奥様のおおせのままに
招待カードはすべて発送し終えた。もう後戻りはできない。パーティーの流れを詰めたり、料理長と晩餐のメニューを相談したりするうちに両家からの返答が届いた。
夫の家からは義父母、私の家からは父母、そして姉二人が招待を受けると返事をしてきた。正直、姉二人は子どもも小さいのでこちらには来ないと思っていたのだが、おおかた野次馬根性で顔を出すつもりなのだろう。特に上の姉。
「……お義兄さまたちはどちらも先約があったから行けないみたい。晩餐の席順を考え直さないと」
「問題ございませんわ。お姉さま方のエスコートは男性お二人に女性二人ずつお任せする形にしましょう」
「ええ。それならお義父さまには下の姉をお願いしてみようかしら。たしか、家同士でもお付き合いがあったはずだから気まずくもならないでしょうし」
「かしこまりました。そのようにいたします」
「ありがとう、イザベル」
家政婦は「当然のことでございますわ」とさらっとした反応だが、これほど力強い味方もそうそういない。
執事との奇妙な冷戦状態はまだ続いている。彼は私のことも含め、きちんと仕事はこなすけれども、当たり障りのない表面的な付き合いに留めている。
夫が執事に事情を尋ねると約束してから三日目の夜。晩餐の後、彼が私の部屋を訪れた。話があるというからきっと執事の件だとすぐにわかった。
ベッドに腰かけた彼は隣に私を座らせるとそのまま口火を切る。
「マティルダ。今もリチャードの態度は変わっていない?」
「私の知る限り、変わっていません」
「うん。……これ以上、悪化するようならしかるべき対処も考えなくてはならないな」
「リチャードを辞めさせるのですか?」
「そう」
話が一足飛びになった気がしてどきりとした。執事の仕事ぶりはあいかわらず完璧だ。私への態度のみでもって彼の生活もかかった仕事を奪うことは妥当なのか。
「あなたはリチャードをとても頼りにしていたでしょう?」
「君がやりにくいのでは意味がないじゃないか。家の女主人を尊重できないことは、仕事ができないよりも致命的だよ」
「イザベルにはどう話をするのですか」
「ありのままを。あとは彼女の判断に委ねるしかない」
どんどん話が具体的になるにつれ、私の中で「これでいいのか」という疑問が広がった。そういえば、私は面と向かってリチャードに態度の理由を問いただしたことはなかった。
「リチャードはなぜあんな態度を取っていたのですか? 尋ねてくれるとおっしゃっていましたよね」
「うん。聞いてみたよ。でも彼もなかなか本音を言わない人だった。十答えるべきところを当たり障りのない一しか話してくれない。普段ならばそれでいいが、こういうときに腹割って話してもらわないと困る」
「……私、リチャードに訊ねてみようと思います」
「君が?」
「辞めてもらうにしろ、後悔のないようにしたい。正面からいってどうにもならなかったら、諦めもつきます」
主人の不在の間も彼は仕事に手を抜かなかった。彼が担当する銀食器はいつも一つの曇りもなく磨かれていたし、私が対処に困った来客の応対を手助けし、家の窓ガラスにひびが入っていたのをいち早く気づいて修理を手配したのも彼だ。
「……まだリチャードは起きていますよね」
「今から行くつもり?」
彼がマントルピースの置時計を指さした。午後十時。夜も更けてきたけれど、執事はきっと起きている。
「今聞かないと、明日にはまた聞きにくくなってしまいますから」
「僕も行こうか?」
「大丈夫です。もう二人で話し合われたのなら、今度はあなたのいないところで聞いてみた方がいいです」
「そうか。なら僕はおとなしく部屋で待っていることにする」
彼はそのまま後ろへ倒れ込んだ。私のベッドに。
「ここで?」
「ここで。このベッドのスプリングが気に入ったんだ」
「いいですけれど。くれぐれも、本棚はいじらないでくださいね」
「僕もさすがにそこまで無神経じゃない」
執事は使用人用の小さめの食堂で銀食器を磨いていた。オイルランプと、安めの酒瓶がテーブルに並んでいる。彼は私が階段を下りてくる音に気付いて顔を上げる。
「リチャード。お話があります」
「奥様。今日は夜遅いですから明日にいたしましょう」
「明日になったら話を聞いてくれる?」
彼は無言を貫いた。それが彼なりの誠実な対応なのだろう。
私は勝手に彼の正面の椅子に腰かけた。
「ここのところ、とてもやりにくいの。リチャードが何を考えているのかまったくわからないわ」
「奥様はわたくしめのことなどより、パーティーの準備に集中された方がよろしいかと存じます。そしてこのようなところにいらっしゃってはなりません」
「準備はイザベルに手伝ってもらっているから順調よ。問題があるのはリチャードの方だわ。この家ではただでさえ使用人が少ないのに、その中で上手くやっていくにはあなたの助けは不可欠なの。……今までは上手くやっていけていた。私の、何が問題?」
執事は磨きの手を止めて、困ったと言いたげな顔をする。
「奥様はお若いですね。てらいもなく直にお聞きになる。ご自分が傷つくことなど考えてもいらっしゃらない。……わたくしが本音を言いましたら傷つかれるのは奥様ばかりではないのです」
「どういうこと?」
