第37話:星の浸食と、起源への旅立ち
深夜の第三寮。規則正しい時計の秒針だけが響く静寂の中、私は不意に、極寒の海に突き落とされたような悪寒で目を覚ました。
隣のベッドでは、結衣が穏やかな寝息を立てている。窓越しに差し込む青白い月明かりが、彼女の無防備な横顔を優しく照らし出していた。
私は無意識に、シーツの上に出していた自分の右腕へと視線を落とし――音のない悲鳴を上げた。
私の右手の「輪郭」が、無かった。
肘から先の肉体があるべき空間には、光すら吸い込む漆黒の虚無と、無数の不気味な星屑が渦巻いていた。痛みも熱もない。ただ、私という人間の境界線が物理法則を無視して融解し、圧倒的な質量を持つ「本物の宇宙」と直結してしまっているのだ。
『流星の魔女』の力が、ついに私の自我という極小の器を凌駕し、世界そのものを喰い破り始めていた。
――ピチッ……ギチギリリッ……!!
鼓膜ではなく、脳髄を直接削り取るような悍ましい軋み音が響いた。
私の宇宙になりかけた右腕を、人間の形に縫い留めようと必死に絡みついているものがあった。結衣のストールから伸びる、生活魔法のグレーの光の糸だ。
陽だまりのようなその細い糸は、際限なく膨張しようとする星の絶対質量を前にして、悲鳴を上げるように極限まで引き伸ばされ……そして、大気圏に突入したかのように燃え上がり、パチン、と断線した。
「……っ、あ……」
隣のベッドで、結衣が苦痛に顔を歪め、浅く喘いだ。
彼女の体温が、生命力そのものが、私の無限を抑え込むための代償として強制的に吸い上げられている。結衣の命が、私の中で燃えて、消えていく。
「いや……っ、やめて、結衣……!」
私は左手で自らの右腕の虚無を力任せに掴み、爪が食い込み血が滲むほどの力で、必死に星の重力を内側へと押し込めた。冷や汗が全身から吹き出し、歯の根がガチガチと鳴る。永遠とも思える拮抗の末、グレーの糸が再び編み直され、私の右手はようやく人間の醜い皮膚の質感を取り戻した。
結衣の寝顔も、再び穏やかなものに戻る。
けれど、私は絶望的な真実を理解してしまった。
結衣の魔法は、無限ではない。彼女の「温もり」は、宇宙の膨張という絶対的な物理法則の前に、いずれ確実に擦り切れ、破綻する。
私が結衣の隣で笑えば笑うほど、私は彼女の命を食い殺していくのだ。
*
「今日は図書委員の仕事があるから、先にお部屋に戻ってて」
翌日の放課後。私は、ガラスの破片を飲み込むような思いで、結衣に「初めての嘘」を吐いた。
「そっか。じゃあ、雫ちゃんの好きなクッキー焼いて待ってるね」
何も知らない結衣は、春の陽だまりのような無垢な笑顔で私に手を振った。その笑顔を見るたびに、心臓が千切れるような罪悪感と孤独が私を責め立てる。ごめん、結衣。ごめんなさい。
私は一人で、中枢都市にそびえ立つ新・最高評議会の仮庁舎――宝生紫苑の執務室を訪れていた。
「……結界観測メーターの異常数値は、計器のバグじゃなかったというわけね」
私の右腕の惨状を聞き終えた紫苑は、執務机に置いた自分の両手を、指の関節が白くなるほど強く握りしめていた。
彼女の青い瞳には、五家の残党を沈めた時の冷徹さは微塵もない。そこにあったのは、血を吐くような悔恨と、自らの無力さへの怒りだった。
「私の星が、結衣の命を削ってる」
私は震える声で告げた。
「五家の管理っていう『外からの圧力』がなくなったせいで、私の内側の宇宙が限界を超えて膨らみ続けてる。このままじゃ、結衣を……私の一番大切な共犯者を、私が殺してしまう!」
「……ッ!」
ドンッ! と紫苑が机を強く殴りつけた。
「……ふざけないで。私が、私たちが血みどろになって勝ち取ったこの平和が、あなたを化け物に変えようとしているっていうの!? 私はあなたたちの『絶対防衛線』よ! どんな敵の刃だって私が防いでみせるのに……どうして、あなたの内側から来る破滅だけは、私の結界じゃ守れないのよ……!」
紫苑は唇を噛み切り、一筋の血を流しながら、深い絶望と共にうなだれた。
少しの沈黙の後、彼女は重い足取りで書庫の奥へ向かい、一枚の極秘指定の古びた羊皮紙を机の上に広げた。
「あなたのその力は、突然変異のバグなんかじゃない。もっと根源的な、この世界と魔術のルールそのものを創り出した『原初の力』よ。……これを止めるか、あるいは手放す方法があるとしたら、場所は一つしかない」
紫苑の細く震える指先が、地図の中心に穿たれた真っ黒な空白地帯を指し示した。
「『星の落ちた場所』。……数百年前、最初の特異点が観測され、五家がこの世界を管理するためのシステムを組み上げた、すべての始まりの特異座標。旧体制が崩壊した今なら、その最深部の封印扉を開けることができるわ」
「星の落ちた場所……」
「ただし」
紫苑は私の肩を強く掴み、祈るような、悲痛な声で言った。
「そこは人間の物理法則や自我が一切通用しない『神の領域』よ。一度足を踏み入れれば、あなたは自我を失い、完全に星の概念そのものに還ってしまうかもしれない。……それでも、行くの?」
私は迷わなかった。
結衣の命を喰らってまで生きながらえる未来なんて、私には何の価値もない。
私はただの「雫」として、あの温かい日常で彼女の隣に立つために、世界を滅ぼす魔女であることを、自らの手で終わらせるのだ。
「行くよ。……私自身の、力の起源に」
私は紫苑を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。
夕暮れの風が、窓の外で桜の花びらを散らしていた。
愛する者の明日を生かすため、たった一人で世界と自己の消失に向き合う――星の魔女の最後の旅が、今、静かに幕を開けた。
第38話へ続く




