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謀婚 帝国編  作者: 樫本 紗樹
四章 それぞれの願う道

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幸せな人生

 帝国会議が終わった夜、アナスタシアは来賓の間の前にいた。彼女がこの部屋に入るのは父ミハイルと面会して以来である。彼女は扉の前で一度深呼吸をすると扉を開けた。そこには兄ゲールマンとイーゴリが待っていた。彼女は記憶の中よりも老けた、それでも向けられる眼差しの優しさが昔と変わらないイーゴリの態度を嬉しく思いながらも、それを表に出す事なくゲールマンの前に腰掛けた。

「ご無沙汰しております、兄上。イーゴリ」

 アナスタシアは公の場でないので皇妃ではなく、妹としてゲールマンに笑顔を向けた。昔のように見張りはいないので気を遣って話す必要はない。

「あぁ。皇妃として立派になっていて驚いたよ」

「ありがとうございます。私なりに皆を守ろうと必死でしたから」

 そう言いながらアナスタシアの脳裏に色々な苦労が蘇る。全てはシャルルに嫁いだ時から始まった。シャルルが好意的ではなかった事、ルイを奪われて生きる気力をなくした事、その時生きる希望を与えてくれたのがシャルルだった事。

「農業を手伝っているという噂は聞いている。父上は多分呆れていると思う」

「そうでしょうね。それでも私は女神マリーを信じてここまで生きてきました。そのおかげで今回、陛下と共に神託を受ける事が出来たと思っております」

 アナスタシアの言葉にゲールマンとイーゴリが驚く。驚くのも無理はない。神託は女神マリーの血を継ぐ者にしか受けられない、だからこそ教皇であり皇帝であり続けられるのだ。まさか血縁関係のない者が神託を受けられるなど、本人でさえ思っていなかった。

「神聖なる森も神殿もとても神秘的な場所でした。私は女神マリーに呼ばれて陛下に嫁いだのではないかと感じました。ですから陛下の妻として一生を全うしようと思っています」

 アナスタシアの表情は笑顔のままだ。苦労しているだろうと思っていたゲールマンは、予想外の充実している表情の妹に困惑の表情を向ける。

「連邦制になったらアナスタシアを連れて帰るつもりだったのだが」

「私はここでシルヴィ様と共に女神マリーの教えに従って生きていきます。北方の皆には私が元気で暮らしていると伝えて下さい」

 強い眼差しを向けられ、ゲールマンはそれ以上アナスタシアを説得する言葉を見つけられなかった。彼はここまで辿り着くのに時間がかかり過ぎたとわかっている。広大で多民族が暮らすシェッド帝国。各領主に連邦制の話を持ち掛けても、なかなか足並みが揃わなかった。そして漸くまとまりかけた時に西方の民が耐えきれず行動を起こした。だが、結果的に彼の希望通りになったのだ。妹が皇宮に留まる、という事以外は。しかし、彼女の働きがあってこそ混乱は最小限で話が進んだのだから、彼女を皇宮に留めておく方が未来の為なのだという事もわかっていた。

「わかった、皆には伝えよう」

 そう言うとゲールマンは立ち上がった。

「少しだけ席を外す。すぐ戻る」

 アナスタシアの返事を待たずにゲールマンは部屋から出て行った。二人きりになり部屋には静寂が訪れる。イーゴリは言葉を探しているのか彼女をただ見つめていた。無言の視線に耐えられなくなった彼女は笑顔を浮かべる。

「イーゴリは今誰と暮らしているのかしら」

 アナスタシアの問いにイーゴリは首を横に振る。

「私はずっと北方の民の為に生きてきましたので結婚はしていません」

「ルジョン教では結婚をし、家庭を持つ事を推奨しているのに」

「申し訳ありません。貴女以外の女性とは向き合えませんでした」

 イーゴリは少し悲しそうな表情を浮かべる。アナスタシアも心苦しくなった。いつかは彼に顔を向けられないと思っていたはずなのに、今は何の迷いもなく彼と向き合っている。嫁ぐ前に命を北方の民の為に捧げてと伝えた事が彼を縛ってしまったのかもしれないと思うと、彼女は責任を感じてしまった。それが表情に出ていたのか、彼は申し訳なさそうな声を出す。

「アナスタシア様は何も悪くありません。私が勝手にアナスタシア様を思い続けて――」

 アナスタシアは手を出してイーゴリの言葉を遮った。彼も急に出された手に驚き、言葉を飲み込む。

「あれから三十年過ぎたわ。もう私は初恋を大切にしていられるほど若くない。皇妃としてルジョン教をあるべき姿に戻す事が私の役目なの」

「アナスタシア様は幸せになるべきです」

「私がいつ不幸だと言ったかしら。勿論、この三十年の間で辛い事もあった。それでも今は幸せなの。皇妃として各地の畑に愛娘が送ってくれた種を植え、皆で育てるなんて北方では出来ないわ。私が昔からマリー様に憧れていたのは、誰よりもイーゴリが知っているでしょう?」

