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狂魔伝  作者: ラジオ
第一章
12/67

story11‐‐交錯‐‐

 休憩室に戻ると、珍しく岩谷が顔を見せていた。いつも研究室にこもってほとんど顔を出さないが、今日は休憩室で、「俺は休暇をとれるんだ!」と叫び回っていた。

「テンション高いですね」

 泉は激しい温度差を感じながら岩谷に言った。

「だって明後日は家に帰れるんだぜ? こんな殺風景な建物に隔離されていた俺の気持ち、()(なえ)きっとならわかってくれるぜぇ」

「香苗って人がこの人に溺愛されてるかわいそうな奥さんだよ」

 佐川が泉の耳元で囁いた。

()()雛子(ひなこ)も俺を待っているぜ、ベイベー!」

「沙希ちゃんと雛子ちゃんもこの人に溺愛されてるまだ五、六歳のかわいそうな子」

「会ったことあるんですか?」

「奥さんに同僚を招待するよう言われたみたいで、一度みんなで行ったことがあるの。ここから結構近いし。このおじさんには似合わないくらい奥さんも子供もかわいいんだよぉ」

 佐川の顔がほころんでいた。

「いいですねー。あたしも会ってみたいなー」

「君たちも彼氏の一人ぐらい作ったらどうなんだ?」

 岩谷がからかうように泉と佐川に言った。

「家族はいいぞー。こんな仕事についてるとなおさら家に帰った時の幸福感がたまらない」

 岩谷は語尾にハートマークでも付きそうな口調でどんどん酔うように喋った。

「お前らも早く自立して家庭を築けるといいな」

 佐川は気分を悪くしたように岩谷から顔をそらした。

「なあ佐川、お前ばあさんになってもずっと一人でいるつもりか?」

 佐川の様子に気付いた岩谷が佐川に詰め寄る。

「ほっといてください」

「なあ佐川、俺は本気で言ってるんだ。もう一度家族が欲しいって本当に思わないのか?」

 もう岩谷は酔ったような喋り方ではなく、一人の友人として真剣な口調になっていた。

「ほっといてって言ってるでしょ! あたしに家族の話なんてしないでよ!」

 佐川は岩谷を思い切り蹴り飛ばして出て行った。

「今のは岩谷さんが悪いな」

「岩谷、もう少し気を遣ってやれ」

「ちょっと酔っ払いみたいでしたね」

 皆が岩谷を非難した。

 小塚も無言のまま目を細めて床で天を仰いでいる岩谷を睨んでいた。

「でも、あいつだって家族を持った方が絶対に幸せになるに決まってるだろうが」

 岩谷は天を仰いだまま言った。

「佐川さんって……もしかして……ご家族いらっしゃらないんですか?」

「大分昔に狂魔に殺されちまったのさ。それもあいつの目の前で」

「そんな……」

「だから俺は、あいつのためを思って言ったんだ。新しい家族を持てば、昔の痛みも自然と癒えてくると思うんだ」

「それはあんたが痛みを知らないからそんなことが言えるんだろう」

 口を閉ざしていた小塚が珍しく自分から声を発した。

「あんたの家族が目の前で殺されても同じことが言えるのか?」

 言いながら小塚は休憩室を出て行った。怒っていたようにも見えた。

「だいたい、あいつも運がなさすぎるんだ。母親がすでに強制記憶消去剤を打たれてなけりゃあんなことも忘れられたのによ」

 岩谷の話によると、一度強制記憶消去剤を打たれたものが子供を産んだ場合、子供に免疫ができ、強制記憶消去剤が効かないことがあるという。佐川はその一例だった。また、強制記憶消去剤を打っても事実は身体の隅々にまで刻み込まれるため、完全に記憶を消すことはできず、時間が経てば思い出してくることもあるという。

