第九話 〈絵描き〉の青年①
レジでノッテからの手紙を読んでいたトトセは、ふと目を逸らした際に机の上の生き物と目が合って「うわっ」と声を上げた。巨大……でもないが、そこそこ大きい蜘蛛が、レジ横の机上を這っている。
「し、シェリー、く、蜘蛛が出た」
そのトトセの情けない声を聞いてシェリーはキッチンから出てくると、トトセとは正反対に静かにその蜘蛛を素手で摘み、店の外に出してしまった。
「冷静だなぁ……」
『トトセさんが怯えすぎなだけです』
「いやいや、普通女の子は蜘蛛怖がるでしょ? まぁ僕は男だけど」
『わたしもトトセさんも怖がったら誰が対処するんですか』
「む、確かに……」
トトセは蜘蛛を逃がすシェリーを見て、昔のことを思い出す。
「懐かしいね、蜘蛛」
そう言われてシェリーはこくり、と頷いた。
「孤児院にいた時にさ、僕が大きな蜘蛛を描いて君を驚かせようとしたこと」
シェリーはいつも表情が変わらない女の子だった。ずっと微笑みを絶やさない、春の陽だまりのような女の子。ある日トトセは、思いっきり驚かせて泣かせてやろうと閃いて、大きな大きな蜘蛛の絵を描いた。子供心に、シェリーのいつもと違う顔が見たかったのだ。その蜘蛛はもぞもぞと命を宿し、おぞましく動き回って孤児院の子供達が泣き叫ぶというある意味大事件になった。けれど彼女は、シェリーは笑ったままだった。微笑んで「上手だね」とトトセの頭を撫でたのだった。
「まだ、怒ってたりとかする?」
『……何のことですか?』
「蜘蛛を見せて驚かせようとしたことも、泣かせようとしたことも、それから、気持ち悪いと言ったことも」
そんな、当たり前のことを訊いてみる。
その笑みの裏に、何か隠れているんじゃないかって、ずっとずっと疑っている。出会った頃から背丈も視線も変わらない君を、何か大きなものを背負って隠している君を、疑っている。
それでも彼女はいつもの微笑みを浮かべて、撫でてくれるのだ。
『いいえ。怒りませんよ』
どうして、怒らないんだろう。
僕のことに対しては叱ってくれるのに。朝寝坊な僕も、すぐにふらりとどこかへ行ってしまう僕も、部屋を散らかしたままの僕も、嫌いな食べ物を残す僕も、僕のことは全部、叱ってくれるのに。
トトセは言ったのだ。両腕を広げても足りないくらい大きな蜘蛛を見ても怖がらずに自分を褒めてくれたシェリーに「気持ち悪い」と。シェリーが怒って当然のことをトトセはした。そのはずなのに。
この人は、一度だって、自分のことで怒ったことがないのだ。
ドアベルのからんころんという音が、二人の鼓膜を震わせる。入ってきたのはハクだ。
「いらっしゃい、ハク」
「おう……って、なんか焦げ臭いぞ、シェリー大丈夫か?」
そのハクの注意に、シェリーはあ、という口を開けて目をまん丸にしながら、慌ててキッチンに飛び込んだ。鍋蓋を取ると、一気に焦げ臭さが部屋中に広がる。
「あーあ、こりゃまた派手にやっちゃったねぇ、ごめんね、僕が蜘蛛の対処を任せたばかりに……」
『その責任を感じているなら、今日のご飯はこれにしますけど……』
「えっ、それは困るかな……」
『わたしも困りますよ。トトセさん、どうせ「食べられない!」と言って残すでしょうから。買い物行ってきますね』
「ごめんね、行ってらっしゃい」
カバンに財布とメモを入れたシェリーは、いそいそと文房具屋を出ていった。
「これ、なんだと思う?」
真っ黒になった鍋を見て、トトセはハクに聞いてみる。
「俺に聞くなよ……研究所は食堂があるから三食付きなもんで料理はしないんだ。お前もそうだろ? たまにはシェリーの代わりに作ったらどうだ」
「僕が作る? いつもみたいに大惨事になるけどそれでもいいのかい? キッチンをめちゃくちゃにしたら本当にシェリーが怒るよ、あの子キッチンに関しては結構こだわってるみたいだから」
