第一話 夢を切る少女
——しゃきん。ハサミを通す軽い金属音。そして、少女の声が一つ。
「どう、でしょうか?」
「……うん、さっきよりは怖くなくなった。今日はよく眠れそうだよ」
青年の言葉を聞いて、少女——ノッテはほっと息を吐きだした。あとは代金を頂いて……しかし、今朝見た悪夢を〈切って〉もらった目の前の彼は未だ椅子から立ち上がろうとしない。ノッテの頭をほんの少しの疑問が掠めたその時、もう一つの〝糸〟が青年に絡んでいることに気が付いた。
「……違っていたらすみません、もう一つ、ありませんか」
それを聞いた青年ははっとした表情を浮かべ、はにかみながら息を溢した。「実は……」
「……好きな人が、いるんです」
◇
「——助けて」
暗闇の中、誰かの声が頭に響く。しかし、一瞬だけ届いたその声は、誰かが自分を呼ぶ声と振動にかき消されていった。
「……テさん、ノッテさん!」
一瞬の、しかし長いような気絶。
ノッテははっと目を覚まし、すみません、と謝罪する。
「無理もないですよぉ、周りの人もみんな気ぃ失っちゃってますし。でも、起きなきゃいけないんです。もう大丈夫ですよぅ」
冷たい空気とは真反対に柔らかく温かい護衛の声がノッテをじんわりとほぐしていく。けれど、あの恐怖が完全に消えたわけではない。
まるで拒まれたような、ここに来てはいけないような。我々はこちら側に入ってはいけないのだと、誰にも邪魔されたくないと。けれど確かに聞こえたのだ、「助けて」と。
護衛たちは最初の説明で言っていた。結界の外は危険で〈印名〉を持つ人間を拒む仕組みになっている。一人一つの特別な力を得た代償とでも言うのだろうか。だから〈印名〉を持たない〈無印〉の人たちが護衛となり、ノッテを含むキャラバンのみんなを守ってくれるのだ。
結界の外は気絶してしまうほどに危険な場所だが、最後は必ず意識を保って通り抜けなければならない。何故なら気絶したままの〈印名〉持ちは二度と目を覚ますことがなくなる……だとか。だからこそ、目を覚まさせる役の〈無印〉の護衛が必須となるのだ。けれども不思議なことに、一度結界を出て気絶した者でも、結界外で目を覚ませばその後は再び結界内に戻るまで気絶することはないという。要するに、気絶するのは結界を出た瞬間の一度きりということになる。
〈印名〉を持つ人間は〈無印〉の護衛をなしに結界を出てはならない。いや、たとえ護衛がいたとしても、通ることは極力避けるべきだ。誰だって毎回恐怖心から気絶しながら毎回通るわけにはいかないだろう。だから今回は特別な事例だった。
「前よりも結界の範囲が狭くなってるなんて」
「貼り直しするにも人手が足りてないらしいし」
結界を貼り直すにはそういった〈印名〉の者が必要なのだ。だが、結界の貼り直しというのは大掛かりであり、かつほとんどの人にとっては無関係でもあるため、ノッテたち部外者にとっては「そういう人がいる、いない」くらいしか情報が回ってこない。
「さあ、中に戻ろう。襲われることもなくて良かったよ」
「最後に怖いこと言わないでくれよ……」
おまけに結界の外には人間を襲う魔物が存在するということなので、その点でも強い護衛が必要とされている。今回ばかりは結界の境界部分を掠める程度であったため、出なかったようだが。
境目を抜けると、ふわりと暖かい日差しがノッテを包み込んだ。今度こそ、大きく肺にたっぷりと息を送り込む。春の日差し、きらきらと輝く水面、暖かな風。その全てを全身で迎え入れて。
「さぁ、次の村に着くぞ」
キャラバンの長であるパトリックの声が通ると、ぽつぽつと人工物が増えていく。ノッテはぐんと伸びをして、見えてきた家々を目で追いかけていく。
