9話 霧山さんのお家
大変なことになってしまった。Xガール候補に家にお呼ばれしてしまうとは。
心臓が早鐘を打つように……というかモロに早鐘を打っている。
……どうしよう。
部室に残っているのは、俺と霧山さんだけ。
チラと霧山さんの表情を盗み見ると、少し俯いてしまっている。
恥ずかしがっているんだろうか。
……だといいんだが。
荒れる息を抑えながら、霧山さんと目を合わせないように尋ねてみる。
「えと……いきなりお邪魔しちゃって迷惑じゃないかな」
「あ、大丈夫ですよ。今日はお母さんもお父さんも帰ってくるの遅くなるので」
……余計に大丈夫じゃないような気が。
「あっ……そういう意味じゃなくて……ご、ごめんなさい」
そういう意味って、どういう意味だろう。でもそういう意味ではないらしい。
俺が言葉に詰まっていると、
「えと……私、里島さんと話したい事があって。それに、里島さんともっと仲良くなりたくて」
霧山さんは、俺と仲良くなりたがってくれているのか。
どういう意味で仲良くなりたいかは分からないが、例え友達的な意味でも嬉しい。
「俺も、霧山さんともっと仲良くなりたいよ」
「あ、ありがとうございます!」
胸が高鳴るのを感じながら、霧山さんと連れ立って駐輪場に向かった。
「里島さんは歩きなんですね。後ろ乗っていいですよ」
とても魅力的な提案ではあるが……
「校則違反だし走って行くよ。停学になった人もいるみたいだし」
「怖いですね……」
大げさに声を震わせながらも、霧山さんは自転車を曳いて歩いていく。
「ああ、霧山さんは漕いでもいいよ。走りたい気分だし」
「じゃあ、ゆっくり行きますね」
銀のママチャリをゆっくり漕ぐ霧山さんを、軽く走って追いかけて行く。胸の高鳴りと息音と共に、慣れない道が心地よく流れて行く。
「何かアレみたいですね。……鬼コーチとボクサーみたいです」
俺と霧山さんの笑い声が混ざり合って、軽やかに響いた。
「待ってくださいコーチー」
「あと少しですよ里島さん! 頑張ってください!」
変なテンションのままに、全速力で霧山さんの自転車を追い越し、また追い越された。
額に汗がうっすら滲んでくる。
……これが俺の青春か。悪くないな。
流れる汗を青のハンカチで拭いながらも、俺は霧山さんと走り続けた。
◇
「ここです」
小さいながらも洒落た和風庭園の先に、瓦屋根の古びた木造建築が佇んでいる。
木目が浮き出た赤茶けた表札には「霧山」の黒い筆文字。
霧山さんの家に来てしまった事実を改めて実感させられる。
そして、引き戸の開く音。
引き戸の向こうに目線を向けると、内装も板張りで古風な感じだ。
「どうぞ! いらっしゃいませ!」
「……おじゃまします」
怖気づく心に活を入れつつも、促されるままに敷居を跨いだ。
女子の家にお邪魔する童貞、卒業完了。
「私の部屋は二階です」
狭い階段を登って行く霧山さんの後姿に、思わず声が漏れそうになった。
……霧山さんは……おしりも結構大きいな。それに柔らかそうだ。
……おっといかん。霧山さんは「そういう意味ではない」と言っていたではないか。心頭滅却だ。
……まあ、万が一の為に「そういう道具」の準備はしてあるが。
してあるが……それはともかく、今は心頭滅却だ。
下心のある男はモテないって長谷村も言ってたし。
そして階段を登り切り、促されるままに霧山さんの部屋に入り込む。
図書室みたいな部屋、というのが第一印象だった。赤絨毯の部屋の壁沿いには殆ど隙間なく大きな本棚が並んでいる。
それにしても壮観だ……。本棚にビッシリ詰め込まれた本の背表紙には、古今東西のミステリー小説が文字通り名を連ねている。
その中でも俺の目を引いたのは、青いカーテンの傍に立つガラス扉の本棚だった。
ホームズ全集。江戸川乱歩全集。少年探偵団シリーズまである。下の段には、『オリエント急行の殺人』、『そして誰もいなくなった』等、アガサ・クリスティの名作も揃っている。
