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狂魔伝  作者: ラジオ
第一章
10/67

story9‐‐白昼の悪夢‐‐

 夜明け前に狂魔が出現した日から、珍しく一週間は感知器のサイレンは鳴らなかった。組織の人間は訓練こそ欠かさなかったが、油断していたと言えた。だれも、まさか白昼に、悪夢のような大惨事が起こるとは予想だにしていなかった。

 感知器のサイレンが鳴ったのは、組織のメンバーがそれぞれ狂魔との戦闘に備えて訓練をしていた、ある日の真昼のことだった。

 泉は訓練施設の黒いボックスの中で、小塚と激しい訓練をしていた。泉は感知器のサイレンに気付くと、すぐにボックスの外のベンチに置いてある感知器に手を伸ばした。

 画面には、国で残存する都会の一つである東京に、赤い円が波立つように繰り返し広がっていた。

 東京は国の首都で、以前に比べればもちろん過疎化が進んではいるが、住宅やビルがまだたくさん残っている。関東地区では最も人口が多い。黒江町からは町を一つ挟んだ場所に位置している。

「まだ真昼のはずですよね。故障でもしているのでしょうか?」

 泉の言葉を無視して、小塚は飛んでいくように訓練施設を出ていった。泉も慌てて後に続く。

 泉は訓練を始める前に防護クリームを塗っていたが、念のため、車に乗る前にもう一度個室で全身に塗り直した。

 今度は車の助手席に岩谷が座っていた。後ろでは栗原と隼人が小塚を挟んで座っていた。小塚は不満そうに顔をしかめている。

 訓練中で揃うのに時間がかかった分、ボスは猛スピードで車を飛ばした。

「岩谷」

 ボスが前を見たまま隣の岩谷に言った。

「念のために聞いておくが、感知器が誤作動を起こした可能性はあるか?」

「そりゃあありますけど、全ての感知器が一度に誤作動を起こすのは一億分の一以下の確率ですね」

「そうか。じゃあ、こんな真昼の都会で、大勢の人々の目の前で狂魔が現れたことになるのか」

 ボスが呟いた。自然とメンバーの表情も曇る。

「確かに、狂魔化はこんな真昼に進行するとは思えませんが、感知器が感情物質を感知したのは確かでしょう」

「感情物質は狂魔化した人からしか放出されないのか?」

「普通の人間も放出しますが、それこそ本当に第一段階の狂魔の一億分の一以下ですね。ほとんどゼロに等しい。感知器が、狂魔化した人間以外から放出された感情物質を感知したことはおそらくありませんね」

「まずいな」

「ええ、非常に。一般人の被害をどれだけ抑えられるか……もしかしたら三度目の神隠しが起こるかもしれません」

「みんな、作戦を伝える前に言っておきたいことがある。我々の最優先事項は一般人の保護だ。どんな方法を使ってでも人々を守れ」

 ボスはいつにもまして真剣な表情だった。本当に真昼の東京に狂魔が現れたとなれば、異例中の異例の事態ということになる。そして、被害も今までとはケタが変わるだろう。

「それから、今回はできれば生かしたまま捕えてもらいたい。なぜこんな日のあるうちから狂魔化が進行したのか、ここで知って備えなければ次も同じ事態が起こらないとは限らない」

 泉はケースの中身を確認した。

(やっぱり、この分厚い鉄かせは狂魔を捕えるためのものだったんだ……)