「わたくしは自分の手でよってお屋敷が居心地のよい空間に変わっていくのを喜びとし、またその理想のために生きてまいりました。それを壊すような真似を自ら行うことは、誇りにかけてもできないということです」
彼の表現は婉曲的でわかりにくく、自分の頭では咀嚼しきれない。しかし、さすがに次の彼の言葉の意味は取り損ねなかった。
「奥様。旦那様に紹介状を書いていただけるようにお伝えください。次の勤め先を得るために必要になりますので」
なんで。ふたたび問い返すこともできなかった。
部屋に戻ったあと、夫に事の次第を報告したけれども「そうか」と言ったきり何かを思案している様子だ。胸の奥がもやもやする中にも日々は過ぎ、とうとうパーティーの日がやってきた。
当日の夕方、両家の馬車が我が家の門前に留められ、着飾った男女が下りてくる。
「お招きありがとうございます」
アドルファスと握手したのは私の父。社交的に卒がない。母は父に倣って私と握手をしたけれども含みのある笑顔なので油断ができない。
父と母のうしろには姉二人が続く。澄ました顔の姉と穏やかな顔の姉は女主人として表玄関先に立つ私をどう思ったのかわからないが、とりあえず何も言わないで無難に挨拶を済ませた。
後に到着したのは夫の家族だ。サルマン伯爵夫妻は私に親しみのこもった笑みを向けてくれたのでこちらもほっとする。
アドルファスの兄は夫から神経質さを抜いて、朗らかさと育ちの良さを足した人物で、私にも丁寧に接してくれるからやりやすい。
招待客を客間へ案内する。婦人はトワレットと呼ばれる身支度するための部屋を必要とすることもあるので、その場所も伝える。
女性は外套を脱ぎ、時には外出用のドレスも着替えるため、晩餐に至るまで時間がかかる。その間に、私は階下に下りて、使用人たちと最後の段取りの相談を済ませておく。特に今回は余所から臨時の使用人も雇入れたので打合せも念入りに行った。
「こちらは大丈夫ですわ。そろそろ奥様のご準備もしませんと。髪型が少し乱れておりますわ。時間がございませんからわたくしの部屋まで来ていただけませんか?」
すぐに家政婦の部屋に行き、鏡の前で再度、支度を点検する。ターコイズブルーに白い小花を散らした柄のイブニングドレスは大きく胸元が開き、デコルテ部分が露わになっている。
「ここでは少し寒いわね」
「上はしっかり暖炉で温めておりますので快適です。お客様もきっと満足されておりますわ」
彼女は手早く崩れた髪型を櫛で器用に整えてしまう。最後に鏡越しに目と目が合った。
「奥様。今日のことで他に何かご不安なことはございませんか?」
「たくさん段取りの練習をしたから大丈夫だと思う。アドルファスのご家族はともかく私の母と姉が納得してもらえばこのパーティーは成功したも同然ね」
「わたくしから見ても奥様は最善を尽くされていました。困ったことがあれば旦那様に頼ってくださいませ。きっと助けてくださいます」
「そうかな?」
「奥様が納得されるまで何度もパーティーの練習に付き合ってくださったではありませんか。奥様は十分に愛されておいでです」
「そうかなぁ」
なんだかんだと人がいいから責任を感じて付き合ってくれているような気もする。大体こういうときの彼は表情がわかりにくいので見ているこちらも首を傾げてしまう。
「でも気にかけてもらえているならうれしい、ね」
「奥様。もう『お忘れ物』はございませんね?」
「うん」
階下と階上を繋ぐ階段の傍で、夫が待っていた。前髪をうしろに撫でつけ、燕尾服を着こなした姿は知人時代を思い出させた。でも今はもうお互いの立場は知人以上に近くなった。
「お待たせしました」
「うん、待っていた。もう万全?」
「もちろん」
夫と腕を組むのも慣れて来た。この調子で夫の存在が自分の身に馴染んでいくのだろうと最近、肌感覚で感じる。そこに嫌悪感はまるでないのだから私は夫のことを同居人ぐらいには親しみを持っているのかもしれない。
「今夜の目的は忘れていないか?」
「覚えていますよ。ちゃんと夫婦がやっていけていることを見せることでしょう?」
「うん。お互いにそれらしい振る舞いが必要だ」
言葉に含みを持たせる夫。これは宣戦布告と見た。受けて立つ。
「ええ。しっかりべったりアドルファスにくっついていればいいのでしょう? アドルファスも合わせてくださいね。とろけそうな眼差しをお願いします」
「僕がそれをやったら正気を疑われるよ。柄じゃない」
「柄ではないからこそぐっとくるのですよ」
その時。執事がやってきて「そろそろお時間です」と告げる。私たちは顔を見合わせて。
「そろそろ行こう」
「はい。でも少しだけ待って」
俯き顔の執事の前に立つ。私と彼との間にはいまだ透明な壁が阻んでいる。自分を拒絶しているとわかっていながら話しかけるのはとても勇気がいる。だが今逃したらもう言えないと思った。
「リチャード」
私が名前を呼んだところで執事は何の反応を示さない。わかっていたけれど、心がぽきりと折れそうになる。
しかし、彼は今までとてもよくしてくれた。主人が不在のこの家を支えてくれていた人だった。そこに対する感謝は決して揺るがない。
「今晩が最後だと聞いたの。今までありがとう。あなたのおかげで夫が不在の間も楽しい生活ができました。今夜も完璧な給仕をお願いします」
石のようだった執事はぴくりと体を震わせ、「かしこまりました」と深々と礼を取る。
「奥様のおおせのままに」