 岩谷はさらに自分が発明した新しい対狂魔用の道具を懐から取り出して説明し始めた。

 視神経を強く刺激する特殊な光を放出する小型ライト。光を放つ方向と広さが極端に限定されているため、うまく隙を作って目に当てないと効果がないようだ。しかしうまく狂魔の目に当てれば相手を確実に失明させられるという。狂魔は身体中の神経が極限まで興奮しているため、神経系の刺激に弱いが、万が一普通の人間の目に当ててしまっても少し痛むだけで視力の低下はさほどないという、安全性が配慮されている道具だった。

 さらに、何かこのライトとは比べ物にならないようなものももうすぐ完成するというようなことを仄めかして、岩谷は研究室に戻っていった。

「岩谷さんってすごい方なんですね。防護クリームも記憶消去剤も、あの狂魔化患者さんの病室の天井の光だって岩谷さんが開発したんですよね」

「まあ、あいつは天才だからな。ただちょっと空気が読めないというか……」

 ボスはまた書類に目を通して狂魔の謎を考え始めたようだった。

 しばらくして、自分のソファでくつろいでいた泉に隼人が声をかけた。

「安藤さん、これからランニングに付き合ってくれない?」

 泉は小塚との訓練でそれなりに疲れていたが、自分も体力をつけた方がいいと思い、一緒に行くことにした。





 隼人は下水道を長い間走って以来、自分の体力に自信を失い、毎日施設の機械で体力をつけることにしたのだと泉に説明した。

 隼人は自分のことを他のメンバーよりも使えないと蔑み、責めていた。しかし泉は、それでも少しでも他のメンバーの役に立ちたいと努力し、貢献しようとする隼人の組織への思いは、他の誰よりも強いんじゃないかと思った。

「力だけが全てじゃありませんよ」

 泉は慰めるように言った。

「組織に貢献したいという思いが、他の人にはできない行動を生むことだってあると思いますよ」

「君はほんと、たまに妙に大人びたことを言うね」

 隼人は軽い足取りになって地下一五階の訓練施設まで歩いていった。

 『B15』と中央に大きく彫られた扉の先には、ボックスのある地下一二階の訓練施設よりも広い空間があるようだった。栗原がボスに片付けてもらうと言っていた地下一二階のトレーニング用の機械は、全てそのままここに移されたようで、地下一二階にあった時と比べれば大した息苦しさは感じられなかった。

 隼人はランニング用の機械を作動させた。

「安藤さんは走らない?」

「あ、えーっと、走りたいんですけど……」

 機械慣れしていない泉は、隼人が機械を作動させるのを見てはいたが、何をどうしたのかよくわかっていなかった。

「ああ、画面の起動のボタンを押して、速度を決めれば動くよ」

 隼人は泉が操作の仕方がわからないのを察したように丁寧に説明した。

「すみません。ありがとうございます」

 隼人は微笑んだ。

「謝るか礼を言うかどっちかで良いよ。まあ俺は礼を言われる方がうれしいけど」

「あはは、そうですよね。じゃあ、ありがとうございます」

 泉はもう一度礼を言い、隼人の隣で走り始めた。

 しばらく走ると、隼人が重そうに口を開いた。

「栗原、やっぱり記憶戻ったのかな」

「失っているという子供の頃の記憶ですか?」

「ああ。栗原は様子が変わった当初、悪夢を見たと言っていた」

「確かに、夢は記憶から構成されるものだと聞きますし。可能性はありますね。でも、だとすると栗原さんはまた悪夢を見たのでしょうか? 下水道を一緒に走っていた時、戻ったら隼人さんに本当のことを話すって言ってましたし」

「本当か?」

「はい」

「……そうか」





 小塚は狂魔化患者の病室『三七五』号室の扉の前にいた。五つのパスワードのうち三つまで入力したところで手を止めた。何かを躊躇しているようだった。結局、扉の隣の壁にもたれて腕を組み、目を閉じた。

