風のたより
【秋山海斗】
美奈からの頼まれ事を引き受けた俺は、早速取り掛かろうと業務用の洗濯カゴをカラカラとひいて、屋上へ上った。
屋上には、ベッドに敷く布団やシーツがたくさん干されていて、乾いたもの全てを取り込むのが俺の仕事だ。
分量はかなり多く、一度に全てを入れるのは難しそうだ。
とりあえず、乾き具合を触って確かめ、問題なさそうなものから、綺麗に畳んでカゴに入れていく。
そして、中身がいっぱいになったら一度院内に戻り、カゴごと看護スタッフに渡し、新しいカゴをもらって再び屋上に上がる。
入った分と残りの分と比較して、あと3回はこれが繰り返されるだろう。
燦々と照り付ける太陽に一番近い場所にいて体力が蝕まれる中、俺はめげずに洗濯物を取り込んでいく。
そして、太陽と同じくらい風が強く吹き付けて、激しく揺れたシーツが何度も俺の顔に襲いかかった。
それは、ただ高い建物の屋上にいるからという理由では片づけられない程に、酷く吹き荒れていた。
おかげで、四つ折りに畳むのも一苦労だったが、何とかカゴに詰め込み、あと一枚まで漕ぎつけた。
俺は最後の一枚の乾き具合を触って確かめ、二つの洗濯バサミを同時に外す。
すると、俺が洗濯バサミを取るのを狙いすましたかのように、一筋の風が襲い掛かり、一枚のシーツを攫っていった。
空に舞い上がったシーツはひらひらと落ちていき、俺は柵のギリギリまで行って必死に手を伸ばすが、シーツは嘲笑うかのように逃げて、そのまま地上に落ちていく。
俺は仕方なく一度室内に戻り、エレベーターで一階まで降りて、落下地点に近い扉から外に出た。
そして、シーツの行方を追っていると、道の真ん中でシーツを被った人が剥がそうともがいていた。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
この場所は人が滅多に通らないと高を括っていたので、予想だにしない状況を見た俺は、急いでその人の下に駆け寄った。
「……立てますか?」
その人は自力でシーツを剥がすと、手を差し伸べる俺を見て、驚いたように目を大きく開いていた。
【春香由紀】
彼の姿を見た瞬間。
私は彼の差し伸べた手を躊躇った。
陽の光を遮る彼の顔をこれ以上直視できず、凸凹なアスファルトに視線を逃す。
「……あの、大丈夫ですか?」
彼は差し伸べた手をそのままに声をかけるが、私は一人で立ち上がり、お尻についた小石を払った。
そして、すぐにその場から立ち去ろうと足を動かしたのだが、踏み込んだ右膝に痛みが走り出した。
「いたっ……」
急激な痛みに私は膝を折り、痛んでいる箇所に目を落とす。
右膝の皮膚が剥がれて、そこから赤黒い血が一筋の線を辿って流れている。
さっき転んだ拍子にできてしまったのだろう。
すると、私の怪我に気づいた彼が、ポケットからティッシュを取り出した。
私がさっきのアルバイトで、彼に手渡したものだ。
彼はなぞるように流れる血を遡らせ、傷口の寸前で止める。
そして、別の懐から消毒液と絆創膏を取り出し、新しく引っ張ったちり紙に消毒液を染み込ませた。
本当にこの人には抜かりがない。
「痛みますよ」
彼がそう言うと、私は痛みをこらえるために全身に力を入れる。
その間、彼は消毒液を染み込ませたちり紙をポンッポンッと軽く当てて、素早く傷口に絆創膏を貼ってくれた。
「立てますか?」
立ち上がった彼は、再び私に手を差し伸べる。
身体的にもはや避けることができなくなった私は、大人しく彼の手を取り立ち上がる。
「……いたっ!」
しかし、立ち上がって歩こうとすると傷口が再び痛み出し、倒れそうになった体が彼の全身にもたれてしまった。
「ごめんなさい」
私が反射的に謝ると、彼は私の前で背中を向けて膝を折った。
「乗ってください。近くの涼しい所で休みましょう」
一挙手一投足に迷いがない立ち振る舞い。
ここまでスマートにこなされてしまっては、もはや断る隙なんてどこにもなく、私は彼の背中に身を預けた。
そこまで大きくはないのに、どこか安心する背中。
そして、彼の銀色に輝いた髪の毛からは、あの時使っていたシャンプーの甘い香りが漂っていた。
背中の温もりに浸っている間はほんの一瞬だった。
しかし、連れてこられた場所は、さっきまでいた場所とはまるで違う。
きっと、彼の背中が心地よくて、時が経つのを忘れてしまったのだろう。
彼は私をベンチに座らせると、水を買ってくると言って離れてしまった。
どこを見渡しても深い緑色しかなくて、風に揺られるたびに樹木たちは楽し気に樹体を揺らしている。
またしても、都会らしからぬ風景だ。
それでも、樹木たちが直射日光から私を守り、そよ風がしっとりした肌に触れて、体を涼ませてくれた。
少しすると、彼が二本の飲料水を持って、私の下に戻ってくる。
「どうぞ」
私は彼の言葉に甘えて水を受け取り、キャップを開けてラベルの上まで飲んだ。
彼も私の隣に座って、同様にラベルの上まで水を飲む。
お互いに落ち着いてきたら、まずは私から口を開いた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「いえ。基はといえば、俺がシーツを落としたのが原因ですし。お礼には及びません」
彼はペットボトルのラベルを綺麗に剥がし、そのまま握りつぶした。
丁寧に受け答えをする彼を見ていると、本当に何もかも忘れてしまったのだと、改めて思い知らされる。
今の彼は私と一緒にいた“海斗君”ではない。
