第三話 心帰る場所②
再びゴンドラに乗り、カフェの前で下ろしてもらう。まだ新しい木の匂いのする木造の建物だ。ドアノブを引くと、トトセのレイニー文具店とはまた違った音階のベルが頭上から降り注ぎ、ノッテを心地よく迎える。
席に案内される直前、店を一通り見渡したノッテは、ふと知り合いがテーブル席に一人座っていることに気付く。橙色のふわりとしたくせっ毛を一つに束ねた青年だ。今日は休日なのか、いつもの白衣は着ていない。
「あ……」
視線に気付いたのか彼がこちらを見、カチリと目が合った。彼は手を上げるとこちらへ来るように手招く。
「お知り合いですか? 席はそちらに?」
「はい、お願いします」
席に座ると彼は「久しぶりだな、三ヶ月くらいか?」とにこやかに会話を始める。
「そうですね、三ヶ月ぶりです。よかった、すれ違いにならなくて……」
「ん、わざわざ研究所に来るつもりだったのか。トトセの奴、俺の休みを知ってるくせに教えなかったな?」
「相変わらず忘れてたんじゃないかと……」
「そりゃそうか、あいつ絶対忘れてる」
彼がふっと笑うと橙色の髪がふわりと揺れた。彼こそ、この後会うはずだった印名研究所に勤める青年、ハクだ。
ハクに催促され、ノッテはこの店一番の目玉であるパンケーキと、ブレンドコーヒーを注文した。
「三ヶ月、何かあったか?」
「移動本屋にお世話になっていました。スヴェ地方にも行ったんですけど……」
「スヴェ地方? あそこ結界ギリギリだったよな、切れてなかったか?」
「切れてました。初めて通りました結界の外……」
「ちょうど百年に一度の周期だしな、ま、無事でよかったよ」
印名研究所に勤めるハクは、結界のことにも他者より詳しいらしい。ノッテは結界の外で聞いたあの声について尋ねようとしたところで、頼んでいたパンケーキと飲み物が運ばれてきた。
シロップとクリームを絡ませて口へ運ぶ。ふかふかの柔らかい生地と甘いトッピングが口の中へ広がっていく。店長おすすめのオリジナルブレンドコーヒーも、甘いパンケーキと対称的なほろ苦さが混ざり合って美味しい。ノッテはそのままでは飲めないので砂糖もミルクも入れてしまうのだが。
ハクに尋ねたところ、結界外で聞く声という情報は持ち合わせていないようだった。研究所にまで回ってきていないのか、本当に誰も声を聞かないのかは定かではないが、声のことについてはこれ以上の情報は望めなさそうだ。それよりも。
「……百年周期って何か聞いてもいいですか?」
「あぁ、それか。結界のことだよ。結界付近に住む人やよくそこを通る旅人以外の人にとっちゃ日常的に触れるもんじゃないから知らなくても……まぁ声を聞いたって話もしてくれたし、こっちも分かってることくらいは話すさ。隠してることじゃないしな。それにノッテは旅人だから、もしかしたらまた結界付近に行くこともあるかもしれないし……」
そうしてハクは結界のことについて話をしてくれた。
中央都市は結界から一番遠く、つまり中央都市を真ん中としてぐるりと円形状の結界が広がっているということ。その結界の縁は年数が経過すると狭まっていくこと。そして結界が元通りの大きさになる……正確には張り直しをされるのがその百年単位であること。
「……ここまでだ。俺が、いや俺たち研究者が知っていることはな」
「結界の張り直し方や実際に張り直している人は……?」
「それが全く分かっていないんだ。探してはいるんだが、何故かその一族はいつも姿をくらませるのさ。俺たち印名の研究者にも明かせないことらしいな」
ハクはそう言ってコーヒーの飲みかけを最後まで喉へと通した。
