12. Fenril
12. Fenril
一面の銀世界。
分厚い雲を通しても尚光を地上に届ける太陽。
その光を反射し、雪面が白く輝く。
降りしきる雪を前面に浴び、本来は深緑をたたえるはずの針葉樹でさえも、白一色となっている。
木々と同じ雪を浴びながら、一頭の赤い竜が雪原を駆ける。
「山頂が近いよ。」
クロムが前を見据えて走りながら声を上げた。
その背中にはシン、エドナ、そしてロゼリアが乗っている。
「すごい・・・竜って、とても激しく走るのですね。」
足を着くごとに雪に埋もれるので、激しく上下して走るクロムにしがみ付きながら、エドナが感嘆の溜息をつく。
雪面が硬くなり、走りやすくなった時、クロムが急に止まった。
目の前には、先刻雪崩を起こして去っていった氷魔が佇んでいた。
唸り声を上げる口から鋭い牙が覗く。
「フェンリル。」
クロムが言葉を落とす。
3人はクロムから降りると、静かに身構えた。
フェンリルは今度はゆっくりと歩み寄ってくる。
「邪魔をするな・・・」
唸り声の隙間から、低く重い、牽制するような声が漏れる。
「邪魔・・・?」
シンが呟く。
一体、何の邪魔をしていると言うのだろうか。山頂で何かをしていると言うのだろうか。
クロムが叫ぶ。
「フェンリル!君は何をしようとしているの。フリージアはどうしているの?」
フェンリルはその目にクロムを映すことなく、唸り声を絶やさずに返した。
「ヒトは何故いつも邪魔をする。何故我らの邪魔ばかりする。・・・フリージア、全ては彼女の為に。」
言葉の後を引きながら、フェンリルが加速する。
「来るよ!」
ロゼリアが叫び、シンとエドナが身構える。
クロムが悔しそうに俯く。
逡巡。覚悟して来たはずなのに、実際に対峙すると、友に立ち向かうことができない。
頭の先から尾の先まで5メートルはある巨大な灰色の魔物が襲いかかる。
シンは長剣で受けようと身構えていたが、寸前で横に飛びのいた。
フェンリルの爪が雪面を穿つ。
「こんなに力があるんじゃあ、剣で受けるのは厳しいな。」
どうするべきか。
この巨体だ、短剣程度の攻撃は通らないだろう。
だが、長剣は警戒されている。
注意を分散させて長剣で畳み掛けるか。
又は、時間を稼いでロゼリアの術式に頼るか。
雪から前足を引き抜き、フェンリルが再び狙いを定めてくる。
長剣の切先をフェンリルに向け、牽制する構えをとる。
と、エドナが叫んだ。
「新手です!」
フェンリルの方を向いたまま横目でエドナの方を見ると、小さな、フェンリルと比べるとそう表現されてしまうが、標準的な大きさの狼がエドナに襲いかかっていた。
エドナは難なく狼の攻撃をかわし、狼を蹴り上げる。
その狼は雪の上に力なく落ちたが、周囲の木々の間から、更に魔物が姿を表すのが見えた。
雪色をした熊やコウモリのような魔物。
視界に入るだけでも10は超えている。
エドナの方に気を取られている間に、フェンリルが飛びかかってきた。
すぐに視線を戻し、前方に構えた長剣をわずかに立てて姿勢を極力低くする。
頭上をフェンリルが飛び抜け、長剣の先が巨体の腹部を掠める。
鮮血が雪上に短い糸を引き、その末端にフェンリルが着地する。
傷は与えたものの、全く怯む様子もなく、唸り声を上げながらこちらに向きなおる。
体制を立て直し、再び長剣の切先をフェンリルに向けつつエドナとロゼリアの方に目を遣る。
エドナがロゼリアを守るように魔物を退け、ロゼリアが間を縫って襲い来る魔物の攻撃を避けながら、小規模な術式で敵の数を減らしている。
「こう大勢で来られちゃ、威力の強い術式を構築する暇が無いよ。」
ロゼリアが悪態をつきながらも、次々と術式を発動させる。
何匹かの魔物がフェンリルと対峙する自分の周りを取り巻いている気配も感じる。
フェンリル自体が集中しなければならない相手だというのに、厳しい状況だ。
斜め後ろでクロムの息遣いが聞こえる。
友であるフェンリルを傷つけることを躊躇っているのだろう。
「やらないと・・・私が、動かないと。」
鋭い爪と牙を持っていても、戦いは得意ではない。
大抵の生き物は、竜の姿を見ただけで怖気付く。
アティカで外から来る魔物と戦う機会が無かったわけではないが、ネオンがほぼ全て相手をしていた。
無邪気だが、力の強い竜なのだ。
戦いが不得手ということに加え、相手が友ということが躊躇いに拍車をかける。
雪のない夏に一緒に走った緑の草原。
星を見上げて語り合った夜。
幸福な思い出が自らの体を縛り付ける。