 ボスはメンバーの質問を挟みつつ、今回の作戦を説明していった。





 赤い円の淵まで来ると、ボスと岩谷以外の全員がケースを置いて車から降り、作戦を決行した。

「まずは狂魔探しか」

 隼人が愚痴を言うように呟いた。

「町には何の異常も見当たりませんね。人もこんなにたくさんいますけど、特に変わった様子もありません。本当にこんな時間に狂魔が出現したのでしょうか……」

 泉は周りをきょろきょろしながら言った。

「狂魔はたぶん出現してるね」

 断定口調だった。

「吐き気とか、しない?」

「確かに、何だか嫌な感じがありますね」

「俺よりは大丈夫そうだね。俺、今めっちゃ吐き気がする」

「どうしてでしょうか……?」

「負の感情物質だ」

 隼人が答えた。

「もう狂魔が近くにいるかもしれないということですね」

「ああ」

「栗原さんも様子がおかしい気がしますが……負の感情物質のせいでしょうか?」

 泉は一人前を歩く栗原に聞かれないよう、声を潜めて訊いた。

「おそらくな」

 しかし隼人の言葉とは裏腹に、泉は感情物質とは別の原因があるように思えた。何となくだが、感情物質のせいで栗原がこんな様子になるとは考えにくかった。

 三人は円の中央周辺を歩き回っていた。

 泉は初めて足を踏み入れた都会にまだ少し緊張していた。

 見たこともないような高さのビル。

 どこまでも続く住宅街。

 そして泉の田舎町の全住民を合わせても遠く及ばないほどに溢れる人々。まるで秋の夕刻に発生する蚊柱のようだった。

 泉は広大なはずの都会で、なぜか妙に息苦しい密閉感を感じた。

 やがて三人のトランシーバーに小塚と佐川の方から連絡があった。

 どうやら、円の中心の会社の中の人間が全員殺されていたようだった。

 それからすぐに大通りの向こうからから幼い子供の悲鳴が聞こえた。

 大勢の人がたかって何かを囲んでいるようだった。

 先に気付いた栗原が真っ先に人だかりに走っていく。

 人だかりの真ん中には、血塗れのスーツを着た男性と、サングラスをかけた少女の姿があった。

 少女の手には血の付いたナイフが握られていた。

 先ほど悲鳴を上げたらしい女の子は血まみれの男性の娘なのか、放心したようにふらふらと男性に歩み寄っていった。

 栗原が隼人と泉に向き直って指示を出す。

「二人は手分けして一般人を誘導し、避難させてくれ。僕はボスに連絡してあの狂魔を作戦通りにおびき寄せる」

「わかりました。気をつけてください。すぐに援護に向かいます」

 泉と隼人は声を張り上げ、別々に一般人の誘導を始めた。

 男性と狂魔の少女を取り囲んでいた人々は、泉たちの声で我に返ったように悲鳴を上げてその場から走って逃げ出した。

 幼い女の子がただ一人、血まみれで倒れ、すでに絶命している父親の身体にしがみつくように抱きついた。この年で死を理解したように泣き叫んでいる。

 狂魔の少女がその幼児の方を向き、口が裂けそうなほどの笑みを浮かべた。

 腕を振り上げ、女の子を手にかけようとしたその瞬間、狂魔の少女の頬を静かに弾丸がかすめた。

「チッ。外したか」

 三十メートルほど離れた距離から、栗原が銃口を向けていた。

 狂魔の少女が瞬時に物陰に身を潜める。

 栗原は近づきながら発砲し、半ば無理やりに幼児を父親から引きはがして抱いた。

 顔を上げた時には狂魔の少女はすでに、逃げている途中に吐いて地面に倒れ伏していた人々に追いつき、手にもったナイフで次々と斬り刻んでいった。

「負の感情物質にやられたか。つくづく平和しか知らない奴らだな」

 死体となった人々に憐れみの眼差しを向けてそう毒づいた栗原は、比較的落ち着き払っていた若い女に子供を預け、狂魔からある程度の距離を取った。そして後ろ姿の狂魔に向かって発砲し、挑発を始めた。

