story20‐‐歪み‐‐
「……はい……はい、わかりました。院長に伝えておきます」
メガネをかけた若い女性は、何か思いつめたような表情で静かに受話器を戻した。
女性は廊下を早足で歩き、院長室のドアをノックして入った。
「失礼します……あれ……」
部屋にはソファに男の子と女の子が座っていて、女の子の方が院長の治療を受けているようだった。
「どうしたんですか?」
「リサが転んで怪我をしてしまったみたいだ」
院長は入ってきた女性の方を向いて言った。
「はい、これでよし。よく今まで痛いの我慢したね」
低い声には似合わない優しい声だった。
リサは心もとない小さな手のひらにガーゼをあてられ、包帯で固定されていた。
「あらあら、気をつけてね」
女性が立ち上がった二人に声をかける。
「うん。院長先生もありがとう」
リサは院長にお礼を言うと、一緒にいた男の子と走り出ていった。
「それで」
院長がガーゼや包帯、消毒液などを小さなバッグの中にしまいながら言った。
「私に何か用があったんじゃないのか?」
「そうでした。実は……国家直属だとかの……とにかくよくわからない組織のボスが院長に会いたいそうなんです」
「国家直属の……組織?」
「はい、何でも公にはされていない秘密組織のようで」
女性は訝りながらも、少し心配そうに言った。
院長は険しい顔で考え始めた。
「明日の正午にこの孤児院にいらっしゃるそうです」
「明日の正午か……」
「相手の方は非常に重要そうな用があるご様子でした」
院長は大きな溜息をついてから呟いた。
「……仕方がないな」
「私は神崎というものです。ある組織の長をやっています」
翌日の正午、院長室には、院長の他に四十代くらいの男がソファに腰掛けていた。
「ご用件は?」
院長が慇懃に尋ねる。
「率直に言いますと、ここの孤児に、とある怪物たちと戦う戦士になっていただきたいのです」
神崎の声は柔和で、人を落ち着かせる何かを院長は感じた。
「怪物?」
「あなたが今想像した通りの怪物です。もっとも、姿だけは人間のものですが」
「そんな怪物が一体どこにいるんです?」
「実際に見たら考えていただけますか?」
神崎の口調はもの柔らかだったが、その細いひとみは、吸い込まれてしまいそうな何か深いものを感じさせた。
院長はそれが神崎の威厳であることに気付き、恐怖にも似た感情を抱いた。
「しかし、それとこれとでは話が別です。あの子たちをそんな危険な目に遭わせるわけにはいきません。あの子たちは、ここで学んで、成長して、やがては社会に出ていくのです」
院長はきっぱりと提案を撥ねつけた。
「あなたの気持もわかります。しかし、このまま今後も怪物が現れ続ければ、あなたの子供たちの将来の社会は消えてしまいます」
「あなた方が何とかすべきことじゃないんですか?」
院長は語気を強めた。
「その通りです。ですから、今こうしてここにいるのです。今の我々ではこの社会を守り抜けません」
「いい加減にしてください。だいたい、あなたが本当に……」
「私には、強制的に子供たちを連れていける権利があります。できればこの権利は無理に行使したくはありません」
神崎は院長よりも強い語調で遮った。
「本当に申し訳ありません。我々が無能なばかりに……でも、もう選択の余地がないのです」
神崎のこの国を守らなければならないという強い義務感と、そこから生まれる、この国を何としてでも守り抜くという固い意志を院長はその身に感じた。
「では、その怪物とやらを実際に見せてください」
「……わかりました。では、あなたには今夜にでも私と共に来ていただきます。もう一週間以上も出ていませんから、予感でしかありませんが、今日は出そうな気がしているんです。あと、申し訳ありませんが」
「今度は何を謝るんです?」
「命の保証はできません」
神崎はきっぱりと言い切った。
院長のひとみが一瞬揺らいだが、すぐに戻り、くだらないとでもいうように溜息をついた。
「構いませんよ。子供たちの命に比べたら、こんなもの……」
「我々も同じ気持ちです。国民の命に比べたら、私一人の命など大した価値はない。ここの孤児の命も同じくらい大事です。しかしそれでも、この国の危機を救う道を何とか作りださなければならない。たとえその道が、人間でできていても」
夜になり、院長が孤児院を出てさらに数時間ほど経った頃。
「一体何を待っているんです?」
