夫へのお願い
ナタリーが入浴後寝室へ向かうと、エドワードが先に待っていた。今日は仕事が早めに片付いたらしい。彼女は彼に触れられる前に口を開く。
「エド、どうしてもシェッドの事が気になるの」
ナタリーの言葉にエドワードは無表情を向ける。
「それは預けてほしいと言ったはずだ」
「でも母にもしもの事があったらと思うと辛くて。せめて何が起ころうとしているのか、知っているのなら教えてくれないかしら」
ナタリーは上目遣いで近寄ってきたエドワードを見つめる。彼の瞳の奥に迷いを感じ取った彼女は、もう一押しだと判断した。
「レヴィでは夫の言いなりになるのがいい妻ではないと言ったのはエドだわ」
「急に昔の話を持ち出さないで」
エドワードは少し嫌そうな表情をした。彼がナタリーにそう言ったのは結婚して三年経った頃、二人が初めて肌を重ねた日。それは夫婦として第一歩を踏み出した大切な日だと彼女は思っているが、彼は未だに後悔している日である。
「あの時の私とは違う。三人出産して、王妃にもなった。レヴィ王妃として正しくないのはわかっている。それでも、一ルジョン教徒としてシェッドを見て見ぬふりをするのが辛いの」
ナタリーは視線を伏せる。個人で頼めばエドワードが困るのはわかっていても、今のままではどうしても納得出来ないから切り出した。それでも冷たい眼差しを向けられるのではないかと、彼の顔を見る勇気までは持てなかった。
「いい思い出のないシェッド帝国に、そこまで心を砕く必要はないと思うけれど」
「母は皇妃なのに畑を耕しているらしいの。私だけ王宮で呑気に紅茶を飲んでいるわけにはいかないわ」
「皇妃殿下は結婚前も農作業をしていたそうだから気にしなくてもいいと思う」
ナタリーは驚き視線を上げる。その話は彼女がレヴィに嫁いで以降、母の手紙で知った事であり、エドワードに話した事はない。種の輸出に関しても、修道院の畑で育てるとしか言っていなかったのだ。
「皇妃殿下の出身地は農作物が育ち難い地域で、なかなか大変だったそうだ」
「その話を一体誰に聞いたの? もしかしてジェリー?」
ナタリーは思い当たった一人の名前を口にした。エドワードには近衛兵が何人かいるが、そのうち父方の従弟であるノルとジェリーを王宮内で見た事がない。そして一人はレヴィ国内にいないと以前聞いた事があったのだ。エドワードは少し悩んだ後、ゆっくりと口を開く。
「ジェリーはシェッド皇宮に潜り込んでいる。その過程でルジョン教に入信し、私の仕事はそっちのけで皇妃殿下を助けているようだ」
「つまり、母がどのように生活をしているのか前から知っていたのに、私には何も教えてくれなかったのね」
ナタリーはエドワードが色々な情報を集めている事、そしてそれを彼女には一切語らない事を知っている。だがそれは政治的な事だけだと思っていた。母に関する事さえも隠されるとは思っていなかったのだ。
「ナタリーは皇妃殿下と手紙のやり取りをしているから、ある程度はわかっているだろう?」
「母は私が心配するような事は決して書かない。ねぇ、母は大丈夫なの? 母は皇妃としてルジョン教を守ろうとしているの。母に何かあったら私はどうしたらいいのかわからないわ」
「皇妃殿下は強い方だ。何が起こっても道を切り拓くだろう。ジェリーには有事の際はこちらに戻ってくるように指示をしてある」
「どうして? 母を助ける為に帝国へ潜入させているのではないの?」
「違う。私はレヴィ王国を守る為に各地へ人を遣って情報を集めている。その流れで皇妃殿下とこちらの思惑が一致したから、ジェリーは皇妃殿下の為にこちらに戻ってくる」
ナタリーはエドワードの言いたい事がわからなかった。母であるアナスタシアはルジョン教を守る為に行動をしている。決してレヴィ王国を攻めたりはしない。だからお互い平和でありたいと願うのはわかる。だが、それとジェリーの帰国が結びつかなかった。
「母がそれを望んでいるという事?」
「あぁ。皇妃殿下は次期教皇をナタリーの兄上に任せる気はないそうだ」
「それでも兄以外にいないわ。私の息子はレヴィの子だと母は言ってくれたのよ」
シェッド帝国の皇帝になれる者はマリーの血を継ぐ男性に限られる。女性に継承権がなくとも、その子供が男児なら継承権を持つのだ。それ故に、ナタリーの息子達も帝位継承権を有している。
「そうだ。リチャードもウォルターも今後更に生まれたとしても、シェッド帝国へは出さない。これは皇妃殿下も承知している」
「それなら他に誰がいるの? 母は私と兄しか生んでいないわ」
「要は皇帝の血を継いでいればいい。だが、ルイ皇太子殿下の正当性は誰もが認める所。それをひっくり返す切り札は皇妃殿下の手の内にある」
エドワードは微笑んだ。ナタリーはわからず首を傾げる。
「これはシェッド帝国内部の話。レヴィ王妃であるナタリーが口を挟むべきではない。だが、私も農作物の輸出を考えている。それで諦めてはくれないか」