ハクは印名を持っていない〈無印〉だ。だからこそ、印名のことを知りたいと思っているしそれを仕事にしている。けれども同時に、自分は無力なのだと感じることもあるのかもしれない。ハクは以前、印名研究所に勤めたきっかけをノッテに話してくれた際に、自分の生い立ちも軽く話してくれた。印名持ちの医者の両親に生まれたが印名を持てなかったのだと。医者になれなかった彼はその知識と技術を買われて印名研究所に勤めるようになったのだと。
彼にとっての十六歳の誕生日がどれほど辛かったか、ノッテには計り知ることはできないだろう。その痛みを共感したとして、印名持ちのノッテでは同じ土俵には上がれないのだ。そのノッテも印名が発現したのは十六歳手前であったのだが……。
だからこそ、ノッテはノッテのできることを、ハクに返したい。同じ土俵には上がれなくても、ハクの研究に協力したいのだ。だから結界についても知っておく必要がある。印名の有無で弾かれる境界線。〈無印〉がいなければ通過できない結界外。そして自分だけが聞いた声。
その後ハクとはここ三ヶ月にあった出来事を話し、カフェで別れた。ハクは「毎回わざわざ会いにこなくていいんだぞ」とも言ったが、恩人でもあるハクとの交流も、ノッテにとっては中央都市に帰ってからの密かな楽しみであったのだ。本人は気付いていないようだが。
そこからは歩いて帰ることにした。ここからトトセたちの家まではそう遠くはない。水路に沿って歩き、並ぶ家々を眺める。この辺りはあまり変わらない。三ヶ月前の記憶も朧気だが。
「あ、ノッテ、おかえり!」
「トトセさん。……また外出してました?」
「画家にはインスピレーションも必要なのだよ、それには出歩く必要もある……」
「要するに店番をシェリーちゃんに任せて遊びに行ってたんですよね?」
店の玄関先、道の反対側から歩いてきたトトセとばったり出会う。ノッテを待っていた訳ではなく、たまたま帰りの時間が同じだっただけだろう。
「で、いい絵は描けそうですか?」
「まぁまぁかな。今度個展やるから、何の絵を出そうかなーと考えてた。いくつかは思いついたよ。せっかくの個展なんだもん、どーんとやりたいよね。まぁその頃にはノッテはまた旅に出てるだろうけど……」
「それは残念です……個展見てみたかったな……」
「完成途中や既に完成した作品で良ければいくらでも見せてあげるよ。僕のアトリエにおいで」
さぁ、とドアを開けるトトセ。からんころんという心地いいメロディーが降り注ぐ。店番をしていたシェリーが顔を上げ、おかえりなさい、といういつもの微笑みをし、首を少し動かしてレジ横に座っている人にノッテたちの視線を集めさせた。その人がふっと顔を上げる。老年の女性だ。彼女はノッテを見て、「あなたが夢を切ってくれる方ですか?」と尋ねた。
「そう、ですけど……ご依頼ですか?」
「ええ、頼みたいことがありまして」
そうして、その女性は立ち上がると、文房具棚を眺めていた、シェリーよりも小さいような六、七歳の男の子の腕を引っ張り、ノッテの前に来させた。彼はそれでもなお、文房具の棚から目を離さず、その瞳はきらきらと輝いていた。
「この子の夢を切って欲しいのです」
女性は連れてきた男の子を見て言う。年齢差を見るに祖母と孫だろうか。
「ばあちゃん、おれ、文房具屋さんになりたい!」
彼は棚を指さして、ノッテと女性の会話に割って入る。前から志していたのではなく、並べられた文房具達に感化されたようだ。一時の憧れ、とでも言うべきか。そしてノッテの思った通り、祖母と孫の関係のようだ。
「それで、切って欲しい夢とは……」
「——全部です」
女性はきっぱりと言い放った。ノッテはその圧に押し負け、顔が引つる。
ノッテは文房具を眺める男の子の頭上を見た。沢山の風船を束ねたような糸が何本も浮かんでいる。それは紛れもなく、彼が持っている『夢』だ。それを全て切って欲しい、ということだろうか。
