消えている。
(あの刺々しさは、単に、することがない為に生じた苛立ちか……)
香霧が妙に納得してしまった時、部屋の戸を叩く音がした。
ドンドン。
岫壑や游糸ではない荒っぽい叩き方に、彩雲がびくりと警戒の眼差しを上げた。針を動かす手を止め、じっと見つめてくる彩雲の視線を感じながら、香霧は戸に歩み寄って鍵を開ける。彩雲の視線は、開かれた戸の向こうに並んでいた兵達へと移された。恐らく、彼女の目には、派手と映る服装をした兵達。
「衛兵です」
香霧は端的に来訪者を教えた。部屋の外の歩廊には、複数の衛兵に加えて、香霧や岫壑と同じ服装の、侍従の少年が二人、立っていた。
「刻限です」
恐らく戸を叩いた本人であろう、一番前に立っていた衛兵が、事務的な口調で告げた。
「分かりました」
香霧は答えて彩雲を振り向く。
「貴方には、これから外に出て貰います」
突然に言われた少女は、警戒に驚きを混ぜた顔で目を瞬いた。
◇
審判によって対戦終了宣言及び勝利者宣言が行われるとすぐに、素影と林霏は闘技場に飛び出し、沛沢に駆け寄って、両側からふらつく体を支えた。
「……すいません」
荒い息の下から、なんとかそれだけを言った沛沢に頷いて、素影は、猿族の少年へと視線を向ける。半ば意識も混濁しかかっている沛沢の「すいません」が、自分達よりはむしろ先程まで闘っていた対戦相手に向けられていることを、素影は分かっていた。
「審判の宣言通り、俺の負けさ」
少年は、素影が口を開くより早く、さらりと言った。
「最後の一撃で、俺はこのざまだからな」
気合いを発して踏み込んだ直後、沛沢の小刀によって斬られた首の傷を痛そうに示し、苦笑してみせる。
「これ以上やってたら、出血多量か、もう一撃くらうかして、確実に俺の方が死んでいた」
「そう……ですか」
嘘だと分かっていても、素影はそう答えるしかなかった。わざと傷を負って敗北宣言をし、人懐っこく下手な嘘までついた少年の真意は分からないが、その飄々とした態度や清々しい表情から、策略めいたものは感じ取れない。だがただの善意だとすれば、一体どうしてこの闘技大会に出場したのかと、疑問が残るのだった。しかし、そんなことを真正面から、ましてこんな場所で訊く訳にもいかない。素影が言葉を続けられない内に、猿族の少年は中剣を腰の鞘に収めた。
「じゃあな。俺も早く手当てしないとやばいんでね」
それなりに本気の顔で言うと、破いた袖で首の傷を押さえて、西口の方へ去っていった。
「なんだ、あいつは。あっさり負けおったぞ」
灌莽は未だ信じられないという顔をして言った。彼が大金で雇った戦士は早々と闘技場から退場しつつある。
「なんなのだ、あいつは」
どう見ても勝っていたというのに、少し深手を負ったからといって、いきなりの敗北宣言とは。灌莽は、怒るよりも唖然としてしまっていた。
「すみません。でも、あれが殷雷なんです」
当人に代わって灌莽の疑問に答えたのは、傍らに座った少女だった。
「とても強いけれど、とても優しいから」
僅かに頬を染めた少女の言葉は、灌莽には完全な惚気として聞こえる。彼は不意に馬鹿馬鹿しくなって、手を振って細颸の言葉を遮った。
「分かったから、もう言うな。どうであれ、終わったことだ」
言って灌莽は立ち上がる。
「とにかく外に出て、あいつを拾わんとな。血塗れでそこらを歩かれては、わしの管理不行き届きということになってしまう」
「はい」
嬉しそうに答えて、細颸も薬箱を抱え、立ち上がった。
玄穹は、玉座の肘掛けに爪を立てて、怒りが表出しないよう、必死に抑えていた。彼がなんとしても猿族を手中にしたい、この対戦に勝たせて〈十幹〉に入れたいと画策していたことを知る者は、侍従長・皦日ただ一人なので、怒りを顕にする訳にはいかない。だが玄穹の腹の中では、煮え繰り返った怒りの矛先が、全てその皦日へと向いていた。
(あやつ、失敗しおった。失敗しおったわ!)
