心だけは渡さない
皇宮を脱出してから九日後の夕方、今夜泊まる予定の簡易宿の前には山脈が広がっていた。シルヴィは苛立たし気にジェロームを睨む。
「あんた、やっぱりレヴィの人間なんじゃない」
シルヴィには教育が施されていなくとも、シェッド帝国とレヴィ王国の間に山脈がある事は知っている。そしてそれが国境になっている事も知っていた。
「レヴィ王国にはケィティ自治区という場所があります。そこには世界各地から人が集まり、髪や肌の色で悩む事はありません。そのような都市へ行ってみたいと思いませんか?」
「黒髪が目立たないの?」
「そうです。布で髪を隠す必要はなくなるでしょう」
シルヴィは道中ずっと布で髪を隠していた。そして昔ナタリーが皇宮で修道服に頭巾を被っていた理由を知った。黒髪は身分証明であるが故に、時として邪魔なのだ。
「そこの出身なの?」
「出身は違いますが、親戚が暮らしています」
ジェロームは親戚の所へ行くと言っていた。故郷と親戚の所が一致している必要はない。それでもシルヴィは勝手に彼の実家に向かっているのだと思っていた。彼と結婚をする気もないのに、そう思っていた自分が嫌になり彼女は悔しそうな表情になる。
「レヴィ王国へ入国するのは嫌ですか?」
ジェロームはシルヴィの表情をレヴィ王国への入国拒否と捉えた。彼女はその勘違いにそのまま乗る事にする。そもそもレヴィ王国に二度と足を踏み入れる気などなかった。
「あの子には会いたくないの」
「ナタリー様とは手紙のやり取りをするほど仲がいいのですよね?」
「あの子は馬鹿だから何事も自分が我慢すればいいと思っているの。その癖を直したかっただけ」
シルヴィはシェッド帝国に戻って以降、ナタリーとは縁を切るつもりだった。しかしナタリーが第二子を妊娠したと聞いた時、祝いの言葉を送りたくなって一通書いた。そうしたら律義に返信が来たので、彼女はたまに手紙を書いていた。幸せそうにしているナタリーだったが、彼女にはそれが不安だったのだ。彼女も自分が心奪われた男を悪く言う気はないのだが、別れ間際に見たエドワードの冷たい眼差しが怖くて、ナタリーが我慢を強いられていないかと気になっていたのだ。だが彼女の心配など知らないナタリーの手紙は幸せに溢れていた。
「シルヴィ様はお優しいのですね」
「まさか。私があの子を虐めていたと知らないの?」
「そうなのですか? 皇妃殿下はシルヴィ様をいい子と仰っておいででしたよ」
「は?」
シルヴィは今まで以上に眉間に皺を寄せながらジェロームを睨む。その表情を見て彼は嬉しそうに微笑を浮かべる。
「シルヴィ様の照れ隠しは可愛いと思います」
「照れてないわよ」
シルヴィはジェロームの視線から逃れるように顔を背ける。彼女は子供の頃、皇女という肩書を与えられるナタリーが羨ましかった。しかしその肩書があったにもかかわらず、無実の罪で地下室に閉じ込められてしまった。最初は抵抗をして見せたナタリーだが、すぐに諦めて大人しく地下室で過ごすようになる。周囲の大人も仕方がないと諦めた事が彼女は納得いかず、ナタリーに訴えるように言いに行った。しかしナタリーの態度は煮え切らず、彼女は苛立って蹴るようになった。それでもナタリーの態度は変わらず、彼女はいつしかナタリーの顔を見るたびに苛立つようになり、反射的に蹴っていたのだ。
「前皇帝陛下の周囲の者がナタリー様を罪人だからと隠れて虐めているのを守っていらしたのですよね」
「だから守っていないわよ。ルイが何をしたか暴露してやると言っただけ」
シルヴィは両親の結婚を許さなかった祖父が嫌いだった。そしてその祖父が育てたルイの事も昔から嫌いである。だからルイを守る為に犠牲になったナタリーを守らない大人達も嫌いだった。ルジョン教のせいで正しい事が捻じ曲がる。それでも彼女はシャルルに黙っていろと言われてルイの嘘を言う事は出来なかった。彼女は嫌いな大人達と同じ事しか出来ない自分に苛立ち、ナタリーに八つ当たりをしていたのだ。
「シルヴィ様はシェッド帝国がお嫌いですか?」
ジェロームからの急な話題転換にシルヴィは一瞬言葉に詰まり、少し考えた後で口を開く。
