第十二話 香り袋を奪われて①
ノッテはライアーを抱え、彼女が最後に弾いた曲を弾こうとした。しかし指が震えて音に辿り着かない。ようやくの思いで弾いた弦は情けない音を出すばかりで。
「これじゃ、ルナに叱られちゃうなぁ……」
どうにもできない無力感がノッテを襲い、下唇を噛む。結界が誰かの犠牲によって成り立っているなんて。ハクも危ないのではないか。ハクもルナと同じ病気だ。ルナ自身は星を飲み込んだと言っていたが、ハクは恐らく触れたか何かしたのだろう。もしかすると日光も避けたほうがいいのかもしれない。
「伝えなくちゃ、早く、今すぐに」
泣いてる場合なんかじゃなかった。早く中央都市に戻らなければ。手紙を送ろう。結界のすぐそばから中央都市までは地理的に最も遠いから、直接行くより手紙をしたためた方が早く届くだろう。しかしどう伝えようか……。
へなりと座り込んでいたノッテがテントに戻ろうと、立ち上がった直後だった。
「みつけた、みつけた、あのこのにおい」
視界が急に暗くなる。背後に何かの気配、そして呟き。ゆっくりと後ろを振り返ると、明らかに動物ではない生き物——「魔物」と呼ぶに相応する生き物がそこにはあった。先程の四足歩行の生き物とは異なり、山のように全身真っ白の毛並みの巨体に、猫のような三角の耳。そして丸い緑目がノッテを見下ろしていた。息遣いは感じられない。
ひゅ、とノッテの息が止まる。逃げなきゃ殺される、でも一体どうすれば、
「みつけた、みつけた、あのこのにおい」
その獣はノッテを見下ろしたまま、ゆっくりと毛並みの中から前足のようなものを伸ばし、ノッテの腰のポーチに触れる。不思議と、そこに害意は感じられなかった。
ノッテはその獣からそっと目を逸らし、ポーチに触れる。温かな毛並み。ポーチの中に入れていたのはなんだったろうか。
刺激しないようにゆっくりとした動作でカバンの蓋を開け、中身を一つ、また一つ取り出していく。救急セットなどは求めているものではないだろうから除外して、まずハサミを、次に筆記用具、そして……。
「あっ」
香り袋。それを取り出した時、目の前の獣は嬉しそうに尻尾を振った。これはシェリーが星祭りの花と金平糖らしき装飾を入れた彼女特製の香り袋だ。
「これ……かな……」
「あのこのにおい!」
大きな猫の獣は喜んで香り袋をノッテから受け取った。そして、
「ずっとまってる。あのこをたすけて」
そう言って、獣はその場から煙のように消えていった。
ノッテは獣に言われたことを復唱する。
「ずっと待ってる、あの子を助けて……?」
たしかに彼はそう言った。あの子とは、どう考えても香り袋を作った張本人であるシェリーしかいない。
「シェリーちゃん……?」
彼はシェリーを呼んでいたのだろうか。あの子に来てほしい、ずっと待っているから、と。優しい声だった。人間のように、誰かを思う心が見えた。そして何かに焦っているようでもあった。
「シェリーちゃんに聞いたら何か分かるかな……」
香り袋は最悪取り返せなかったとしても、獣の言っていた「助けて」はノッテの心に妙な引っ掛かりを作って離さない。
「中央都市に戻ろう」
例えばそれがシェリーの〈不老〉の印名に関わることだとしても。ずっと待ってくれている生き物がここにいたのだ。それは伝えなくてはならないことではないだろうか。
ハクのことも忘れてはならない。真偽は不明だが、もしルナと同じように溶けてしまうのだとしたら、陽の光に直接当たると溶ける可能性がある。しかしルナのように布をまとえば日中も過ごせるかもしれない。
根本的解決には至らない。しかし対処法が見えただけでも大きな一歩になった。問題はそれをどう伝えるか。
ルナのことは伝えていいのだろうか。結界を張る一族は、姿をくらましながら百年に一度結界を張り直しているのだとハクは言っていた。その方法も、人々ですらも明かされたことはない。それが今、ノッテの手の中にある——ライアーと夜守人の事実だ。
ルナたちのためにも隠すべきか、しかしそれではハクに事の重要さを伝えられない。ノッテはテントに帰りながらも思考を巡らせていた。
口の堅いハクならば、どうにかごまかしながら透明硬化症の人々を守れるかもしれない——そんな考えでまとまった頃、ノッテは筆を執り、便箋を取り出した。