院長と神崎、他数名が謎の建物の部屋の一つにいた。夜は起きているよう言われており、もう深夜の一時を回っている。
「警察からの連絡です」
神崎は窓から外を眺めながら答えた。雨だった。
「警察?」
「そうです。警察から死体を発見したという報告が来るのをを待っています。まあ、巡回中の者が見つけて、生きている間に報告をできればまだましですが……」
「いつ現れるかわからないんですか?」
「夜だということ以外はわかりません」
やがてついにその電話が鳴った。
神崎は一言二言話すと電話を置いてすぐに上着を羽織った。
院長の方を向く。
「行きます。狂魔が出現しました」
神崎一行は雨降る夜の町を徘徊していた。
やがて神崎のもっているトランシーバーに報告が入った。
「三番地付近に死体を発見。殺されて間もないです」
「前の死体の位置から考えると……」
「ボス!」
神崎の横にいた男が前を指差して叫んだ。
「やっぱりここに来たか。全員、構えろ」
神崎の周りの男十数人が目の前の男に銃を向けた。
院長は目の前の男の目が確かに赤く光っているのを目にした。
「撃て!」
神崎のかけ声と同時に多数の発砲音が響いた。
男は素早く建物の陰に隠れる。
しばらくすると、急に神崎の背後で悲鳴が聞こえた。
「こんな高い屋根でも登れるのか……」
屋根から背後に回ったらしかった。目の赤い男は鋭利な刃物を振り回し、確実に死んでいるとわかる状態の死体がすでにいくつもあった。
神崎は小さく舌打ちすると、大暴れしていた男に素手で突っ込んだ。
院長は突然のことに目を丸くする。
神崎は素手の高速攻撃でわずかだが相手の男を圧していた。
「今だ!」
神崎が相手の男の腹に手のひらをくい込ませ、突き飛ばした。
神崎の周りの男たちが一斉に発砲した。
「神崎さん、あれが怪物ですか?」
謎の建物に戻った院長が神崎に荒々しい口調で訊いた。
「その通り」
「目が……」
「赤い目は狂魔の証拠です」
「私は、あの目を見たことがあります」
タオルで髪を乾かしていた神崎が、驚いたように院長の方を振り向いた。
「本当ですか?」
「ええ。妻が殺されたあの日。あなたたちが遅れたせいで妻が死んだあの日に、はっきりと見ましたよ」
院長の言葉は冷たかった。
「奥さんをお救いできなくて……申し訳ありませんでした」
「妻は強盗に殺されたことになっていましたが、本当は、あれはその狂魔とやらだったんですね」
「一般人には隠さなければ社会が混乱に陥ります」
院長はしばらく黙った後、不意に言った。
「わかりました。孤児院の子供たちはあなた方に預けましょう」
「いいのですか?」
「ただし、私もあなたの部下に加えてください」
神崎はタオルを放り投げ、静かに答えた。
「構いませんが、一つ勘違いしているようなので言っておきます。今日あなたが見たほとんどの人間は私の部下ではありません。ここにいるごく一部の者だけが私の部下です」
「じゃあ……」
「今日は三十七人死亡しました」
神崎は声を潜めた。
「進んで私の部下になろうとする者は年に一人いれば多い方です。あれは、ほとんどが無理やり狩り出された警察の人間なんですよ」
しばらく間を置いてから、再び神崎は口を開いた。
「それより、あなたも死ぬかもしれませんよ? 本当にいいんですか?」
「あの子たちから離れるわけにはいきません。妻が愛した子供たちですから」
「息子さんがいらっしゃるでしょう」
「息子も……組織に加えてください」
神崎は院長のまっすぐな目を見て何かを察したようだった。
「わかりました。では、我が狂魔特別対策組織へようこそ、野芝東一郎君」
「電話、鳴ってますよ」
ボスは恐る恐るといった佐川の声を聞いて目を開いた。
(……夢か)
ボスと佐川の二人しかいない休憩室に電話のコールがけたたましく鳴り響いている。
「眠ってたんですか?」
佐川は自分のソファから、デスクで手を組んで俯いていたボスの顔を心配そうに覗き込んでいた。
目の前で鳴っている電話に気付かないほど深く眠っていたのだから当然の反応だった。自分でも疲れが溜まっているか、もしくは精神的に休養が必要な状態らしいことには気付いた。
なぜ佐川の声で目を覚ましたのかも少し不思議に感じる。メンバーの声には敏感になっているのかもしれない。
「ああ、悪いな」
ボスはそう言いながら受話器を取った。
一方的に相手が話していたようで、ボスはずっと「はい」と繰り返していた。
その声にも、長期に渡る疲労が滲み出ていた。