おのれ、どうしてくれようぞ、と心中で怒鳴りながら、玄穹は轟然と玉座を立つと、来た時と同じように二人の侍従を従えて、衛兵達が敬礼する前を通り過ぎ、闘技会場を出ていった。とにかく、皦日と密談する為には、内宮の私室に戻らねばならない。
大王が去った闘技会場では、他の王族達も全員、専用の観客席を後にして内宮の方へと去り始めており、観客達も三々五々、席から立ち上がったり歩き回ったりし始めていた。暫くは昼休みなので、皆思い思いに動き始めたのである。
そして、彩雲を入れた輿が闘技会場の方に運ばれてきたのは、丁度そうして辺りが雑然とし始めていた時だった。
彩雲は輿の中で不機嫌な顔をしていた。輿といっても、天飆と空間を分け合っていたような、あんなものではない。今彼女が入れられている輿は、そのまま檻だった。否、檻が輿にされたのかもしれない。とにかく、それは、闘技大会の前夜祭で彼女が入れられていたものと同類の装飾過多な檻に担ぎ棒を取り付けたような代物であり、彩雲はまたも見世物にされることを悟って、不機嫌になっていたのだった。
だが、格子の向こうの視界に闘技会場が迫ってきた時、彼女は目を見開き、表情を一変させざるを得なかった。そびえ立つその建物はなにか。胸中で半ば答えを出しながらも、彼女は輿の傍らを歩く香霧に乾いた声で問うた。
「あれ、なに……?」
少女の目線が闘技会場を示すのを見て、香霧は一瞬、答えるべきかどうか迷った。人間には可能な限り情報を与えないよう、侍従長から言われている。だが嘘をついたところで、これから中に入るのだから、すぐに気付くだろう。
「闘技会場です」
香霧は硬い表情で素っ気無く答えた。
(これが……)
彩雲は改めて巨大な建物を見上げ、顔をしかめる。半ば出していた答えが当たった。この重厚な壁の向こうで、闘技大会が行われるのだ。
(雪渓――)
垂直にそそり立つ壁を前に胸苦しさを覚えて、少女は半ば無意識に片手を上げ、上着の前を掴んだ。あの青年は、もう闘ったのだろうか。まだ生きているのだろうか。問いたい衝動に駆られて彼女は香霧を見たが、言い出し辛さに負けて、口を噤んだまま目を伏せた。雪渓の現在の安否など知ったところで、どうせ無駄なのだ。死んだなどということを早く知りたいとは思わないし、もしまだ闘っておらず無事だとしても、これから闘って死ぬかもしれない。最終的な安否は、闘技大会が終わった後に外出してみて確かめれば済むことだ。
(あいつが今どうなってても、私には、なにもできないし)
彩雲は暗い顔で自嘲する。死んでいるなら悲しむだけ。生きていると知っても、これからの無事を祈るという、殆ど無意味な行為しかできない。
(私には、なにもでき……)
少女はそこで、僅かに目を見開いた。
(……ない?)
自嘲が、ふと自問へ切り替わった。あの明かり取りの窓しかない部屋から外へ出る権利を得たのは、他でもない自分である。彩雲自身の命が、狗王国大王の弱味なのだ。自らの命を盾にさえすれば、彼女は、ここで、とても能動的に生きていける。なにもできない訳ではない。
(でも)
再び目を上げて彩雲は闘技会場の壁を見上げ、昼間の陽光に険しく目を細める。
(雪渓の為に……?)