「す、すごい!」
「すごいでしょう?」
霧山さんは満面の笑みで、自慢げに大きな胸を張っている。
「これ全部、お父さんがくれたんです」
「へぇ、霧山さんのお父さんは、どんな人?」
……怖い人じゃないといいんだけど。
「推理小説が大好きで、とっても優しいですよ」
「ヒゲは?」
「ヒゲ? 全然生えてませんよ」
思わず胸を撫でおろしていた。
和風な家の大黒柱といったら、着物とか着ていて、鼻ヒゲがすごくて、滅茶苦茶厳しい人なイメージがある。
ヒゲが生えてないなら、万が一俺のような軟弱者が霧山さんと恋仲になったとしても、日本刀を振り回して襲ってくるような事態にはならないだろう。……多分。
少し安心しながらもまた部屋を見回して見ると、ベッドの傍の本棚もすごかった。
『ドグラ・マグラ』や『黒死館殺人事件』といったキワモノのアンチミステリーまであるとは……。
しかし……こう眺めてみると女子高生の部屋にはとても見えないな。
ピンク色のベッドカバーに、可愛いタヌキのぬいぐるみが寝そべっているのが唯一の手心に感じられる。
「ごめんなさい散らかってて」
「大丈夫、全然散らかっていないよ」
ふと、着替えやノートが並んだ本棚に目が留まった。
どうやら生活用品まで本棚に入れ込んでいるらしい。
しかし……下の段の黒い籠。大き目のブラジャーが見えてしまっているが、そこは大丈夫なのだろうか。
「あっ、ごめんなさい! えっと……ああどうしよう! えっと……」
「大丈夫。何も見てないから」
「ご、ごめんなさい……ちょっと外で待っててください……」
俺は紳士なので、慌てふためく霧山さんと目を合わせないように部屋を出る。
それにしても……大きいブラジャーだったな。黒のレースだった。
霧山さんが黒とは意外だ。何となく白だと思っていたんだが。
でも、黒も逆にいいなあ。
……うっ……まずい。落ち着こう。こういう時は蝋燭の炎を心に思い浮かべて……深く深呼吸だ。
そんな感じで部屋の外で暫く悶々としていると、扉が開く。
「……どうぞ……入ってください」
部屋に戻ると、霧山さんは耳まで真っ赤になっていた。
なんだか申し訳ない。
「……えっと、ごめんね」
「いえ……こちらこそごめんなさい」
よし、話題を変えよう。
「霧山さんって、ウクレレ弾けるんだよね」
「はい! 弾けますよ! 弾いてみましょうか」
「うん」
「あ、ベッドに座っていいですよ」
いいんだろうか。女の子のベッドに座るのって、ものすごくいけない事な気がするが。
まあ、霧山さんがいいと言っているからいいんだろう。
座ってみると、俺の部屋のベッドより心なしか柔らかいような気がする。
やがて、霧山さんが本棚からウクレレを取り出し、俺の右隣りに座り込む。そして大きな胸の下に小さなウクレレを携える。
そして……
余韻の短い、ウクレレ特有の可愛らしく軽やかな響きが流れ出す。……まるで霧山さんみたいな音色だ。
テンポはゆっくりだが、メロディも奏でている……ソロ演奏って奴だろうか。
……というか、すごく上手いんだが。
丸っこい指を巧みに捌いて、難しそうなコードも難なくこなしていく。
流れて来るのは、ゴキゲンながらもどこか切ないメロディ。
聴いた事が無い曲だ。古い曲だろうか。
……やがて演奏が終わって、思わず手を叩いていた。
「うまいね。びっくりしちゃった」
「ありがとうございます!」
少しドヤ顔になっているのが微笑ましい。
「霧山さん」
「は、はいっ!」
灰色の不思議な瞳を開け広げて、俺をじっと見つめている。
やはり、霧山さんも緊張しているようだ。何故だか嬉しくて堪らなくなる。
軽く口元を緩めながらも、俺は尋ねる。
「霧山さん。何か話があるとか言ってたけど……何かな?」
「ああ……はい。実はですね……私……その……何て言うか……」
何だろう。
「私、もっと普通になりたいんです」
普通……か。
「私、明日香さんに『霧山さんみたいにもっと特別になりたい』って相談されて、力になりたいと思って、明日香さんの師匠になったんです」
