大事なものはどこに仕舞う?
パーティーはつつがなく進行し、終わった。迎えに来た馬車に招待客は次々と乗り込んでいくのを眺めながら一つの仕事をやり切れた達成感を味わう。
「お疲れ様でした」
「君の方こそよく頑張っていたじゃないか。そのおかげで僕は君のフォローにまわるだけで済んだ。正直、もっと手間取ると思っていたんだよ」
「その分、たくさん考えて疲れました。しばらくパーティーは無しでいいです」
「違いない」
客人が去り、凍える屋外から中に入ると、正面に見慣れぬ台がある。その上には小さな花束が置かれている。造花の薔薇で作った花束を夫は手にとり、私へ差し出した。
「これは?」
「今回の君の頑張りに敬意を表して贈り物をしようと思ったんだ。季節柄、薔薇が見つからなかったから造花になってしまったが」
「そんな……」
受け取った。どうしよう。思っていたよりも嬉しくて、顔がにやけてしまいそう。
ごく自然と彼と目が合い、以前から打ち合わせていたように彼の頬へ感謝のキスを贈った。そうしたいと心から思った。
「あなたから何かをもらうのは初めてですね」
「うん」
「ありがとうございます」
「うん」
「……恥ずかしがってます?」
「それは君の方だと思う」
慣れないことをした、と夫は明後日を向いた。
「昔、薔薇を欲しがっていたから……」
小さく呟かれた言葉に一拍置いて、思い至った。そうだ、彼は私が薔薇の花束を欲しがっていたことを知っている。かつての私が抱いていたロマンチックな願望だった。叶わないと思って封じ込めた夢だった。それがこんな形でやってくるなんて。
造花でもいい。贈りたいと思ったその心が嬉しいのだから。
造花の花束を持って自室に戻った。寝る準備をはじめていると、ノックとともに家政婦が入ってくる。彼女の表情は暗さを帯びていた。
「奥様。お願いがあって参りました。リチャードのことです。どうか彼のために明日の朝、見送っていただけないでしょうか」
彼は夫の紹介ですぐに別の家で執事をすることが決まっている。汽車に乗るぐらいの遠方だが、使用人を数十人抱える大きな屋敷だという。彼自身の本領も発揮できるだろう。
「そうしたいけれど、彼は嫌がると思うわ。リチャードはきっと私が頼りないからあんな態度を取っているだろうし……」
「違いますわ、奥様。全然、まったく、違うのです。わたくしは彼のことを長年友人として見て参りました。ですが、彼は自分を隠すのがとても巧いので彼の本心は見通せるものでもございませんでした。さきほど、彼自身の口からようやく吐き出させたのです」
彼女は珍しく感情をあらわに言い募る。
「リチャードは何と言っていたの」
「奥様。その前にお約束ください。……わたくしがこれから何を話そうとも、リチャードは奥様にとって完璧な執事であったことには変わりありません。彼を軽蔑しないでいただけないでしょうか?」
もちろんそんな気はさらさらなく、それよりもリチャードの態度の訳を知りたかったのだ。だが、彼女が口にした事実は私が受け止めるには重すぎて飲み込むのに苦労した。明日、どんな顔で執事に会えばいいのだろう。
ほとんど寝られないまま、朝を迎えた。階下に下りて、リチャードを探した。彼はトランクケースを持ち上げ、裏口から出ていこうとし、家政婦がそれを押しとどめようとしているところだった。
彼は私に気付いて、言い争いをやめた。落ち着いた声で「お世話になりました」と深々と一礼する。
「……いいえ」
彼の表情は以前にも増して穏やかなものに戻っていた。張り詰めた緊張の糸が途切れたような感じにも見える。
イザベルは自分の夫に「お元気で」とすばやく囁くと、自分の部屋に戻ってしまった。
彼女はうちに残ると決断したのだから次に会えるのはいつかわからないのに。
「……イザベルと離れてしまうわね」
「散々話し合ってそう決めました。もうこの年ですし、離婚はいたしませんが」
そして彼は思い切ったように告げる。
「奥様。最後に一度だけ別れの御挨拶をしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