一分も経たぬうちに、ボスは「ありがとうございました」と慇懃に礼を言って受話器を戻した。
「ボス、疲れていそうですね。しっかり休んだ方がいいんじゃないですか?」
佐川が気を遣って尋ねる。
「隼人が……目を覚ましたそうだ」
佐川の言葉など耳に入らなかったようにボスが言った。
「えっ? 本当ですか!」
ボスの言葉を聞いた佐川は目が輝き、声も上ずっていた。
「お見舞いに行きましょう!」
「そうだな」
黒江総合病院のとある病室。ボスは扉を開けて中に入ると、ベッドのだいぶ手前で立ち止まった。
「ボス、どうしたんですか?」
佐川がボスの後ろから声をかけた。大柄なボスがドアの手前で立ち止まってしまうと、小柄な佐川は中の様子を窺えない。
ボスはベッドを見つめて静かに呟いた。
「これじゃまるで……あの子じゃないか」
佐川がボスの脇からベッドの方を覗き込んだ。
隼人は目を開けて天井を見上げたまま微動だにしなかった。時折まばたきをするだけで、ボスと佐川が入ってきても振り向きもせず、石像のように固まっていた。『生きた死体』とでも表現するに値する、無惨な光景だった。
佐川は思わず目をそらしてしまう。狂魔の歪んだ表情を見るよりも辛かった。
やがて医師が入ってきて二人に言った。
「目覚めたときからこんな感じです。特に異常は見られないようなんですが……精神的なダメージがよっぽど強かったんでしょう」
医師はそのままボスに尋ねた。
「お父さん、息子さんはストレスを溜めやすいとか、以前精神的な疾患をもっていたとか、何かそういった類のものはありますか?」
「申し訳ありませんが、わかりません。私は息子のことを……何も……知らない」
佐川には、ボスが目の前の隼人に謝っているように見えた。
ボスは死体のようにベッドの上に横たわる隼人を、悲哀そうに細めた目で見つめた。その目に映る隼人の姿は、狂魔のそれとは比較できないほどに恐ろしかった。初めて、息子に恐怖した。
『俺はあんたを父親だと思ったことは一度もない』
隼人が自分に見向きもせず、こう訴えているように思えてならなかった。
「妻のお腹に子供が宿ったと聞いた時、もしかしたら私は妻よりも喜んでいたのかもしれない」
本部への帰路の途中、ボスが車を運転しながら急に佐川に話し始めた。
「私は大学から帰ってくると、いつも赤ん坊の隼人の笑顔を見て、疲れた心を癒してもらっていた。だが、隼人がまだ歩くこともままならない頃だった。ある日の夜中、家に強盗が入り、妻を殺した。私はそれから大学を辞め、妻の孤児院を継いだ。孤児院での仕事は忙しかった。何しろ孤児は数百人いたからな。隼人が幼い頃は隼人を親戚の家に預けていた。だが、親戚が次々と病気で倒れていき、私も孤児院を離れることができなかったから、隼人は小学生のうちにもう、一人で暮らせるようになった。少なくとも私は、そう思っていた」
「違ったんですか?」
「隼人は一人で暮らしていた。だが、まだ小学生の子供が、一人で暮らして普通に成長することなど、できるはずがなかったんだ」
「どういう……ことですか?」
佐川は嫌な展開を悟った。
「もしもの話だが、お前は小学生の頃、以前はだれかしら迎えてくれた自分の家に、帰ってもだれもいなかったらどう思う? 授業の参観日に自分の親だけいなかったらどう感じる? 悩みができたら、学校でいじめられたら、嫌なことがあったら、悲しいことがあったら……お前はどうする?」
佐川はその頃の隼人の気持ちを想像して目に涙を浮かべた。
だれもいない家に帰っても、隼人は口を開くことはなかっただろう。
嫌なことがあっても、一人で泣き続けることしかできなかっただろう。
泣いてもだれも来てくれないことに気付いて、さらにまた涙を流しただろう。
そしておそらく、隼人の心は歪んだだろう。
「私は……毎日子供の笑顔を見れて幸せだった。妻が守ってきた子供たちを今度は私が守らなければ、この子たちを私が社会に送り出さねば、私の心はそういったもので埋まっていた。隼人のことは忘れたわけではなかったが、困らず生活できているなら問題はないだろうと思っていた。感情物質が人に与える影響はその人の心の強さによって変わる。隼人が感情物質に弱い身体になったのは、私のせいだ」
ボスは重々しく、罪悪感に満ちた声で言った。
「隼人をあんな目に遭わせたのは…………私だ」
佐川はこらえきれず、その閉じた目から一粒のしずくが流れた。