あれは、自分の為だった。命を張るのは、自分の為だ。幾ら世話になったとはいえ、他人の為に命懸けになるなど。
(そんなの、おかしいよね)
少女は、微かに目を細めて冷笑する。馬鹿げている。ただ一つの奥の手は、頻繁に使うものではないし、まして他人の為になど使うべきではない。それに、雪渓が彼女に親切にしてくれたのは、全て仕事だからだ。〈十幹〉として、大王から命令されたからなのだ。
(私があいつを助ける理由なんて、ない……)
闘技会場西口の近くに生えている木の根元で、座った殷雷に包帯を巻いていた細颸は、彼に付いて来ていた崖涘に袖を引かれて、振り向いた。崖涘はしかしなにも言わず、向こうの方をじっと見ている。怪訝な顔をして同じ方を見た細颸は、ハッとして体の動きを止めた。
狗王国の衛兵達に担がれた輿のようなものが、闘技会場の向こう側へと進んでいっている。その輿――或いは檻の中にいるのは、あの〈生まれながらの人〉ではないか。
「ヒト……!」
細颸は呟いて、膝を地面から離し、立ち上がった。
「闘技会場で昼休みの間だけ公開されるって話は本当だってみてえだな」
崖涘が顔を〈生まれながらの人〉に向けたまま言った。
「じゃあ、見に行かねえとな」
応じた殷雷を、灌莽がじろりと見下ろす。地面に胡座を掻いた包帯だらけの少年は、灌莽の不機嫌を踏み倒すような笑顔をして、
「あんたも一緒にどうだい?」
楽しげに、からかう口調で提案した。
七
輿が闘技会場の入り口の一つへ向かうのを見て、彩雲は目を瞠った。どこへ連れて行かれるにしろ、闘技会場の横を通り過ぎるだけで、まさか中に入るとは思っていなかった。まさか、強制的に雪渓の安否を知らされる事態に陥るとは。
ドクンッ。
胸の内で心臓が跳ねる。脳裏を、無意識に想像してしまった死顔が掠める。彩雲は、また上着の前を掴んだ。首から下げている飾りを衣の上から握り締め、懸命に覚悟を決める。最悪の結果が目の前に晒されようとも、衝撃を受け過ぎることがないよう、できる限り平静を保っていられるよう――。
入り口を入ると、陽光に目が慣れていた彩雲は、一瞬なにも見えなくなった。石壁の中の空間は、ひんやりとしていて暗い。
「すみません、皆さん、端へ寄って頂けますか」
暗がりの奥に見える複数の人影へ向けて香霧が発した声が、微かに反響した。入り口から続く通路は、輿が通るには少し狭いのだ。
「ああ、はい、こっちこそすいません。ちょっと、さっきの対戦で怪我した人の手当てで、ごたごたしてまして」
少年の声で返された答えに、彩雲は呼吸を止めた。怪我なら、生きている。それに、その怪我人が雪渓でないとしても――。
息を詰め、目を凝らした彩雲の願いが届いたかのように、暗がりに白いものが見えた。白く、そして柔らかな髪。小犲族の集落を発ったあの夜に、彼女の傍に来てくれた青年の、夜に透けていた髪。
白狼族の青年は、他の人獣達と一緒に壁際に寄って、通り過ぎる輿を、中にいる彩雲を見つめた。相変わらずの、静かな眼差しと澄んだ琥珀色の双眸だった。ほんの数日会っていなかっただけだというのに、それらのものがひどく懐かしく感じられて、彩雲は不覚にも目頭が熱くなり、青年の姿が暗がりの向こうに見えなくなると、目を閉じた。
(無事だった。まだ生きてた)
安堵した。同時に、例えこれからのことは分からないにしても、今一度、青年の相変わらずな姿を目にできたことが、嬉しかった。
(良かった……)
素直な微笑を顔に浮かべ、少女は再び目を開いて、輿が進む方向を見る。暗い通路の先にある、陽光溢れる長方形の出口が、大きく迫ってきていた。
闘技場へと出ていく輿を見送った雪渓は、微かに顔をしかめていた。ひどく必死な様子で彼を見つめた彩雲の眼差しが、目に焼き付いたようになっていた。
(何故あんな目をしていた……?)