手紙で詳しくしたためるよりも帰ってから詳しく説明した方がいい。今は帰るという連絡をしよう、と。中央都市に着くまでは時間はたっぷりあるのだから。
ノッテは中央都市行きのキャラバンを見つけ出し、その旅に同行することにした。シェリーの香り袋のこと、ハクの病気のこと、ルナの最期の言葉……ノッテの気が休まる日は多くはなかった。
◇
中央都市の帰路についてから二週間。船で最後の水路を越え、中央都市の地面を踏む。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
今日帰ることは伝えてある。だからきっとハクもいるはずだ。シェリーとハクを天秤にかけた時、命に関わっているハクを先にノッテは選んだ。だから向かう先は印名研究所だ。
「は、ハクさんは、いますか……?」
息を整える間もなく受付の人に問う。
「今確認しますね。恐らく研究室の方にいるとは思いますが……」
十数秒後、受付の人は「どうぞ」とハクのいる研究室へと案内した。
「待ってたよ、ノッテ」
「ハクさん……! 私、私……!」
「お、おう、どうしたんだ、慌てなくても俺はここにいるぞ」
数年前のようにココアとコーヒーをハクは淹れ、ノッテにココアを、ハク自身はコーヒーを啜った。「これでも飲んで落ち着け」と言うように、ノッテに座ることを催促して。
ノッテはぽつぽつと話し出す。自分が結界の張り直しに立ち会ったこと、その子は透明硬化症を自ら患った人であったこと、透明硬化症は星祭りの星がトリガーになっていること。そして、
「その子は朝焼けにしばらく当たった後に、溶けて消えていったんです……」
「日光、か……そういえば、昼間に手袋を外した時にヒリヒリしたのはそのせいだったのかもしれないな……気をつけてみるよ。……そんな顔するなよ、まだ終わったわけじゃない」
「で、でも……!」
ノッテは何も出来ない無力さに苛まれていた。それが顔に出ていたのだろう。現状できたことといえばハクの病気を死ぬのを防いだだけだ。病気は進行していくだろう。
「とにかく、結界を越えてもお前が無事で良かったよ。それに夜守人のことも話してくれた。俺以外には話さないつもりなんだろう? 俺も、トトセやシェリーには、ノッテが旅先で同じ病気の人に出会って日光が弱点だと知ったって伝えておくよ。ありがとうな。本当に」
「私は……何も……」
ただ見ていることしかできなかった。ルナがいなくなってからろくにライアーも弾けていない。私は一体なんのためにここにいるんだろう。私はなんのために……。
「いいか、ノッテ。日光に弱いって分かっただけでも大進歩なんだ、誇っていい。これはお前が結んだ縁で、ちゃんと無事に帰ってきて、俺を選んでくれたからだ。だから大丈夫。お前はよくやったよ」
「ハク、さん……」
ハクはノッテの頭をぽん、ぽん、と撫でた。柔らかな右手だった。その柔らかさに彼女をまた思い出して……。
「さて、トトセやシェリーのところにも帰るんだろ? 早いほうがいい、もうすぐ日が暮れちまうからな」
「はい、ハクさん、また」
「明日も明後日も会えるさ。またな」
そう言ってハクはノッテを研究所の外まで見送った。
夕暮れに溶けそうな彼は、見えなくなるところまで手袋の手を振ってくれていた。
慣れた道を通っていつものゴンドラに乗り、〝家〟まで早足で向かう。
「ただいま!」
降り注ぐベルの音。そして奥のアトリエから出迎えてくれたのはトトセ。変わらないいつものトトセだ。
「おかえり、ノッテ! ちょうど晩御飯ができる頃だよ」
二階のリビングへと進むと、キッチンからミルクのいい匂いが漂っていることに気が付いた。
キッチンから顔を出したシェリーはトトセの声に反応してこくこくと頷く。
「今日はスパゲッティなんだって! 近所の人がキャベツを分けてくれたんだよ」
六ヶ月ぶりの我が家の中で、ノッテはすぅ、と大きな深呼吸をする。
私は絶対に忘れないよ。六ヶ月も練習をしてきたことも、あなたが教えてくれた音色も、声も、朝日が美しいと言ったあなたの人生も。
ノッテは息を吐きだして微笑むともう一度、
「ただいま」
と、笑顔で二人を抱きしめたのだった。