動悸に打ち勝とうと葛藤する竜に、シンが背を向けたまま声をかける。
「クロム、無理しなくてもいい。僕も、極力フェンリルを傷つけないようにどうにか止めるから。君はエドナとロゼの方を助けてあげてくれないかな。」
ふいにかけられた声に突き動かされるように、クロムは顔を上げた。
そうだ。フェンリルに立ち向かえないとしても、自分にできることはある。
この青年の仲間を守るのだ。
雪の上を走り、集まってきた魔物を薙ぎ払う。
「おや、心強いじゃないか。」
声をかけるロゼリアに、勝気に答える。
「まあね、竜だもの。」
本当は、今にも心が折れそうだ。
爪を、牙を振るうことが恐ろしい。
だが、友を救うためには、今、竜としての体に与えられた力を使わなければならない。
エドナと並んで敵を討つ。
十分に戦えているクロムを見て、ロゼリアが声を上げた。
「エドナ、こっちは大丈夫だ。シンを!」
シンの方を見ると、フェンリルの攻撃をかわしながら、少しずつ攻撃を加えていっている。
雪上にフェンリルのものであろう、細い血の筋が何本も見える。
だが、フェンリルは全く弱った様子がない。
それどころか、フェンリルに対峙するシンの周囲に何匹かの別の魔物が控えている。
隙をうかがっているのだろう。
それらに注意を払いながら、シンはフェンリルを牽制する。
一度地面を踏みしめ、エドナは取り巻きの魔物に向かって走り出した。
息が上がり始める。
少しずつ攻撃を加えてはいるものの、目の前の巨大な魔物は全く怯まない。
自らを取り巻いていた魔物の注意が逸れていく。
エドナが注意を引いているのだ。
クロムが加勢したおかげで手が空いたのだろう。
途端に、フェンリルが伏せの姿勢をとる。
青白い光が一瞬フェンリルの足元に見えたと思うと、雪面が揺らいだ。
術式か。雪崩を起こしたものと同じだろう。
地震のように足元が揺らぎ、思わず体制を崩したところにフェンリルが突っ込んでくる。
先程までのように避けるのは間に合わない。
振り下ろされる鋭い爪を、やむなく長剣で受ける。
長剣に弾かれて軌道を変えたその爪は、だが、なおもその勢いを失わない。
直撃は免れたものの、フェンリルの鋭い爪が左脇腹を切り裂き、雪面に突き刺さった。
激痛が走り、雪に叩きつけられる。
「シン様!」
エドナの叫び声が聞こえる。
怯んではいられない。
間髪を入れずに、今度はフェンリルの牙が襲いかかる。
それを長剣で、今度はしっかりと受け止める。
仰向けになった状態で、上から牙を突きたてようとするフェンリルとの力比べが始まる。
視界の隅で、エドナが魔物を退けながら駆けてくるのが見える。
必死にフェンリルの牙に対抗しながらも、情けないところを見せてしまったな、と呑気な思考が湧く。
腕に力を込める毎に、傷口から血が滲むのを感じる。
本格的に、まずい。
一度思い切って弾き返そうと、腕に力を込めようとした時。
「やめなさい、フェンリル!」
力強い、透き通った女性の声が聞こえた。
フェンリルの力が急に弱まる。
牙を下に向けていた大狼が、顔を上げて声の方向を向いた。
そこには、一人の女性が立っている。
雪の中だというのに、信じられないほどの薄着。
真っ直ぐな青い短髪。
青白い雪色の肌に、精悍な顔つき。
「フリージア・・・」
フェンリルが、今までの凶暴さからは想像できないような穏やかな声を漏らす。
フリージア。散々話題に上がっている、氷の精霊。
「フェンリル、約束したでしょう。傷つけない。」
強い目つきのその精霊は、フェンリルを諌めるように言った。
「辛い思いをさせてごめんね。・・・もう少しの辛抱だから、耐えて・・・傷つけないで・・・」
今度は一転して悲痛な声を残しながら、その精霊は霧のように姿を消した。
「断片・・・フラグメントだ。フリージアの本体は山頂だね。」
ロゼリアが言い、すぐ目の前にある山頂を見据える。
山頂にいるフリージアが、自らの一部を切り離し、一時ではあるが、ここで具現化させたのだろう。
シンが仰向けの状態のまま見上げると、上のフェンリルが苦しそうに首を振っている。
「フリージア・・・フリージア・・・ヒト・・・傷つけ、な、い・・・」
逡巡とも取れるその声は、次第に唸り声と混じり、かき消されて行った。
危険を感じ、再び長剣を強く握る。
そこに、クロムが突っ込んできた。
「フェンリル、負けないで!」
シンの上に立ちはだかっていたフェンリルに体当たりを見舞い、雪面に叩きつけたフェンリルの上に跨る。