「師匠?」
「はい。特別師匠になったんです」
特別師匠とは……また特別な響きだな。でもこれで納得がいった。
「だからあんなに張り切って怪盗になってくれたりしたんだ」
「そうなんです。その節はありがとうございました。楽しかったです。……でも、明日香さんと話している内に、私改めて思っちゃったんです。……私って、変な子だなって」
何と返せばいいのだろう。正直、霧山さんが変わっているのは確かだし。
「私、もっと普通の子になりたいんです。失礼かもしれませんが……明日香さんみたいになりたいんです」
「もしかして推理部に誘った時、入るかどうか悩んでたのもそのせい?」
「そうかもしれません……」
「なんかごめんね」
「いえ、推理部の活動はとても楽しいです。誘ってくれたのも嬉しいです。ただ、もう少しだけ普通の女の子になりたいんです」
一昔前のアイドル歌手みたいな事を言うなあ。
……何と返そうか。
俺がイケメンならここで「俺はそんな特別な霧山さんが好きだよ……」とかイケボで囁くんだが、生憎俺はイケメンではない。
「そうだ、明日香に師匠になって貰ったらどうかな? 普通師匠にさ」
「……なるほど、相互師弟関係ですか! 名案ですね!」
どうやら名案だったようだ。
「まあ、あまり気負わずに頑張ってよ」
「はい。程々に頑張ります!」
目を合わせるでもなく、沈黙が流れていく。しかし、気まずいという事は無かった。むしろ霧山さんが隣にいるというだけで、不思議と心が落ち着いてくる。
しかし、霧山さんは大丈夫だろうか。……緊張したりしていないだろうか。
そっと目をやってみると、灰色の瞳がじっと見上げてくる。
「あの……里島さん……」
「なに?」
「普通の女の子って……男の子と部屋で二人きりになったら何するんでしょう」
「えっと……」
そんな事言われても……。
「……あっ、変な意味じゃないです! ……変な意味じゃないですけど」
男の子と女の子が部屋で二人きりになってする事。女子の家にお邪魔する童貞を卒業したばかりの俺には、いくら考えても何も思い浮かばない。……それこそいかがわしい行為しか。
「……里島さん」
霧山さんは耳まで真っ赤になってしまっている。俺も多分真っ赤だ。
このままじゃまずい。考えろ。考えるんだ。俺は……探偵だ!
「あの……あれだ! イヤホンを片耳ずつ付けて一緒に音楽聴くとか!」
「あ、いいですね。すごく普通っぽいです!」
よし、何とかなった。
「はい、どうぞ」
古びた音楽プレイヤーから伸びた白いイヤホン。その片方を受け取る。
……先ほど霧山さんが口ずさんだメロディが、左耳に広がって行く。
メロディこそ同じだが、シンセサイザーを多用したその曲は、ウクレレのソロ演奏とは受ける印象がまた違った。
大袈裟なまでに都会的で、楽しげな浮遊感のある雰囲気。大人びたムーディでメロウなメロディ。
「これ……なんて曲?」
「松原みきさんの、『真夜中のドアSTAY WITH ME』です。シティポップっていうジャンルの曲ですね。私、シティポップ大好きで……推理小説読みながらよく聴いてるんです」
やがて流れ出す次の曲。メロディは違うが、やはり雰囲気は似ている。
……これがシティポップか。
これは、何ていうんだろう。
「……あれだ、なんか……バブリーな感じがするね」
「はい。八〇年代くらいに流行っていたそうなので、大体その時期ですかね」
俺が生まれる以前の遠い昔……かつてこの国に存在したという好景気。万札を振ってタクシーを呼び止めただの、1億円でマンション買ったら次の日2億円で売れただの、ディスコで踊り明かしただの……当時の浮世離れしたよもやま話を聞かされても、俺にはとても現実の話とは思えなかった。
しかし、この曲を聴いて少しだけ腑に落ちた気がする。
あの時代を生きた人たちは、確かに存在して生きていたんだ。……こんな曲を聴きながら、東西冷戦に怯えたりしながらも、未来にぼんやりした希望を抱いていたんだろう。