人間の少女の、あれ程必死な様子を、初めて見た。これまで雪渓が見てきた彩雲は、いつもどこかしら冷めていて、生の感情を剥き出しにすることなどなかったというのに。
「どうかしたんですか?」
不意に声をかけられて、雪渓は目を瞬き、声の主、飛瀑に目の焦点を合わせた。茶色の髪の少年は、怪訝そうな顔をして、雪渓を見上げている。
「いや――」
雪渓は曖昧に否定しただけで、やんわりと飛瀑から顔を背け、闘技会場の外へ出ていった。沛沢の症状を診た崇阿に言われて、彼女の部屋へ幾つかの薬を取りに行くところだったのだ――。
輿は闘技場の中央へと運ばれ、土の上に下ろされた。その周りに香霧を含めた三人の侍従が立ち、更にその周りを担いできた衛兵達が取り巻いて、守りを固める。お陰で観客達からは彩雲がひどく見えにくかったが、衛兵達はそんなことに頓着せず、ただ彼らに与えられた命令を忠実に守って、その場に立ち続けた。為に、〈生まれながらの人〉をしっかりと見たいと思った人獣達は、わざわざ闘技場まで下りなければならず、闘技場にはすぐに輿を中心とした人だかりができてしまった。
今度は椅子もないので、闘技場に直接置かれた輿の中に座った彩雲の目線の高さは、殆ど地面に座った場合と同じだった。即ち、全員人態をしている見物客達の目は全て、彩雲からは見上げる位置にある。
(どっちにしろ見られるなら、この方がいいかも)
少女は胸中で呟いた。顔を上げさえしなければ、視界にあるのは見物客の足ばかりで、誰かと下手に目が合うこともなければ目のやり場に困ることもない。ただじっと俯いて座っていればいいのだ。それに、輿の周りを衛兵が取り囲んでいるので、すぐ近くまで見物客が来ることもない。
(うん、絶対、今日の方がいい)
彩雲は、普段より数倍肯定的に状況を受け止めた。雪渓がまだ無事であったことで、少女の気持ちは無意識に前向きになっていた。けれど、そこへ、彼が現れたのだった。
見物客達の足ばかり見ていた彩雲は、ふと一つの足に目を留めた。誰かの二本足の後ろから、片方だけ覗いたその足が履いている靴には、見覚えがあった。
(あれって……!)
古びたなめし革の靴の、靴紐の結び目の傍らに、小さく刺繍された赤い花。それは、紛れもなく、彩雲自身が刺繍したものだった。
(まさか――)
彩雲は、赤い花が付いた靴から足、足から上着の裾へと、注意深く目で辿りながら、ゆっくりと顔を上げていった。そして、手前に立つ人獣の肩越しに彼女を見下ろしている、懐かしい顔を、視界に捕らえたのである。
「峻嶺……」
少女はただ呆然と、口の中で、その青年の名を呟いた。峻嶺。高く険しい山という意味の名を持つ、彼女の筆頭世話係であった青年。彼はまた、彩雲の母・湖煙の、一腹の妹の息子でもある。しかし、小犲族である彼がそこにいるということが、彩雲は俄かには信じられなかった。
八
聞こえなくとも、少女の口の動きで、名を呼ばれたことは分かった。薄茶色の髪の少女は、あの濃い色の双眸で、彼を凝視している。彼女が驚くのも無理からぬことだ。小犲族は、彼女を差し出し狗王国に服属したとはいえ、狗王国を、狗族を嫌っている。その小犲族である自分が、何故、この狗王国王都などにいるのか。彩雲には、その理由など思いもつかないだろう。一族の安泰の為、などという理由は、彼女には分からない。けれど、それは仕方のないことだ。何故なら、彼を含めた小犲族達が、彼女を一族の一員とは見なしてこなかったのだから。彼女には小犲族の皆に対する仲間意識など欠片もないはずであり、まして一族の為に命を賭けねばならないという考え方や心情など分かるはずもないのだ。――だが、とにかく。
(良かった)
峻嶺は微笑んで、踵を返した。思っていたよりも少女が元気そうだったので、少し安堵した。一族の存続の為とはいえ、いやがる彼女を無理やり狗王国に引き渡したことには、ずっと罪の意識を感じてきたのだ。
(結局、これで正解だったのかもしれない)