「母の要請ならいいの?」
「皇妃殿下なら庶民に出来る限り平等に配ってくれるだろう。こちらも正しく配られるのならば出し惜しみはしない」
エドワードも一番困るのは難民である。食糧を送る事でシェッド国民が自国に留まってくれるならば、その方がレヴィ王国の為だと判断していた。
ナタリーはエドワードが輸出を考えているという言葉に安堵した。しかし、彼の方が母について詳しい事が彼女には引っかかった。
「エドが母と繋がりがあるなんて知らなかった」
「言っていなかったけれど、皇帝即位祝賀会の時に皇妃殿下と二人きりで会っている」
「いつ?」
「ナタリーが眠った後。皇妃殿下はナタリーをとても心配されていた。離れて暮らしているのに、今もお互いが思い合っている。私は実母との関係が希薄だったから羨ましい」
エドワードは少し寂しげな表情を浮かべた。彼は実母から一切の興味を持たれなかった。それだけならまだしも、彼の母は次男だけを自分の息子として扱ったのだ。そのような環境から彼を救ったのは父の側室である。しかしその義母を女性と見るようになり、彼は拗らせていった。ナタリーと向かい合う事でやっとまともになるかと思われたが、歪みは矯正されていない。彼女が彼の全てを受け入れているので、矯正される事は今後もないだろう。
「私には母しかいなかったの。エドの側近や弟妹のような存在はいなかったから」
「シルヴィとは手紙のやり取りをしているのだろう?」
シルヴィと聞いてナタリーは困ったように微笑んだ。異母姉シルヴィの事を彼女はどう捉えていいのかわからなかった。母国で兄の嘘により地下室に閉じ込められた後、本当の事を訴えろと言われた。しかし彼女は自分の言葉が祖父に伝わらないと既に悟っており、それを無視すると蹴られるようになった。もう一人の異母姉デネブはただシルヴィの真似をしていただけなのだろうが、シルヴィは何かを訴えていたような気もするものの、それが何かは彼女にはわからない。
「シルヴィとの関係は私もよくわからないの。悪い人ではないと思うけれど、姉だと言い切る事も出来ない」
「デネブは結婚したらしいけど、シルヴィは未だに独身らしいね」
ナタリーはもう驚かなかった。自分が知っていてエドワードが知らない事などないのだろうとさえ彼女には思えた。
「父が薦めた結婚相手は嫌で、だけど他にいい男性が見つからないらしいわ」
「皇帝陛下が決めた相手なら妙な男ではなさそうだけれど」
「私も会った事がないからわからないけれど、シルヴィに言わせると彼だけはあり得ないそうよ」
あり得ないと聞いてエドワードは口元を緩ませた。ナタリーはその珍しい表情を見逃さない。
「何かおかしいかしら?」
「いや。皇帝陛下はシルヴィを大切な娘だと思っていそうだから、妙な男は選ばない気がして」
「確かに父はシルヴィを一番可愛がっていたわ。父がいいと思う部分がシルヴィの好みから大きく外れているのかもしれない」
「ナタリーはシルヴィに幸せになってほしい?」
思いがけないエドワードの質問にナタリーは考える。理不尽に蹴られる事はよくあったが、今はもう何とも思っていない。彼女は彼と子供達と幸せに暮らす為に前を向いているのだ。
「私は今幸せだから、シルヴィもシェッドで幸せに暮らしてくれたらと思う」
ナタリーの答えにエドワードは満足そうに頷いた。
「そろそろベッドへ入ろうか」
エドワードに促され、ナタリーは大人しくベッドへと入る。母国への食糧輸出を約束してくれただけで、とりあえずは満足しなければいけない。それに彼女は彼の事を優しい人だと思っているので、最終的には助けてくれると信じている。
「わかっていると思うけれど、今話した事は他言無用で。ライラさんにも言わないで」
「どうして?」
「ライラさんは母国と繋がっているだろう? こちらの思惑がガレス王国から帝国北方へ流れるのは望ましくない。皇妃殿下はそれを望んでいないから」
ナタリーは母が北方の出身という事は知っているが、伯父に当たる現在の北方領主については一切知らない。ただ、ライラから聞いた話によると、その北方領主はシェッド帝国解体の為に色々と動いていて、ライラの祖父が支援しているらしい。
「母は何を望んでいるの?」
「それはジェリーが戻ってきたら話す。今はまだ話せる段階にない」
エドワードもベッドに入ると、ナタリーの髪を撫でる。
「二人きりの時は私の事だけを考えてほしいと、いつも言っているのに何故わかってくれないのだろうか」
「そうしたいのだけれど胸騒ぎがするのよ。だから上手く集中出来ない」
「私はナタリーとこうして触れ合える時間を毎日楽しみにしているのに。まだまだ愛情表現が不足しているという事か」
愛情は十分感じているとナタリーが口を開けようとした所を、エドワードが唇を重ねる。こうなると彼女はもう抵抗が出来ない。それ以上彼に問う事は出来ぬまま流されて夜が更けていった。