船が止まると、見物にやって来た住民たちがちらほらと集まっていた。そしてその後ろから現れた長老らしき人が一礼をしてこちらへ微笑む。
「ようこそ、こんな端の方の村まで来ていただけて……喜ばしい限りです、パトリックさん」
「こちらこそ、快いご返答ありがとうございました。移動本屋という娯楽の部分も多いかと思いますが、ぜひ気に入ったものがあれば幸いです」
キャラバンの長であるパトリックと長老が会話を交わす。このキャラバンは日用品などもある程度は揃えてはあるが、本業は移動本屋なのである。その名の通り、全国各地の本を収集し、縁者へ届ける。〈印名〉の一つである〈複製〉などがなければ、同じ本を作るには作者が何回も同じ話を書く、あるいは贋作が出回るしかないというこの世界の仕組みの中で、移動本屋というものは珍しいものではあるが重要視はされていないのが現状だ。だが、それでも。
「ママ、あのきれいな絵はなあに?」
「これで子どもにもっと文字を教えられるわ……!」
「わぁ、綺麗な写真集……!」
「あの先生の本があればいいのだが……」
「新しい物語を読みたかったの!」
生きる上では必ずしも必要ではないとしても。たとえ娯楽の一つだとしても。それでも、心がときめくものであることに変わりはないのだ。
「さて、ノッテ、読み聞かせをいくつか頼んでもいいかな?」
「は……はい! まだ緊張しますけど……」
パトリックはノッテにいくつかの絵本を差し出して言った。
ノッテはこのキャラバン専属の語り手……というわけではない。護衛のついたキャラバンに乗せてもらって全国各地を旅する旅人だ。そのキャラバンに乗せてもらうために、ノッテたちはいくつかの契約をお互いに交わしている。絵本の語り手をすることも、その契約の一つだ。
絵本が多く積まれた馬車の前に屋外用のカーペットを敷き、足を崩して座る。呼びかけが始まる。子どもたちがわらわらと集まり、ノッテの前へ半円を描くように座っていく。
「それでは……『赤ずきん』。昔々、あるところに……、」
ノッテの凛とした声は物語に引き込まれる。子どもに限らずそれは大人も同じだ。彼女の語りはまだ緊張が垣間見えるが、それでも聞く者の興味を惹いていく。だからこそ、これまでの旅の中で客足が途絶えたことは一度もない。
そうして二冊ほど読んだところでこの日の読み聞かせは解散となった。これから夕食の時間までは自由時間。ノッテの仕事の時間だ。
キャラバンの一室を借りて、看板をかけておく。このキャラバンに乗っている人たちの〈印名〉リストは既に掲載済みなので、あとは気付いてもらえるか、というだけだ。夢を切る、という、ただそれだけの力を。
移動本屋で借りている本を読んでいると、その客は数ページ読み進めた頃にやってきた。
体には、微かに揺らぐ糸が一つ。
「こんばんは、夢を切ってくださると伺ったのですが……」
青年はやや自信なさげにそう問うた。同時に、体にまとわりつく糸も、弱く淡い光へと変わっていく。
「ええ、合っています。私が〈夢切り〉のノッテです。もしよければ、切ってほしい夢についてご説明をお願いしても?」
ノッテは机を挟んで向かい合う形で彼と椅子に座った。彼は一つ呼吸をおいて話し始める。
「一昨日に悪い夢を見まして……既視感というか、現実で思い出しては少し怖くなるんです。昨日もよくねむれなくて……お願い、できますか?」
話が進むにつれて彼に纏う朧気だった糸が確実な手に取れる糸となり、ノッテの視線がそれを捉える。対象者と自分自身が夢だと感じた時に現れる、ノッテにしか見えない一本の糸。ノッテは確信を得て頷いた。
「ええ、もちろん」