「……それは確かにやめておいた方が良さそうだ」
男二人は互いに呆れたように笑った。シェリーに任せっきりも悪いが、下手に手を出すのも良くなさそうだ。
「今日はお休みなの?」
「まあな。それにシェリーが買い物に出てちょうど良かった。話したいことがある」
ハクはレジ横の椅子をレジに座るトトセの前に持ってきて、向かい合う形で座った。真剣な目付きでトトセを見る。これはちょっと笑いながら出来る話ではなさそうだな、と楽観的なトトセでも感じるような。
「所長が、シェリーを研究対象にしたがっている。と言っても、日々の健康診断とか問診とか、軽いものだが」
「シェリーが研究対象? それはまた面白い話だね」
「お前、分かってて言ってるだろ」
「まあ?」
シェリーが研究対象になる理由を、ハクも、トトセも分かっている。こういう日が来るかもしれないことも分かっていた。数年一緒に過ごせば嫌でも意識するようになる。彼女の異常性……否、印名の発現に。きっと数年前から出会っているノッテも気付いているだろう。
「トトセが孤児院を十六で出た後、文房具屋の店長になってから今まで、ずっとシェリーは変わっていない。七、八年くらい経つが、シェリーはずっと十歳くらいのままだ。これはもう、印名が発現してるってことじゃないか」
成長の止まったシェリー。十歳くらいのまま、七年以上もの間何も変わらずただトトセと共にいたシェリー。死ぬかどうかは分からないから仮に〈不老〉というところだろうか、あるいは目に見えないだけで少しずつ成長しているのか、そして本当に死なないのか。
そう考えるハクに、トトセは突拍子もないことを言う。
「シェリーは僕が孤児院に預けられた時……五、六歳だったかな、あの頃からあのままだよ。その頃には既に立ち振る舞いも今みたいにしっかりとしていたし、多分僕らよりも長生きなんじゃないかなぁ」
「…………は? ちょっと待て、は、初耳なんだが……!?」
「だって聞かれなかったし、言ってないし。不老……不死? は珍しい印名だから、シェリーは出来るだけ孤児院から出ないようにしていたし、僕らもそれを知っていたから口外しないようにしてた。孤児院が解体された時に連れ出すの大変だったんだよ? 他の子みたいに他の孤児院に移ろうとしてたから。結局はまぁ、僕に折れてくれたけど」
てっきりシェリーもトトセと同じ年代に孤児院に拾われていたと思っていたハクは、目を見開いて硬直し、いや、と我に返って再び考え始めた。
シェリーはトトセやハクが生まれる前に既に生まれていて、十歳で止まったまま。シェリーはどんな風に感じているのだろうか。印名は、自分自身にしか分からないところがある。発現した、という感覚も本人にしか分からない。もっとも、ハクには一生分からない感覚だが。けれど、もしこの印名が、一生付いてくるものだとしたら。シェリーは……。
「俺らが死んでも、シェリーは生き続けるのか……?」
「さあ? 事故で明日突然死ぬかもしれないし、世界が終わるまで永遠に生き続けるかもしれない。ある日突然大人になるかもしれない。けれどそれは今のところその兆しは見られないね。もしかしたらシェリーは大人になれないかも」
「……そんな」
永遠に子供のまま、彼女は生き続ける。沢山の出会いと別れを経験して、彼女は、たった一人で。
普通に歳をとって、普通に大人になって、老人になって、死んでいく。それをシェリーは経験することが出来ないかもしれない。出来たとしても、それはトトセやハクが死んだ後かもしれない。
あぁ、だからなのか。ノッテが旅をすると決めて家を出ても平気でいられるのは。普通の子供なら、別れたくないと駄々をこねるものじゃないか? けれどそれをしないで温かく手を振るのは、別れを知っているからか? 出会いと別れが、当たり前になっているからか?
