*4
翌日から、稲子は重症のクライアントのことで大忙しだった。20代になってから引き篭り始めた青年、家で暴れているからと母親だけが来院しているケース、どれも稲子には気の重いカウンセリングだ。
稲子はこの間のコンサートのことはすっかり忘れていた。
一か月程経った日の、仕事が終わって帰宅しようとしているとき、稲子の携帯が鳴った。コンサートが始まる前に、康彦と交換していた携帯の番号に掛かった電話だ。
「もしもし、稲子です」
「コンサートでご一緒した康彦です。ご無沙汰していました」
もの静かで、快い康彦の声――。
「あ、こちらこそ。お元気でいらっしゃいました?」
「はい。稲子さんも?ところで来月三日の夜、お時間おありでしょうか」
「えっ。なにか?」
「実は僕、母校の大学のOBオーケストラに所属してるんですよ。今年もコンサートの時期になったもので、いらしていただけないかと……。美恵さんもご一緒できると言ってるんです」
「うわぁ。素敵!是非聴かせていただきたいわ」
OB演奏会で、康彦はチェロ奏者として所属していた。稲子はピアノ以外ではチェロが一番好きな楽器だったので、康彦がチェロを弾くことを知ると、とてもうれしい気がした。
--*--
演奏を聴きに行ったのをきっかけに、康彦は稲子に親近感を持ったのか、時々電話をかけてくるようになった。お互いの休みを調整して遠くまでドライブもした。海を見たいという稲子を、灯台が見える岬まで連れて行ってくれた。
「美恵ちゃんも誘えばよかったわね」
「うん。まあ、そりゃそうだけど……。僕と二人だけじゃつまらない?」
「そういう意味じゃなくて、なんとなくそう思っただけ……」
康彦は稲子の気持ちを確かめるように、ちらっと稲子の横顔に目を遣った。
「やっぱり海は気持ちがいいわね。いやなこともすっかり忘れちゃうわ」
稲子は康彦の話を逸らすかのように、岬の崖に歩を進めて、眼下の海を見下ろしながら言った。今までどの男性にもそうしてきたように、稲子はプライベートの域に立ち入られる会話は苦手だった。
その夜康彦は稲子をマンションまで送った。
「今日はとても楽しかったわ。じゃあまた!」
車を降りた稲子は、運転席にいる康彦を覗きこむように腰をかがめて手を振り、さっとビルの中に姿を消した。
康彦は稲子の後ろ姿が見えなくなった後も、すぐに車を発進させることはなく、マンションの階上の部屋に灯りがつくのを確かめた後、静かに車のエンジンをかけるのだった。