「足の怪我もそうですけど、私をここまで運んできてくれたのも、あなたなのでしょう?」
「誰かに聞いたんですか?」
「いえ。何となく、そう思っただけです」
私は彼が貼ってくれた絆創膏を、人差し指でそっと撫でる。
「……どうして、助けてくれたのですか?」
人助けに理由なんていらない。
優しい人であれば、困っている人を見かけたら助けるなんて至極当然で、彼もそのうちの一人であるということを私は知っている。
それでも、私は訊いた。
そこに、親切心だけではない、私に向けた特別な思いがあってほしいと願うように。
しかし、彼の口からは何も出ず、視線は木漏れ日が照らしつけるアスファルトに集中していた。
何か考え込んでいるようだ。
風に揺れる樹木たちの微かな葉擦れが、私に緊張感を植え付ける。
「……助けたのは、あなたが意識を失っていたから、何とかしないといけないなって……」
彼が出した答えは、私が思っていた通り、典型的な優しい人の答えだった。
私が僅かに秘めていた期待はこれで裏切られたわけだが、とても清々しい気分だ。
――だって、これでやっと完全に諦められるのだから。
私の気持ちに区切りがつき、それと共に足の痛みも引いてきた。
もう行かなくては。
私の流浪の旅へ――。
「……でも」
ベンチに両手をついて立ち上がろうとすると、彼は小さく言葉を零した。
そして、俯いていた彼の顔が私の方へとおもむろに上がっていく。
「それ以前に、俺はあなたとお話がしたかった。だから、あなたのことを追いかけてたんです」
彼のその一言が、私を無意識にベンチへ引き戻させる。
「実は少し前まで、ここで入院してたんです。交通事故に遭ったみたいで。だけど、運良くこうして生きてますし、一緒にいてくれたみんなとも普通に話せてました」
彼はラベルを外して透明になったペットボトルの水に映る自分の姿を見て、話を続けた。
「……ただ、自分の中で何か大切なものが欠けてしまったような気がして、それがずっと見つからなくて、今も捜しているんです」
「……捜し物……ですか?」
「そうです。それはあなたの中にあると思ったから、一度お話がしたかったんです」
求めていた答えが思わぬ形で手に入ったが、私の中には安堵と不安が入り混じっていた。
きっと、彼の捜し物は私で、彼に捜し物ができてしまったのは私のせいだ。
もし、彼が全てを見つけてしまったら、拒絶するだろうか。
「それで、どうでしたか? 私とお話して、何か見つかりましたか?」
そんな不安に駆られながらも、私ははぐらかさずに向き合った。
彼が見つけたいという意思を、私が止める権利はないからだ。
すると、彼はまた思考の沼にハマるように沈み込む。
どうやら、彼にとっては“はい”か“いいえ”の簡単な答えではないようだ。
「……何というか、“触れる”ことはできた気がします」
「触れる、ですか?」
「はい。そこには間違いなく何かがあるような感触はするんですけど、視界が真っ暗でどんな色でどんな形をしているのかは分からない……みたいな」
すると、彼の瞳は自分を映していた透明な水から離れ、横で座っていた私と視線を交わした。
「だから、これからも時々こうやって、あなたとお話をしてもいいですか?」
その瞬間、穏やかだったそよ風が強く吹き付け、私の髪を後ろへと攫っていった。
まるで、彼の強い想いを乗せて、私に届ようとしているかのように。
「それは、私を頼っているということですか?」
「やっぱり、初対面の分際でこんなお願いするのは、やっぱり馴れ馴れしいですよね?」
「いや、そんなことは……」
そっか……。
彼……海斗君もいつの間にか、当たり前みたいに人に頼るようになってたんだね。
いや、私が海斗君から離れたあの時から、君は既に人の頼り方を知っていたのかもしれない。
それじゃあ、私は……。
『どう試行錯誤しようとも、一歩目は患者から歩み寄ることしかできないの』
美奈さんのあの言葉が、また頭の中を駆け巡る。
でも、今はあの時のような葛藤はなくて、純粋に話したい欲求が沸々と胸の奥から湧き出ていた。
やっぱり、自分のこれまでをどう振り返ろうとも、海斗君とのかけがえのない日々は、いつだって私の明日を照らしてくれていた。
――こんな気持ち、諦められるわけがない
そして、溶かされた氷のように、言葉が一滴一滴と零れていく。
「……実は私も捜しているものがあるんです。でも、ずっとどうすれば見つかるのか、今でも分かりません」
誰にも頼らず生きようとしても、躓いてしまった――。
特別な自分を利用して、誰かに頼りきって生きても、間違ってしまった――。
きっと、大切なのは自分ができることを見極めて、できないことだけを頼ることだったんだ。
そして、頼っていたことは、時間をかけて自分の力でできるようにする。
きっと、それを“自立”と呼ぶのだろう。
私は海斗君に頼りたい――。
でも、依存はしない――。
「だから、一緒に見つけませんか。私たちの捜し物を」
私はベンチから腰を上げ、海斗君の正面に立った。
今度は失敗しない。
私は固く心に誓い、海斗君に手を差し伸べた。
「お互いに、見つかるといいですね」
海斗君はそう言うと、そっと私の手を取る。
その温もりは、その柔らかさは、あの日々から変わらずにずっと残っていた。
彼の捜し物はそんな変わらないものを一つずつ拾っていけば、いつか見つかる日が来るのだろうか。
そして、私の捜し物は……。
こうして、私たちは希望と不安を抱えながら、また一緒の道を歩みだす。
そんな私たちの新しい一歩目を、青い空は祝福してくれていた。




