越境
翌朝、シルヴィはジェロームの指示に従い、今までの粗末な服とは違う服を着ていた。国境を越えるにあたり、商人の格好をしている方が通過しやすいとの事だった。彼女の手錠はそのままだが、鎖を袖の中に隠して彼に手を握られ巧みに隠されていた。
ジェロームが準備していた通行許可証で難なく関所を抜けた二人は山道を歩きだした。慣れない山道を歩くなら手は空いていた方がいいだろうと、彼はシルヴィの前を歩いていく。彼女は鎖の音を不快に感じながら、彼の後ろをついていった。
「姉さん。木苺を覚えていますか?」
ジェロームは道端にある赤い実を指した。シルヴィは手錠をしておきながらその設定を続けるのかと冷めた視線を向けたが、彼が指していた赤い実が視界に入ると心の中に期待が膨らんだ。
「もしかして熟しているの?」
ジェロームが頷いたのでシルヴィはその赤い実を摘むと口に運んだ。以前食べたものとは違って甘さが口の中に広がり、彼女は自然と顔を綻ばせた。
「美味しいですか?」
「えぇ。いくつも食べていい?」
「食べ過ぎはよくありませんが、数個なら」
シルヴィは真っ赤に熟れている実をいくつか摘むと、ゆっくりと味わった。久しぶりの甘味が今までの疲れを少し癒してくれたような気さえした。
手首が拘束されている事を除けば、ジェロームの態度は今まで通りである。シルヴィは木苺を食べて再び歩き出した後、彼の背中を必死に追った。初めての山道は彼女に考える隙を与えてはくれなかったのだ。
山道に宿はない。今日の二人が寝泊まりをするのは自然に出来た洞穴である。シルヴィは内心抵抗があったものの、大人しくジェロームが用意した焚火に当たっていた。
「ここは商人も通るのに建物がないの?」
「本来商人は馬車を使うのでローレンツ公国際の道を通ってシェッド帝国に入ります。山道を使うのは薬や宝石など軽い荷を運ぶ者達で、そういう商人は盗人に狙われない為に常に寝泊まりする場所を変えます。そのせいで宿泊施設はありません」
「それなら私達もその道を通ればよかったのに」
「私は先程の関所を抜ける許可証しか持ち合わせていません」
「でも今日使った許可証は偽造じゃないの?」
シルヴィの指摘にジェロームは笑顔を浮かべる。
「厳密に言うと偽造ですが、訴えられる事のない偽造です」
「どういう事?」
「冷めないうちに夕食にしましょう」
ジェロームに差し出された椀をシルヴィは受け取る。その時に鎖の音がじゃらりと鳴った。その音で彼女の思考は偽造許可証から鎖に移る。
「この鎖は外してくれないの? 流石に山の中を逃げたりしないわ」
「申し訳ありませんが、目的地までは外せません」
「随分信用されていないのね」
「私を心から求めて下さらないので仕方がありません」
シルヴィは粥に視線を移す。この道中、妙な発言を除けばジェロームは良く尽くしてくれた。彼にも目的があっての事と思っても、それだけとは思えないものも感じている。しかし、それだけで絆される程、彼女は単純でもなかった。
「私がもしあんたを求めたらどう変わるの?」
「私なしでは生きていけないようにして差し上げます」
シルヴィは寒気を感じ、蔑むような表情でジェロームを見つめた。彼はそれを嬉しそうに受け止める。
「私はあんたの趣味には付き合えそうもないから他を当たって」
「私はルジョン教徒ですから、不特定の女性と関係を持つのは抵抗があります」
「あんたはレヴィの人間でしょうが」
「宗教を信じるのに出身など関係ありません」
シルヴィはジェロームが一体どこの人間なのかわからなくなった。レヴィ王国の人間で自分を連れていくのか、シェッド帝国の人間でレヴィ王国と通じているのか。彼女は考えようとして、考える事を放棄した。どうせ考えても答えは出ないし教えても貰えないだろう。鎖が切れない以上ついていくしかないと、彼女は投げやりな気持ちで粥を口に運んだ。
シェッド帝国とレヴィ王国の間にまたがる山脈は国境代わりになるだけあって高く険しい。それでもジェロームは歩きやすい道を選んでいたのだが、そのような事がシルヴィにわかるはずもない。二人は山に足を踏み入れて三日後の夕方、レヴィ王国側の山の麓に辿り着いた。
『お仕事中失礼致します。スタンリー軍団長にジェリーが来たと取次ぎをお願いできないでしょうか』
ジェロームの丁寧なレヴィ語に、国境を守る軍人は訝しげな表情を浮かべる。黒鷲軍の軍団長であるスタンリーは普段ガレス王国との国境にある黒鷲軍団基地にいる。シェッド帝国との国境に顔はまず出さない。
『一体何用だ。帝国からの人間は現在通せないから戻りなさい』