「フェンリル!私だよ、クロム。わかって!・・・わかれ!」
クロムが雪面に倒れこむフェンリルに、追い打ちをかけるように頭突きをぶつける。
短く声を上げたと思うと、フェンリルは静かになった。
周囲の魔物も殆ど蹴散らされていいたため、静寂が訪れる。
張り詰めていた緊張の糸が解け、力が抜けて長剣を握っていた手を緩める。
エドナが駆け寄ってきた。
気絶したフェンリルに跨ったまま、クロムがロゼリアを振り返る。
「お願い。フリージアを探して・・・。胸騒ぎがするんだ。」
フェンリルを倒した力強さから一転して、悲痛な瞳で赤い竜が懇願する。
ロゼリアはシンに目を向けて、躊躇った。
フェンリルから受けた傷が深そうだ。すぐにでも治療してやりたい。
だが、シンは笑顔で右手を挙げた。
「ロゼ、行って。ロゼにしかできない。僕は大丈夫だから。」
先の戦闘で周辺の魔物は大幅に減らした。
山頂に行くまでに遭遇する可能性は低いだろう。
ロゼリアは顔をしかめながら言葉を放つ。
「わかった、行ってくるよ。早く戻るからね。エドナ、頼んだよ。」
右手で傷口を押さえると、まだ血が流れ出すのを感じる。
大丈夫、と言った矢先のこれだ。
少し情けない気持ちが湧いてくる。
「シン様、大丈夫ですか。」
エドナが泣きそうな表情で問いかける。
大丈夫、と言えばそれは嘘になるが、大丈夫でないと言ったところでどうこうなる事態でもない。
代わりに苦笑する。
「情けないところを見せちゃったなあ。こんなに苦戦したの、久しぶりだ。」
エドナが言葉を探して、あるいは出来る事を探して、うろたえる。
傷口は熱さを感じるが、体全体が冷える。
単純な寒さのせいであり、また流血のせいでもあるのだろう。
フェンリルから離れたクロムがシンとエドナを包むようにして丸くなった。
暖かい。
「本当にありがとう。シン・・・こんな怪我をさせてしまって、本当にごめんね。」
クロムが申し訳なさそうに言う。
エドナが首を振る。
「私なんて、周りの魔物の相手で精一杯でした。ずっとフェンリルと戦っていたのは、シン様です。」
それに対してシンも苦笑しながら穏やかに返す。
「僕も全然だよ。フェンリルを止めたのは、フリージアと、そしてクロム。フリージアが消えた後に君がフェンリルに向かわなかったら、本当に危なかったかもしれない。寧ろありがとう。」
クロムが顔を上げる。
「君たちって、本当に優しいね。でも、私が面と向かったって、フェンリルに勝てるはずがなかった。昔から、すごく強かったから。」
雪の上に笑い声が転がった。
「約束って言っていましたよね、フリージアが。」
エドナが首をかしげる。
クロムが倒れているフェンリルを見遣りながら話す。
「フェンリルの命を救う時に、フリージアは条件を出したんだ。それは、生き物を傷つけない事。今のフェンリルは精霊と同じように、マナを糧として生きる事ができる。私たちみたいに他の生き物を食べる必要が無いんだ。だから、一切生き物を傷つけずに生きる事ができる。・・・フリージアは優しい精霊だからね。」
クロムが穏やかな瞳で語っていると、フェンリルが目を覚ました。
静かに体を起こす。
クロムの体に力が込もるのがわかる。
警戒しているのだろう。
「クロム・・・?」
先ほどまでの険しい瞳とは異なる、穏やかな瞳でフェンリルが言葉を発した。
その低い声も穏やかさを帯びている。
クロムの体から力が抜ける。
「フェンリル・・・私がわかるんだね。」
「長い、悪い夢を見ていた気分だ・・・心がかき乱されるような。」
クロムが擁護しているシンとエドナを視界に入れ、フェンリルが俯く。
「本当に、申し訳ない・・・。この爪と牙は、もう、傷つけるためには決して振るわないと誓ったのに。」
自分のしたことを覚えていない訳ではないようだ。
「いいよ。命に関わるほどのものでもないしね。僕も君の事を傷つけたから、お互い様にしよう。」
シンが気の抜けた笑顔で答える。
フェンリルともう戦う事が無いと認識し、安心したのだろう。
「ところで、君とフリージアに何があったのか、聞かせてくれないかな。今、フリージアの元にはすごく優秀な術式研究者が行ったけれど、もし良かったら、君から話してほしいな。」
シンが穏やかに言うと、フェンリルが頷いた。
「ヒトには理解しがたい話になるかもしれぬが、よいか。」
エドナが頷き、その動作が苦しいシンはフェンリルの目を見つめる事で肯定の返事とする。
クロムも無言でそれを見守った。
ありがとうございます!