 それからさほど経たないうちに扉が開き、中から佐川が姿を現した。

「こんなところで何してるの? 小塚君」

 小塚に気付いた佐川が尋ねる。

「あいつはたぶん、善意から言った」

 小塚は何の前置きもなしに言った。

「ああ、そのこと」

 佐川はばつが悪いのか、視線がすっと下がった。

「あいつはお前に幸せになってほしいと本気で思っていたはずだ」

 佐川が廊下を歩き出すと、小塚もそれに従って一歩後ろを歩く。

「あたしも……それはわかってる。今度会ったらちゃんと謝るつもり」

「それは必要ない。あいつが悪いってことで全員一致だった」

「みんなきっと、すぐ泣く女に弱いんだよ」

 佐川が苦笑いを見せながら言った。

「お前を心配しているだけだ」

 佐川の表情が沈んだ。

「もっと強くならないと……だめだよね」

「お前は家族を目の前で殺されても狂魔化しなかった。しかも相手が狂魔なら、負の感情物質も至近距離でお前に蓄積していたはずだ」

「何が言いたいの?」

「お前は強い」

 小塚はさらっと言った。

「人類最強の戦士に言われてもねえ」

「人類最強の戦士に言われたんだ。確率は一二〇パーセントだ」

 佐川はクスッと笑った。

「小塚君、おもしろいこと言うようになったね」

 佐川は一つの個室の前で足を止めた。

「入って」

 佐川がパスワードを入力して小塚を中に入れた。

「どうしたの?」

 小塚は太陽でも見ているように目を細めていた。

「お前の部屋はいつ来ても目に悪い」

 佐川の個室は、佐川が外から買ってきた壁紙やマット、ぬいぐるみなどに囲まれた、色鮮やかなインテリアデザインだった。

「ここを縮小したら、たまにアニメに出てくる女子の部屋そのものになるな。本部の質素な部屋とのギャップで失明しそうだ」

 小塚は軽く目を押さえた。

「だって自分の部屋くらい華やかにしたいじゃない。泉ちゃんならきっとわかってくれるね」

 小塚は透明なガラスのテーブルに置かれた写真立てに目を向けた。

 『三七五』号室で撮った佐川と美奈子のツーショットだった。

「狂魔化患者と写真撮って何か悪い?」

 突き放すような言い方で佐川が尋ねる。

「別に何も言っていない」

 小塚はベッドに座った佐川に横顔を向けて、背もたれのない低い椅子に腰を下ろした。

「あの子の肝臓のドナー相手は見つかったのか?」

 心なしか、小塚の口調がわずかに重くなったようだった。

「まだ。薬を飲んで何とかしてる」

 首を振る佐川の声もトーンが低くなっていた。

「他の内臓はまだ大丈夫なのか?」

「今のところはね。でも、時間の問題。時々うなされてるみたいで……どうにか狂魔化を完全に止める方法はないのかな」

 小塚の目には、佐川がかなり思い悩んでいるように見えた。

「俺たちの頭じゃ思いつくわけないだろう。あの天才科学者でもあるめえし。あいつも方法があったらとっくに何かしてるはずだ」

 二人は黙った。

 しばらくしてから、ふと佐川が口を開いた。

「……あたし、怖いの」

 小塚は目を閉じ、静かに佐川が続けるのを待つ。

「もう一度家庭を築いたら、あたしは確かに幸せを感じると思う。でも、そのことを思う度に、頭の中にあの光景がよみがえるの」

 佐川の顔が歪み始める。

 首を切り落とされた父親。

 胸に大きく穴の開いた血塗れの母親。

 そして、組織の人間が助けに来るその最後の時まで必死に佐川をかばった、まだ幼い姉の小さな背中。

「あたしは……あたしは……お姉ちゃんを……」

「もういい!」

 小塚が怒鳴った時には、佐川は目を大きく見開き、全身を細かく震わせていた。

 佐川がへへへ、と不自然な作り笑いを浮かべて小塚の方を見る。

「もう……思い出さなくていい」

 切ない声だった。小塚はまるで自分のことのように悲しい顔をしていた。

「あたし、怖い顔してた?」

 表情の戻った佐川が訊いた。

「嫁に行けねえぐらいにな」

 小塚の方も、いつものぶっきらぼうの態度に戻っていた。

「あの光景を思い出すと、確かにいつも怖くなっちゃうんだけど、その後で怒りが湧き上がってくるの。狂魔への怒り」

 佐川は一度切ってから続けた。

 小塚はポケットに手を突っ込み、俯いて話す佐川から視線を外した。美奈子との写真を見ているようだった。

「あたし、たぶんそのうち正気を失って人を殺す。もしまた家族ができても、いつかおかしくなって殺しちゃいそうな気がするの」

「お前は家族を殺したりはしない」

「実際に殺すか殺さないかは関係ない。家族ができても、何らかの原因でその家族が死んでしまうかもしれない、っていう被害妄想を止められないの。いつも怖くなって……死にたくなる」

