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「いいえ。あなたを助けるのは私の役目ですから。楽とは少し距離を置いた方がいいかもしれませんね。まさかあんな事までするとは思ってもいませんでした」
そう言って千尋はようやく鈴の体を放した。
「いえ、私が悪いんです。少しその……腹が立ってしまって、挑発のような事をしてしまったので」
「挑発ですか。あなたが? 珍しいですね。また日本語を間違えていませんか?」
「わ、私だってたまには怒ります!」
冗談めいてそんな事を言う千尋に思わず鈴が頬を膨らませると、そんな鈴をみて千尋が笑う。
「何をそんなに怒ったのです?」
「え?」
「鈴さんが自分以外の人に怒るのはとても珍しいでしょう? 何に怒ったのですか?」
「そ、それはえっと……な、内緒です!」
「おや、内緒ですか。それは残念ですね。とにかくあなたが無事で良かった。ですが、今日は私が見つける事が出来たので事なきを得ましたが、次からは迂闊に楽を挑発しないよう気をつけてくださいね」
「はい、それは本当に……気をつけます」
鈴は千尋の言葉に深々と頭を下げて言った。
もしも千尋が来てくれなかったら、それこそ歯の一本や二本ぐらいは折れていたかもしれない。もしもそんな事になったら、千尋のさっきの怒り方を見る限り自惚れる訳ではないけれど、楽はきっとタダでは済まなかっただろうから。
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千尋は鈴が洗濯物を持って裏庭に回るのを見届けてから楽を探しに向かったのだが、思いの外近くに楽は居た。
しかも間の悪いことに思い切り鈴と鉢合わせをしてしまっていたのだから笑えない。
すぐに飛び出して行けば良かったのだけれど、ふと千尋は思った。もしかしたら楽から何か聞けるかもしれない、と。
千尋や流星には話さなくても、案外鈴にはポロリと本音を言ったりしないだろうか? そう思ったのだが、まさかあんな事になるだなんて思ってもいなかった千尋は、そのまま壁の奥に身を潜めて二人の会話をしばらく聞くことにした。
最初は楽が一方的に鈴を責め立てていたが、話が千尋の事になった途端、それまで大人しく洗濯をしていた鈴が徐ろに立ち上がって、言い返しだしたではないか。
「これは珍しい」
あまり怒るという事のない鈴を見守っていると、だんだん話がエスカレートしていく。しかも鈴はどうやら千尋の事について怒ってくれているようだと気づいた時には、思わず両手で顔を覆ってしまった。
「鈴さん、あなたという人は!」
いつだったかこんな風に愛情を向けられたいと鈴を見て思った事があったが、どうやら鈴は千尋の事を多少は好いてくれているようだ。
けれど喜んでいられたのは最初のうちだけで、鈴があくまでも千尋の事を龍神としか見ていない事を知ってショックを受けてしまった。
何だか感情の上下が激しすぎて苦しくなってきた頃、楽が鈴の言葉に激昂して腕を振り上げたのだ。
急いで飛び出した千尋は、気づけば加減をするのも忘れて楽の腕を捻り上げていて、鈴に止められるまで千尋が力を緩める事はなかった。
楽が去ったあと堪らずに鈴を抱きしめたが、相変わらず鈴は小さくて柔らかい。
何だかそれがふとした拍子に儚く砕け散りそうで怖くなってしまう。
それを隠すようにからかい混じりに鈴に注意すると、鈴は深々と千尋に頭を下げてきた。
「はい、それは本当に……気をつけます」
「ええ、そうしてください。さて! それでは洗濯を終わらせてしまいましょう」
「そうですね。早くしないと夕飯の支度に間に合わなくなってしまいます!」
そう言って鈴はまたしゃがみこんで洗濯を始めたので、見様見真似で千尋も鈴の隣にしゃがんで立てかけてあった洗濯板を持つと、それを見て鈴はギョッとしたような顔をして千尋を見てくる。
「ち、千尋さま? て、手伝ってくださるのですか?」
「ええ。いけませんか?」
「い、いけなくはないですが、水がとても冷たいので、千尋さまの手が荒れてしまいそうで……」
言いながら鈴はじっと千尋の手を見つめている。そんな鈴を見て千尋は笑った。
「大丈夫ですよ。私は水龍なので、水の中では自分の体を水の膜で覆う事が出来るのです」
「そうなのですか!? す、凄いですね! それじゃあ冷たさとかも感じないのですか!?」
目を輝かせてそんな事を言う鈴を見て千尋は思わず目を細めた。
「凄いでしょう? まぁ、冗談なんですけどね」
「え……じょ、冗談?」
「はい。冗談です。そんな便利な進化は流石に出来ていませんね、今のところ」
「ど、どうしてそんなうっかり信じてしまいそうな冗談を……?」
