日常崩壊
数日後、シルヴィは自室で寝ていた。別段やる事のない彼女の朝は遅い。そもそも日中は体力をかなり消耗するので、睡眠時間は以前より増えていた。その部屋に一人の闖入者が忍び込む。
「シルヴィ様。今すぐ荷物をまとめて下さい」
微睡みから抜け出せないシルヴィは、朝から聞きたくないジェロームの声を遮るように掛布の中に潜り込んだ。何故朝から勝手に自室へ乗り込んできたのかと責める程までは、目が覚めていなかったのである。だが、お構いなしに彼は掛布を取り払った。
「時間がありません。すぐに支度を」
「んもう、何なのよ」
シルヴィは不機嫌そうにジェロームを睨む。しかしそこには今まで見た事もない真剣な表情があり、彼女は不安に駆られた。
「皇宮にルジョン教徒が押し寄せています。早くしないと命を落とします」
「命を落とす? どういう意味?」
「そのままです。今までの圧政はジャンヌ様のせいだと思っています。ですからルジョン教徒が襲うのはジャンヌ様とその娘二人なのです」
シルヴィは一気に目が覚めた。圧政が何を指しているのかはわからなくとも、自分達が周囲にあまりよく思われていない事は知っている。
「あんたみたいな護衛が母上とデネブにもいるのだから、守ってくれるわよね」
「護衛と狂った民衆、どちらが強いかなどわかりません。私の任務はシルヴィ様を守る事ですから、早く支度をして下さい」
「父上は? 父上は大丈夫なの?」
「仮にも皇帝です。それに皇妃殿下が何とかしてくれるでしょう」
「あの女に何が出来るのよ」
シルヴィは怪訝そうな表情を浮かべた。祖父の言いなりで結婚をしたアナスタシアに何が出来るというのか。シャルルとジャンヌが仲良くしている事に対して、何も発する事のなかった女に何の権力があるというのか。ナタリーが嫁に行く前は何も声を掛けなかったのに、戻ってきてからはルジョン教を信仰するよう勧めたあの女に何が出来るというのか。彼女には何も出来ないとしか思えない。
「話は後からします。今はここから少しでも早く脱出する事を考えて下さい」
ジェロームは真剣な表情でシルヴィを捉えている。しかし彼女は首を横に振った。
「私は皇帝の娘よ。民衆なんかに殺されるわけがないわ」
「貴女に何が出来ると言うのですか。私が鍛えたのは逃げる為の筋力です。それ以外は何も出来ません」
二人が睨み合っていると外から騒がしい音が聞こえてきた。帝国語だけではなく色々な言葉が混じっていて何を言っているのかシルヴィにはわからない。彼女が苛立つのを感じて、ジェロームは失礼しますと言って彼女の口を押えた。
「今ここで煩いと叫べば命はありません。自ら命を捨てにいくような真似は自重願います」
外から扉を叩く音が響いてきた。皇宮への入り口を強引に開けようとしているのだろう。城内にはかなりの軍人がいたはずなのに、何故ここまで侵入されているのかシルヴィには理解が出来なかった。
「静かにすると約束して頂ければ手を離します」
シルヴィはジェロームを見上げて小さく頷いた。彼はゆっくりと手を離す。彼女は大きく息を吐いた。
「軍人達は何をしているのよ」
「それも後から説明しますが、全員が陛下に忠誠を誓っているわけではありません」
「ルイの手下なの?」
「とにかく時間がありません。混乱に乗じて脱出しなければ終わりです。早く準備をして下さい」
ジェロームはずっと真剣な表情のままだ。シルヴィは視線を伏せた。
「準備とは何をするの。私は何も出来ないわ。使用人を呼ばないと」
「シルヴィ様はナタリー様の侍女をしておられたのではないのですか」
「それは肩書だけよ。私達に父上は使用人を付けてくれて、彼女達が全てをやってくれていたの」
ジェロームは大きなため息を吐いた。シルヴィは苛立ったものの、外からの扉を叩く音が続いていて大声を出す気にはならない。彼は一旦屈むと床に置いていた荷物から服を取り出した。
「それではこれに着替えて下さい。着替え方がわからないのでしたらお手伝い致しますけれど」
ジェロームはいつものいやらしい笑みを浮かべた。シルヴィは寒気を感じながら服を奪う。
「着替えは出来るわよ。だから後ろを向いて」
「わかりました。侵入者が来ないか見張っていますから、すぐに着替えて下さい」
そう言ってジェロームはシルヴィに背を向けた。彼女は安心して手元の服を見る。それは今まで着た事もない粗末なものだった。