「全部、ですか」
「見ての通り、この子はすぐにあれもこれもと将来の夢をいくつも抱えるんです。火消し屋、警察官、スポーツ選手、医者、家具屋…………」
彼女は思い出す限り、彼の抱える夢を並べていく。そうして最後に、切って欲しい理由を語った。
「私の家は代々和菓子屋なんです。けれど、この子は一度も店を継ぎたいと言ったことがなくて。お菓子とは関係の無い、強い印名を持ったのなら別の道も考えてもいいのですが、老舗なもので……」
「全ての夢を切って、今抱えている憧れを捨てて、家を継がせたいのですね」
「心苦しいことは分かります。子どもの憧れは一時のもの。いつかは移り変わるもの。けれど、修行を積まなくては和菓子屋は継げません。そして、もうすぐ修行が始まるのです。だから、その前に」
ノッテは考える。この場合の、将来の夢を切ることは希望を切ることだ。悪夢を切ることは良い方向へ向かうが、将来の夢を切ったことで必ずしも良い方向へ向かうとは限らない。よっぽどの事がない限り、切った夢を抱くことは二度とないからだ。それが吉と出るか凶と出るか。そして、将来の夢や憧れは人の原動力になりうる。それを全て切ってしまえば、この子は、もしかしたら。
そうしてノッテは一つの決断をした。——夢を切らない、という決断を。
「……残念ですが、お引き受けできません」
「…………え」
祖母は、引き受けてくれると思っていたのだろう。ノッテが夢を切る職業だから。断る理由などない、ましてやすべての夢を切るということは報酬もそれなりに弾むはすだ。しかしノッテはそれを踏まえてもなお、その依頼を断った。
「夢を切るという事自体は簡単です、ですが、夢を見ることは簡単じゃないから」
「……それだけの、理由で……?」
女性は眉をひそめる。そして、キッと目を吊り上げ、口を開いた。
「私情は挟まないでください、仕事でしょう?」
「——将来の夢や希望を、全部切ったら人はどうなると思いますか」
「えっ……と……」
ノッテは感情を殺して、突然の問いに戸惑う女性をじっと見つめた。冷静にさせるには、まずこちらが冷静にならなければならない。
「生きる希望も何も無くなって、生きていけなくなります。仮に生きていたとしても、何も無いように本人は感じるでしょう。もう夢が持てなくなり、希望も何も持てないのですから」
ノッテは続ける。
「夢は原動力になるんです。これがしたいからお金を貯めよう、夢を叶えるために技を磨こう、明日のために仕事をしよう。その全てを切ってしまえば、人は生きていけなくなるかもしれません」
そう言い切った後、ノッテは閉口する。確かに夢を持ちすぎることは、たった一つの和菓子屋を継ぐには邪魔になるのだろう。けれど、この小さな子どもの夢を、将来を、今から自分の手で切ることはあまりにも危険なことで、そして自分の信条とは異なると感じたのだ。
「……ばあちゃん?」
少年が祖母を呼ぶ。彼女は冷静になろうと息を整え、柔らかなため息をついた。
「……少し早計だったかもしれませんね、ごめんなさい。ちゃんとこの子と向き合ってみます」
「いいえ、こちらこそ……すみません」
ノッテは知っている。
ノッテはもう一度、彼の頭上を見た。きらきらと輝く将来の夢の数々。先程母親が言っていた職業を含めた様々な夢が、一本一本に詰まっている。火消し屋も、警察官も、スポーツ選手も、医者も、家具屋も、一本一本が輝いている。
「でもきっと、大丈夫です」
そのノッテの言葉には、不思議と、確かに信じられることがあって。
「……どうして?」
「それはきっと、いつか分かると思います」
「……強情ですね。教えてくれないなんて」
彼女は口に手を当ててふ、と笑った。この店に来てから笑わなかった彼女が、初めて笑ったのだった。
