仮の宿と優しい匂い
~old memories~
【寂しい少女】
暖色の光を放つ電気スタンドが、ぼんやりと影を作る部屋。
名前なんてとうに忘れてしまった彼の唇と、無防備な体が密着している感覚だけが残る。
「……愛してるよ」
私の事なんて本当はどうだっていいくせに、優しい人を演じるように私の耳元で囁く彼。
「ん……」
その彼に応えるように、私も目いっぱい笑顔を作って演じてみせた。
嘘に満ち溢れた空間。
でも、私はそんなことどうでもよかった。
誰がどんな想いでしていようと、この夜の私は世界で1番愛されている気でいられたから。
その感覚が、汚れた記憶を拭い去ってくれる気がしたから――。
◇
【春香由紀】
『なかなか起きないね』
『大丈夫かな?』
天使のような声が聞こえる。
ついに私も遠い国にまで辿り着いてしまったのだろうかと、閉じていた目を開けると小さな男の子と女の子が私の顔をじっと見ていた。
「あっ! やっと起きた!」
「おにいちゃん! おねえちゃんが起きた!」
目を開けた私を見ると、二人は叫びながらどこかに行ってしまった。
ガンガンする頭を、手で抑えながら起き上がる。
見回すと白を基調としたシンプルな内装で、とても清潔感を感じる部屋にいた。
私はその部屋の真っ白なベッドで、眠っていたようだ。
丁寧に毛布までかけられている。
そして、自分の体に視線を落とすと、誰かの婦人服を身に纏っていることに気づいた。
服から香る甘い匂いに誘われるように、私は服に顔をうずめる。
「おっ、目が覚めたか」
湯気の立ったココアを右手に持って現れたのは、陽炎君だった。
後ろには先程の男の子と女の子が、陽炎君の足に隠れている。
「か、陽炎君!? じゃあここって……」
「俺の家だ」
有耶無耶になっていた記憶が鮮明に蘇る。
「ごめんなさい……陽炎君まで巻き込んじゃって」
「気にすんな。兄貴に頼まれただけのことだ」
「海斗君が?」
「ああ、あんたを探してほしいって兄貴から電話が来たんだ。あの日、電話番号教えといて正解だったな」
そう言って、陽炎君は暖かいココアを私に手渡し、「ありがとう」と陽炎君に言ってカップを両手で包み込んで温まった。
すると、陽炎君の陰に隠れていた女の子が私の元に駆け寄り、私の着ている服に指を指す。
「そのお洋服、わたしが着せてあげたんだよ!」
元気な子供と話すのは初めてでどう返していいか分からず、とりあえず「ありがとね」とだけ言って頭を撫でてみた。
すると、女の子は満足そうに無邪気な笑顔を見せ、私に抱き着いてきた。
なんというか、私もこの生き物を抱き返したくなる……。
大人サイズの緑色のチュニックは、丁度良く膝まで覆い隠してくれていて、普段制服しか着ない私にとってとても新鮮な着心地だった。
「流石に着替えまでは面倒見れねぇからな。咲がいてくれて助かった」
「咲……?」
「あんたに抱き着いてるのが妹の咲。そんで俺の足元に隠れてるのが弟の玲。双子だ」
「どうも」
玲君は咲ちゃんとは対照的に警戒しながら、近づいて挨拶する。
私もそれに倣うように、「こんにちは」と小さく会釈する。
こうして三人を見比べてみると、髪の色や目元は陽炎君だけかけ離れているように見えた。
「おにいちゃんあそんで!」
咲ちゃんがいつの間にか私から離れて、陽炎君の手を引っ張っていた。
「わりぃな咲。兄ちゃん今からこのお姉ちゃんと話さなきゃならねぇんだよ」
「にいちゃん、お腹空いた」
今度は玲君が裾を引っ張って、陽炎君に突っかかる。
「あとで作るからちょっと待ってろ」
「えー、おにいちゃんの美味しくないからやだー!」
咲ちゃんが膨れ上がって不満を零す。
「なっ! 兄ちゃんだって頑張ってんだぞ!」
「「やだやだー!」」
今度は二人で陽炎君の腕を引っ張り合って、駄々をこねる。
「あーこら文句言うな!」
小さな双子に手を焼いている陽炎君。
そんな微笑ましい姿に、私の顔は静かに緩んだ。
騒がしくて、それだけ退屈しない空間。
私にもこんな空間があったのなら……。
涼花の時と同じような憧憬とも嫉みともとれる感情が、胸の中をかき乱していた。