元執事は真綿でくるめるように私をしばらく抱きしめた。身体はすぐに離れたけれど、彼の本心は伝わってくる。だからこそ私が彼を引き留めることは絶対にあってはならない。彼の愛したこの家の秩序を乱すことになるから。彼が我が家を去る理由もそこにある。
夫が帰ってくる前と今とでは家の秩序の形は変わった。夫ありきの生活……彼は新しい秩序に馴染めなかった。
どうしてなのか。それは……。
「愛しておりました、奥様」
この口は貝のように閉じた。彼にできる最大限の敬意はこのまま黙って送り出すことだけだった。
執事がいなくなった夜。仕事から帰ってきた夫は外套と帽子を家政婦に手渡した。彼女はこれまでもずっと彼女自身の仕事であったかのように、衣類をクローゼットに戻しにいった。
夫と向かい合った。
「おかえりなさいませ」
「うん。ただいま」
彼はすぐに「ただいまのちゅう」をしなかった。なんの前触れもないまま、彼の抱擁を受ける。
彼は抱きしめたまま、動かなくなる。私の背中に回された腕の力は思いのほか強く、外で冷え切った彼の体温が私にも移るほどに。普段にはない行動だった。
「……どうかされましたか」
「新婚旅行での君の気持ちがようやくわかった気がしたよ。君から他の男の気配がするのは嫌な気持ちになる。今は、リチャードのことを考えていないか?」
本心を言い当てられてどきりとした。肩口に顔を埋めた夫はどんな表情をしているのだろう。
「あなたは、いつ気づきましたか?」
「今朝。彼に抱きしめられた君を見た。見送りに行こうと思ったんだよ。今日は散々だ。仕事でもミスをたくさんした。君のことを考えていた」
「……アドルファス」
「手酷い裏切りだよ。こんなことになるぐらいだったらはじめから僕が側にいればよかった。仕事を優先していた自分自身にムカついた」
「私はまったく気づきませんでした。年も父親ぐらいに離れていますし、頼りになる執事だとただそれだけ思っていました。知らぬ間に彼に無神経なことをしていたのかもしれません。もしそうだったら彼に謝らないと……」
私と夫と、執事。誰が間違っていたということはなかった。ただ、どうにもならないこともあるのだと思った。
私が去っていく執事を引き留めてはいけないように。
夫がとうに通り過ぎた過去の決断を後悔しているように。
……執事が自分の決めた理想像を裏切り続けることを許せないように。
だがそれでも容赦なく時は流れるものであって、縺れた感情の糸も緩く解けていくものだと思いたい。
絡みつく夫の腕を感じながら、自分の腕も背中に回した。
「アドルファス。私を抱きますか?」
夫が突然、私の身体を離した。
「急に何を言い出すんだ、マティルダ」
「私たちの関係が曖昧だからこのようなことが起こった。そう考えていらっしゃるかと思って。あなたの不安を拭いさるための解決法は、これしかないでしょう? 私は元からあなたの妻としてここにいる。あなたが私を抱くのは夫婦ならごく自然なことではありませんか」
「言っていることが矛盾しているぞ。以前は、『私たちの形』にこだわっていただろう?」
「それは互いに了解があればこそではありませんか。どちらかが不満を持ったならもう一度話し合いが必要です。どういう形が、私たちにとってベストなのか」
夫は眉根を寄せた。
「……いいのか。後悔しないか」
「あなたこそ。後悔しませんか?」
顔を突き合わせたところで、夫がふっと笑みをこぼした。口元でリップ音と柔らかな感触が触れる。
私の頬を、夫のかさついた指先が撫でていく。とても優しい顔をしていた。
「少しわかった気がするよ。僕は自分で思っていたよりも君のことが大事みたいだ」
その言葉。言うのが遅い。私はもっと前から知っていた。それこそ新婚旅行の頃から漠然と。夫は一度たりとも私をぞんざいに扱ったことなどないのだから。
「大事なものならどこに仕舞っておきましょうか」
「……自分の部屋に!」
夫は私の右手をぎゅっと握り、子どもが友達を遊びに連れ出すように気忙しく自分の寝室へ連れていく。
私の顔? 聞かないでほしい。きっと慣れないことを言ったりやったりしたせいで赤くなっているのだから。
【サルマン家のパーティー】終




