第36話:花明かりの日常と、際限なき宇宙
箱根の雪山を血と光で染め上げたあの決戦から、一ヶ月。
季節は巡り、藤ケ丘女子学園を囲む桜並木は、見渡す限りの薄紅色の花明かりに包まれていた。
暖かな春の風が吹き抜けると、教室の窓からひらひらと桜の花びらが舞い込んでくる。黒板の前で教師が退屈な数式を解説する声、チョークが立てる規則正しい音。
すべてが、あまりにも普通で、ありふれた春の午後の風景だった。
「――はい、ではこの二次方程式の解の公式を当てはめて……雫さん、ここ答えてくれる?」
「あ、はい。……X=《イコール》、2A分の……」
立ち上がり、ノートに書いた数字を読み上げる。私の声は震えていなかった。教師は満足そうに頷き、斜め前の席に座る結衣が、こっそりと振り返って「さすが」と嬉しそうに口パクで笑いかけてきた。
私はゆっくりと席に座り直す。
指先が、微かに氷のように冷え切っていた。結衣に気づかれないよう、机の下で両手を固く握りしめる。
――怖い。
私は今、黒板のちっぽけな数式を解きながら、自分の内側で「無限の空間」が音もなく口を開けているのを感じていた。
五家という絶対的な『外圧』が消滅したあの日から、私の胸の奥に封じられていた『流星の魔女』の魔力が、本来の質量を取り戻し始めているのだ。それはかつて私を苦しめた「暴走する破壊の重力」ではない。もっと恐ろしく、静かで、圧倒的な「宇宙の膨張」だった。
私の肉体というちっぽけな器の中で、星の海が際限なく広がり、私の「雫」という人間の輪郭を、内側からゆっくりと溶かして飲み込もうとしている。
*
放課後。
私たち三人は、旧校舎の裏手にある陽当たりの良い中庭のベンチに集まっていた。
「……はぁ。やっと、新魔術法の基礎条項が暫定議会を通ったわ」
そう言ってベンチに深く背中を預けたのは、宝生紫苑だった。
彼女の膝の上には、五家の残骸をまとめ上げ、特異点と一般人が共存するための「新秩序」を記した分厚い法務ファイルが置かれている。彼女はこの数週間、血を吐くような思いで政治の盤面を操作し、この箱庭の平和を一人で守り抜いてきた。
「紫苑ちゃん、本当にお疲れ様。はい、特製のハーブティー」
結衣が魔法瓶から温かいお茶を注ぎ、紙コップを差し出した。
「ありがとう。あなたの淹れるお茶だけが、今の私の死にかけた神経を繋ぎ止める唯一のポーションよ」
紫苑は優雅にお茶を一口飲み、それから、ふと鋭い青い瞳で私を射抜いた。
「雫。……あなた、少し『透けて』いるわよ」
「えっ……?」
「物理的な話じゃないわ。あなたの魔力波長が……まるで輪郭を失って、この空間全体に溶け出しているみたいに捉えどころがない。五家の圧力が消えたことで、あなたの内側の『星』が、人間の器の限界を超えて膨らもうとしているんじゃないの?」
紫苑の容赦のない指摘に、私は息を呑んだ。結衣が心配そうに私を見る。
「大丈夫だよ」私は努めて微笑んだ。
「暴走する気配はないの。ただ……私の中の星が、本当の大きさに戻りたがっている気がして。少しだけ、自分がどこまで広がってしまうのか、分からなくなる時がある」
紫苑は少しの間沈黙し、手元のファイルを強く握りしめた。
「……私はあなたたちの『絶対防衛線』だけれど、あなたがあなた自身の力に飲み込まれるのだけは、外から結界で守ってあげることはできないわ。……手遅れになる前に、言いなさいよ」
*
紫苑が去り、夕暮れが近づく桜の木の下で、私と結衣は二人きりになった。
舞い落ちる花びらを眺めながら、結衣がぽつりと言った。
「私ね、ずっと普通の女の子で……魔法だって、ちょっと空気を温めたりするくらいしかできなくて。ずっと、雫ちゃんみたいに特別な力がある人が羨ましいって思ってたんだ」
結衣は自分の膝の上に置いた両手を見つめながら、優しく微笑んだ。
「でも、今は違う。私のこの小さな魔法があったから、雫ちゃんの重力を繋ぎ止めることができた。……特別じゃなくて、普通でよかったって、心から思うよ」
結衣がそっと、私の右手に自分の手を重ねてきた。
彼女の首元には、新しく編まれた春用のパステルグレーのストールがふわりと巻かれている。そこから伝わる「生活魔法」の陽だまりのような波長が、私の血管を通って胸の奥へと流れ込んでくる。
――ドクン、と。
結衣の温もりに触れた瞬間、私の中で無限に膨張しようとしていた冷たい宇宙が、一瞬だけ「雫」という人間の形に引き戻された。
「結衣の魔法は、世界で一番特別だよ」
私は結衣の手を、すがりつくように強く握り返し、彼女の肩に自分の頭を乗せた。
「結衣が私を繋ぎ止めてくれるから、私は『私』でいられる。……これからもずっと、隣にいてね」
「うん。どこまでだって、一緒だよ」
春の夕暮れの中、二つの影がベンチの上で一つに重なる。
結衣の温もりは、私にとって絶対の救いだった。けれど同時に、私は残酷な真実にも気づき始めていた。
私の中の宇宙は、もう五家という外圧なしには、留まることを知らない。結衣のこの細くて小さな「人間の温もり」だけで、無限に膨らみ続ける私の星を繋ぎ止めていられる時間は――きっと、そう長くはないのだ。
外なる戦いが終わり、最も恐ろしく、悲しい「内なる星との戦い」へのカウントダウンが、春の静寂の中で音もなく始まっていた。
第37話へ続く