それでも、「どうせ別れるから」という投げやりな姿勢は感じられない。寧ろ、どんな人でも温かく出迎えてくれる包容感と安心感がある。出会いと別れを大切にし、それはまるで世界の母のように。
「せめて同い年かと思っていたんだが……」
「あの子は見た目にそぐわずしっかりし過ぎだよねぇ、僕らよりも、さ」
十歳なんて、勉学などに励みながらすくすくと育っていく年頃だ。同い年や近い年の子と遊び、交流をし、体も心も育んでいく。彼女が本当の十歳の時、彼女は何をしていたのだろうか。きっとそれは、トトセもハクも生まれる前の話なのだろう。彼女にしか知らない、彼女の記憶、人生。
「不老不死になりたいかって聞かれたら、お前はどうする?」
ハクはふと、分かりきっている問いをしてみる。彼のことだから返す言葉は必ず、
「嫌だね。僕は別に生きることにそこまで執着してないし、今すぐ死ぬのは嫌だけど、長く生きるのもなかなか酷だと思うよ?」
「そうだな。お前は執着しなさ過ぎだと思うが。まぁ、不老不死に憧れる人間もいると聞くが、俺もまっぴらごめんだ。それでも、あの子は……」
「どう思っているんだろうねぇ……」
印名の残酷なところ。それは、自分で選べないことだろう。どんなに役に立たない印名でも、望まない印名でも、宿ってしまえばその一つしか持つことは出来ない。そして、宿らない人間もいる訳だが。
「……お客さんだ。いらっしゃい」
会話の合間にベルの音とドアを開ける音が響く。その音たちと共に入ってきたのは、背の高い男性が一人。若芽色のやや長めの髪の男性だ。
レジを挟むようにして座っていたハクは、椅子をレジに座るトトセの隣へと移動させた。これで会計の邪魔にはならないだろう。
「こんにちは、絵の具を探しているのですが……」
「やぁこんにちは、何の絵の具だい?」
「この水彩のこういう赤を探していまして。ここの文房具屋は絵の具の品揃えがいいと聞いたんです」
「赤……赤ね! こういうのはどうかな?」
トトセが色見本を取って青年に何色か見せていく。その中に気に入った色があったようで、青年は「これを」と指し、代金を払って退店していった。
「無事に決まったようでよかった! 赤はあんまり僕使わないからさ」
「……そうだな」
ハクは気付かれないよう短く細いため息をついて、トトセから視線を外した。
トトセは赤い絵の具を使わない。頬に薄紅を添えるとか、絵の具を混ぜるとか、そういうことはしているかもしれないが、少なくとも赤をメインとして使ったことはない。ノッテからもらった赤い絵の具だって、色見本には出してあるものの、本番の作品で使ったことは一度もないだろう。
きっとそれは、本人すらあまり意識していないことだ。だけど確かにそれは存在する。
真っ白な髪と肌のキャンバスに、たった一点、刺すような赤い目。熟れた果実のようにも、そして鮮血のようにも見えるそれは、本人はさして気にせずとも周りの人はあまり好かなかった。事実トトセの両親は、自分と全く似ない色の白と赤の気味の悪い人間が自分たちから生まれたということを理由に、父親は浮気を疑い、母親はそれから気を病んでトトセを棄てた。トトセのように親と違う色の、特に色素の薄い子どもが生まれることはたまにあるらしいが、それをハクが知っているのは曲がりなりにも医者の息子だったからだ。一般の、ましてや医者と繋がりの薄い人はほとんど知らないだろう。
それは孤児院でも同じだったはずだ。浮気されて捨てられた。奇妙な色の子ども。そしてトトセは何より、性格そのものが人と馴染みにくい質だった。
良く言えば、自由奔放、無邪気、純粋。悪く言えば、人の話を聞かない、理解できない、自分勝手。
今はそれが抑えられて協調性を保っていられるのは、一番はシェリーのおかげだろう。孤児院時代もシェリーの精神年齢が「大人」であったなら、それにも頷ける。むしろ恐ろしいくらいに合点がいく。孤児院や学校では先生たち大人含めて誰もトトセを止められなかったから、シェリーなしでは協調性を育むことすら難しかったことだろう。
あのシェリーがずっとトトセのそばにいたのなら。
トトセが今笑っていられるのはきっと、シェリーのおかげなんだろう。ハクはそっと目を伏せ、緩やかに息を吐き出した。