「こんな幸福な人間を助ける必要があるのか?」

 栗原は口に出して自問してみた。

 周りに生きている人がいなくなって、返り血で真っ赤になった狂魔の少女が、最も近い栗原の方を向いた。まるでサバンナの大型の動物を食い荒らす狂人のごとき形相だった。

「本能崩壊型か……どちらにしろ、一般人の避難が完了するまでは迂闊に戦えないな」

 狂魔の少女が自分の方を向いたのを確認すると、栗原は威嚇射撃をしながら全速力で反対へ走り始めた。

「被害は三十七人か……」

 栗原は自業自得だとでも言いたげな冷たい表情で呟いた。





 避難を終えて栗原の援護に向かおうとした泉は、ふと、感知器の画面にいくつもの赤い円が重なっているのを確認した。

 自分の目を疑った。

 一般人の騒音でサイレンが聞こえなかったようだ。

 慌ててポケットからトランシーバーを取り出すと、すでに声が聞こえていた。

『応答しろ、安藤』

 泉はすぐに応答して事の次第を説明された。

 どうやら泉と同じく一般人の誘導をしていた隼人が、住宅から出てくる血塗れの盲目の若い男――理性崩壊型の狂魔を発見して誘導を始めているらしい。

 また、小塚と佐川も別々に一般人の避難をしていた最中にそれぞれ本能崩壊型の狂魔と遭遇。やはり目が見えないらしいことがわかっている。二人ともすでに狂魔の誘導を始めているようだった。

 本部の感知器が感知するのにある程度時間がかかるとすると、ここにきて気分が悪くなったとき、すでに何人もの狂魔化が始まっていたのかもしれない。

『非常にまずい。緊急事態だ。狂魔がこんな時間にこんな数現れるのはどう考えてもおかしい』

 ボスの声は珍しく切羽詰まっていた。

『現在、栗原と隼人が誘導作戦に成功。小塚と佐川は人がいない方へ何とか誘導しているが、まだ作戦通りにはなっていない。場合によっては、小塚と佐川が合流して狂魔に挟み撃ちにされてしまう可能性も……いや……どうやら本当になってしまったようだ』

 そこで小塚から連絡が入った。

『作戦失敗。これから戦闘に入る』





 小塚が背中合わせの佐川に言った。

「今すぐお前は栗原か野芝に合流しろ。今のあいつらが一対一で追いつかれたら九十九パーセント死亡する。こいつらは俺が何とかする」

「勝算は?」

「今日は二本使う」

 小塚が背中に背負った二本の鞘から両手で二本の刀を取り出した。

「うん、わかった。でも、それ形見なんじゃなかったの?」

「死んだら形見だって思えなくなるだろ。それより、死ぬかさっさと走るかどっちかにしろ」

 佐川は路地に抜けて近いほうの隼人と合流することに決めた。

「これから隼人さんに合流します」

 佐川がトランシーバーに連絡すると、一瞬の沈黙の後ボスが察したように応答した。

『わかった』





『安藤、お前は栗原と合流するんだ』

 ボスから泉へ指示が出た。

 佐川が、小塚を残して隼人に合流すると報告した直後だった。

「でも、それでは小塚さんが……」

 訓練を受けているとはいえ、普通の人間が狂魔と一対二という状況は、圧倒的を通り越し、絶望的なほどに不利であると言えた。そんな状況にも関わらず、ボスは小塚に助けは不要だと判断した。

『問題ない』

 ボスは言い切った。

「一人で狂魔を二人も相手にするなんて無茶ですよ!」

『お前、小塚を舐めてるのか? あいつが本気を出せば、たとえ狂魔が二人がかりでも相手になりはしない』

 ボスは戦闘に関して、小塚によほどの信頼を置いているらしかった。

 泉が正式に組織に加入してボスの部下になってからは、『安藤』や『お前』と、今まで以上にボスの威厳が感じられるようになっていた。

 泉は反駁したい気持ちをそがれ、気圧されたように渋々了解した。





(……まずすぎる)

 岩谷は険しい顔で感知器を見つめていた。

 天才科学者岩谷も、画面に赤い円が四つも重なって表示されるという、奇妙で異常な現象を見るのは初めてだった。額に汗が浮かんでいる。

 今は科学者としてのこの現象の興味より、組織のメンバーとしての、他のメンバーの身を案じる思いの方が勝っていた。

 ボスが指示を終えた後の車内は、異様に静かで空気が重苦しかった。時折車の窓から、どこかから逃げてくる騒々しい群衆を見かけたが、それ以外ではほとんどひと気がない。都会だというのに、車の外も廃墟のように静寂に包まれていた。

