story19‐‐夢‐‐
黒江総合病院のとある病室。
時刻は明け方の午前五時。
医療機器が突然大きな電子音を立て始めた。
それと同時に、ベッドの上の呼吸器をつけた若い男がゆっくりと瞼を開いた。
男がぼーっと清潔感のある白い天井を眺めていると、やがて医療機器の反応を聞きつけたナースが病室に入ってきた。
男が目を開けているのを確認し、ナースは慌てたように駆け出していった。
「せんせー! 例の患者さんが目を覚ましました!」
すぐに三十代後半の当直医がナースに連れられて病室に現れ、隼人の容体を確認した。
「これは驚いたな」
診察を終えた医師が信じられないというように呟いた。
「もう目が覚めることはないと思っていたが……」
「すごい生命力ですね」
ナースも驚嘆したように言った。
「もしくは、彼にはまだ神様から与えられた、全うすべき大事な使命が残っているのかもしれないね」
「先生のような立場の方が神様だなんて……」
「大昔の人々が奇跡を信じられずに、神様という存在を創り上げた、その気持ちがわかった気がするよ」
医師が男の顔を覗き込んで話しかけるように言った。
「それくらい奇跡だってことだよ。君が目覚めるというのは」
――二〇四〇年、八月一六日。午前八時。
冴木町東端の森に佇む、レンガを積み上げて建てられた中世風の古い建物。横に長く伸びた二階建てで、屋上があり、一般的な学校ほどの規模はあった。その東西の両側に、木造の大きな建築物があり、東の建物はボロボロでもう寿命が近いようだった。西の建物は逆にまだ真新しく、ドーム状で、嵐をも耐え凌げそうなほど丈夫なように見えた。
これらの建物は、町はずれの小さな森の西の一角を切り開いて建てられ、周囲には雄大で緑豊かな自然が広がっていた。森を抜けた東には、どこまで続いているのか知れない深い洞窟、西には青々と澄んだ湖、南には地平線の先まで見渡せる草原、そして北には高く急な白い山がそびえ立つ。
北の山を越えると、この町の中心部である都会の町並みが広がっている。
ふと、真ん中のレンガの建物の中から、元気な子供たちの声が聞こえてきた。
底知れない数の子供たちは、大はしゃぎで建物から出てくると、それぞれ多数の集団に分かれて湖や草原へ走っていった。
「いいかー、洞窟と山には絶対に近づいちゃいけないぞー」
大柄の男が、走っていく子供たちに大声で注意した。
「そんなに心配されなくても大丈夫ですよ。ちゃんとどこの集団にも十二、三歳の人がついていますから」
若い女性が言った。
「それより、町にいる息子さんに会ってきたらどうですか? もう何か月も戻ってらっしゃらないでしょう」
「だが、それではここの子供たちが……」
「私たちが責任をもって面倒をみますよ。院長には、病気で苦しんでいた身寄りのない私たちを無償で助けていただいた恩がありますから」
「すまないな」
「幼い頃に強盗に母親を殺された院長の息子さんには、いくら一人で暮らせるとはいっても、やはり唯一の家族である院長のような存在が必要だと思いますよ」
「わかってはいるつもりさ。だが、妻が大事にしてきたここの孤児たちも放ってはおけなくてな」
「お気持ちはよくわかります」
しばらくして子供たちの姿が見えなくなると、院長は建物に戻りながら言った。
「それじゃあ、明日、町に戻るとするよ」
「はい」
先を進む子供たちを追って草原に向かった五、六人の集団。
その集団の一人に、遅れて迷惑をかけないように、何とか前を走るみんなに追いつこうと慌てる、黒い三角帽子を被った女の子の姿があった。
女の子は急ぐあまり、落ちていた小石をふんづけて足を滑らせた。
前に転び、身体が反射的に出した手を強く擦った。赤黒く擦り切れ、血が出ていた。
「リサちゃん、大丈夫?」
リサと呼ばれた女の子のすぐ前を走っていた男の子が、後ろの物音に気付いて駆け寄ってきた。
「大丈夫だよ、平吾くん。そんなことより、早くしないとまたカリンちゃんたちが先に有利な場所取っちゃうよ」
リサは目に涙を浮かべていた。
「不利な場所から勝った方がかっこいいよ」
平吾と呼ばれた男の子が言った。
「でも……」
「だめだよ、手のひらから血が出てる。足も怪我してるみたい。まずはおうちに戻って治してもらおうよ。おーい! 修介くん!」
平吾は前を走っていた別の男の子に大声で叫んだ。
「僕たちいったん戻るから、リーダーに先に行っててって伝えといてー」
男の子は後ろの二人を振り返りながら、了解の意を示すように手を振った。
「ねえ平吾くん、戦いに負けたら夜ごはんのお肉を半分とられちゃうんだよ?」
平吾はリサを背中におぶって、まだあまり離れていない建物まで戻り始めた。
「戦士のキョウスケとカナメは一番強いから、魔法使いのリサちゃんがいないと僕たちは勝てないよ」
「でもあたし……みんなの中で一番弱いよ」
もはやリサは半泣きの状態だった。
「そんなことないよ。優しいリサちゃんがいないと僕もみんなも強くなれない。だから一番強いのは、本当はリサちゃんなんだよ」
リサは頬を赤く染め、こらえていた涙が流れながらも笑顔になった。
「うぅ……ありがと……平吾くん」
小塚はゆっくりと目を開いた。
真っ白な天井が見える。
気付かないうちに休憩室のソファで眠っていたようだった。他にはだれの姿もない。ボスはいつも通り仕事、佐川は見舞いにでも行ってるだろうことは察しがついた。
小塚はもう一度天井を仰ぎ見た。
「……夢か」
小さな溜息をついた。
「……懐かしいな」
小塚はそう言いながら、傍目にはわからないほど小さな笑みを浮かべていた。
だが、もち帰ってきた黒い三角帽子のことを思い出した途端、その表情が険しいものに様変わりした。
「やっぱり……勘違いなんかじゃ……」
小塚は二週間前の夜、救急車を見送った後、自分たちの足で本部に帰った。すぐに三角帽子を自分の個室にもっていった。その後治療を受けに個室を出る時、テーブルに無造作に置いた三角帽子を振り返ったのを覚えていた。その時、確かに『リサ』と金の刺繍がしてあったのも鮮明な記憶として残っている。今さら個室に行ってもう一度確認しようとは思わなかった。最近の休憩室はひと気が少ない。そのため小塚は休憩室のソファで睡眠を取っていて、あれから自分の個室には戻っていない。何度見ても変わるはずがないことくらい理解できるほどには、自分は現実的だと自負している。だが、何度見ても平気でいられる心をもち合わせてはいないこともわかっていた。
小塚が壁の時計に目を向ける。
治療を受ける時間だった。小塚の体内に入った例の毒を完全に抜くには、長期的な治療を受けるしかないと言われていた。
小塚は溜息をつきながら立ち上がった。
扉の方へ歩いていく。その口元の両端が微かに上がっているようにも見えた。
「薬の効かない強力なポイズンでもくらっちまったか……」