「これを着ろと言うの?」
「貴女は知らないでしょうけれど、それがこの国の庶民の服です。一応羊毛ですから暖かいはずです。とにかく早くして下さい」
シルヴィはにわかに信じられなかった。ナタリーの修道服でさえ粗末だと思っていたのに、それ以上に酷い。だがルジョン教徒に謂れのない罪で殺される方が嫌だと思った彼女は、絹で出来た寝衣を脱ごうとしてやめ、上から羊毛の服を重ね着した。彼女も羊毛で出来た服は持っているが質が違いすぎる。下に寝衣を着ていなければ肌触りは悪そうだと瞬時に判断をしたのだ。
「着替えたわよ。それでどうするの」
ジェロームはおもむろに鏡台の引き出しを開けた。そしてそこから換金出来そうな宝飾品をいくつか鞄に詰めていく。そして櫛を取り、シルヴィに投げた。彼女はそれを慌てて受け取る。
「寝起きのままというのも頂けませんから、梳いた方がいいですよ」
「そうだ。顔も洗っていなければ化粧もしていないわ」
「化粧をしている庶民なんていません。手を動かす気がないのなら貸して下さい」
ジェロームはシルヴィに近付くと櫛を取り上げて簡単に彼女の髪を梳く。そして鞄に櫛をしまうと布を取り出し、彼女の黒髪が隠れるように巻きつけた。
「黒髪は絶対に隠して下さい」
真剣な眼差しのジェロームにシルヴィは頷いた。シェッド帝国における黒髪は女神マリーとその高弟の末裔である証。彼女も自分の髪色が身分を証明している事は知っている。
シルヴィは普段とは違うジェロームとの距離に、どうしていいかわからず足元に視線を向けた。床には鞄が置いてある。
「その荷物は何?」
「シルヴィ様が自分で用意出来ないだろうと思い、こつこつと用意していたものです」
用意と聞いてシルヴィには思い当たる事があった。いつも見張ろうとして邪魔をしていたのは目の前の男なのである。
「最近衣服が干している途中で消えると言う話、あんたが犯人だったのね」
「盗んだわけではなく、準備していたのです。シルヴィ様が気に入っているものを選んでいたのですよ。安心して下さい、下着も準備しました」
シルヴィが文句を言おうと口を開いた所をジェロームは手で塞ぐ。そして嫌味な表情を浮かべた。自分は何故この男に守られてまで生き延びなければならないのか、そう思うと彼女は怒りに任せてその手を払った。
「誰があんたなんかについていくものですか! 父上の所へ行くわ」
シルヴィは扉を開けた。廊下の奥の方で色々な声が聞こえる。どうやら出入口の扉が突破されたらしく、大人数が右往左往しているような雰囲気がする。彼女はそれを気にせず父がいるはずの執務室へと走っていった。
シルヴィが執務室へ向かっている途中、とある扉の前に人だかりが出来ていた。多数の言語が入り乱れ、彼女にはこれから何が起こるのかわからない。その時、扉が強引に開けられ部屋の中に人が雪崩れ込む。先程ジェロームは誰を襲うと言っていたか。彼女はそれを思い出し、人だかりに紛れてジャンヌの部屋の中へと足を踏み入れた。
人々は一斉に一人の女性に向かって走っていく。彼等は包丁や鎌などを持っているが、シルヴィにはそれが何かわからない。ただ、危険だというのは何となく察した。だが、烏合の衆を止められる者などいない。人々はジャンヌに襲い掛かった。
シルヴィは叫ぼうとした。しかし後ろから口を押えられて声を上げる事は出来なかった。その代わりにジャンヌの悲鳴が上がる。シルヴィはその叫び声に目を瞑った。少しして目を開けると、そこには何ケ所もの刺し傷から血を流すジャンヌの姿があり、まるで追剥のように息絶えた彼女から指輪や耳飾りなどを奪い合っている人々がいた。
「とにかく脱出しますよ」
シルヴィの口を押えていたジェロームが彼女の耳元で囁くと、そのまま烏合の衆をかき分けて部屋から脱出を図る。部屋の中にある宝石など金目の物を漁り始める者もいれば、次の標的を探すべく動き出す者もいた。次はデネブを狙うのではないかと思った彼女は目で彼に訴えかけた。
「まずご自分の心配をして下さい」
ジェロームの力が強く、シルヴィは彼を振り切る事が出来ない。彼もまたいつもとは違う真剣な表情で前を向いている。手ぶらの者もいるが、武器のような物を持っている者もいるのだ。彼は彼女が傷付かないように必死に守りながら人の波を泳ぐように皇宮出入口へと向かっていった。