 やがて、岩谷が息苦しさに耐えかねたように口を開いた。

「まずいですね。一般人の被害を減らすためとはいえ、下水道に狂魔が二体も入りこむとは」

 口に出しても、ボスは何の返事もしない。

「暗く狭い下水道での戦闘は、当初の狂魔を挟み撃ちにする作戦でもかなりリスクがありました。しかし、下水道に入り込んだ今の二人の危険はそれどころじゃありません。このままじゃ追いつかれて二人が殺されるのも時間の問題ですよ。お互い下手に近付きすぎて狂魔が標的を変えても、どちらかが逆に挟み撃ちに遭って終わりです」

 岩谷はボスの方を向いた。

「どうするんですか?」

 思い切って直接訊いた。返答を待ったが、ボスは沈黙していた。

 言葉が聞こえているのも、黙っているのは考えている証拠であることも、旧知の仲である岩谷にはわかっていた。そしてボスが、メンバーがピンチになるほど奇抜な打開策を思いつくことも。だからこそ、岩谷はあえて危機感を煽るように言った。

「ボス。いつまでも考えていては、栗原も隼人も死にますよ」

 ボスは腕を組んで目を閉じ、眉間にしわを寄せていた。





 隼人はボスと岩谷の指示通りに下水道を進んでいた。

 薄暗い下水道をライトで照らしながら走っている。響いている足音は隼人のものだけらしい。

 やがて前方から女性の声が響いた。

「隼人さん」

 暗闇の中で佐川が手を振っていた。

 佐川と合流した隼人の表情は、かなり疲労しているように見えた。

「相手は目が見えないんでしょう? ここに来る前に銃は使ってみたんですか?」

 隼人の隣を走りながら佐川が聞いた。

「だめだった。たぶん聴力が桁外れに良いんだろう。引き金の音で全身をそらしてかわされたんだ」

「体力は?」

「正直まずいね」

「あたしが代わりましょうか?」

「女の子をこんなところで一人にできないよ。言っとくけど、めちゃめちゃ怖いよ」

 佐川が息をのむ。

「いつ追いつかれて殺されてもおかしくない死の恐怖。自分の足音しか聞こえず、実は正面から急に現れるのではないか、なんていう妄想的恐怖。さまざまな恐怖と闘いながら、か弱い女の子の君が一人で走れる?」

 佐川が表情を固くした。佐川はただでさえ、閉鎖的な暗い場所は苦手だった。

「とりあえず、ボスに連絡した方がいいと思います」

「そうだな」





 じっと黙り込んで考えていたボスが目を開けた。

『ボス、正直俺、もってあと五分ってところだ』

 隼人からの連絡だった。息を乱しているのがトランシーバー越しでも伝わってきた。

『早く次の指示をくれ』

 隼人がせかす。

 もう栗原と隼人が下水道に入ってから、かなりの時間が経過していた。特別に訓練した身であっても、そろそろ狂魔に追いつかれてしまってもおかしくはない。

「ボス。本当にまずいですよ。何か案はないんですか?」

 岩谷も、あまり顔を合わすことがないメンバーであるにしても、顔が強張るほどに彼らの身を案じているようだった。

 ボスは大きな溜息をついた。

「一つだけないこともないが、失敗したら四人とも死ぬかもしれない」

「やっぱり、案がないってこともなかったんですね」

 岩谷は悟っていたというふうに言った。

「この作戦が、今この状況で本当に最善の策なのか、私にはわからないんだ。どうしてもリスクを考えると、後からもっといい策を思いついて後悔するかもしれないと思ってしまう」

「ボス」

 岩谷が強い口調で促す。

「ああ。わかってる。迷ってる暇はない」

 ボスがトランシーバーを手に取った。





 泉は車から出る時にボスから渡された専用の工具を使って、マンホールの蓋を開いた。

 中に入って少し待つと、すぐにライトが見え、栗原の姿が現れた。

 泉と合流した栗原はかなり息を乱していたが、顔にはまだ余裕の表情が窺えた。

「あの、こんな緊迫した状況で悪いんですけど、栗原さん、最近様子がおかしいですよ」

「確かにこの状況にそぐわない話だ。でも心配してくれなくても大丈夫だ」

 心なしか言葉に刺々しさを感じた気がして、泉は寂しさを感じた。

「隼人さんとは長い付き合いじゃないんですか? もし嫌でしたら、あたしには話さなくても構いません。でも、せめて隼人さんには話してもらえませんか? 何というか、今のお二人は、お二人らしくありません」