「では……お願いします」
腰に下げたポーチからアンティークのハサミを取り出す。まとわりついたその糸に刃をかける。そして柄を緩やかに握った。
しゃきん。
「……どう、ですか?」
糸は確かに切れた。しかしそれが本当に気持ちとして切れたかどうかを判断するのは客である青年だから。
「……うん、さっきより怖くなくなった。今日はよく眠れるかもしれない」
青年の言葉を聞いて、ノッテはほっと息を吐きだした。良かった。うまく行ったようで安心する。今晩彼が眠れるかどうかまでは保証はできないが。あとは代金を頂いて……。
しかし、悪夢を切ってもらった目の前の彼は未だ椅子から立ち上がろうとしないまま、俯いて、迷ったように目配せをしている。ノッテの頭をほんの少しの疑問が掠めたその時、もう一つの〝糸〟が青年に絡んでいることに気が付いた。
「……違っていたらすみません、もう一つ、ありませんか」
それを聞いた青年ははっとした表情を浮かべ、はにかみながら息を溢し、
「実は……好きな人が、いるんです、いえ、いたと言うべきでしょうか……」
ぽつぽつと、話し始めた。
その彼女は来週、結婚のために引っ越してしまうこと。そしてこの恋煩いを切って欲しい、ということ。
「時々、夢を見るように考えてしまうんです。もし彼女と僕が結ばれてたら……なんて。そんなこと、もう、ありえないのに」
伏せられた彼の瞳には、二度と結ばれることのない悲しい縁が浮かんでいるのだろう。ノッテは一つ頷いて、「分かりました」と彼に言葉を返す。
「ほ、本当ですか……? 恋なんて、夢なんかじゃなくて……それに元々夢だって、寝て起きたら忘れてしまうような儚いものなのに。いずれ時間が解決する、自分で折り合いをつけなくてはいけないような……それでも、切ってくださるんですか?」
夢を切るということ自体はあまり大きな意味を成さないのだ、とノッテ自身も思っている。夢を切るだけ。気持ちを、思いを、感情を、悪夢を、将来を。切っただけで記憶が変わるわけでもない、過去が変わるわけでもない。だけど。
「もしかしたらそれは、時間が解決してくれるかもしれない。けれど、ほんの少しでも解決までの時間が短くなれば、そして私はそれのお手伝いができれば、と思っています。私にできるのは、夢という曖昧な概念を切るだけです。まぁ、たまたま私がそういう〈印名〉だった、っていうだけの話なんですけどね」
ノッテはハサミを握り直して手に馴染ませ、一呼吸置いた。目の前の男性から『糸』が見え始める。落ち着いた柔らかな光を放つ、淡い、片思いの糸だ。
切ろうとその手を伸ばした時、青年はぽつりと呟いた。
「……僕は、彼女のことを忘れてしまいませんか」
眼差しに迷いを宿した彼に、息を整えたノッテはこう返す。
「大丈夫です、夢と記憶は違いますから。言い換えるのならそれは恐らく、『そんな恋もあった』……のような」
青年は瞬きをした後、静寂に一つの声を落とした。
「そう、そうか……それは、いいなぁ」
それはきっと、寂しいことだけれど。
そしてノッテは想像する。彼の女性を思う恋心と、夢に見るという可能性の未来を。
——しゃきん。軽い金属音。そして……、
彼は切られる前よりも安らかな表情を浮かべ、目を瞑って胸に手を置いた。
「あぁ、本当だ。好きだった思いは確かにあるのに、そう、本当に……ありがとう」
ノッテはそれを聞いて、ふわりと微笑んだ。
ノッテは手に持っていた鈍い金のハサミを丁寧に整え、いつもの布にくるんでポーチにしまった。これは彼女が最初に仕事を始めた時からの仕事道具であり、彼女の相棒だ。
——〈印名〉、そして職業〈夢切り〉。文字通り、夢を切る力である。