すると、咲ちゃんが何かひらめいたように、陽炎君から私の腕に乗り移った。
「そうだ! おねえちゃんに作ってもらおうよ!」
「……えっ?」
咲ちゃんの唐突な提案に、間が抜けた声が出てしまった。
「咲! 客人に頼ろうとするんじゃない!」
「でも、おねえちゃん大人の女の人だから、きっとお料理もおにいちゃんよりおいしいよ?」
「言ったな! じゃあ、咲もそこのお姉ちゃんくらいの歳になったら一人でも作れるんだな!」
「咲はずっと子供のままでいるから、お料理なんてしないもん!」
咲ちゃんは起り気味に、頬を膨らませる。
「人間十八年も生きれてば、嫌でも大人になるんだよ。残念だったな!」
そう言って咲ちゃんの膨らませた頬に、人差し指を差して破裂させた。
「にいちゃん俺もう限界だよ~。早く作ってもらおうよ~」
玲君も鳴ったお腹をさすって、陽炎君に懇願する。
「玲まで……」
子供にここまでわがままを言われては、もう引き下がれない。
私は意を決して、ベッドから立ち上がった。
「陽炎君、冷蔵庫見せてもらっていいかな?」
「……いいのか?」
陽炎君が私に心配そうな顔を見せる。
「助けてもらったお礼もしないとだから」
陽炎君は二人の顔を窺って、仕方ないとため息をつく。
「わりぃな。そんじゃ任せた」
陽炎君にリビングまで案内してもらい、かごに入っている野菜や冷蔵庫の中を確認した。
ニンジン、玉ねぎ、鶏肉、卵、ケチャップにお米。
この品揃えで浮かぶ料理は一つしかない。
献立が決まったので、すぐにエプロンをつけて手を洗う。
まずはしっかりと猫の手を作って、野菜たちを細かく切っていく。
その時私の手に白くてか細い手が、野菜を抑えている手を包み込んでいる景色が頭の中を過った。
海斗君は今頃何どうしているんだろう……。
次第に野菜を切る速さが落ちていく。
「大丈夫か?」
横から陽炎君がやってきて、キッチンカウンターにもたれかかる。
「ご、ごめん」
「兄貴のこと考えてたのか?」
「うん……」
「心配すんな。もうじきこっちに来るはずだ」
「海斗君はここ知ってるの?」
「何度か来てくれたことがある。あの人頭良いから、道くらい覚えてんだろ」
そう言って陽炎君は得意げに、自分の頭を人差し指でつつく。
確かに海斗君なら容易くたどり着けそうだと、海斗君と過ごした日々がそう告げている。
でも、また海斗君と会えるかもしれないというのに、私の心は不安の一色で染め上げられていた。
美奈さんからあれだけ怒られたというのに、ここまで私にかまおうとする意図が全く見えない。
重荷にしかなってない私をどうしてここまで……。
「そんなら兄貴の分も作っとかないとな!」
「……そうだね」
不安一色の私とは対照的に陽炎君は気分良さげに腕を伸ばし、もたれかかっていたカウンターから離れ、内釜を取り出した。
「米くらいは炊けるから、あんたはそれ以外を頼む」
「ありがとう」
陽炎君の助力もあって、私が初めてちゃんと作ったオムライスが出来上がった。
お腹を空かせた双子は椅子に飛び乗り、手を合わせるとオムライスをがっつく。
「ん~、美味しい~」
慌てて食べていた咲ちゃんの口の周りには、ケチャップが付いていた。
「急いで食べなくても取らないから」
そう言って私は近くにあったティッシュペーパーを取り、咲ちゃんの口の周りを拭く。
「おねぇちゃん、なんだかお母さんみたいだね」
咲ちゃんにそう言われて、私の頭の中に疑問符がつく。
「お母さん?」
「うん! 咲のお母さん、いつもこうやって拭いてくれるの!」
「そ、そうなんだ……」
無知な私はどう表情に映せばいいか分からず、スプーンを持っていた手が止まる。
母親ってこんな感じなんだ――。
「おねえちゃん大丈夫?」
咲ちゃんが首をかしげて案じる。
「大丈夫だよ」
そう言って安心させるように頭を撫でてあげると、咲ちゃんは満面の笑みを咲かせた。
いつしか見た他人の母親を真似してみたけれど、された側は相手が私だったとしてもこんなにも幸せに感じることを初めて知った。