「僕たちらしく、か」

 しばらくの間、栗原は何も喋らなかった。

「どうかしましたか?」

 泉が心配そうな声音で訊いた。

「悪い。安藤さんの言うとおりだな。これが無事済んだら、態度を改めて隼人に話すことにするよ」

「はい。ありがとうございます」

 いつもの栗原に戻った気がして、泉の顔に笑みが浮かぶ。

 泉が栗原に合流してしばらく経ってから、二人のトランシーバーにボスから次の作戦の説明があった。

『今、隼人と栗原の間にある発信機は岩谷のものだ。マンホールを開いて待っている。隼人と栗原はそのマンホールでちょうどぴったり出会うようにしろ。出会ったらすぐにマンホールから地上に上がるんだ。全員出たら蓋を閉じて狂魔二人に殺しあってもらう。少しでもタイミングがずれたら遅れた方がやられる。だがもうこれしか方法がない。すまない。健闘を祈る』





 指示を終えると、ボスは車の中で一人再び大きな溜息をついた。

 メンバーの命をだれよりも案じるボスにとって、このリスキーな作戦を決行するのには勇気が必要だった。だが、命を案じていたからこそできた決断とも言えた。

 下水道での戦闘は危険極まりないもの。下水道の暗さと狭さ、そして何よりも、複雑に入り組んだ通路が組織のメンバーには圧倒的に不利だった。メンバーが狂魔の確かな位置を知ることはできない。相手が理性崩壊型ならば、突然真正面から出てくることだって可能性としては考えられる。目の見えない二人の狂魔にとっては、ここまで圧倒的に有利と言える状況は他にない。

 メンバーが下手に狂魔を連れて地上に上がっても、残っている一般人が危険になる。地上に上がってすぐにマンホールを閉じてたとしても、狂魔の行方を見失ってしまう恐れがある。そうなれば、感知器でも行動範囲を限定するだけで、真昼のこの時間なら、被害は甚大なものになる。