「わからない。でもあの子に最低限の生活しか保障しなかった所は嫌い。よくあの生活から今の生活を手に入れたと思うわ。殿下はきっとあの子の心の奥を見抜いていたのでしょうね」
ナタリーは言われた事をやっていただけである。それでもレヴィ語を覚え、政略結婚の駒としてレヴィ王国へ嫁ぎ、王太子妃としての義務を果たしていた。一方シルヴィは侍女という肩書があったが、侍女の仕事は一緒に連れて行った使用人にほぼ任せっきりで何もしていない。あの頃抱いていたエドワードに選ばれるという自信の根拠が何に因るものか、彼女自身今ではわからない。
「エドワード殿下の事を今でも忘れられないのですか?」
「まさか。一回なら過ちの可能性もあるけれど、あの子に三人も産ませた男なんて、こちらから願い下げよ」
「その言葉を聞いて安心致しました。それでしたら私の事を思って下さるのも時間の問題ですよね」
シルヴィはジェロームの思考が理解出来ず、呆れた表情を浮かべる。
「あんたは結構賢くて顔も悪くないわ。私ではなく若い子にしておきなさい」
「シルヴィ様でないと意味がないとお伝えしたはずですが」
「私はあんたである必要性がないわ。とにかく父上にこの国の現状を伝えなければいけないから、レヴィなんて行っている場合じゃないのよ」
シルヴィはシャルルを説得する事が使命なのだと真面目に思い始めていた。そんな彼女をジェロームは無表情で見つめる。
「どうしてもレヴィ王国へは行きたくありませんか」
「行きたくないわ」
「それは残念です。それでは首輪をして頂きましょうか」
ジェロームは荷物の中から帯革を取り出した。シルヴィはそれを見て驚きの表情を向ける。
「それ、言葉の綾ではなかったの?」
「えぇ。私は嘘など申し上げません。シルヴィ様を目的地まで案内するのが私の任務ですから、ここで逃げられるわけにはいきません」
ジェロームは無表情なのに、瞳にはどこか卑猥なものを含んでいてシルヴィは咄嗟に逃げようと後ずさる。しかしそれよりも彼の動きの方が早く、帯革は彼女の左手首に巻かれた。そして彼は簡単に外せないように素早く錠をかける。彼女は拘束された事が信じられない。
「外して」
「嫌がると手首ではなく本当に首に巻きますが、そちらをご希望でしょうか」
ジェロームの視線にシルヴィは本能的に逃げ切れないと悟り、首を横に振る事しか出来なかった。目の前の男が今まで知っていた護衛には見えず、恐怖のあまり彼女の視界はぼやけ始める。
「あぁ、泣かれると困りますね。シルヴィ様を虐めたくなるではありませんか」
ジェロームのいやらしい笑みに、シルヴィは慌てて右手で涙を拭う。
「合意がなければ襲わないと言ったじゃない」
「その言葉は嘘ではありません。ですが襲うのと虐めるのは違いますから」
最初からジェロームは自分をレヴィ王国へ連れていくのが目的だったのだとシルヴィは察した。しかし今更察しても遅い。目の前の山脈を超えればレヴィ王国であり、手首の革帯から繋がる鎖と手錠の鍵を彼が握っている以上、彼女は逃げられない。そもそも皇宮内で彼から逃げられたためしがないのだ。たとえ革帯を外したとしても逃げられるとは思えない。彼女は無駄な抵抗はしない方がいいと判断をし、ため息を吐いた。
「どうせ捨てようと思った命よ。好きにしたらいいわ」
「私はシルヴィ様に求めて頂きたいと何度も伝えているのですけれども」
「悪いけどあんたに渡す心は持ち合わせていないの」
「そうですか。とりあえず今日は早めに寝ましょう。明日からは山登りになるので今までとは苦労が違いますからね」
ジェロームはいつもと変わらぬ表情で粥の準備を始めた。シルヴィは拘束された左手首を見る。シャルルに一日も早く会いたいのに、越境をしたらいつシェッド帝国に戻れるのかわからない。帰れるのかさえわからない。彼女は涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。彼に虐められるのは絶対に嫌だった。身体を拘束されても心だけは渡さない、彼女はそう誓って流れる前に涙を拭った。




