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康彦のプロポーズを受けてから稲子は、これまで彼が話していたことを思い出していた。中でも衝撃を受けたのは、康彦がかつて愛した女性のことだった。
康彦は15年前、五歳年上の女性と暮らしていた。まだ20歳になったばかりの彼が、これからふたりで未来を築こうというとき、最愛の女性は病魔に侵され死んでしまった。その時の彼の慟哭がどれほど痛烈なものであったか、稲子は想像にも及ばなかったけれど、康彦は言葉少なに、彼女は一番いい時だった、としか稲子に話さなかった。
そのことを初めて聴いたとき、稲子はその女性と康彦とのことは、康彦自身の過去の哀しみとして受け止めていた。そして康彦が話す過去の楽しい暮らしの中には、その傍に彼女が共にいるとの思いで聞いていたけれど、それは稲子にとって、若い日の輝いた思い出を持つ康彦を眩しい存在として感じるに値するひとこまにすぎなかった。
だが、今は違う。稲子自身が康彦から結婚を申し込まれたのだ。自分が康彦の女としての対象になれば、思い浮かぶのは、彼のかつて愛した彼女のこと。
どんな顔をした女性だったんだろう、性格は?ふたりはどんな会話を交わしたのだろう?そして睦んで交わるふたりの姿さえも頭をよぎった。
いま自分はすでに中年の域に達している。人を深く愛した経験もない自分が、康彦と同じレベルの愛を折り重ねていけるのだろうか。これまでふたりであちこちへ行って楽しんだことが、いま考えてみると、康彦の気持と自分のそれとは全く別のような気がしてきた。
もしかして、康彦は彼女との思い出の場所へ自分を連れて行ったのかもしれない。その景色を眺めていた康彦の横顔が、その女性と眺めたことを思い出して感慨にふけっていたような気もした。
稲子はこれまで彼と楽しく語らい、遊び、元気をもらってきたことを虚しくさえ感じるようになっていた。