 もはやボスに唯一残されたできることは、この作戦がうまくいくことを願うくらいのことだった。

「頼むから、もうだれも死なないでくれ」

 ボスの口から絞り出された声は、まるで一度愛する者を失った男の切実な願いのようだった。





「隼人さん。あとはここをまっすぐこのペースで走るだけです」

 隼人は青ざめた顔をして走っていた。

 佐川の言葉に返事をする余裕すらないようだった。

 やがて、たまりかねたように隼人は立ち止まり、下水の中に吐いた。

「隼人さん、今は止まっちゃいけません。狂魔二人分の感情物質で気分が悪くなるのは仕方がありませんが、今は吐きながらでも走り続けなきゃいけません」

 それでも動こうとしないのを見て、佐川は隼人の腕を取り、隼人を乱暴に引きずるように走り始めた。

「今止まったら栗原さんたちも不審がるはずです」

 隼人は後ろ向きに引きずられながら、ずっと向こうの暗闇に目を向けた。不審に思ったのか、佐川に掴まれていない方の手を懐に突っ込む。

 ライトを取り出し、光を向けた先には人がいた。まだ大分距離があるが、確かに隼人が地上で見た狂魔の若い男だった。

「佐川……後ろに……狂魔が来てる」

 弱々しい声で言った。

「結構早い。疲れてないのかもしれないですね」

「俺を……置いていけ」

「そんなばかなことできるわけないです。ボスに殺されちゃう」

「俺は……メンバーで一番弱い。親父もたぶん……俺が一番使えない奴だと……思っている」

「たとえ一番使えなくても、隼人さんはボスから愛されているはずです」

「いいから……置いていけ」

「いいかげんにしてよ! あたしはもう、家族が死んで悲しむ人を見たくないんです!」

 佐川が怒鳴った。

 不意に銃声が響いた。

「隼人さん? 何を?」

「少しでも遅らせられるかと思ってな」

「銃撃つ暇があったら走ってくださいよ」

 佐川は走りながら隼人の身体を起こし、手を引いて隼人を走らせた。

「もうすぐです」

 佐川が言うのと同時に、前方に光が差しているのが見えてきた。

 マンホールの下まで来ると、泉と栗原がすぐ向こうから走ってくるのが見えた。

「急げ!」

 隼人は向こうの二人に叫んでから地上へ出た。

 佐川が出てきてすぐに栗原と泉も出てきた。

「何とか間に合ったか」

 岩谷はそう言うと、マンホールの蓋を閉じた。

「じゃ、俺は車に戻ってる。気をつけろよ」

 岩谷は早足に去っていった。

「出てくる狂魔はあたしと安藤さんに任せて、二人も車に戻っていてください」

「そうですよ。あとはあたしたちに任せて休んでください」

「悪いな」

 二人に男は情けなく声を揃えて言った。





 泉と佐川はマンホールからある程度の距離を取って、いつ出てきても応戦できるように身構えていた。

 やがて手もとの感知器の反応が一つ消え、マンホールから生き残った狂魔が現れた。

「うそ……」

 佐川は驚嘆して裏返った声を出した。

 マンホールから出てきたのは少女の方だった。もう片方の狂魔は目にしていなかったが、佐川は何となく、出てくるのは自分を追いかけていた方な気がしていた。少女は口から血を流していた。

「あの若い男がこんな女の子に負けるなんて」

「狂魔化の進行状態が違ったんじゃないでしょうか? この女の子の方だけ第三段階まで進んでいたのかもしれません」

 泉の鋭敏な頭脳が佐川の強い疑問を解消した。

「そういうこと……」

 少女は二人を見つめ、不気味な笑みを浮かべながらふらふらと近づいてきた。

 第三段階まで狂魔化が進むと、人間離れした筋力を得る代わりに内臓の機能が低下する。泉は少女の内臓がもはやほとんど活動していないのを悟った。

 佐川が銃を構えて撃つと、弾は何の抵抗もなく少女の眉間を貫通した。





 泉と佐川が車に戻ってきたとき、ちょうど反対側から無傷の小塚が二人の狂魔を引きずってきた。

「本当に一人で……」

 泉は驚嘆したように言った。

「君たちこそ早かったね」

 栗原が痛そうに頭を押さえながら言った。

「下水道の戦闘でほとんど体力がなくなっていたようでした。ボスの作戦のおかげで無駄な戦いをしないで済みました」

 泉が答えた。

 小塚が連れてきた男二人は、両方とも手足の腱を切られているようで片方は鉄かせ、もう片方は後ろ手で刀を両腕に通されて拘束されていた。

 小塚は刀が刺さっている方の男を車に押し込んだ。

「もう片方は死んじまった」

「上出来だ」

 岩谷は上から目線の物言いで褒めた。

 岩谷も車に乗り込み、狂魔の男と向き合った。

「これから岩谷さんは何をするんですか?」

 泉が車から降りていたボスに聞いた。

「拷問だ」

 ボスは低い声で答えた。

 時折、車から鋭い悲鳴が聞こえ、十分ほど経って岩谷が出てきた時には、車の中の男はもう絶命しているようだった。

 岩谷が聞き出した情報によると、知らない男が彼に会い、近くに住む彼と同じ失明者の情報を尋ねられたので、失明者の知人のことを教えたという。また、以前から周りの人たちから差別や疎外などの精神的苦痛を受けていたのが狂魔化の原因と思われた。彼に会いに来た男の特徴についてはわからないまま終わった。

「その謎の男……日光による狂魔化の抑制が、その大部分は視覚的効果によるものだと知っていたのか?」

 岩谷は険しい表情で呟いた。





 その日は本部に戻るとすぐに全員個室で眠り始めた。

 だが、ボスだけは警察と連絡を取りながら忙しく立ち回っていた。死体の後処理、被害状況の確認、さらには狂魔の正体を隠すための情報操作なども行う必要があった。

 組織の人間が『白昼の悪夢』と呼び始めたこの事件を、報道機関は、テレビのニュース速報や翌日の新聞で、百名を超える死傷者を出した同時多発通り魔事件と世間に伝えた。


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