それから、おばあさんと男の子の二人は手を繋ぎ、夕暮れの中ゴンドラに乗って帰っていった。
ノッテは店先で彼らを見送る。幼い子どもの頭上に浮かぶ『父や母、祖父母への憧れ』という夢が一際輝いているのを見守りながら。
◇
トトセにアトリエを案内してもらうことになった。掛けられていた布が剥がされ、布の下の絵たちが露わになる。
布が剥がされた途端、魚達が泳ぎ出した。隣の絵は風が吹いて葉が舞っている。更に、突然床に水溜まりが出来、ノッテは驚いて、慌てて踏まないように右へ左へとステップを踏んだ。
「踏んでも大丈夫だよ、これは雨の絵なんだけど、水溜まりや雨粒が絵の外に出るように描いたんだ」
「びっくりしました……すごく素敵です……!」
トトセの描く絵は風景や情景が多く、柔らかいタッチで優しい色をしている。どこか儚く、暖かく寂しい絵は、動きを加えることによって見ている人の心を掴み、目を離させない。
触れようと手を伸ばしても、それは幻のように手をすり抜け、動き続ける。雨粒も濡れることは無く、魚も生きているように動くが触れられることはない。あくまでも絵であり、幻のような、けれど確かに存在している。描いた絵が動く——それがトトセの印名である〈絵描き〉なのだ。
「一つだけ布が掛かってますね。まだ未完成なんですか?」
「……いやー、うーん……まあいいか……えい」
トトセはノッテの問いを曖昧に返し、そのまま布を引っ張った。するすると落下する布の向こうに、真っ黒なキャンバス。ノッテは息を呑んだ。
「黒…………?」
正確には、真っ黒な背景の中央に、小さく人が描かれている。少年だろうか。青い炎を灯したランタンを持ち、それがゆらゆらと小さく揺れている。
「お願いしてもいいかな、カーテン、閉めてくれる?」
「……? いいですけど……」
ノッテが部屋のカーテンを閉めると、差し込んでいた茜色は全て消え、部屋の照明だけがアトリエを照らす。そしてトトセは、ノッテが真っ黒な絵の前に戻ったのを確認して、その照明すらも消してしまう。
「これはまだやったことがないんだ、だから上手くいくか分からなくて見せるつもりは無かったけれど、見ててね」
そう言ってトトセはぱちん、と指を鳴らした。
「あ…………」
先程の黒いキャンバスに何かがぽつぽつと浮かんでいく。星空のように。そして中央の青い炎はゆらゆらと揺れて、ただ一つの照明となる。
その星空は部屋中に広がっていく。天井に小さな明かりを灯し、青い火を際立たせる。流れ星が天井から落ち、アトリエの床へと灯りを落とす。
「上手くいった! ……問題は個展の配置なんだよね。これをするには部屋全ての明かりを消さなくちゃいけないし、見せるなら今みたいにぱっと華やかに見せたいだろう? それが、どうやら照明の関係で出来ないみたいで……だからこの絵は個展は見送ろうと思ってる」
「そうなんですか……じゃあこれは、私やシェリーちゃんだけが見れる特別な絵ですね。あとハクさんも」
「そうだね。ハクにも見せないと。いやぁ、見せられてよかったよ、お蔵入りする所だった。気に入ってもらえて嬉しいな。描いた甲斐があった」
「いつもと違うタッチの絵ですし、新しいトトセさんの一面が見られた気がします」
「やっぱりそう思う? 真っ黒もたまには使いたくなるんだ」
真っ黒な中、一つの青い炎だけが少年を照らす。暗く、悲しく、寂しくなるような絵だ。けれどその絵は、全ての明かりを落とした時に真価を発揮する。星空は明るいところでは見えない。中央都市では星がほとんど見えず、旅先の村で無数の星が見えるように。
「さ、ご飯の時間だね」
「ええ、いい匂いがします。今日は何でしょうね」
二人は階段を上り、リビングへと向かう。
熱々のグラタンが三人分、机に並んでいた。