 佐川は両手で顔を覆った。

「……ちょっと来い」

 小塚は急に立ち上がると、佐川の個室を出て、三つ離れた別の個室へ佐川を連れていった。

「ここって、小塚君の個室?」

 小塚は黙ってパスワードを入力した。

 床、壁、天井、カーテン、テーブル、ベッド、全て真っ白だった。わざわざ色をつける手間が惜しいとでも言いたげに、室内に何の色もなかった。小塚にも、特に手を加えようという気はないらしい。佐川の個室と比べて物が少なく、だだっ広い真っ白な部屋という感じで、休憩室と似ていた。佐川の個室の初期の内装と違ったのは、筋トレ器具が奥の方に置いてあるくらいだった。

 色鮮やかな自分の部屋にいたからか、佐川は何となく寂しい気持ちになった。

 小塚は低いテーブルに置かれていた写真立てを佐川に渡した。

「子供の頃孤児院で撮った修介と俺だ」

 かわいらしい二人の子供の笑顔に、ぱっと佐川の表情が明るくなった。

「小塚君は全然変わらないね」

 言いながら佐川は小塚のベッドに腰かけた。

 しばらく眺めてから、ありがと、と言って佐川が写真を返す。

 小塚は写真を元の場所に戻してから再び話し始めた。

「お前はあの日、個室に閉じ込められていたと言ったな」

 言いながら、小塚もベッド近くのテーブルの前の椅子に腰を下ろす。

「あの日、突如修介が狂魔として本部に現れたんだ。感知器は後から反応した。本部は緊急事態として地下に修介を誘導し、地下の全ての扉を一度封鎖した。その時にお前は個室に閉じ込められたんだな。俺は地下十五階の訓練施設で訓練をしていた」