……今の俺みたいに。
「俺もシティポップ、好きかも」
「そうですか……良かったです」
どこか浮ついたような、無邪気な希望に底打ちされたようなメロディ。
一方で、アンニュイな歌声からは、祭りの終わりの様な不思議な哀愁も感じられる。
……霧山さんが、こんな大人びた曲を聴くとは。
霧山さんの事が益々分からなくなってきた。
そっと霧山さんの横顔を伺って、思わず目を見張ってしまう。
優しげな、落ち着いた微笑み。見違える程大人びて見える。
「…………」
灰色の瞳が、確かに俺に焦点を当てている。
見つめ返すと、落ち着くような、胸が高鳴るような不思議な感覚があった。
体が溶けて、瞳の奥に吸い込まれていく。ふわふわと心地よい寒気がする。
流れていた歌声が、徐々にフェードアウトしていく。
「あの、里島さん」
なんだろう。
「あの、もし良かったらでいいんですけど……」
「うん」
「喉ぼとけ、触っていいですか?」
照れくさそうな小さな声が、頭の中で反響していく。
「いいよ」
他人事のように答えながらも、白々しい疑念が湧き上がってくる。
一体……どうしてなんだろう。
……どうして、霧山さんは俺の喉ぼとけを触りたがっているのだろう。
その行為をする事で、霧山さんに何かメリットがあるという事だろうか。
だとしたら、俺としてはとても嬉しいのだが。
「……じゃあ、失礼します」
心臓の音が霧山さんにバレそうな程高鳴っている。そっと、霧山さんの手が伸びて来る。
霧山さんの微かな呼吸音が、はっきりと俺の鼓膜を揺らす。
注射される時みたいな気分だ。でも、嫌な感じではない。
怖いような、楽しみなような、不思議な感じだ。
いよいよ……霧山さんの指先が視界の下端に消える。
俺は多分、泣き笑いみたいな変な表情になっている。
そして……柔らかな感触が首元に触れた。
包み込むように、そっと撫でてくる。
……すぐに離れてしまった。もっと触ってもいいのに。
「あ、ありがとうございます」
「……どういたしまして」
――何てことだ……何なんだろう、これは。夢なのか?
「里島さん……」
「何?」
「初めての活動の時、里島さんは包丁事件を解決したんですよね……」
「……ま、まあ。そんな事もあったねえ」
否定したほうがいいのかも知れないが、今は霧山さんに嘘をつきたくなかった。
「里島さんは……ほかにも陰で事件を解決したりしてるんですか?」
「……何回かはあるかな」
「すごいです。私、そういうのすごく憧れちゃって……私も里島さんみたいに、体を張って誰かを守れるようになりたいんです。それで、最近護身術の勉強もしてます」
「無茶だけはしないでね。護身術の本質は、戦う事じゃなくて危険から逃げる事だから。師匠の受け売りだけどね」
「はい……」
再び流れ出すシティポップの浮遊感のせいで、霧山さんとの会話に今一つ現実感が無い。現実感が無いままに、ただただ夢のように心地よい時間が過ぎて行く。
……まずいな……こんな曲を聴いていたら、うっかりキスとかしてしまいそうだ。
流石にそれはまだ早い……気がする。
「あの……里島さん」
「なに?」
「もし人の心が読めたら、里島さんはどうしますか?」
「…………」
「私、人からどう思われてるかどうしても気になっちゃって……」
霧山さんは恥ずかし気に俯いたまま、小さな声を零した。俺の力に気付いたという訳では無さそうだ。
「きっと、分からないままの方がいい事もあるよ。それに、人の心を勝手に読むなんて、ちょっとズルいかも」
「そう……かも知れませんね」
自嘲を打ち消すように、俺はそっと唇を噛んだ。
「じゃあ、俺そろそろ帰るから」
「はい! 今日はありがとうございました」
霧山さんは、何故だかほっとしているようにも見えた。
……俺はあまり信用されていないのだろうか。
「じゃあね、霧山さん。楽しかったよ」
「さようなら!」