「ふふ、すみません。目を輝かせるあなたが見たかったので、つい」
愕然とした顔をする鈴を見てとうとう笑った千尋を見て、鈴の頬はみるみる間に膨らんでいく。
「もう! 知りません!」
「はは! ほら、手が止まっていますよ、鈴さん」
千尋の言葉にそっぽを向いていた鈴がハッとしてゴシゴシと洗濯をし始めた。
洗濯が終わったら絞って干す。こんな事をしたのは初めてだったが、鈴と一緒に過ごす時間はそれがどんな事であっても楽しい。こんな何気ない時間さえ楽しいと思える事に、誰よりも千尋自身が驚いていた。
「千尋さま、あそこの紐に届きますか?」
「ええ。どれを干します?」
「これをお願いします」
そう言って渡されたのは人数分のシーツだ。いつも千尋のシーツが真っ白なのは鈴がこうして洗ってくれていたのだと、そんな事を今更実感する。
「鈴さん、いつもありがとうございます」
何だか嬉しくて千尋が礼を言うと、鈴は満面の笑みで言った。
「お礼を言われるような事は何もしていませんよ。それに私、シーツとか大きい物を洗うのが大好きなんです」
「何故です? 大きいと大変でしょう?」
「そうなんですけど、何ていうかえっと……た、た、」
「達成感?」
「それです! それがあるので。それで、干してあるのを抱きかかえて取り込む時はもっと好きです。やりきったなーって思うので」
「なるほど。鈴さんは日常の中に小さな幸せを見つけるのが上手なのですね」
「そうでしょうか?」
「そうだと思います。私だったらきっとそうは思えません」
千尋が言うと、鈴は恥ずかしそうに笑った。
「褒められちゃいました。また暖かくなったら一緒に洗濯しましょう、千尋さま」
「ええ、喜んで。その時までに私は手を水の膜で覆えるよう練習しておきましょうか」
「ど、どうしてそんな意地悪を言うのですか!」
「すみません、可愛くてつい」
「もう!」
鈴はそう言ってまたそっぽを向いてしまった。
「あんた達、居ないと思ったらこんな所で何戯れてんだい?」
そこへ、いつからそこに居たのか雅が呆れた様子でやってくる。
「雅さん! 千尋さまが意地悪をするのです!」
「千尋が? だから言ったろ? こいつは見た目に反して性格悪いよって」
「いえ、別に性格が悪い感じではないのですが……」
「雅、あなたそんな事を鈴さんに言っていたのですか?」
「言ったよ。なにさ、本当の事じゃないか」
「本当の事だとしても、どうしてそれをこれから花嫁になろうとしている人に言うのですか」
「そんな嘘ついたら後々可哀想じゃないか! それよりもあいつ! 楽だったか? あいつ何なんだよ!」
どうやら楽は雅にも喧嘩を売ったようだ。何だかそれが容易に想像出来てしまって千尋が肩を竦めると、雅は腰に手を当てて鼻息を荒くする。
「突然炊事場に来たと思ったら、氷寄越せって! 氷は貴重なんだよ! 今日は鈴のゼリーを昼から冷やしてたってのに!」
「ゼリーなのですか? 今日のデザートは」
千尋が鈴に尋ねると、鈴はコクリと頷き雅に向き直った。
「すみません、雅さん。楽さんに炊事場で氷をもらった方が良いと言ったのは私なんです」
「なんでまた」
「楽さんが腕を痛めてしまったので、私のように後から辛い思いをしたら大変だと思ったんです。ゼリーの事はすっかり忘れていました……すみません」
そう言って頭を下げた鈴を見て、雅は息をついて鈴の頭を撫でる。
「なんだ、そういう理由があったのか。なら仕方ないね。ゼリーは明日に回すか」
「そうですね。明日また氷屋さんにお願いして――」
最後まで鈴が言い終える前に、千尋は鈴の肩を叩いた。
「? 千尋さま?」
「氷ですよね? 本当はこんな事に力を使うのはどうかとは思うのですが」
千尋は洗濯用の盥に新しい水を張ってそこに手を入れ、水に神通力を少しだけ流し込むと水が淡く光りあっという間に氷になる。
「え⁉ こ、氷!?」
「ち、千尋!?」
「これぐらいで足りますか?」
にっこり微笑む千尋を雅と鈴が驚いたように凝視してきたが、鈴の純粋な驚きと雅の驚きはどうやら質が違ったようで、雅はおもむろに千尋の胸ぐらを掴んできた。
「あんた何こんな所で神通力使ってんだ! しょうもない事に使うなよ!」
「しょうもないだなんて! 鈴さんのゼリーを一番美味しく食べる為です! どこがしょうもないのですか!」
「究極にしょうもないだろうが! 鈴! あんたも何か言ってやり――鈴?」
「す、凄いですね! 千尋さまはこんな事も出来るのですか!」
「ええ、まぁ。これは私の属性とは言えないのでちょっとした神通力ですね」
水に関連する力ではあるが、水の温度を急激に下げるのは普段の力では難しい。
苦笑いを浮かべる千尋に鈴は感動したように目を輝かせたが、すぐに首を傾げた。