西口の控え室の方へ歩き去りながら、峻嶺は思う。格子の中にいる姿には、痛々しさを覚えた。けれど、小犲族の集落にいた時とて、大して変わりはしなかったのだ。人間の少女には、自由があるようでなかった。峻嶺達は彼女の世話係であると同時に、監視係でもあった。故に。
(私達は、あの子に冷たかった……)
母親を失ってからの少女が、段々と頑なになっていくさまを峻嶺は見ていた。
峻嶺達が世話を始めた当初は、彩雲も彼らに好意を示そうとしていた。ささやかな、はにかんだような笑顔を彼らに見せていたのだ。だが、あの不器用な笑顔を、峻嶺達は冷徹に撥ねつけてしまった。結果、少女は心を閉ざし、四六時中不機嫌な顔をして、皮肉な言葉遣いをするようになったのだった。
(可哀想だった)
今でも、思い出すと心が痛む。周り中から素っ気無く突き放されて、消えていったあの不器用な笑顔。笑顔の後に表れた、寂しげで傷付いた、なにかを悟ったような表情。峻嶺は、少女のそんな表情を、克明に、哀しく覚えている。だから、人間の少女が今ここにいることが、正解だと思える。そして、なにより。
(あの時)
連れ去られる少女は、叫び続けていた少女は、それでも、ただの一度も、助けて、とは言わなかった。
(あの子は、私達のことを、小犲族の全員を、完全に見限っていた)
誰も彼も助けを求める相手ではないと認識していた。だから、良かったのだ。
(湖煙伯母さんには悪いけれど、でも、あの子は、まだ絶望していないから……)
闘技場から出る直前に、ちらと輿を振り返った峻嶺の横を、西口から入ってきた、包帯だらけの殷雷と彼に肩を貸した崖涘、及び細颸と灌莽が通り過ぎていった。
◇
闘技大会の昼休みを利用してだろう、見舞いに訪れた深潭は、部屋の中央辺りで、ふと顔をしかめた。
「どうかしたのですか?」
息子の表情の変化に目敏く気付いた積淋が寝台の上から問うと、深潭は、
「いえ」
と言って部屋の中を見回すようにしてから、僅かに戸惑ったような顔を積淋に向けた。
「もしかして、天飆が来たのですか?」
「『もしかして』とは、随分な言い様ですね」
積淋は微笑んだ。
「あの子が来てくれたのは、今朝ですよ。昨夜、貴方に『お大事に』と伝言を頼んだけれど、やっぱり自分で来ることにしたとか言ってね。まだ匂いが残っていましたか?」
「微かに、ですが」
どこか憮然とした様子で答えた息子に、積淋は優しく目を細める。子供の頃から、深潭は天飆の匂いに敏感だ。頻繁に行方を晦ましていた天飆を最初に見つけ出すのは、いつも深潭だった。内宮の床下や、内宮と外宮を隔てる垣根の片隅、修練場の裏など、さまざまな場所に隠れて泣いていた天飆を、深潭が誰よりも早く見つけ出して、ある程度泣きやませてから連れて帰ってくる。その二人を迎えて部屋に招き入れるのは、天飆の母・絳霞ではなく、積淋だった。
(あの方は、天飆にひどく無関心でいらしたから……)
「……母上?」
深潭の怪訝そうな声が、積淋を回想の海から引き上げた。
「……天飆も……あの子も、大人になりましたね。『ちょっと顔を見に来ただけ』とか言いながら、ちゃんと花を持ってきてくれましたよ」
寝台の横に置いてある小卓の上に飾られた淡い色の花は、快い微かな香気を漂わせている。その花をじっと見つめてから、深潭は話題を変えた。
「闘技大会ですが、午後は犲族同士の対戦です。六己殿と坤州侯配下の小犲族・峻嶺という者の対戦だとか」
「犲族同士の……」
積淋は俄かに顔を曇らせた。報告した深潭も、暗い表情をしている。無理もないことだった。積淋は、中犲族なのだ。
東方で小国を築いて勢力を保っている大犲族や、ついこの間狗王国に服属したばかりの小犲族とは異なり、中犲族はもう五十年も前から狗王国に服属している。故に狗王国との関わりも深く、積淋が大王の側室に上がったりもしているのだった。
「そうですか……」
積淋は溜め息混じりに言った。
「六己殿も、その相手の方も、大事無く終わればいいですけれど」
「はい……」
深潭は静かに相槌を打った。