第7話:祭りの足音と、こめかみの温もり
早いもので秋が訪れ、雫と結衣は文化祭の準備に追われている...
秋の気配が色濃くなり始めた十月。私立藤ケ丘女子学園は、年に一度の大行事『星華祭』に向けて、どこか浮足立ったような熱気に包まれていた。
放課後の教室は、机がすべて壁際に寄せられ、即席の作業場と化している。
私たちのクラスの出し物は『森のお茶会』をテーマにしたコンセプトカフェに決まった。室内を本物の植物やドライフラワーで装飾し、生徒たちが生活魔法を使ってお茶や焼き菓子を提供するというものだ。
あちこちで、楽しげな声と共にささやかな魔法が弾けている。段ボールを魔法の風で器用に切り抜く子や、絵の具を空中に浮かせてパレット代わりにしている子。文化祭の準備期間特有の、埃と糊と、甘いお菓子の試作品の匂いが混ざり合った独特の空気が、教室を満たしていた。
「雫ちゃん、そっちのツタの端っこ、押さえててもらえる?」
「あ……うん、わかった」
結衣の声にハッと我に返り、私は手元の作業に意識を戻した。
結衣は今、教卓の上で、森の入り口に見立てた大きなアーチ型の木枠に、本物のアイビーのツタを這わせている最中だった。彼女がツタの先端にそっと指を添え、微かな魔力を流し込むと、植物はまるで意思を持っているかのようにシュルシュルと伸び、木枠に美しい螺旋を描いて巻きついていく。
生命の息吹を促し、形を整える。結衣の生活魔法は、今日も淀みなく、見惚れるほどに繊細だった。
「ごめん、結衣。少しズレちゃった」
「ううん、大丈夫。微調整するね」
私は謝りながら、自分の指先が微かに震えているのを隠すように、木枠を強く握りしめた。
頭の芯が、鈍く重い。まぶたの裏には砂が入り込んだような摩擦感があり、気を抜くと意識が遠のきそうになる。
理由は明白だった。慢性的な魔力酔いと、極度の睡眠不足だ。
来月の星華祭には、九重咲耶がやって来る。
タイムリミットが迫る中、私は毎晩、寮の部屋で結衣に魔法を見せるための『変換フィルター』の構築作業に没頭していた。
私の内側にある、大河の濁流のような巨大な魔力。それを結衣の心という繊細なグラスに注ぐためには、魔力の圧力を極限まで減衰させ、同時に『景色』という純粋な情報だけを抽出する高度な術式が必要になる。
それは針の穴に糸を通すような作業を、嵐の中で何時間も続けるようなものだ。少しでも術式が綻べば、自らの魔力が暴走し、自分自身の精神が焼き切れてしまう危険すらある。毎晩、夜明け近くまでその緻密な作業を繰り返し、数時間だけ泥のように眠ってから登校する。そんな日々がもう一週間近く続いていた。
「雫ちゃん?」
不意に、目の前に結衣の顔があった。
覗き込むような亜麻色の瞳。彼女の甘い香りがふわりと鼻をかすめ、私はびくっと肩を揺らした。
「顔色が悪いよ。それに、なんだか目の下、くまができてるし……ちゃんと眠れてる?」
「えっ。あ、うん! 眠れてるよ。ちょっと夜更かしして、本を読んでただけだから」
慌てて取り繕うものの、私の声は自分でも驚くほど掠れていた。
結衣は少しだけ眉を下げ、じっと私の目を見つめた。
図書室でのあの日から、結衣は私が何かを隠していることに薄々感づいているはずだ。私が抱えているものが、ただの「読書による夜更かし」などではないことも。
けれど彼女は、やはりそれ以上は問い詰めなかった。
「……ちょっと、座ろっか」
結衣は私の手からそっと木枠のツタを受け取ると、教室の隅にある、まだ片付けられていない椅子を一つ引き寄せ、私をそこに座らせた。
「結衣? 私は大丈夫だよ、作業の続き――」
「だーめ。少し休憩。私がそうしたいの」
有無を言わせない、けれど羽毛のように柔らかい響き。結衣は私の背後に回り込むと、「少し、目を閉じててね」と囁いた。
言われるがままにまぶたを落とすと、私の両方のこめかみに、ひんやりとした柔らかな感触が触れた。
結衣の指先だった。
直後、彼女の指先から、清流のような透き通った魔力が私の肌に流れ込んでくるのを感じた。
「……っ」
それは、私の荒々しく強大な魔力とは全く違う、朝露のように純粋で、ささやかな魔法。
結衣の魔力がこめかみから頭の中へと静かに浸透し、張り詰めて熱を持っていた私の神経を、ゆっくりと解きほぐしていく。ペパーミントに似た清涼感のある魔力の波が、痛みの芯を包み込み、優しく溶かしていった。
「結衣、これ……」
「おばあちゃんに教わった、痛いのを飛ばすおまじない。……雫ちゃん、最近ずっと、眉間に皺が寄ってたから」
背後から降ってくる結衣の声は、すぐ耳元で聞こえた。
彼女の指先が、ゆっくりと円を描くように私のこめかみを撫でる。その動きに合わせて、微弱で精緻な魔力のリズムが、私の乱れた呼吸を整えていく。
なんて、心地いいんだろう。
他者の魔力を体内に直接受け入れることは、本来ならば強い拒絶反応を伴う。しかし、結衣の魔法にはそれが一切なかった。彼女の魔法はどこまでも『相手を思いやる』という意思だけで編み上げられており、私の細胞の隅々にまで、警戒心を抱かせることなく染み渡っていく。
(私の力じゃ、こうはいかない……)
私は世界を壊せる。星を落とせる。
けれど、結衣の頭痛を治してあげることはできない。これほどまでに繊細で優しい魔法を、私はどう逆立ちしても使うことができないのだ。
圧倒的な力の差などではない。魔法の本質的な美しさにおいて、私は結衣の足元にも及ばない。
「……ありがとう、結衣。すごく、楽になった」
深く息を吐き出しながらそう伝えると、こめかみに触れていた結衣の指が、最後にぽんっと軽く私の頭を撫でて離れた。
「よかった。でも、無理はしないでね。雫ちゃんが倒れちゃったら、お茶会、楽しくなくなっちゃうから」
振り返ると、結衣はいつものように、春の陽だまりのような笑顔を向けていた。
その笑顔を守るためなら、寿命が縮んだって構わない。
痛みが引いてクリアになった頭で、私は再び固く決意した。
私が持っているのは、恐ろしくて巨大なだけの力だ。でも、だからこそ。その巨大な星空の全てを極小の美しい結晶に圧縮して、彼女にプレゼントしてみせる。
結衣のこの優しい魔法への、せめてものお返しとして。
「さ、作業に戻ろっか。今度は私が、結衣の手伝いをするよ」
「ふふ、頼もしいな。じゃあ、次はお花の色を変えるのを手伝って」
賑やかな教室の喧騒の中に戻りながら、私は結衣の隣に並んだ。
窓の外では、いわし雲が広がる秋の空が、少しずつオレンジ色に染まり始めていた。星華祭まで、あと三週間。時計の針は、確実に進んでいた。
第8話に続く