『エドワードかジョージからの通達で、スタンリー軍団長がこちらに来ているのはわかっています。通せとは申しませんが取次ぎをしないと怒られるのは貴方です』
国王と総司令官の名前を呼び捨てにする男に軍人は顔をしかめたが、ジェロームの眼差しは有無を言わせない高圧的なもので、彼は横に居た軍人に指示を仰いでくると伝えると奥の方へ消えた。そのやり取りを聞いていたシルヴィもジェロームに訝しそうな表情を向ける。
「殿下は名前を呼ばれる事を極端に嫌っていたわ。呼び捨ては良くないのではないかしら?」
シルヴィにとってエドワードは王太子のままだ。現在は国王なので殿下ではなく陛下が正しいのだが、ジェロームは違う事が気にかかった。
「シルヴィ様はレヴィ語がおわかりになるのですか?」
「五年半も聞いていれば何を言っているかくらいわかるわよ。話す気はないけれど」
「エドワードも帝国語は堪能ですから、話せなくても困らなかったのでしょうね」
再びエドワードを呼び捨てにした事にシルヴィは不満そうな表情をジェロームに向ける。エドワードは気安く呼べる人ではない。それに彼女はあの冷たい眼差しが未だに忘れられないのだ。
「何であんたがあの子の夫の名前を呼び捨てにするのよ。おかしいわ」
「私は王妃殿下よりよほどエドワードとの付き合いが長いのですよ」
「王妃殿下?」
「帝国内ではそう呼ぶ事は不自然だったので良かったのですけれど、レヴィの土を踏みましたから。嫉妬深いエドワードに絡まれないよう自衛くらいします」
シルヴィがジェロームの言葉の意味が分からず首を傾げていると、奥から銀髪の壮年が足早に近付いてきた。そしてジェロームを見るなり敬礼をする。
『ジェリー様。先程は彼が失礼を致しました』
銀髪の壮年は先程応対した軍人と共に頭を下げた。
『スタンリー軍団長、頭を上げて下さい。私の情報は上層部にしか流せないのはわかっています。色々とお願いしていた準備は出来ていますでしょうか』
『レスター内の宿屋を押さえています。少し距離がありますので馬車の手配もしております』
『ありがとうございます』
シルヴィはやり取りを見ていて不思議な感覚だった。ジェロームはシェッド帝国では決して地位の高い軍人ではない。しかし、目の前の軍人達の中では彼が誰よりも偉いように見える。そして誰も彼女の手錠を気にしないのは、彼の地位が高くて追及出来ないからかもしれない。そのような事を彼女が考えていると彼は笑顔で振り返った。
「さぁ、行きましょう。今日は念願のベッドで眠れますよ」
シルヴィに選択肢などあるはずもなく、二人は用意された馬車で宿屋に向かった。宿屋に着くと彼は軍人から荷物と鍵を受け取り、彼女と共に部屋へと向かう。その部屋は広くベッドが二つ置かれていた。
「ちょっと待って、同じ部屋で寝るの?」
「今までも隣で寝ていたのに、それは今更ではありませんか?」
「おかしいでしょ。こんないい宿屋なら別々が普通ではないの?」
「シルヴィ様に逃げられると困るので、申し訳ありませんが目的地まではこうですね」
「あんたは結局何者なの?」
「シルヴィ様が私を求めて下さるのでしたら、教えて差し上げてもいいですよ」
「それなら教えてくれなくても結構よ」
シルヴィは視線を外した。どうせ答えはあと数日でわかるのだから、今聞く必要はないと彼女は判断をした。
「人を手配しています。私も汗を流してきますので、ゆっくりして下さい」
そう言ってジェロームはシルヴィから手錠を外して扉を開ける。そこには女性が一人いた。彼は女性といくつか言葉を交わして部屋を出ていく。女性はシルヴィに一礼をすると、貴女を全身綺麗にさせて頂きますと言って彼女を併設されている浴室へと連れて行った。そしてシルヴィは久しぶりに入浴し、全身綺麗に洗われ、マッサージをされ、彼女の荷物の奥にしまわれていた服に着替えさせられた。
シルヴィは女性が部屋を出ていった後、鏡台の前で椅子に腰掛け呆然としていた。二週間前までは当たり前に着ていた服に違和感を覚えたのだ。石鹸の香りがするのも不思議で、彼女は自分の立場がよくわからない。帯革が手首からなくなっているが逃げる気もしない。ジェロームがエドワードの知り合いならば間違いなく目的地はレヴィ王宮だと思うのに、ナタリーに迷惑を掛けたくはないのに、歩き続けた脚はとうに限界を超えていた。彼女は立ち上がるとベッドへ身体を投げた。皇宮で使っていたベッドと遜色なく、彼女の身体を優しく受け止める。彼女はベッドも贅沢品だったなと思いながら眠りに落ちていった。




