天啓
短い夏の最盛期。
ホルトーリ家が週末を過ごす、湖畔のサウナ付きコテージ(モッキ)の周囲は、夜の10時を過ぎてもなお、淡い真珠色の光に満たされていた。白夜の空を映した湖面は、まるで一枚の巨大な鏡のように静まり返っている。
「ふぅ……!」
サウナで限界まで火照った体を、平然とした顔で冷たい湖へと投げ出したダン。バシャァン、と涼烈な水音が静寂を破る。
「おい、ダン! 風邪をひくぞ。そろそろ上がってベリーのパイを食べなさい」
テラスでマルクが呆れたように笑いながら、シナモンを効かせた温かい紅茶を淹れている。
「あと少しだけ!」
ダンは水から上がると、濡れたブロンドの髪を乱暴に拭い、岸辺の草地へと歩いた。そこには、数日前にスポーツ科学研究所で弾き出された、あの難解な三次元グラフィックスのデータシートが置かれていた。
『軸のブレ:0ミリ』
『インパクトの誤差:数ミリの擦り上げ』
(頭ではわかってるんだ……)
ダンは足元にある、少し湿ったサッカーボールを拾い上げた。
今まで蹴っていた「無回転キック」は、ボールの芯をインステップの最も硬い骨で『パチン』と射抜く感覚。
しかし、本当の「懸河」――滝のように鋭角に落ちるドライブシュートは、その強靭な体幹を維持したまま、ボールの底を激しく削り落とすような順回転が必要になる。
「ダン、それを持ってこっちに来てみろ」
いつの間にか、マルクが水面に浮かぶ一本の太い丸太を指差していた。材木先進国であるフィンランドでは、湖畔に伐採された丸太が浮いているのは見慣れた光景だ。
「じいさんの『木場の丸太乗り』だ。その上で、ボールを落とさずにリフティングしてみろ」
「えっ、ここで?」
ダンはニヤリと笑うと、躊躇なく水面の丸太へと飛び乗った。
ゆらり、と丸太が揺れる。普通の人間なら一瞬でバランスを崩して水へ落ちる不安定な足場。しかし、丸太に触れた瞬間、足の裏の筋肉が驚異的な速度で微調整を始めた。
トントン、トントン。
濡れた丸太の上で、ダンの軸はピタリと静止した。上半身は驚くほど微動だにせず、右足だけが正確にボールを弾き続ける。
「そうだ。その時、お前の足の裏は何を感じている?」
マルクの声が湖面に響く。
「……反発、かな。丸太が水に沈もうとする力と、水が押し返してくる力。その『真ん中』の重いところを、足の裏でずっと踏みつけてる感じ」
「フッ、さすがだな。じゃあ、今度は水切り用の石を投げてみろ」
ダンはリフティングを止め、ボールを小脇に抱え、足元の平らな石を拾い上げた。丸太の上で完全に軸を固定したまま、右腕を鋭く振る。
シュッ。
放たれた石は、猛烈な『縦回転』を伴って水面を滑った。
一度、二度。そして三度目、激しい回転を維持した石が水面に鋭く衝突した瞬間――石は滑るのをやめ、水幕を「キュッ」と激しく切り裂いて、文字通り垂直に近い角度で底へと沈み込んだ。
「あ……」
碧い瞳が、水面の波紋を捉えて大きく見開かれた。
(これだ……!)
今まで、川を睨みつけて気功を込めるというじいちゃんのホラ話を、どこか遠い国のオカルトだと思っていた。
けれど、違った。『懸河』の本質は、まさに今、目の前で起きた現象そのものだ。
空気という目に見えない「激流」の中で、ボールに猛烈な順回転をかける。
ブレて逃げるんじゃない。圧倒的な体幹のパワーで空気を力任せに引っ掻き、ある臨界点を越えた瞬間に、水切りの石が沈むように、大気へ向かって滝のように叩きつける。
丸太から岸辺の草地へと飛び移り、ボールをそっと置く。
助走は短め。しかし、丸太の上で掴んだ「絶対にブレない軸」が、肉体を大樹のように地面へ固定する。
(じいちゃん、ホラ話の答え、分かったよ)
鋭く踏み込んだ左足は地面を深く噛む。
右足のインステップが、ボールの真後ろのやや下、わずか数ミリの空間を、大気を切り裂くような速度で強烈に擦り上げた。
ドシュッ!!!!
白夜の静寂を切り裂く、今まで聞いたこともないような重苦しい風切り音。
放たれたボールが、白夜の空へと吸い込まれるよう高く跳ね上がる。誰もが「ふかしすぎ」と思うほどの高い軌道。
しかし、ゴールに見立てた二本の白樺の木の間を抜ける直前――ボールは暴風に叩かれたかのように、突如として「ガクン」と狂った角度で真下へと急降下した。
ドサササッ!!!
激しく順回転したボールが、背後の草むらを猛烈な勢いでえぐり取る。
マルクが紅茶のグラスを握ったまま、声も出せずに固まっている。
自身の右足に残る「空気を完全に支配した感覚」を確かめるよう、ダンはじっと爪先を見つめ、それから悪戯っぽく微笑んだ。
「じいちゃんのホラ話より、僕のキックの方が、ちょっとだけカッコいいかもね」
100年前の下町の遺伝子が、北欧の美しい湖畔で、ついに本物の「怪物」として産声をあげた瞬間だった。