 佐川はつらそうに顔を伏せていた。

「ボスから……少し聞いた。だから、もうそんな話――」

「俺も、修介を狂魔化させるほど追い込んだ周囲の人間を殺したいほど憎んでいる。もう修介に殺されてたから殺してないだけで、生きてたら間違いなく殺してる」

「……そっか。慰めてくれようとしてたんだね」

 心配しないで、とでも言いたげに不器用な笑みを小塚に見せた。

「家族が殺されてしまいそうなら、絶対殺させないよう守ればいい」

 佐川の動きが止まった。

「家族を殺してしまいそうなら、絶対殺さないって家族に誓えばいい」

 小塚はじっと佐川を見つめていた。

「家族が死んでしまいそうな気がするなら……」

 佐川の目から流星のようにすっと涙が流れた。

「絶対死なないって思える家族を作ればいい! だから……お前はもう苦しまなくていい」

 俯く佐川は声こそ出さなかったが、顔を覆う両手からは、止めきれない涙がポタポタと床にこぼれ落ちていた。

「……そんな人……いないよ」

 その涙声は小動物のようにか弱かった。

 小塚はただ口をつぐんでいる。

 佐川は涙を拭きながらふと小塚の方を向いた。

「小塚君…………なって……くれる?」

 小塚はしばらく佐川から顔をそらしていた。

 やがて立ち上がり、扉の方へ歩いていって立ち止まった。決して佐川の方を見ようとはしない。

「寝言は死ぬか寝るかしてから言え…………落ち着いたら出て来い」

 センサーが小塚の体を感知し、扉が電子音を立てて開いた。

 小塚は個室を出ると、隣の壁に背中を預けて床まで一気にずり落ちた。右手が何かをこらえるように目がしらを押さえていた。





 理由はない。

 あるとすれば、それは僕が、少しばかり神経質で、プライドが高い人間だったから。

 あるとすれば、それは家族に、人の心を理解する力がなかったから。

 あるとすれば、それは僕に、運がなかったから。

 無数の事象が複雑に絡み合っている。

 だから、僕が家族を殺したいと思っても、それに明確な理由はない。

 それに気付いた時、僕に『家族』はいなくなった。


「――、お誕生日おめでとう」

 いつだったか、すでに僕の思考の歯車が狂い始めていた頃、一緒のクラスで仲のよかった友達がそう言いながら、教室で僕に菓子を渡した。

「ありがとう」

 僕は本心を隠してそう返した。

 彼がただ純粋に誕生日を祝ってくれていたのは、その時の僕にもわかっていた。

 ただ、それでも誕生日なんて祝ってほしくなかった。

 こんな世界に生まれてきてしまった呪わしき日だから。

 彼にそれがわからないのも無理はない。そんなこと、自分自身以外に知る人間なんているわけがないのだから。

 彼女に罪はない。だが、彼は僕の理解者だと信じていた分、僕は彼に裏切られた気持ちになった。

 そして、頭の中から声がした。

〈何が誕生日だ。君は僕のことなんて何一つ理解していない。理解しようとも思っていない〉

 自分自身の声。なのに、とても知らない声のように感じた。

〈どうして理解してくれない? 君にとっての僕の価値は、所詮、理解するに足りない存在だということ? どうしてだれ一人、僕の心を理解しようとすら思ってくれない? これが現実? これが世界? こんな世界……消えてしまえばいいのに〉

 いくら心の中で叫んでも、世界が変わるわけではない。

 だが、その時変わったものが一つだけある。

 その日以来、僕に『友達』はいなくなった。


 理由はない。

 あるとすれば、それは僕が、完璧主義者だったから。

 あるとすれば、それは僕にとっての『家族』が、愛し愛されるべきものだったから。

 あるとすれば、それは僕にとっての『友達』が、互いに理解し合うべきものだったから。

 無数の事象が複雑に絡み合っている。

 だから、僕が全ての人間を殺したいと思っても、それに明確な理由はない。

 理由など、いらない。


 森岡菊男ははっと目を開いた。ベッドの上で身体を起こしたまま眠っていたようだった。胸の中心に手を当てる。心臓よりも少し右側。心臓とは別の、だが心臓と共に脈を打つ何かがそこにはあった。

「激しく脈打つ怨みの鼓動……人への憎悪は人を殺し、世界への怨憎は全てを滅ぼす…………きっと今頃、栗原京も……」





 栗原は他に誰も客のいない老舗和風料理店『都』でいつも通りの注文をしていた。

「今日はあの嬢ちゃんはいないのかい?」

 栗原は気付かなかったのか、それとも無視したのか、年老いた店主の言葉には答えなかった。

「やめておいて」

 店主の奥さんが静かに言った。年齢の割に、上品できれいな顔立ち。そして少なからず勘も鋭いようだった。

 栗原は顔を上げずに黙々と料理を食べていた。

 栗原の頭の中は『白昼の悪夢』の後、個室で見たある少年の悪夢のことでいっぱいだった。栗原は下水道で泉と交わした約束などとうに忘れていた。なぜ急にこんな悪夢を見るようになったのか、自分の失った記憶と関係があるのか、などということも、もはや考えることはなかった。

 大好きだったはずの家族に理解されず、家族を憎悪する少年。

 友達にとっての自分の残酷な価値を知った少年の絶望。

 少年を恥辱、怒り、悲痛の闇に飲み込んだ思考の病。

 全てを悟って抱いた少年の、人間への怨み。

 栗原はこれらのことを、絶望色に塗り固められた細かい映像とともに、毎晩のように頭にねじ込まれた。

 栗原は少年に同情や共感に似て相違なる何かを感じていた。まるで、あの悪夢が事実であることを知っているかのような感覚だった。


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