 アナスタシアは微笑んだ。イーゴリはもう返す言葉がない。

「北方の民が飢えているとは聞こえてこなかった。本当にありがとう。兄と北方の皆をこれからも支えてね」

「……かしこまりました」

 それから二人は無言のまま、ゲールマンが戻ってくるのを待った。



 アナスタシアは久しぶりにシャルルに呼ばれ、彼の寝室を訪れた。ベッドの上に腰掛けて待っていた彼は隣に腰掛けるよう手で隣を指し、彼女は大人しくそれに従った。

「ナーシャ、これでよかったのか」

「何の話でしょうか」

「嫁いできた時、ナーシャの心の中には北方領主についてきた彼がいたのではないか」

 一体誰がシャルルに告げ口をしたのだろうとアナスタシアは呆れた。しかし彼女の中では既に終わった事だ。下手に隠すよりは話してしまった方がいいだろうと、彼をまっすぐ見つめる。

「昔の思い出です。何の穢れも知らない少女の私が永遠に彼を想っている。それくらい許して下さい」

「私の前でまで無理をする必要はない。常に皇妃でいるのは辛いだろう?」

「無理などしていません。私はナタリーを心から愛しています。陛下に叩かれた時、私の心には変化がありました。それ以降、陛下はかけがえのない家族なのですよ」

 アナスタシアは微笑んだ。それは嘘偽りのない、心からシャルルを大切に思っているという感情が溢れた笑みである。彼も柔らかく微笑む。

「家族と思っていながら、とんでもない提案をしたのか」

「あれはナタリーを守るものでした。私にとって子供はナタリーだけですから。あの時ジャンヌ様が男児を産んでいたら現状は変わっていたでしょう」

「ジャンヌが男児を産んでいた方がよかったか?」

 シャルルに尋ねられ、アナスタシアは一瞬考える。そしてすぐに首を横に振った。

「私は現状に満足しています。ナタリーは夫に愛され、王妃としても愛されています。ナタリーが幸せならば私も幸せなのです」

「それならよかった。後悔していると言われると私も苦しいから」

 アナスタシアはシャルルの言わんとする事がわからなかった。

「私にはナーシャが必要だった。だからあの提案を受け入れられなかった」

「まさか」

 アナスタシアは困惑の表情を浮かべた。もしそれをきっかけにシャルルがジャンヌを抱かなくなったのだとしたら、彼女はジャンヌに向ける顔がないと思ったのだ。それを察して彼は否定するよう手を振った。

「いや。ジャンヌが三人目を妊娠しなかっただけだ。年齢的なものか、女神マリーの采配かはわからないが」

「マリー様の采配かもしれません。おかげで私は大掛かりな嘘を吐かずに済みました。出来ればシルヴィ様にもマリー様の祝福があらん事を願うばかりです」

「それだが相手はジェロームで大丈夫なのか? 他を探した方がいいのではないか」

「最終決定はシルヴィ様にお任せします」

 シルヴィからの手紙にはこちらに戻ってくると書いてあった。多分雪が降る前に戻ってくるだろう。アナスタシアはシルヴィの帰りを待ち遠しく思った。

「ところで、口付けはその彼に捧げたのか?」

「は?」

 アナスタシアは予想外の問いかけに普段なら発しないような声を出した。彼女は慌てて口を覆う。シャルルは笑顔を浮かべている。

「最初にあのような事を言ったのだから、誰か相手がいるのだろうと思っていたのだ」

「ご想像にお任せ致します」

 アナスタシアはあえて否定をしなかった。シャルルに問われ、彼女は人生の中で一度も口付けをしていない事に気付いたのだ。だが愛する者同士という関係を誰とも結べなかった自分を嘆く気にはならない。彼女は長らく女神マリーに見守られてきたと神託を受けてわかったので、それで十分幸せだったのだ。

「一生私には捧げないのか」

「陛下がジャンヌ様以外に口付けをされるというなら、私は侮蔑を込めた視線を送らせて頂きます」

「ナーシャでもか」

「えぇ。私達はあくまでも宗教上での夫婦ですから。それではおやすみなさいませ」

 アナスタシアは微笑むと立ち上がり、一礼すると隣室へと繋がる扉を開けた。寝室の隣にある控えの間を抜け、自室へと向かう。そして自室に入ると扉に鍵をかけ、ベッドへと潜り込んだ。

 アナスタシアは毛布にくるまりながら、穏やかな表情を浮かべていた。女神マリーの言葉を思い出し、波乱はあったが幸せな人生だと心から思い瞳を閉じた。

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