「そうなのですか! あ、でも地上ではあまり神通力は使わないのですよね?」
「そうですね。地上と都では力の戻り方が全然違うのですよ。前に言ったように花嫁に月に一度神通力を使いますが、花嫁が3日ほど寝込むのと同様に、私も1日は寝込みますからね」
「え!? じゃ、じゃあこれも寝込んでしまわれるのでは……」
鈴はそう言って盥を指さして愕然としている。
「いえ、これぐらいでは流石に寝込みませんよ。ただそうですね、少し怠くなるぐらいでしょうか」
それを聞いて鈴は一瞬驚いたような顔をして、次に悲しそうな顔をする。
「そんな……千尋さま、もう絶対にゼリーの為に力神通力は使わないでくださいね。千尋さまが辛い思いをするのは嫌です……でも、この氷は素直に嬉しいです。ありがとうございます」
そう言って視線を伏せながらお礼を言う鈴に、千尋の胸はギュっと詰まる。
「約束します。もうゼリーの為に神通力は使いません」
「はい!」
千尋の言葉に鈴は笑顔で顔を上げた。そんな顔を見ると千尋まで何だかホッとする。
これが恋というものか。自分以外の誰かの感情に自分の感情まで動くなんて。
そんな二人を見ていた雅は大げさに舌打ちをすると眉を釣り上げた。
「あたしは一体何見せられてんだ! 人前で遠慮なく戯れやがって!」
「まぁまぁ雅。あなたにもきっといつか分かりますよ」
「ついこの間まで愛も知らなかった奴に言われたかないよ! ところで鈴、夕飯の支度そろそろだよ」
キッと千尋を睨みつけた雅は、次の瞬間には表情を和らげて鈴に言った。それを聞いた鈴は慌てて洗濯用のエプロンを外すと、カゴに荷物を詰めだす。
「千尋さま、今日の夕食はメンチ・ボールですよ」
「そうですか。それは楽しみですね」
鈴のメンチ・ボールはとんかつと同じぐらい絶品だ。千尋が顔を輝かせたのを見て雅は呆れたような顔をするが、雅にも是非龍の都の味気ない料理を食べさせてやりたい。
「楽さんは……食べてくれるでしょうか?」
「あんな事をされたのに楽の心配をしてくれるのですか?」
「それはもちろんです! 楽さんの気持ちが分からないでもないので」
「そうなのですか?」
「はい。私が倒れたりしなければ、今頃はまだ千尋さまは都に居たんです。きっと楽さんは千尋さまとの時間をもっと大切にしたかったのではないでしょうか」
「それは申し訳ない事をしたとこれでも反省しているのです。今回の里帰りはほぼ私は家に居なかったので」
「そうなのですか?」
「ええ。少し調べたい事があって、ほとんどずっと都の書庫……図書館に入り浸っていたのですよ」
「でしたら余計に寂しかったのかもしれません。その上嫌いな地上の世界に落とされたのです。自暴自棄になっても仕方ないのかもしれません。楽さんは元々気性が激しい方なのですか?」
鈴に言われて千尋は考え込んだ。鈴を救う事ばかりを考えた結果、千尋は楽を置き去りにしてきてしまった。もしも楽の側に千尋が居れば、初に傾倒する事もなかったかもしれない。
「いいえ。楽は本来はとても明るく素直で、少しだけ思い込みが激しいですが働き者の優しい子です」
「そうなのですね。それを聞いて安心しました」
「安心ですか?」
「はい。千尋さまがそう仰るということはきっと、とても良い方なのでしょう。ですが今は少しだけ……苦しいのかもしれません。私が両親を亡くした直後のように、何もする気が起きなくて、毎日がただ不安と寂しさで押しつぶされそうになっていた時のように」
そう言って鈴は視線を伏せた。
「鈴……」
そんな鈴を雅が心配そうに背中を撫でると、鈴はすぐにパッと笑顔で顔を上げる。
「あ! でも今は毎日がとても楽しいです。だから楽さんもきっと、すぐには無理でもまた前を向けると思います。だって、千尋さまがそう仰るような方なのですから!」
笑顔でそんな事を言う鈴を見て、思わず千尋も鈴の頭を撫でた。本当は抱きしめたい所だが、雅の前でそんな事をしたら後から何を言われるから分からない。
「ありがとうございます。そうですね。本来の楽をここで思い出してもらえるよう、私も尽力します」
「はい!」
鈴はそう言って笑顔で頷き、雅と共に去っていった。そんな後ろ姿を見送った千尋は、鈴が見えなくなってもその場に縫い留められたように動けなかった。
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鈴が炊事場に行くと、メイン料理以外は既に喜兵衛が作り始めてくれていた。
「喜兵衛さん、遅くなってしまってすみません!」
「鈴さん! いえいえ、自分もまだこれだけしか出来ていないので。一人増えたのでどうも分量が狂いますね」
そう言って苦笑いを浮かべた喜兵衛に鈴も笑顔で言った。
「もしかして私が来た時もそうでしたか?」




